発見記録

フランスの歴史と文学

「赤ちゃんポスト」の歴史 (2)

2007-02-27 21:08:48 | インポート

<赤ちゃんポスト>昨年末新設、男児を初保護 ローマの病院 Yahoo!ニュース 毎日新聞

イタリアでは子供の受け渡し口はla Ruota degli Esposti (?la roue des exposés? )と呼ばれたようだ。
イタリア語の記事は読めないが、このページの写真からは、やはり正面の蓋を開け、赤ちゃんを外から入れて一回転させるものらしい。

14世紀からナポリの教会Chiesa della Santissima Annunziata di Napoliが捨て子を受け入れた。毎年2000から4000人の子供がこの受け渡し口から修道女の手に委ねられた。1875年まで用いられたが(現在は口が塞がれている)、その後も孤児院は1975年まで存続したという。ナポリ湾の島Procida と Ischiaにルーツを持つイタリア系フランス人の会? La Grande Famille de Procida & Ischia ?のサイトにあるLes enfants abandonnés à Naples を参照。

会員のMarie-Hélène CHOQUETさんと Annie SINTÈSさんは2004年、ナポリに旅する。1825年に、二人の祖先にあたるPaolino MormileはAnnunziata孤児院に捨てられた。(Paolino ESPOSITO di A.G.P. di Napoli )写真は受け渡し口を外と中、両方から示している。


「赤ちゃんポスト」の歴史

2007-02-25 22:11:35 | インポート

赤ちゃんポスト設置許可、熊本市が最終検討へ 読売新聞地域版 07/02/24

赤ちゃんポストの歴史は古い。中世ヨーロッパでは修道院などに設けられ、江戸時代にロシアに漂着した日本人を描いた井上靖の小説「おろしや国酔夢譚」には捨て子を入れる引き出しを持つ施設が登場する。
現代のポストの“先進地”はドイツで、慈恵病院も視察し、参考にしている。

『赤ちゃんポスト』渦巻く賛否 読売医療ニュース 06/11/29)

仏和辞典では「(修道院で外部との窓口となった)回転式受け渡し口」(Le Dico白水社)などと訳されているが、子供の受け渡しをする?tour?の絵を偶然見つけたのは、ルソー関連の検索中だった。
?Tour d'hopîtal?のような素朴なものからNeonatology on the web : Tour d’abandon の写真のように豪華なものまである。
壁に取り付けられ赤ちゃんを外側から入れて一回転させるこれらのtoursは、19世紀に作られているようだ。

18世紀には教会や病院のポーチ下、通りや広場に、たいていは夜、子供を置いて行った。新生児の保護のため、フランスでは第一帝政時代(1811年)に勅令で「受け渡し口」を公認する。母親の匿名は守られるが、子捨てを助長すると批判を受けた。長い議論の末ディエップではこれを廃し、1845年からは受け入れ事務所を設けたという。病院と行政の代表が母親から事情を聞く。当座の支援をする代わり、子供を捨てないようにと説得した。
Seine-Inférieure(現在のSeine-Maritime)県ではディエップとルーアン、ル・アーヴルの総合病院が捨て子の受け入れに当たった。街路に放置されたり農村部から連れてこられたり、大半が新生児の子供たちは病気の場合が多く、1845年に同県では二人に一人が死亡した。
(ディエップ市のサイトにあるLes Enfants de l’Hôpital Bérengère Olingue

18世紀、ジャン=ジャック・ルソーはテレーズ・ルヴァスールとの間に生まれた五人の子を、みんな捨て子養育院に送った。ルソーは『告白』などの著作や手紙で、あれこれ弁明をしている。もっとも子捨ては、特に貧しい人たちの間では珍しいことではなかった。

フランクイユ夫人宛ての手紙で、子供を?exposer?したわけではないと言う。つまり黙ってポーチ下などに「放置、置き去り」にしたのではない、ちゃんと孤児院に?déposer?(置く、預ける)してきたのだ。ルソーの時代にはこの区別は明確に行なわれていた。とこの辺はFrançoise Bocquentin Jean-Jacques Rousseau, femme sans enfants ? Introductionによる。教会の前には子供を置いていく大理石の貝殻があった。まだ「放置」のほうがずっと多い頃だから、ルソーの言葉が本当なら、彼は時代に先んじていたことになるという。

メルシエ『十八世紀パリ生活誌 タブロー・ド・パリ(上)』(原 宏訳 岩波文庫)には、「捨て子」「捨て子養育院」の章がある。養育院には毎年8000人の赤ん坊が置き去りにされる。並んだ揺り籠に眠る子供たちの姿にメルシエは思う。

これらの子供たちは誰の子なのだろうか?その子たちを産んだのは、王族かもしれないし、靴直しかもしれない、天才的な男かもしれないし、馬鹿かもしれない。そこでは、ジャン=ジャック・ルソーの子供の隣りにカルトゥーシュ〔伝説的な盗賊―引用者註〕の子供が眠っているかもしれない!(p.359)


