発見記録

フランスの歴史と文学

マンディアルグとバリ島舞踏団

2006-06-29 22:35:07 | インポート

Qu’Éros ait partie liée avec les danseurs, c’est une chose si universellement reconnue, tellement banale, que l’on est confus de l’écrire.
(エロスと舞踏家は手を結ぶ、それはもう万国で認められ、あまりにも当たり前のことで、筆にするのもお恥ずかしい。)

1950年代前半、マリニー劇場Théâtre Marignyでのバリ島舞踏団観劇をきっかけに書かれたマンディアルグの『バリの小さな娘たち』Les petites Balinaises (エッセー集『月時計』Le cadran lunaire)は、西欧の舞踏家たちが愛の身振り表現を試みると、その「ふれあいの技術」science des contactsは洗練を欠き、組み合えばレスリングに似てしまうと、まず悪口から始まる。
バリの小さな踊り子たちが与えてくれた愉しみは、古典的ロマン的を問わず西欧的な「猫科」のバレエ―félinsは特に「ライオンや虎」か―、これらあまりにも筋肉たくましい踊りには、ほとんどいつも欠けた何かに由来する。
鈴やゴングによる音楽は、「空気のような」aérienneと形容される。娘の手が相手役の少年の体にふれるとしたら、それはフェンシングの剣先か雀蜂の一刺しに似た、一瞬の動きだ。コーラス・ガールやファッションモデルのような背の高い、冷淡な女には、心ときめいたことがないとの告白。バリの小さな娘たちの軽く、しなやかで、激しい動きのさなかにも精緻な技が示される踊りに最大の讃辞を贈ったあと、

 Nous avions vu, plutôt jadis que naguère, le théâtre de Bali à l’exposition de Vincennes. La joie de le revoir (servi, me semble-t-il, par de meilleurs interprètes) est augumentée de cela qu’entre temps il a cessé d’être colonial ― un mot si brute et si désagréable qu’on le voudrait disparu au plus vite de toutes les languages que nous aimons.
 (私たちは、少々古い話になるが、バリの演劇をヴァンセンヌの博覧会でも見た。再び見る喜びが(今度のほうが演者も一枚上手のようだ)いっそう大きいのは、この間に《植民地》演劇でなくなったおかげだ。《植民地》、あまりにも乱暴で不快な、私たちが愛するすべての言語から一刻も早く消えてほしい言葉である。)

1931年、パリのヴァンセンヌの森で開かれた国際植民地博覧会のため、オランダ政府はバリ島舞踏団を組織、これはバリの舞踏・演劇の最初の本格的海外公演だった。パリ公演は「チャロナラン劇」(植島啓司氏 Les convulsions de la quotidienneté―バリ島・チャロナラン劇 )を中心に行なわれ、アントナン・アルトーに啓示を与えた。(伊藤俊治『バリ島芸術をつくった男―ヴァルター・シュピースの魔術的人生』平凡社新書)

博覧会に反対するシュルレアリストたち(ブルトン、エリュアール、アラゴン、ルネ・シャール)は宣伝文「植民地博に行くな」を配り、「ユマニテ」は反対キャンペーンを行なったがアルトーやマンディアルグは、かまわず見に行ったことになる。
植民地博の総入場者は800万人。アラゴンの音頭取りで、これに対する「反博」が1925年のアール・デコ展の旧ソヴィエト館で行なわれたというが、どのくらい人を集めたものか。
19世紀から、異国情緒あふれるパヴィリオンは博覧会に欠かせなかった。フランスで「植民地博」l'Exposition colonialeと銘打ったのは、1906年マルセイユの博覧会が最初である。22年にはマルセイユでフランス一国の  25年にはパリで第一次大戦の連合国が会して同趣旨の博覧会が開催された(マルセイユとパリの間には張り合いがあったらしい)  (Il y a soixante ans L'Exposition coloniale, Le Monde,  21.05.91)
1931年の博覧会は「植民地の」と称される最後のものとなった。伊藤俊治氏の本ではバリ島舞踏団のパリ訪問に文明史的な意味が与えられる


