発見記録

フランスの歴史と文学

共和国の顔 大統領の公式写真

2007-05-30 21:23:35 | インポート

サルコジ大統領の公式写真、蝋人形のようだといった評判とは別に、AFP電が「コミューン庁舎、学校、その他の公共施設」に写真が掲げられると伝えたのに驚く向きがあるようで、Le portrait de Nicolas Sarkozy dans tous les établissements publics - Bladi.net
フランス版Yahoo ! 知恵袋でも「誰か大統領の公式写真を学校で見たことのある人いますか?」Quelqu'un a-t-il déjà vu une photo officielle d'un Président de la République française dans l'école un jour ?
回答者の一人が言うように小学校の校長室に置かれているとしたら、生徒の記憶に残るとは限らない。そんな写真あった?となるのかもしれない。

2002年のル・モンド記事に

L'image du président, c'est d'abord le portrait officiel qui orne les mairies des 36 664 communes de France, ainsi que des commissariats, collectivités locales, préfectures, écoles ou ambassades. Aucune disposition n'oblige un maire à exposer l'effigie du président, mais cette tradition républicaine s'intensifie : 60 000 affiches de Chirac, de 50 cm x 60 cm, ont été imprimées en 1995. Régulièrement, des institutions, entreprises, éditeurs, le public aussi, commandent affiches et tirages à prix coûtant. Nombre de villages ont décoré une salle avec les portraits des vingt-deux chefs d'Etat, de Napoléon III à Jacques Chirac.(L'art délicat du portrait officiel, Le Monde 12.05.02 )
大統領のイメージとは、まず36 664のコミューン庁舎、また警察署、地方自治体、県庁、学校や大使館を飾る公式写真である。コミューンの長に写真展示を義務付ける法的規定はないが、この共和国の伝統はいっそう強まっている。1995年には50cm×60cmのシラク大統領のポスターが60 000部刷られた。定期的に、さまざまな機構、企業、出版社また一般の人たちが、原価でポスターや焼付けを注文する。多くの村が、ナポレオン3世からジャック・シラクまで22人の国家元首の肖像で一室を飾った。

Portraits officiels des Présidents de la République - La Documentation française に並ぶ歴代大統領の肖像(再選の場合、新たに撮ることはない)は、写真の歴史を語ってもいるようで見飽きない。初めてカラー写真で撮られたドゴール像は、一つの型を創り出す。ジスカール・デスタンとシラクの肖像は、それを壊す。大統領が毎回ほぼ同一のポーズで、型どおりの写真を撮られ続けた時代との違い。
肖像専門の写真家ではない、自動車や飛行機を好んで撮ったスナップショットの芸術家ラルティーグに、ジスカールが期待したのは「共和国像を根底から改めるイメージ」 une image qui rénove radicalement l'image républicaine だった。この時初めて写真家に報酬(6 000F)が支払われる。ラルティーグは日記に書く、? Giscard voulait une photo gaie, j'avais installé un grand drapeau sur le perron de l'Elysée, j'ai demandé au vent de faire bouger le drapeau et j'ai attendu que le visage du président se dessine sur la couleur blanche. ?(ジスカールは快活な写真を望んでいた、私はエリゼ宮前石段の上に大きな三色旗を張った。風よ、旗を動かしてくれと願い、白を背景に大統領の顔が浮かぶのを待った。前出ル・モンド記事による)

公式の肖像は、無数に生み出される大統領の戯画と競合関係にある。
アルマン・ファリエール(写原さんの「100年前のフランスの出来事」でおなじみの人 ファリエール大統領の帰郷 1906年9月29日(土)~10月1日(月)他)の戯画を、公式写真や同じ時期にボナLéon Bonnatが描いた肖像画(RMN)と比べると、生気と愛嬌は明らかに戯画のほうが勝る。

ルイ・ミッテルベルグLouis Mitelbergはワルシャワに生まれパリのボーザールで建築を学んだ。1958年からTimの筆名でL'Express誌に政治風刺漫画を描く。その彫刻「ドゴール将軍」(RMN) 