ヴェロニック・ヴァスール『パリ・サンテ刑務所』 

2007-02-23 22:00:28 | インポート

ヴェルレーヌやアンリ・ルソー、アポリネール、シャルル・モーラス、モーリス・トレーズ・・・ヴェロニック・ヴァスール『パリ・サンテ刑務所 主任女医7年間の記録』(青木広親訳 集英社 p.55-56)には、投獄された文学者や政治家の名がずらりと並ぶ。「ここには彼らの亡霊が今も徘徊している。壁という壁から、歴史の記憶が滲出しているのだ」

著者は1992年に当直医師、翌年から2000年まで主任医師を務めた。採用テストの日、先輩医師の話に「とんでもない場所にきてしまったものだ」と思う。実際、建てられた時「衛生管理の鑑(かがみ)」だった刑務所は老朽化し、雑居房のマットレスはノミだらけ、「共和国の恥辱」と化していた。心臓病や糖尿病などは専門医が診察するが1800人の受刑者(1992年の数字)に対して週1度。コンクリートの上でサッカーをやれば怪我人続出。麻薬の密売。マリファナを混ぜた薬を乱用して死ぬHIV感染者。暴力、自殺、自傷行為。文学や「歴史の記憶」どころではない。カフカ『審判』を上演して受刑者に見せたというが、どういう神経だろう。

モーリス・パポンがここに来るのは1999年11月13日。「彼は、VIP区域で以前ボネ知事が使っていた、刑務所にひとつしかない《上等》な居房に収容された」 この区域の独房にだけは緊急用の呼び出しスイッチがある。
同じ頃、フレーヌ病院に送られていた重症の高齢者二人が「通常の監禁に耐えられる」とされ、戻ってくる。一人は二日後、独房で死んでいるのを発見される。
著者はパポンについては特別印象を記していない。本書の出版も間近い。積極的にメディアに顔を出し囚人の生活改善を訴えていた著者は、この頃からそれこそ「渦中に身を投じ」ることになる。

やはり大戦中親独義勇軍 la Miliceを指揮、一度はポンピドゥーに恩赦を受けながら「人道に対する罪」に問われたポール・トゥヴィエPaul Touvierは、1994年に終身刑を宣告された。著者は「邪険に扱ってやろうとこころに決め」トゥヴィエと対面した。「だが心労で容色が衰え、しかもきわめて礼儀正しい老人を前にして一体何ができるだろう?」 トゥヴィエはその後フレーヌ病院に送致され息を引き取る。

フレーヌ刑務所(地図)は男性拘置所(定員48名の地域医療=心理学施設le service médico-psychologique régionalを持つ)、女性拘置所と国立の医療施設l'EPSNF  (l’établissement public de santé national de Fresnes ベッド数101)からなり、医療刑務所の性格を持つ。(prison.eu.orgの記事 また日本の法務省の行刑改革会議・海外視察結果報告書 (PDF))

1994年1月18日の法は「これまで刑務当局が行ってきた囚人の医療を公共病院施設が引き継ぐことを原則として可能にする内容だった」(本書p.118)各刑務所は最寄の病院(サンテ刑務所ならコシャン病院 地図)と提携する。

医師は刑務当局の職員でなくなる。著者は病院医師として資格を得るため、勉強のやり直しを迫られる。しかし刑務所への守秘義務から解放された医師は、「人間の尊厳に対するすべての侵害を告発する絶対的な義務を負う」ことになったのだ(p.236)


モーリス・パポンの死 クシュネル法 la loi Kouchner

2007-02-20 17:43:43 | インポート

モーリス・パポンが亡くなった。
デナンクス『記憶のための殺人』(堀 茂樹訳 草思社)は、ヴィシー政権時代のパポンと、彼が警視総監の時パリで起きたアルジェリア系住民虐殺、そして現代(原著 は1984年刊)、三つの時を結ぶ物語。詳細な訳者註記は1995年、「パポン裁判」予審の手続きが長びく中で書かれていた。

高齢の被告の健康状態は、裁判の過程でたびたび問題になった。?Les vrais-faux déboires de santé de Maurice Papon.?(Le Figaro)?Jurisprudence Papon?(Le Monde 20.09.02)他の記事を参考に、この点を整理してみる。

1997年10月から翌年4月まで行われた裁判でボルドー重罪裁判所は、ユダヤ人の強制収用所送還に関与したとして(「人類に対する罪への共謀」)パポンに禁固10年の刑を宣告。裁判は入院により何度も中断。10月22日、故人となった上司の夫人が証言中、ひどい震えに襲われる。翌日には気管支炎で救急部に。
1999年10月、上告が破棄院で審理される直前スイスに逃亡するがすぐに逮捕、この時頻脈tachycardieの発作を起こし、ベルンの病院に送られた。
2000年1月からは心臓ペースメーカー装着。3月と10月、シラク大統領は医療恩赦の申請を棄却。
この時期、ロベール・バダンテール元法相が、人道的にこれ以上拘禁を続けるべきでないと発言。バダンテールの声は、政敵からのものだけに重みを持った。またVéronique Vasseur, Médecin chef à la prison de la Santé( ヴェロニック・ ヴァスール 『パリ・サンテ刑務所―主任女医7年間の記録』 集英社)の衝撃もあり、囚人の置かれた悲惨な状況は議論を呼んでいた。
2002年3月から、「クシュネル法」la loi Kouchnerの条項が、「生命に関わると医学的に予測される病」あるいは「持続的拘留とは相容れない健康状態」の囚人には、二つの医学鑑定が共にこの結論に達するなら、刑の停止を認める。
9月、パポンは仮釈放、以後はGretz-Armainvilliers(地図)の自宅拘禁となる。ユダヤ系団体からは反対の声が上がり、ドミニック・ペルベン法相もこれを批判。