「原始美術」と「始原美術」 ケ・ブランリー美術館の命名

2006-06-23 22:49:12 | インポート

ケ・ブランリー美術館le Musée du Quai Branlyの開館を伝えるSankei Webの見出しは
  パリに「原始美術館」開館

最初の案、le Musée des Arts premiers から美術館の名は二転三転した。Le Musée de l'homme, des arts et des civilisations (MHAC) 次にMusée des arts et des civisisations (MAC)
? Mais le MAC sonnait sans doute mal à certaines oreilles.?(けれどMACは、どうもある人たちの耳には快く響かなかったようだ。) (?Remue-méninges architectural pour le musée du quai Branly. Les arts primitifs entrent dans le XXIe siècle? par Emmanuel de Roux, Le Monde, 02.04.00)

その他、Musée de l’Autre(「他者」の美術館) Mane ? Musée des arts non européens(非西欧美術館)などが挙がったが賛同を得られず、いちばん中立的な名前が選ばれた。(Quai Branly
Histoire ? très longue et controversée ? du musée parisien des arts premiers Quai Branly MFI HEBDO

Arts premiersをどう訳するか、ネットでもまちまちで02/09ではルーヴル美術館の〈原初芸術〉(OVNI 31/05/2000)に従った。
クロード・ロワの本(Claude Roy, Arts premiers, Collection Encyclopédie essentielle - série Art n° 4, Robert Delpire Editeur, 1965 )で用いられたのが最初だという。シラク大統領に大きな影響を与えたコレクター、ジャック・ケルシャシュJacques Kerchache氏の著作にも早くから例があるが、頻繁に使われ出したのは近年のことである。

フランス語では、英語圏でのように「部族美術」art tribal 「民族美術」 art ethniqueが定着しなかった。?Arts premiers?は他の言語に翻訳困難との見方さえある。「未開、野蛮」の意味をともなうprimitifに代えpremierを用いたことにはある配慮が働いていたはずだが、にも関わらず学界、特に人類学者からは「意味論的両義性」や「進化論的背景」ゆえに拒絶と批判を受けた。美術館の名前としては採用されなかったが、言葉のほうは(art primitifと特に区別なしに)普及して行った。
Nélia Dias, Qu'est-ce que les ? arts premiers ? ?  Sciences Humanines,
Hors-Série n° 3

今年の春百貨店Printempsで開催された展覧会? Africa Instinct ?とそのポスターについて、Mach-Houd Kouton氏( ? Africa Instinct ?. Une exposition commerciale.)は

? Instinct ? ! Comment ne pas repenser à cette phrase de L. S. Senghor : ? l’émotion est nègre et la raison hellène ? ? À l’Afrique, l’instinct, aux autres la raison qui distingue l’homme de l’animal.

(「本能」!L・S・サンゴールの言葉、「情動は黒人のもの、理性はギリシアのもの」を思い起こさずにいられるだろうか?アフリカには本能を、人間を動物から分つ理性は、よそに割り当てる。)

「文明」以前の「無垢」や「野性」への憧れ。空間的に離れた場所が、時間的に「以前」の、「原始」として認識される。その視線の構造は呼び方を改めただけでは変わらない。
美術館建設をめぐる議論には、異なる世界の美に理屈ぬきで魅せられる「愛」と、その愛が持つ身勝手さを批判せずにおれない「批評」の対立が見られるようで、とあまりにも文学的に整理してみる。


オペレッタの仏陀(3)

2006-06-18 22:50:55 | インポート

Takingofbacninh 図はエピナル版画 バクニン攻略 Prise de Bac-Ninh 12 mars 1884 (サムネイル表示)
「ランソンLang-Son攻略」の図は→LDH(人権連盟)トゥーロン支部の1885 : le tournant colonial de la République

Wikipedia 「清仏戦争」 図は同・La guerre franco-chinoiseで借りた。

アントニアとの涙の別れの後、エドモンはトゥーロンから船出して戦地トンキンに赴く。
エドモンが指揮するアルジェリア人歩兵隊は、les Turcos と呼ばれる。フランスはセネガルやモロッコでもこれら「現地人」歩兵隊を組織した。クリミア戦争でその姿を見たロシア兵が「トルコ人」だと思いその名が生まれたとの説があるように、軍服もフランス人兵士とは異なっていた。彼らは19世紀半ばから欧州でアジアでフランスのため戦うことになった。

Les Turcosを讃える行進曲、La Marche des tirailleurs (歌詞がブログUne passion, la France 2005/09/25に)は、愛国主義者ポール・デルレードの作詞、普仏戦争中1870年8月5日の勲功を歌ったものだという(同コメント)

