発見記録

フランスの歴史と文学

Le train-train de l'histoire

2005-11-19 07:08:54 | 歴史
Le train-train de l’histoire :

Vous prenez la ligne à Transnonain 34, vous changez à République V et l’on vous descend à Charonne 62.

Jacques Prévert, Fatras (Gallimard,1966) p.20
( 歴史メトロは繰り返したがる―
1834年トランスノナンで乗車、第五共和国で乗り換え、1962年シャロンヌ駅で下ろされる)

トランスノナン街で1834年4月15日に起きた事件はドーミエの版画で知られる。
虐殺の起きた家 la maison du 12, rue Transnonainの図はここ
共和派の反乱を鎮圧に向かった軍は、家の屋根から銃撃を受ける。踏み込んだ兵士は女子供を含め住人を殺戮。http://www.voltairenet.org/article16797.html
トランスノナン街はその後他の通りと合体し現在のRue Beaubourgに。

アルジェリア戦争中の1962年2月8日、極右OASのテロに抗議し和平を求めるため共産党、統一社会党(PSU)CGTなどの組合はバスティーユ広場に結集を呼びかけた。地下鉄シャロンヌ駅近くで、デモの列を解いた一団に警官隊が突撃。逃げる人々は地下鉄入口に殺到、将棋倒しになる者、警官の暴行を受ける者、8人(9人とも)の死者を出す。

プレヴェールの詩集は66年刊。堀茂樹氏によればシャロンヌ駅の死者はすべてフランス人。この事件が大きな関心を集めたのに、その数ヶ月前、犠牲者の大半がアルジェリア系住民だった61年10月17日の虐殺は長く闇に葬られることになったという。シャロンヌにしか言及しなかった共産党の姿勢も、10月17日の忘却を生んだ理由の一つとされる。

デナンクスの『記憶のための殺人』Meurtre pour mémoireは1999年ガリマール書店の叢書La Bibliothèque Gallimard に収められた。ここで見れる裏表紙には? recommendé pour la classe de troisième ? 現代ロマン・ノワールが日本の中三程度の子たちが対象の本になるのも、この作品の政治的社会的な意味によるものか。

参考記事 サイト17 Octobre 1961 : Contre l’Oubli の Histoire et oubli http://17octobre1961.free.fr/pages/Histoire.htm

この17 Octobre 1961 : Contre l’Oubliは「アソシアシオン」(ただ定期活動は現在休止中らしい)で、カーニヴァルについて調べた時、こういう組織の存在に気がついた。
はてなダイアリーfenestraeさんの置き去りに去れた郊外・燃える郊外(中期的観察 その2) 地域の社会・文化活動の後退は「郊外」の危機がラファラン政権以来の補助削減によるアソシアシオンの「受難」と切り離せないことを教えてくれる。

今度の騒ぎでも警察の「不当な暴力」が報道されてはいる。しかし多くの犠牲者(数十から数百まで諸説あり)、露骨な報道管制・検閲、61年当時と今を安易に重ねるわけには行かない。あれは内戦に近い状況下でのできごとだった。

私にはフランスで今何が起きているかを生々しく伝えることも、鮮やかに分析することもできない。
確かに存在するのは本と画面の文字だけ。
この文も、プレヴェールを最初読んだ時にはCharonneの意味など気にしなかったはず、♪あの時 ぼーくは 若かった という私的感慨が落ちなのである。



一九五五年四月三日の法

2005-11-12 21:26:01 | 歴史
一九六一年、アルジェリア独立戦争はようやく終結に向かいつつあったが、それだけに却って、フランス本土では血なまぐさい事件が頻出していた。(中略)一九五八年から政権に返り咲いていたドゴール大統領は、最終的にはアルジェリアの独立を認める腹をすでに固め、交渉によるアルジェリア問題解決を模索していた。アルジェリアの独立を阻止しようとする極右秘密軍事組織OASによるドゴール暗殺未遂は、一九六一年九月八日に起こっている。その九月、パリで、アルジェリア人・モロッコ人・チュニジア人など北アフリカ系住民が警官のグループに殴られ、体を縛られてセーヌ川に投げ込まれ、死体となって浮かび上がったり、稀には命からがら生き延びるという事件が連日のように起こっていた。                                           
同年の夏の終わり頃からFLNは内部の過激分子のテロ行為を抑制し、十月七日にはそれをいっさい禁止するに到ったが、パリ警視庁は弾圧態勢を強化し、十月五日、パリおよびパリ郊外のアルジェリア系労働者だけを対象に夜間外出禁止を実施した。夜間外出禁止令は明らかな憲法違反だった。一九五八年に制定された第五共和制憲法 (現行憲法) はその第二条に、フランスは 「すべての市民の法の下の平等を、市民の出身、民族、宗教の如何にかかわりなく保障する」と定めているのだから。
  (堀茂樹氏、デナンクス『記憶のための殺人』訳者あとがき)