「オノレ・ドーミエ友の会」の注文による、遺作となった彫刻「ラタポワールを創造するドーミエ」は、友の会から国民議会に寄贈、設置された。(ラタポワールについては→雄松堂書店 「林田遼右先生講演抄録」)

?Un portrait n'est bon que s'il contient une pincée de caricature. Et une caricature n'est bonne que si elle contient une pincée de tendresse.? (良い肖像には、必ず一つまみ、戯画の要素が含まれている。そして良い戯画には、必ず一つまみ、やさしさが含まれている) ドイツ軍の捕虜となるが逃亡、英国で「自由フランス」に加わる。勲章までもらった「ミッテル軍曹」は、ドゴール将軍に心酔しながら、批判的眼を失うことはなかった。

Inauguration de la statue ? Daumier créant Ratapoil ?par Louis Mitelberg, dit Tim -assenblee-nationale.fr 


パンと砲弾 配給制の時代

2007-05-24 22:39:29 | インポート

「一九一八年の冬は特に厳しいものだった。ガソリンは不足し、セーヌ河は流氷を浮かべた。アンドレ・シトロエンが考案した食糧切符が制度化され、パンが配給になった。」(フランソワーズ・ジルー『マリー・キュリー』山口昌子訳 新潮社)

もともとケ・ド・ジャヴェルの工場は第一次大戦中、砲弾の大量生産のため作られた。砲兵隊を統括するバケ将軍(Louis Baquet 1858-1922)にシトロエンが提案、委託を受けたもの。軍需工場への石炭・ガス供給も任された。
ドラギニアン砲兵学校の大砲博物館には、戦後シトロエンが将軍に贈った、砲弾の1/2モデルを収めたケースが展示されている。

配給rationnement 画像検索結果

日本の食糧切符 昭和館ホームページ 統制下のくらし

トロワイヤの小説?Viou?(Librio)は第二次大戦後まもない時期の話。タイトルは8歳の少女シルヴィーの愛称。父は亡くなり、母親はパリで働く。シルヴィーはル・ピュイの祖父母の家に預けられる。
信仰厚い祖母は、眼鏡のレンズが片方割れたのを贖罪の苦行だと思ってそのまま掛けるような人。シルヴィーの父ベルナールは医師としてレジスタンスに協力、命を落とした。祖母はベルナールが少年期を送った部屋をすべてそのままに残す。ベルナールの使った通学鞄を、孫娘に無理やり持たせる。父の肖像写真に見つめられているような気がする家で、「大人たちの囚人」となった女の子。
ある日の夕食時、祖父は子牛のブランケットが水っぽいと文句を言う。
- Cette blanquette a un goût d’eau, dit grand-père.
祖母が返事もしないので、祖父は孫娘に同意を求める。

- Tu ne trouves pas, Sylvie ? reprit grand-père. Ta grand-mère a perdu la notion des bonne choses. Mais toi et moi, qui avons encore le palais fin, nous décrétons que cette blanquette a autant de saveur qu’une pelote de ficelle plongée dans de la sauce à la farine. Angèle nous fait une cuisine de gargote et nous l’acceptons sans sourciller !
- Eh bien, dites-le-lui, Hippolyte, soupira grand-mère, excédée.

Et elle ajouta :
- On semble oublier, dans cette maison, que, si la guerre est finie, les restrictions ne le sont pas encore tout à fait.
- Vous vous débrouillez mal, Clarisse, voilà tout! Grommela grand-père.
- J’ai toujours refusé de me ? débrouiller ?, comme vous dites. Et j’en suis fière!
  (?Viou?, p.15)
「シルヴィー、お前はそう思わんか?」 おじいさんは続けて言った。「おばあさんは美味いものの感覚がなくなってしまった。お前と私はまだ舌が利くから、言わせてもらうぞ、このブランケットの味ときたら、小麦粉のソースに浸した一玉のひも並みだ。アンジェル〔年取った料理女〕のこしらえる料理はまるで安食堂だ、それを私たちは眉一つ動かさずに食べている!」
 「やれやれ!彼女にそうおっしゃれば、イポリット」 苛立ったおばあさんはため息まじりに言った。
 もう一言、
 「戦争は終わっても、供給制限はまだ完全には解かれていないのが、この家では忘れられているようですわ」
 「君が要領よくやらんからだ、クラリッス、それがすべてさ」、おじいさんはぶつぶつ言った。
 「私は『要領よくやる』ことをいつも拒否してきました、おっしゃる通り。恥ずかしいとは思いません」