1944年夏、フランス軍は連合軍と共にドイツからフランスを解放する。トゥーロンは南仏での最初の戦場となった。60年後の2004年、le Musée d'art de Toulonで展覧会が催されたことを伝える記事がある。Toulon salue ses libérateurs africains par Catherine Bedarida [ Le Monde - 8 janvier 2004 ]

ラットル・ド・タシニーLattre de Tassigny将軍率いる軍の二人に一人はマグレブやセネガル人兵士。プロヴァンスの戦いはアルザスの戦いと並ぶ激戦、死傷者の多くは彼ら、ジュール・クラルティが「アフリカの子供たち」と呼んだ兵士だった。

展覧会の入口に掲げられた「自由フランス」によるマグレブ人兵士のためのアラビア語月刊誌An-Nasr1944年3月号には、ド・ゴール将軍の写真と名高い「フランスは戦闘に敗れたが戦争には敗れていない」が引かれていた。

大戦中、トゥーロンは占領軍のみならず連合軍の爆撃にも大きな被害を受けた。60年代には多くのアルジェリアからの引き揚げ者を受け入れる。ピエ・ノワールと呼ばれる元入植者の目にはド・ゴールはアルジェリア独立を容認した裏切り者だった。

トゥーロン解放時にセネガル人連隊を指揮したサラン大佐(Raoul Salan、翌45年に将軍)は、やがてアルジェリア独立阻止を図る極右OAS指導者の一人となる。

1995年の市町村議会選挙の結果、トゥーロンではFN(国民戦線)の市長が誕生する(ジャン=マリ・ル・シュヴァリエ氏、2001年まで。現在はUMPのユベール・ファルコ氏)

ル・シュヴァリエ市長時代に「解放者、サラン将軍」の名をつけられた十字路は、人権連盟の抗議で05年6月「大佐」と改名された。(Le carrefour? Général Raoul Salan - Libérateur de Toulon - le 26 août 1944 ? から ? colonel Salan - Libération de Toulon - août 1944 ?に。「解放」はサラン個人とは切り離された)http://www.cuverville.org/breve78706.html  何を、誰を記念commémorerすべきか、そこにはフランスの抱える「記憶の抗争」 がある。


オペレッタの仏陀(2)

2006-06-17 17:24:38 | インポート

Bouda01_1 今度はGallicaのより格段にきれいなLisieux電子図書館のBouddha par Jules Claretie から挿絵を借りる(サムネイル表示)

部屋の装飾まで日本風にしないと気がすまないアントニア。
エドモンは「ジャポネズリー」を買い漁る。Rue des Martyrsの骨董屋で見つけた大きな金の仏像が届くと、アントニアは手を叩いて喜び、エドモンに飛びついて礼を言う。

Ah ! le bon Bouddha, le doux Bouddha, comme disait la chanson !... Il trônait au milieu du salon, sur la cheminée, comme dans une pagode. On avait drapé son socle, encadré la glace, et Bouddha rayonnait là, rouge et or, comme un soleil d’automne. Je le saluais avec amitié. J’en étais arrivé à le considérer comme un hôte du logis, un habitué, un vieux parent. Antonia lui donnait de petites tapes câlines sur ses joues cuivrées. Bouddha veillait sur nous, toujours digne.

ああ、善き仏陀!唄の歌詞のとおり「やさしい仏陀」!サロンの真中、暖炉の上、ちょうど寺院(パゴダ)の中に納まったように鎮座していた。台座には布を掛け、鏡には額縁を、そうして仏陀は赤と金色、秋の陽のように輝いていた!私は仏陀に、友達のように挨拶をした。家の客人、おなじみ、年配の親族として見るようになっていた。アントニアは仏陀の赤銅の頬を軽く、愛撫するように叩くのだった。仏陀はいつも堂々として、私たちを見守ってくれていた。

ある晩のこと、オペレッタの相手役、色男ラフェルトリーユLafertrilleと大喧嘩、帰宅しても不機嫌なアントニア。茶化そうとするエドモン、ますます怒ったアントニアは仏像に八つ当たり、びんたを食らわす。? Tiens, ton Bouddha ! tiens, ton Bouddha ! tiens ! tiens ! tiens ! ?(あんたの仏陀!こうしてやる!どーだ!どーだ!どーだ!) 暖炉から落ちた仏像は、首が取れてしまう。
「ギロチンにかけられた」仏陀を前に、呆然とするアントニア。怒りは後悔に変わる。

Et sur le nez épaté du Bouddha décapité elle posait ses bonnes lèvres fraîches et baisait l’idole avec une passion éperdue. Les femmes n’adorent peut-être, mon pauvre ami, que ce qu’elles ont cassé.

