発見記録

フランスの歴史と文学

ブレーズ・サンドラールと『ノヴゴロドの伝説』

2007-07-24 11:18:33 | インポート

『ノヴゴロドの伝説』 La Légende de Novgorodeは、サンドラール幻の処女作だった。回想記でも言及し、自製の著作目録では1907年にロシアの出版社から、ロシア語訳で14部出版と記されている。1995年、この本がブルガリアのソフィアで発見された。

詩人で現在パリのブルガリア文化センター長 Kiril Kadiiski キリル・カディースキー(?)が偶然古本屋で見つけたもの。だが研究者が十分に鑑定を行なう前に、スイスのコレクターの手に渡ってしまう 。翌96年には、ファタ・モルガナ社からファクシミリ版に仏訳とピエール・アルシンスキーの挿絵を添えた La Légende de Novgorode (amazon.fr)が出版された。

本の真正性を疑う声は当初からあった。今年6月、ラファエル・スタンヴィルの「フィガロ」紙記事( Un faux Cendrars au goût bulgare,Le Figaro littéraire du 28 juin 2007)が騒ぎを引き起こす。
スタンヴィルの記事はロシアの留学生Oxana Khlopina(オクサナ・フロピーナ? パリ第10大学ナンテール、クロード・ルロワ教授の指導で博士論文を作成) の研究に基づく。

フロピーナは次のような問題点を挙げる。サンドラールは「滑稽で英雄的な叙事詩」としているのに、見つかった作品の基調は悲劇的。またホテルの名前など1907年の作にしては奇妙な箇所がある。文法と綴りの分析からも、ロシア革命で正書法改革の行なわれた1917年以前のものとは思えず、扉のタイトルに用いられたキリル文字は、1988年に作られ普及したコンピュータ(プリンタ?)用のフォントと一致する。これらの点から、フロピーナは発見された『ノヴゴロドの伝説』は偽書だとする。

彼女は偽書の作者を特定していない。ところがスタンヴィルの記事は、ずばり Kadiiskiを作者とする。フロピーナの論点をまとめた上で、

Et pourtant, trop respectueuse de l'homme de lettres qu'elle ne rencontra qu'une fois à la Rotonde, toute timide alors et petrie d'admiration, la jeune universitaire se refuse a livrer le nom de celui que tout accuse : une parfaite connaissance de la langue russe et de ses subtilités, des qualités de poète, une connaissance des techniques de l'édition, la Bulgarie : Kiril Kadiiski. Celui-la meme qui decouvrit le faux.
けれども、「ラ・ロトンド」で一度会ったきりの文学者への敬愛の念はあまりに強く、その頃は内気で、ひたすら相手に感服していたから、若い研究者はその人物を名指すことを拒む。作者が誰か、すべてが示している。ロシア語とその微妙さを知り尽くし、詩人の資質、出版技術の心得、ブルガリア―Kiril Kadiiskiだ。偽書を発見したその人。

これにはKadiiskiの激しい反論があった。ルロワ教授も、告発めいた「フィガロ」の記事に怒りを隠さない。フロピーナの論文は、サンドラールとロシア一般との関係を主題とする。『ノヴゴロドの伝説』についての章はその一部にすぎない。研究が思わぬ波紋を呼び、フロピーナは動揺している。

最初アスリーヌのブログ(07 juillet 2007 Le fantôme de Cendrars en rit encore)で知った話、「フィガロ」記事とWikipédia   Courrier internationalの記事を参照。要約の要約、情報としては粗くなる。

Poems Ron Padgettの英訳に仏語原詩を付した全詩集Comlete Poems(amazon.co.jp)には『伝説』は収められていない(「発見」に先立つ1993年刊)

ただ、Prose du Transsibérien et de la Petite Jeanne de France (1913 以下Proseと略記)には

Le Kremlin était comme un immense gâteau tartare
Croustillé d'or
Avec les grandes amandes des cathédrales toutes blanches
Et l'or mielleux des cloches...
Un vieux moine me lisait la légende de Novgorode

The Kremlin was like an immense Tatar cake
Iced with gold
With big blanched-almond cathedrals
And the honey gold of the bells...
An old monk was reading me the legend of Novgorod

別の箇所では「読んで」が「歌って」になる(Un vieux moine me chantait la légende de Novgorode)

サンドラール(1887-1961)が初めてロシアに来たのは日露戦争の始まる1904年。1907年までサンクトペテルスブルグの時計店で働き、帝国図書館の司書R.R.と親しくなる。このR.R.が『伝説』を訳し、少部数印刷させた。本の実在を疑う研究者もいるがとにかく当人によれば。