Système Dなどというが、se débrouiller なんとか要領よくやる、この場合、「闇の食糧を手に入れる」ではないか。

頭越しの「二人の守護神」の争いに、シルヴィーはどうしていいかわからない。テーブルの上のパン屑を丸めていると、叱られてしまう。

- On ne joue pas avec le pain, Sylvie, dit grand-mère sévèrement.
「パンをおもちゃにするものではありませんよ、シルヴィー」、おばあさんは厳しく言った。


ストライキ! シトロエン工場のプレヴェール

2007-05-19 08:27:48 | インポート

プレヴェール1933年の作「シトロエン」は、グループ「10月」 Octobre がストライキ中のシトロエン工場で行なう寸劇のため書かれた。人民戦線政府50周年の1986年、L’Autre Journal誌(No17)に掲載。全文は(異同のある別バージョンだが)ブログPCF Paris 14Poème de Jacques Prévert à l'occasion des grèves de 1933 

Tour_eiffel_citroen_2 Dans les sales quartiers de misère
Ce sont de petites lueurs qui luisent.
Quelque chose de faiblard, de discret, des petites lanternes, des quinquets.
Mais sur Paris endormi,
Une grande lumière grimpe sur la tour
Une lumière toute crue...
Citroën, Citroën...
C’est le nom d’un petit homme,
Un petit homme avec des chiffres dans la tête,
Un petit homme avec un sale regard derrière son lorgnon,
Un petit homme qui ne connaît qu’une seule chanson.
Toujours la même...
Bénéfice net...
Millions, millions...

貧しい、汚れた界隈に
点るのは小さな明かり
何か頼りなげで、人目をはばかる、小さなランタン、ケンケ燈。
けれども眠るパリの上
巨大な光が塔に這い登る
どぎつい光
シトロエン、シトロエン
それは一人の小男の名前
頭に数字を詰め込んだ小男
鼻眼鏡の奥で、いやな目つきの小男
たった一つの歌しか知らない小男
いつも同じ歌
純利益、
何百万、何百万・・・

多額の設備投資、世界恐慌の波及、1930年代初めには生産・取引高、利益も落ち込む中で、シトロエンは次々に新しい車を発表した。33年3月から、トラクシオン・アヴァン生産のため、ケ・ド・ジャヴェル(現在のケ・アンドレ・シトロエン)の工場の改装・再整備が始まる。しかしこの月、10%の賃金カットをきっかけに、複数の工場がストライキに入る。通常通り操業が再開されるのは5月末。

ストライキを電話で知らされプレヴェールが即刻書き上げた「シトロエン」を何部かタイプし、配り、数時間後には労働者の前で上演した。グループ「10月」は1932年から37年まで活動を行なう。中には失業者もいた。プレヴェール兄弟の他にレイモン・ビュシエール、ロジェ・ブラン、イヴ・アレグレ、マルセル・デュアメル、モーリス・バケら、後に演劇や映画の世界で名を成す人たち。36年の写真には、13歳のマルセル・ムルージの姿も。

「シトロエン」はその後1936年に「赤い鷹」(Les Faucons rouges 10~15歳の子供を集めた。別名Les Amis de l’enfance ouvrière)が再演する。工場の共産党活動家は最初この「極左」グループを怪しみ、門前払いを食わせるが、いざ上演されると大成功を収めた。これはL’Autre Journalの解説に引かれたRodolphe Prager(1918-2002 トロッキスト、第四インターナショナルについて著作がある)の証言。