そして斬首された仏陀の獅子っ鼻に、みずみずしい唇をあて、彼女は偶像に熱いキスをした。たぶん女性は、自分が壊したものしか熱愛しないんだね。

『エロディアス』を含むフローベールの『三つの物語』発表が1877年、ワイルド『サロメ』フランス語で出版(1893年)―「美しき首斬り女たち」(工藤康子氏、『サロメ誕生』新書館)は世紀末の夢を育んだ。
ファム・ファタルの主題そのものは珍しくもない。作家の個性は神秘性や官能性、それらの要素の匙加減に発揮される。軽く料理すれば、写原さんが訳されたアルフォンス・アレ『美しい娘と年老いた豚』http://www.geocities.jp/ecrifranoubli/Allais/vcochon.htmlになる。「世紀末の神秘とおかしみ」論が必要なのかもしれない。


オペレッタの仏陀

2006-06-14 11:08:29 | インポート

Bouddha me bouda,
Le cruel Bouddha...

♪ 仏陀はわたしに 仏頂面をした
つれない仏陀

ジュール・クラルティ『仏陀』(Jules Claretie, Bouddha  1888  Gallica http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k68967w)は19世紀末の、パリと戦地トンキン(ベトナム北部の古名)を舞台とする。
 
エドモンEdmond de Laurièreはles Turcosと呼ばれるアルジェリア人部隊を率いる士官。
アジアから帰還し、オペラ座に近い将校クラブのバルコニーで夜景を楽しみながら友人と話す。肌は日に焼け、銀のメダルは激戦と勲功を物語る。
エドモンが外地で猛烈に渇きを覚えたのは、パリのような劇場がないことだった。オペラ座界隈の空気、ざわめき、光、パリのすべてがこの一角にある!(?Tout Paris dans un coin de Paris ! ? p.12)

どこからかピアノに合わせ聞こえてくる唄に、思わず身を起こした。
三年前、新作座le Théatre des NouveautésのオペレッタLa Petite Mousméeで、アントニアAntonia Boulard演ずる横浜の娘が歌った「仏陀の唄」l’air de Bouddhaだった。

「新作座」と訳したのは写原さんの「十分間の停車」初演 1905年9月8日(金) ちょうど100年前のフランス雑誌瞥見 に倣う。現在の劇場Théâtre des Nouveautés - 24 boulevard Poissonnière - 75009 Parisは1921年にできた4代目。
この小説の「新作座」は1878年から1911年までle boulevard des Italiensにあり、フェイドーFeydeau作の戯曲が演じられ人気を博したという。
http://www.evene.fr/culture/lieux/theatre-des-nouveautes-345.php

Mousmee_1 日本の公使ヤマトの協力で制作されたオペレッタ、仏陀を演ずる相手役に、日本娘に扮したアントニアが恋をする。ジャポニスムの時代、実際にそんな作品が上演されても不思議ではなかった。アントニアは自宅のサロンまで日本風にしている。

『仏陀』は、ヴェイエルガンスの『私は作家だ』(1989)にほぼ百年先行する。作者はオペレッタの内容まで詰めた書き方をしていない。横浜の娘が仏陀を愛する珍妙さなど、気にしなかったのだろうか。挿絵は本作品から。

1850年代後半、蚕病でリヨンの絹織物産業は壊滅的打撃を受けた。59年に横浜が開港すると、横浜・リヨン間に蚕と生糸貿易の「新しいシルクロード」が生まれる。1864年に横浜の外国人居留者の5分の1はフランス人だった。(クリスチャン・ポラック『絹と光―知られざる日仏交流一〇〇年の歴史』アシェット婦人画報社)

『絹と光』には、日本のいたずら小僧が仏像を汚し罰で全身が痛くなるが、仏様の慈悲で助かりよい子になりました、というImagerie d'Epinal誌掲載の漫画が収録されている。

オペレッタの仏陀も、最初は不動の仏像で、娘が恋し、歌いかけ、やがて動き、歌い出す、そんなふうに思い描かれたのかもしれない。