Prose  にはDédié aux musiciens と献辞がつく。英訳者によれば his most widely translated and perhaps most poplular poem である。「私」は今パリにいて、シベリア横断鉄道の記憶を甦らせる。旅する私の傍らに、ジャンヌというモンマルトルで娼婦をしていた少女がいる。全体の枠組みとしてはそういうことだが、時空は自在に伸び縮みする。ほとんど口を聞かないジャンヌが生き身の少女か幻影なのかも定かでない。
この詩にはソニア・ドローネの絵との「コラボ」本( その全体はこちら)があるが、詩にも名前の出るアンリ・ルソーやシャガールの作品とダブらせてみるのは、 croustillé d'or を日本語に訳すればどうなるか思い悩むよりも楽しいことだ。

『伝説』の概略は差し当たりWikipédiaで知ることが出来た。ファタ・モルガナ版以外にも
Blaise Cendrars, Du monde entier au cœur du monde, Gallimard, coll. ? Poésie ?, 2001
Blaise Cendrars, Poésies complètes (tome 1), Denoël, 2002
に収録ずみらしい。洋ものは調べるにも手間がかかる。


医学生のユーモア carabinとpotache

2007-07-08 05:19:09 | インポート

Plaisanterie de carabin   医学生流の冗談:薄気味の悪い、あるいは猥褻な冗談(小学館ロベール仏和)

レーモン・クノーの小説? Les derniers jours ?はル・アーヴルに生まれパリで学ぶ大学生の一団を描く。その一人、医学部のポンセックが、仲間の悪戯の犠牲になる。

― On bande les yeux d’un type et puis on le fait marcher, l’index en avant. On lui dit ? tu vas crever l’œil d’un tel ?. Pendant ce temps-là, on met de la mie de pain mouillée dans un coquetier. Le type enfonce son doigt dedans et croit qu’il a vraiment crevé l’œil d’un copain. On a fait le coup à Ponsec. Il s’est évanoui.(Queneau, Folio, p.61)
ある男に目隠しをする、それから人差し指を突き出して前に進ませるんだ。そいつに「お前は誰それの目をつぶすぞ」と言う。その間に、水に漬けたパンの身を、ゆで卵立てに入れる。そいつは中に指を突っ込み、本当に仲間の目をつぶしたと思う。これをポンセックに仕掛けたのさ。あいつ、気絶しちゃったよ。

一説にcarabinの語源は、中世フランス語の(e)scarrabin (scarabée fouisseur タマオシコガネ、フンコロガシ)から来る。ペストによる死者を埋葬する仕事は、医学生の仕事だった。(Origine du mot CARABIN - Cyberdocteur )

バンジャマン・ペレの略伝(Wikipédia)に

Sa mère fait engager cet adolescent rebelle comme infirmier au cours de la Der des Ders. Il se révèle être un potache doué d'un humour carabin.
第一次大戦中、母親はこの反逆児を看護兵として志願させる。彼が医学生流ユーモアの天分を持った生徒であることが明らかになる。

ペレはどんな悪戯をしたのか?「生徒」と訳したpotache(中~高校生)は「ガキっぽい、冗談好き」の連想を伴うようで、humour de  potache(英語のschoolboy humour)などとも言われる。

1998年6月、ヴァンドームのリセ・ロンサールで生徒新聞Le Tas de çaが先生たちの逆鱗にふれる。「あれの山」(çaは精神分析用語「エス(イド)」でもある)は特定の教師を戯画化、二人の教師と校長が名誉毀損で訴訟を起こす。編集長Big Brotherことエムリック・ルイヤックは、どの記事も自分が書いたものではないと主張、だが投稿者の名は明かさない。翌年ブロワ大審裁判所はエムリックに罰金・損害賠償・裁判費用、計28 000フランの支払いを命じる判決を。オルレアン控訴裁判所で26 200フランに減額されるが、大学生になっていた青年は、支払いのため夜と週末働かねばならなかった。
Forte amende pour de l’humour de potache L’expérience de presse lycéenne a mal tourné pour Aymeric (Le Web de l’Humanité)
ご本人もブログAymeric Rouillac Pélégrin en lutte avec les piranhas でこの事件を振り返る。http://piranha.canalblog.com/archives/1998/06/index.html 

リセ・ロンサールの歴史は古い。1623年、ヴァンドーム公セザール・ド・ブルボン(アンリ4世とガブリエル・デストレの子)が対抗宗教改革の精神で、オラトリオ会士の運営するコレージュを創立。オノレ・ド・バルザックも1807年から13年まで寄宿生としてコレージュに在学。上記ブログでは、バルザック自身が度々「お仕置き部屋」に入れられたと(? Il passa de nombreux séjours dans ses geôles disciplinaires.?)書かれている。