しかしアンドレ・シトロエンは1935年に亡くなっている。トラクシオン・アヴァン発売初期の欠陥、賭博耽溺、銀行は赤字補填を拒否。34年には破産の申し立て、会社の経営はミシュランの手に渡る。創業者個人の戯画化が目立つプレヴェールのテクスト(カジノでの豪遊にも言及する)を、再演でもそのまま用いたのか?
エッフェル塔をシトロエンの電飾広告が飾るのも、1925年から36年まで。
好敵手ルイ・ルノーも「人食い鬼」l’ogreと渾名された。1913年にはビアンクールのルノー工場で最初のストライキ。アメリカから帰国したルノーが、フォードとテイラーのシステム導入に着手した時期。
自動車工業はこの頃、大きく姿を変える。流れ作業、従来ほど熟練を要しない単純労働は、過労や労働者の知的社会的な地位低下を招く。
労働現場の声は経営者に届かなかったのか?プレヴェールは書く、「シトロエンは耳を貸さない / シトロエンは聞いて(わかって)ない 」Citroën  n’écoute pas… / Citroën n’entend pas...  しかし1920年代初めシトロエンの工場は乳幼児預かり所や食堂など画期的な施設を備えていた。27年にはフランスの雇用者として初めて従業員に年末特別手当を与えた。数字しか頭にない眼鏡のポリテクニシアン、「人食い鬼」、これらの人物像は一体どの程度まで真実なのか。

画像はWikimedia Commons

参考書、Webページ  福井憲彦編『フランス史』(山川出版社)
La voiturette de Louis Renault. Par Pascal Galinier (Le Monde 20.12.98)
André Citroën. Par Marc Nadaud (Anovi)

PSA Peugeot Citroën - Historique

André Citroën. (Wikipédia)


アルベール・モディアノのシトロエンDS

2007-05-14 09:36:48 | インポート

1962年8月22日、ドゴールの乗ったシトロエンDS19はパリ郊外プティ・クラマールでOASのテロリストに銃撃を受ける。リア・ウインドウは大破、前の左と後ろ右のタイヤはパンク、頭を下げていたドゴールと夫人に怪我はない。車はそのまま走行を続け、ヴィラクブレVélizy-Villacoublayの飛行場にたどりつく。
Notorious cars - 9 General Charles de Gaulle: Citroen DS (Channel 4)

La DS a 50 ans La voiture qui sauva de Gaulle(L'Express du 15/08/2005)

1960年1月、ジュイ=アン=ジョザJouy-en-Josasのコレージュで寮住まいのパトリック・モディアノは、キキという娘に再会したくて学校から抜け出す。
「ヴィラクブレの飛行場の格納庫まで」は徒歩、そこからバスと地下鉄でサン=ジェルマン=デ=プレへ。キキは学生たちとカフェのテラスにいた。彼らはモディアノに学校に帰るよう勧める。
ケ・ド・コンティの父のアパルトマンに行くが、ドアのベルを鳴らしても返事がない。「父はロバート・フライとDS19で出かけたに違いない」
フライは父アルベールの若い頃からの友人で、運転手を務める。別の階に住む母も(いつものように)留守。モディアノはキキたちに地下鉄とバス代を借り、学校へ戻る。
Anciens élèves du collège ecole-du-montcel (Trombi.com)

父とフライは、車でイール=ド=フランスを巡回する。時たま息子を乗せて行く。公証人と会い、動産不動産を見る。
この年、夏休み前の最後の日曜日の夕方、モディアノは寮で荷造りをする。スーツケースを父の車のトランクに納め、学校を後にする。新学期からはオート=サヴォワのコレージュに。Apparement, on veut m’éloigner de Paris. どうもぼくをパリから遠ざけたいようだ。