このあいだからのフランス各地での夜間外出禁止は"la loi du 3 avril 1955" によるものらしい。記事によりこの法をappliquer適用する recourir à ~の力に訴える activerやréactiver (再)活用する、特にこのréactiverがひっかかる。アルジェリア戦争中(1955~1962)とニューカレドニア分離独立派の反乱(1984-1985)時にしか適用されてないという。(Alternative libertaire, Non à l’état d’urgence ! Non à la guerre coloniale !
lois2
Legifranceで探す。慣れないので手間取る。 LOI, 55-385, 1955-04-03, INSTITUANT UN ETAT D'URGENCE ET EN DECLARANT L'APPLICATION EN ALGERIE これこれ、しかし直リンクができない。

追記ー苦労しなくてもttp://www.liberation.fr/page.php?Article=336694
とか、掲載されてるのですね。7 avril 1955と日付けのついた官報のページをPDFで見れるほうが、じかに歴史にふれる感触がある、それだけのことでした。
粘り強さはないので、archiviste気分が味わえればいいのです。



坑夫たち

2005-10-23 18:20:13 | 歴史
Tièsses di hoie(石炭頭)とワロン語で呼ばれたリエージュの人たち。この地方での石炭採掘は中世に遡る。輸出され、リエージュは石炭産地としてその名を知られることに。(*1)
市に近いブレニーBlényの炭鉱は閉山後、炭鉱博物館Blény-Mineとして生まれ変わった。サイトのTOPページはその誕生25周年を祝う。

労働者階級の博物館なるものがあるらしい。プロレタリアという歴史的に特異な存在が、いつの間にかブルジョワより先に消滅してしまったとでも言うのだろうか。


「ヨーロッパ人の歴史を求めて」クリスチャン・ドブリ岡林祐子訳 ディプロ2003-8
http://www.diplo.jp/articles03/0308-5.html

”Vieux Papa"と呼ばれるシムノンの曽祖父Guillaume Moors(または Moers) (1823-1909)は、もと炭坑夫だった。Pedigreeで一族が会するla rue Puits-en-Sockの家で、曽祖父は薄暗い台所の奥の肘掛け椅子に座り無言でじっと動かない。大柄で、床につくほど腕が長い。
「サンドペーパーのようなざらざらした頬に子供たちはキスをする」「もと坑夫の皮膚には、石炭片を象嵌したようにぽつぽつと青い斑点が残っていた」(Pedigree, Actes Sud版 p.40)

曽祖父を初めとする肖像は→Simenon-Galerie des Portraits

Pedigreeに坑夫たちが群れとして現れるのは、メーデーとゼネストの第6章。長い横断幕には
  POUR LES TROIS-HUIT
市を取り巻く炭鉱や工場から来た労働者は、8時間労働、8時間の休息、8時間の知育と体育を求める。(*2)マムラン家のような市中の住民は、ふだん彼らの労働現場を目にする機会がない。「真っ黒で謎めいた」工場は、ただ列車の窓から一瞥するもの。
Cuir bouilli( 革を熱湯処理で固くした。防具に用いる)のヘルメットの坑夫たちが通りを険しい顔で行進するのを、人々は恐る恐るカーテンの陰から窺う。(同 p.108)

(*1)Les 32 vieux métiers liegeois
http://users.skynet.be/formatage/vieuxmetiers/
(*2)L’Histoire du 1er Mai
http://www.sap-pos.org/fr/histoire/histoire_1mai.htm