名称がリセ・ロンサールとなるのは1930年、建物は1981年以来市庁舎に。現在のLycée Polyvalent Ronsardは市の北Rue Joliot-Curieにある。
参考にしたサイト
Lycée Ronsard - Vendôme http://lycee.ronsard.free.fr/liens.html
La section professionelle du Lycée Ronsard http://perso.orange.fr/lpronsard/index1.html

生徒の新聞が起こした騒ぎとして、こちらはパリのリセ、アンリ4世校の「ラヴァイヤック」事件がある。2002年3月、パトリス・コール校長は、表紙に全裸の生徒の写真が並ぶ「ラヴァイヤック」の「性」特集号の発行を禁じた。生徒たちは表現の自由の侵害だとしてパリ行政裁判所に決定の取り消しを求め、2003年11月に勝訴した。国民教育省は控訴するが04年再び「ラヴァイヤック」が勝つ。

Le journal lycéen Ravaillac gagne contre l'Education Nationale
http://ecolesdifferentes.free.fr/RAVAILLAC.htm

Wikipédiaはl'humour potacheを? un humour moqueur portant peu à conséquence, qui n'offense pas autrui, et qui n'est pas basé sur un mensonge ?「からかいのユーモアで取るに足らない、他人の感情を傷つけず、嘘に基づかない」とする。実例に挙がるのは「パイ投げ」や、リュミエール兄弟の映画L'arroseur arrosé (You Tube)の少年の悪戯。

「他人の感情を傷つけない」かどうかは微妙なところ。私は竹本忠雄氏が雑誌Hara-Kiriを評した言葉、「フランス的エスプリの下部構造めいた『エロ・グロ・ナンセンス』のお遊び」(『パリ憂国忌』日本教文社 1981)が忘れられずにいる。

トロワイヤの? Le mort saisit le vif ?(06/27)で、亡くなった医師ジョルジュ・ガラールの弔問に来た語り手は、夫妻のサロンに通される。

( ... ) C’était une pièce minuscule, tendue d’un papier vert d’eau à étincelles d’argent. Il y avait, sur une table, une pile des journaux illustrés. L’air sentait le phénol, la valérienne. Au-dessus de la porte, s’inclinait une caricature de Galard en blouse et en bonnet de chirurgien. Le dessin datait de ses années d’internat. Je recconus sa face mince et tricheuse, ses yeux vifs, à fleur de tête. L’artiste lui avait donné un sourire de cruauté maniaque. Des traces de sang marquait le tablier du modèle. Des moignons lui sortait des poches. Il tenait par la main un fœtus balloné et verdâtre. Pourquoi n’avait-on pas décroché cette ordure après la mort de Galard ? (p.12)

非常に小さな部屋で、銀の火花を散らした青緑の壁紙が張られていた。テーブルの上に絵入り新聞が一山。フェノールとカノコソウ〔鎮痙・解熱剤に用いる〕の匂いが立ち込めていた。ドアの真上に、手術着・手術帽のガラールの戯画が、下向きに角度をつけて掛けられていた。絵はインターン時代のものだった。確かにそれはあのガラールの、細い、人を欺く顔だった、鋭い、飛び出た目玉。画家は彼の口元に、狂ったような残忍な笑みを浮かべさせていた。モデルが掛けたエプロンには血の跡が。切断されて先のない手足が、ポケットからはみ出していた。彼は膨れ上がり緑がかった胎児の、手を引いていた。ガラールが死んだ後、この下劣な絵をなぜ外さなかったのだろう。

リセ時代のガラールは、母親の化粧品を顔に塗りたくって登校し、校長室に呼ばれれると顔色が悪いので両親を心配させたくなかったと答えたり、ある式典で代表として式辞を述べるはずが、とつぜん自作の左翼的な詩を読み上げたり。

夫人の話からガラールが開業医としても偏屈で(cette humeur moqueuse et sombre「あの嘲笑好きで、陰鬱な気性」p.15)患者が寄り付かず、同業者ともつきあわず、本と音楽に慰めを得る、要するに典型的な憂鬱症者として生きたことがわかる。

―Et il n’a rien fait, rien produit, rien publié qui pût témoigner de son génie ? demandai-je encore.
―Rien. Il a passé comme un météore. Tout lui eût été possible. Et volontairement, il a tout manqué. (p.16)

「それで彼は、天才の証しになるような何事もなさず、何も生まず、何も公刊しなかったのですか」、私は更に聞いた。
「なんにも。彼は流星のように通り過ぎました。彼にはすべてが可能だったでしょう。自分の意志で、すべてをしくじったのです」

憂鬱症の天才とはあまりにも古典的類型だが、carabin とpotache、さらに言えばchahut(生徒が先生を野次り騒ぐ)、当方の興味はこれらの言葉が浮かびあがらせる「下部構造めいた」何かにある。この引用は欠かすわけに行かなかった。