発見記録

フランスの歴史と文学

帽子の中の木  ジャンヌネー『Googleとの闘い―文化の多様性を守るために』

2007-12-30 18:17:58 | インポート

「西洋杉の大木について感嘆したことといえば、誰かがこれを帽子の中に入れて持ってきたのかもしれないということだった」(ギュスターブ・フロベール『ブヴァールとペキュシェ』第1章、鈴木健郎訳、岩波文庫)

Ce qu’ils admirèrent du cèdre, c’est qu’on l’eût rapporté dans un chapeau.(Wikisource)

ジャン-ノエル・ジャンヌネー Googleとの闘い―文化の多様性を守るために (岩波書店)は、この引用を全体の題辞とする。 向学心に燃えるブヴァールとペキュシェは、骨董屋から博物館、パリのあらゆるコレクションを見て回る。パリ植物園で「西洋杉の大木」を嘆賞するのだが、帽子云々は?調べてみるとこの木(画像) には言われがある。

植物学者ベルナール・ド・ジュシュー(1699-1777)は1722年から王室庭園の教授となり、植物コレクション充実に大いに貢献。リヨンのジュシュー家は17世紀以来、植物学者を輩出した。ベルナールは兄アントワーヌの誘いでイエズス会学校での学業を中断、共にスペイン・ポルトガルへ採集の旅をする。1720年帰国、モンペリエで医学博士号を取るが植物への情熱は止まなかった。(Wikipedia

Jussieu 国立自然史博物館のサイトから借りた図版 Bernard de Jussieu revenant d'Angleterre en 1734, et rapportant dans son chapeau deux pousses de cèdre du Liban.(ベルナール・ド・ジュシュー1734年に英国より帰還、帽子に入れてレバノン杉の新芽を二つ持ち帰る)

「帽子に入れ」は真偽不明、聖地から持ってきたとの説もあるようだ。とにかくそれは、フランスで最初に植えられたレバノン杉だった。 最近でも次のブログで取り上げられている。

Le grand cèdre et le chapeau de M. de Jussieu novembre 13, 2007 par switchie

ここからのリンクを辿る、児童書の古典、G・ブリュノのLe Tour de la France par deux enfants (二人の子供のフランス一周)は第三共和制時代に教科書として出版された。アルザス=ロレーヌがプロシアに併合されまもない頃、父親の死で孤児となった兄弟アンドレとジュリアンは、フランスに脱出、各地を遍歴。地図や挿絵も多く、百科全書的知識が自然に身につくよう書かれている。第65章ではリヨンの生んだ偉人の一人として、ベルナール・ド・ジュシューとレバノン杉の話。フランツおじさんに連れられて出かけたパリ植物園(第117章)で、おじさんはレバノン杉を指さす、本で見た木の大きさにジュリアンは驚嘆。

? Eh bien, dit l'oncle, il y a eu bien d'autres plantes qui ont été introduits en France par le Jardin des Plantes : les acacias, qu'on trouve partout aujourd'hui, n'existaient pas en France jadis et ont été plantés ici pour la première fois. Les dahlias, les reinesmarguerites, qui ornent maintenant tous nos parterres, viennent également de ce jardin. On s'efforce ainsi de transporter et de faire vivre chez nous les plantes et les animaux utiles ou agréables. Nous empruntons aux pays étrangers leurs richesses pour en embellir la patrie.

「だがまあ」とおじさんは言った、「パリ植物園からフランスに入った植物は他にもたくさんある。今ではフランスのいたるところにあるアカシアもその昔にはなくて、ここで最初に植えられたんだ。今ではフランス中の花壇を飾るダリアやアスターも、この庭園から広まった。そういうふうに有益な、あるいは快い植物動物を移植し、私たちの国で生かす努力が行なわれている。外国の富を借りて祖国を美しくするのだ」

『Googleとの闘い』は、2005年ル・モンドに掲載された「Google がヨーロッパに挑む時」Quand Google défie l'Europeを発展させたもの。当時フランス国立図書館長だった著者がGoogleの電子図書館構想の衝撃のもと書いた記事には、大きな反響があった。「アングロサクソンの連携」により計画が進むことにジャンヌネー氏は危惧を抱く。ヨーロッパの言語からの翻訳は「アメリカで出版される全書籍数の3%にも満たない」 Googleの図書館には、どんな本が選ばれることになるのか?