父もまた女優の母も家にいないことが多く、小学校に入学する頃モディアノは弟と、ジュイ=アン=ジョザの母の友人シュザンヌ・ブクローの家に預けられる。
1953年2月のある朝、がらんとした家、車でやって来た父は二人をパリに連れもどす。シュザンヌは押し込み強盗を働き逮捕されたのだ。DSの発表は1955年だから、この車は何かわからない。45年にモディアノの出生届けをブーローニュ=ビアンクールの市役所へ出しに行く父は自転車。

大戦中、ヌイーのガレージに隠してあった父のフォードは1944年6月、親独民兵団に徴発を受ける。7月、政治家・レジスタンスの指導者ジョルジュ・マンデルがフォンテーヌブローの森で殺害されるのは、この車の中でだった。

去年の8月、ワシントン・ポストの旅行欄で、フランスを車で旅する記者のコラムにシトロエンDSの挿絵が添えられていたという。実際に乗っているのはレンタカーのフォード・フォーカス、記事とは何の関連もない車は、エッフェル塔のような「フランス」の記号にすぎない。Time to update your stereotypes, America! Posted by SuperFrenchie

モディアノの『血統』Un pedigreeにはたくさんの車の名が現れ、20世紀初頭のリエージュが舞台のシムノン『血統』Pedigreeとは対照的である。保険会社勤務のデジレ・マムランは、日常徒歩か路面電車で移動する。車もどこかで出てきたかもしれないが「ジャガー」「古いベントレー」「黒いトラクシオン・アヴァン」と断る必要のあるような社会は、まだ到来していない。

1959年、スタヴィスキーの息子と称する少年が寮にいるとモディアノから聞き、作家ジャン・コーはルノー4CVで学校までやって来る。
金川さんの文章『クルマが買いたい!21世紀田舎・イマジネール』を読み直す。DSや4CVを選ぶことにどんな意味があったか、薀蓄を傾け解き明すことが、私にもできればいいのだが。

いや意味なんかないのだ。そう感じさせるのはモディアノの書き方がそっけないからである。シムノンが描くマムラン家の乳母車やストーブ、父のお気に入りの椅子、家庭の宇宙を構成し、人間関係まで語ってしまう雄弁な事物、それらと比べると、DSをただの名前以上のものにすることを、モディアノはできるだけ避けているように思える。


大統領のシトロエンSM

2007-05-09 11:51:07 | インポート

Que faire des SM présidentielles ?
大統領のシトロエンSMをどうする?というアンケートが行なわれている。
http://www.forum-auto.com/les-clubs/section7/sujet379896.htm
回答例は7つあるが
1.Ca fait vieillot pour l'image de la France : faut les jeter !
   フランスを古臭く見せる。捨てるべし。
2. Aucune voiture française plus prestigieuse n'existe : faut les garder !
  これ以上にステータスの高いフランス車はない。残すべし。
3. Ca fait gaulliste : pour la rupture de Nicolas, faut les donner à un musée !
  ゴーリスト風だ。ニコラ[・サルコジ]の言う旧来の政治との縁切りのため、博物館に贈るべし。

シトロエンSMはポンピドゥー大統領時代の1970年に発売された2ドアのスポーツ車。1971年、翌年のエリザベス女王の訪問にそなえアンリ・シャプロンHenri Chapron(1886-1978)の工房で、特別に2台のオープン車が製作された。土台になったのはシャプロンの4ドアセダンOpéraで、ホイールベースは更に長い。
英国王室では女王とエディンバラ公は同じ車でパレードしてはならないと定められていて、2台が必要になった。Carossier(オーダーメードで車体製作を行なう)として名高いシャプロンの工房は、1985年に活動をやめた。
自動車マニアのポンピドゥーはSMを頻繁に利用したがジスカール・デスタンは時々、ミッテランになると、装甲を施したセダン車を好んだ。最後にお目見えしたのは1995年、大統領に選出されたシラクのパレード。
(上記forumとサイトCitroën Bugattiこのページ   Wikipédiaによる)

03年8月8日のル・モンド記事「豪華な車の人気凋落」La disgrâce de la voiture d'apparat には、

Au fait, que deviennent les deux SM présidentielles ? L'Elysée n'en dit mot. En fait, elles sont remisées dans un discret garage du quai Branly mais ne prennent pas trop la poussière. On dit que, tous les deux mois environ, des chauffeurs les sortent nuitamment pour parcourir quelques centaines de kilomètres afin de leur accorder un peu d'exercice. Pour espérer les revoir au grand jour, il faudrait au moins une visite royale ; le protocole de la Couronne d'Angleterre précise expressément que la souveraine doit se présenter au bon peuple dans une voiture

ところで二台の大統領のSMはどうなるのか。エリゼ宮は口をつぐむ。実のところケ・ブランリーの目立たないガレージに仕舞われているが、それほど埃をかぶっているわけではない。大体二カ月おきに運転手が夜、車を出して運動のため何百キロか走らせるという。再び白昼お目にかかるには、国王の訪問ぐらいはないといけないだろう。英国王室の規約は、君主は車に乗って民衆に姿を見せるべしと明記している。 (protocoleを仮に「規約」とする。英国王室の地位とあり方が何によって規定されているのか、どうもよくわからない)

同じJean-Michel Normand の署名のある02年4月の記事は

Inutile d'attendre le second tour pour désigner le vainqueur de l'élection de l'automobile présidentielle de 2002. Haut la main, le monospace - et plus précisément le ticket Renault Espace-Peugeot 806 - s'est imposé comme le moyen de transport favori de la plupart des candidats, en particulier des deux principaux, Jacques Chirac et Lionel Jospin. Alors que le président de la République comme le premier ministre effectuent d'ordinaire leurs déplacements officiels à bord de grandes berlines, Peugeot 607 ou Renault Safrane, leurs apparitions en tant que candidats auront systématiquement privilégié le monospace de location, vert foncé ou bleu marine.
La politique s'est rangée des voitures. Le Monde 21.04.02)

第2回投票を待つまでもない、2002年大統領選を制する車は明らかだ。悠々の勝利を収めたのはミニバン、より正確にはルノー・エスパスとプジョー806の二者で、ほとんどの候補者、特に二大候補ジャック・シラクとリオネル・ジョスパンは、移動にはミニバンに頼ることになった。大統領も首相も通常公用による旅には大型セダン、プジョー607かルノー・サフランに乗るのに、この選挙の遊説では、濃い緑やマリン・ブルーのレンタル・ミニバン優先が一貫していたといえよう。

参謀たちにミニバンを選んだ理由を聞くと同じ答え、実用的で、車内で仕事がしやすい、大勢乗れるからお供の車の数を減らせる。実際的pratiqueとはイメージの問題でもある、より現代的で、堅苦しくない、一般人と隔たりがなさそう。

La chute des berlines classiques, en particulier les modèles de haut de gamme, est depuis longtemps déjà une réalité du marché automobile, où la part des monospaces et, dans une moindre mesure, des 4 - 4 ne cesse de progresser. La politique est devenue modeste, son rapport à la voiture l'est tout autant. "Une noria de grandes voitures noires traversant une ville, ça ne fait plus très bon effet", glisse-t-on à L'Atelier, le quartier général de Lionel Jospin. Le souvenir encore présent du "gang des R25" (la grande Renault avec chauffeur était devenue le symbole des dérives de l'après-mai 1981) incite sans doute à éviter ce  qui pourrait ressembler à une limousine trop voyante.

古典的セダン、特に高級車種の人気凋落は久しい以前から自動車市場の現実で、ミニバン、これほどではないが四輪駆動車の占有率は増し続けている。政治は節度のあるものになった、車との関係もまた然り。「黒い大きな車を何台も連ねて町を通るのは、今ではあまりいい効果がない」、リオネル・ジョスパンの司令部「アトリエ」〔10区のサン=マルタン通りに借りた建物〕でもそんなささやきを聞く。「R25ギャング団」(運転手つきの大きなルノー25は1981年5月以後の逸脱の象徴となっていた)の記憶は今も残り、目立ちすぎのリムジンに似たような車は敬遠させるのかもしれない。