フランス革命史の例が挙がる。氏を不安にさせるのは、例えばサイモン・シャーマの Citizens (邦訳. フランス革命の主役たち臣民から市民へ 中央公論社)である。それはどうやら革命を流血と恐怖政治に還元し、むしろ革命に先立つ時代こそ活力に満ちていたとする本らしい。こういう著作が英米では人気を博するとすれば、古典作品の選択にも偏りが生じないか?

ジャンヌネー氏は歴史家として1989年のフランス革命200周年式典プログラム作成に関わった。最近ではル・モンド(11月9日号)に「ラファイエットをパンテオンに?おいおい!」La Fayette au Panthéon ? Holà !を寄稿、生誕250年を祝う式典で米国大使と同席したクシュネル外相が、ラファイエットの遺骨のパンテオン入りを仄めかしたのに反対を表明した。アメリカ独立革命の英雄、ジャコバン嫌いの王権擁護派、ラファイエットの史的評価にも米仏隔たりがあるかもしれない。いやフランス人にとっても革命の遺産とは何なのかは、まだ決着のつかない問題なのだ。ジャンヌネー氏の一文にも早速反論があった。

サイモン・シャーマの本は、Googleで"books french revolution"を検索するといきなり出てきた。一方で、刊行当時のNYRBでは、辛辣な評を受けている( April 13, 1989 The Two French Revolutions By Norman Hampson ) シャーマは、フランスの産業・経済は18世紀に大きく発展したが、革命がそれを台無しにしたと見る。「1780年代には、機械化を伴う新事業が、ほとんど毎月起こされるようだった」 これには「シャーマの描くフランスが、19世紀のランカシャーに思えてくる時がある」 また農業の発展が本当に近代のとば口まできていたか、アーサー・ヤングの『フランス旅行記』を引きあいに出し、疑問を投げかける。

読んでもいない本への言及を重ねるのは恥ずかしいことだが、行きがかりでやむをえない。『Googleとの闘い』に戻る。Googleの広告やランク付け技術への批判(ヨーロッパでは、「重要な関連サイトが検索エンジンのリストから除外される可能性は小さい」)、Googleはアーカイブの長期的な保管保存に無関心だとの指摘。この点もヨーロッパの方が進んでいるという。

独自の検索エンジンなど構想段階のものを含め、欧州側の試みが紹介されているが、私は後ろ向きの人間で、まだこれからの話には関心が薄い。さしあたりフランス国立図書館のGallicaを何とかしてもらえないかと思う。文書内検索もコピペもできないものが多すぎる。前出Le Tour de la France par deux enfantsも、Gallicaのでは拾い読みができない。挿絵も画像が粗く、どうかすると無残に化けている。結局それは予算の問題であるらしい(「(急速に発展しているが)現在の技術を前提にしても、テキスト・モードはイメージ・モードの八倍から十倍の費用がかかるためだ」)Gallica 2 ではどうなって行くのか、楽しみにしておこう。


マルグリット・デュラスとクリスティーヌ・V

2007-12-19 17:33:28 | インポート

長らく中断してしまいました。変形性股関節症との診断なのですが、座った姿勢が続くと膝や太股が痛み出すのです。椅子のクッションを取り替えたり環境改善の甲斐あって、ようやく持ち直しました。とにかく書きかけのところから続行します。

マルグリット・デュラスはこの「グレゴリ事件」に尋常ならぬ関心を持つ。アドレールの伝記によれば

Marguerite en était littéralement obsédée, possédée. Pendant quelque temps, elle ne parlait plus que d’elle, de son mari et d’elle, de son enfant, de son mari et d’elle. Son nom, son visage, son regard, son histoire, sa sexualité hantaient l’imaginaire de Marguerite Duras.(Laure Adler, Marguerite Duras, Gallimard)
マルグリットは文字通りクリスティーヌ・ヴィルマンに付きまとわれ、取り憑かれていた。しばらくの間、話をすれば彼女のことだった、彼女の夫と彼女、彼女の子供、彼女の夫と彼女。 彼女の名前、彼女の顔、彼女の眼差し、彼女の物語、彼女の性は、マルグリット・デュラスの想像世界を占有していた。

1985年7月、デュラスは「リベラシオン」紙の提案を受け、レパンジュに旅する。現場がどうしても見ておきたかった。クリスティーヌとの会見を強く望むが、重ねて拒否される。デュラスは「別のやり方で彼女を捕え」ようとした。
17日、デュラスの文が「崇高な、必然的に崇高な、クリスティーヌ・V」“Sublime, forcément, sublime, Christine V.”の見出しで「リベラシオン」に掲載。
記事には英訳(Translated by Andrew Slade)がある。

丘の上の家を訪ねるデュラス。曲がりくねった道の果て、現れる家。「私は見た」「私は見る」と繰り返し、荒涼とした風景を喚起する。畳み掛けるような調子は「取り憑かれた」人のものだ。「子供は家の中で殺され、そして浴槽に漬けられたに違いない」 あまりにも性急な断定と、憶測、ほのめかし―子供がいなくなった後、子守りを頼んでいた女性の家に現われたクリスティーヌが、開口一番、自分の生活の悲惨さを訴えたのは、わが子を探す母親として不自然ではないか?
フィクションともルポルタージュともつかぬ文章。読む者を動転させる言葉の力は認めるとしても、またそれがどこか陰険な中傷文を思わせることも確かなのだ(レジーヌ・ドゥフォルジュが「密告」délation と評したのが、デュラスを憤慨させるだろう)
デュラスはクリスティーヌの日常を想像する(ステーキの焼き加減が気に入らない夫の平手打ち)。「自由の囚人」であり、ひそかな憤りを抱え、脱出願望を持つ女性の、男が支配する世界への反逆。クリスティーヌが拘留・保釈されたばかりの時点で、子殺しを「幻視」してしまうこの記事、初稿では「命を与える母親は、命を奪う権利を持つとの考えを展開していた」という。(ドゥニ・ロベール、前出インタビュー) 後にクリスティーヌは推定無罪の原則と肖像権を侵害したとして、デュラスと「リベラシオン」のセルジュ・ジュリを告訴する。

ブルトンたちシュルレアリストは、父親を殺害したヴィオレット・ノジエールに讃辞を寄せた。しかしデュラスの場合、そこには何かもっと強い思いが働いていたようだ。

Je n’ai pas rêvé.
On ne rêve pas quand on écrit, ou on n’écrit pas.
Je me suis rapprochée de Christine V.
J’ai inventé, mais dans la banalité du sort commun et je ne crois pas que la culpabilité de Christine V. ait été potentiellement augumentée ou diminuée du fait de cet article.
私は夢を見たのではない。
書く時には夢など見ない、そうでなければ書かないものだ。
私はクリスティーヌ・Vに近づいた。
私は想像を加えた、でも普通の境遇で、ごく普通にありそうな範囲内で。クリスティーヌ・Vの罪状がこの記事のせいで潜在的に重くなったとも軽くなったとも思わない。
(デュラスの記事を読み手紙を書いた女性イザベル・Cへの返信から。アドレールの伝記巻末に収録)

邦訳『アウトサイド』(佐藤和生訳 晶文社)にはデュラスが「外部から促され」新聞・週刊誌に書いた文を集める。「愛人が男の妻を殺す時」は、「フランス・オプセルヴァトゥール」掲載、1957年、産科医ドクター・エヴヌーと愛人シモーヌ・デシャンが起こしたこの事件については当時の「タイム」記事を参照。
お話としてうまくまとめ、最後に落ちまでつけた「タイム」の記事に比べ、デュラスの文は、論争的調子が際立つ。デュラスは苛立っている、この犯罪にもっともらしい動機を探し、あるいは被告の生活史から犯行を説明し、要するに犯罪を「フレームにいれ」てしまおうとする人びとに。「情痴犯罪についての耽美主義者」と揶揄されるのを恐れず、シモーヌの犯行の夜のいでたち(裸の上に黒いマント、黒手袋)に注目し、彼女の容貌についても、逆にその醜さがドクターを「支配」したのではないかと穿った推理をする。
法廷でシモーヌが「自分の考えが説明できないのです」と繰り返したことにデュラスはこだわる。なぜ被告に時間を与え、十分に語らせなかったのか。別の文「『ならず者』との対話」は元囚人へのインタビュー。もし彼女がクリスティーヌ・ヴィルマンに会見できれば、記事もこれに似た形になったはずだ。しかし二人の間に対話が成立しただろうか?
1957年から80年までの文から成る『アウトサイド』には、「クリスティーヌ・V」は収められていない。続編Le Monde extérieur,Outside 2 に入っているのかも。