伝えられた鑑定結果から文字通り「寝たきり」の老人を想像した人たちは、車椅子も要さずラ・サンテ刑務所を出るパポンの映像に驚いた。
03年1月、継続観察のため検事から召喚を受けるが出頭せず。ヴァロー弁護士によれば外出できる健康状態ではない。

出獄の日の写真(time.com)は今回の報道でも用いられ、あるものなどつい「不敵な笑い」と取りたくなる。一人の人間の顔が、これほど注視にさらされたことも稀だろう。

刑の長期化にともなう高齢の囚人の増加。フランスでは2001年に80代の囚人が27名いた。

刑法の改正は、決してパポン個人のために行なわれたものではない。採択から三月後、初めてその恩恵を受けたのは、07年までの刑期満了を待たず、エイズ治療のため仮釈放を認められた囚人だった。ただタイミングと注目度は、まるでパポン救済が目的のような印象を与えたかもしれない。

「クシュネル法」の名は当時「雇用連帯大臣付き厚生担当大臣」を務めたベルナール・クシュネルに因むが、パポンの死にクシュネル氏はコメントする、(Libération記事)

Maurice Papon a bénéficié d'une loi généreuse et juste alors qu'il n'en était pas vraiment digne. Pour que la justice passe enfin, il a fallu l'acharnement des familles de victimes déportées et mortes dans les camps d'extermination. Cet acharnement n'était pas justifié par la haine, et il est venu à bout de cette incroyable indifférence que manifestait M. Papon, de cette suffisance de certains puissants dont il était un terrible représentant. C'est ce contraste entre la mansuétude de la justice, sa rigueur et son humanité à la fois, et la mort, l'oubli et l'indifférence, dont je veux me souvenir. Sa faute était imprescriptible, mais nous l'avons traité comme tous les malades. C'était aussi la loi.
モーリス・パポンは寛大で公正な法の恩恵を受けました、真にその資格があったとは言えませんが。ようやく正義がかなうためには、送還され強制収用所で死んだ犠牲者の家族の執念が必要でした。この執念は、憎悪にもとづくものではありませんでした。パポン氏が見せたあの信じがたい無関心、彼をその恐るべき代表とする権力者たちの驕りに、この執念が勝ったのです。司法の寛大、司法の厳格さとまた人間性、対するに死と忘却と無関心。この対照を私は記憶したい。彼の過ちは時効のないものでした、しかし私たちは彼をすべての病人と変わらず扱ったのです。それもまた法でした。

Wikipédiaによる追記)アルジェリア戦争中の1961年10月17日、デモ行進するアルジェリア系住民に警官隊が襲いかかり起きた虐殺について、歴史家Jean-Luc Einaudiは、暴力的弾圧はパポンの「命令」によったとする。一方ゴーリストでこの時陸軍大臣だったPierre Messmerは裁判での証言で、混乱の中、総監に全権を委ねていた政府、つまりは内相Roger Freyと首相 Michel Debréの政治的責任をも問題にした。


アナトール・フランスとクレオパトラの肖像

2007-02-15 23:24:44 | インポート

クレオパトラはそんなに美人じゃなかった?というニュース、(Ancient coin undermines legend of Cleopatra's beauty USA TODAY.COM)、写真を見たときはなるほどと思った。
ところが『平凡社世界大百科事典』には「貨幣や浮彫などに残されている彼女のものと思われている肖像も,高いかぎ鼻の特徴を示すのみで,美女というものではない」 eBayにもそんな貨幣が出ているというから捜すと、Denarius of Mark Antony & Cleopatra - Roman Coin - Copy 
 
アナトール・フランスによるゴーティエのUne nuit de Cléopâtre(Gallica)序文も、冒頭から「クレオパトラは特別美人ではなかった」(Cléopâtre n’était pas très belle.)である。
その根拠として、まずプルタルコス『アントニウス伝』をアミオの仏訳で引く。プルタルコスは「実はそれほど美人でも」説の有力ネタ元らしい。では彼女の魅力はどこにあったのか。

しかし彼女との交際は逃れようのない魅力があり,また彼女の容姿が,会話の際の説得力と同時に,同席の人々のまわりに何かふりかけられる性格とを伴って,針のようなものをもたらした。彼女の声音にはまた甘美さが漂い,その舌は多くの弦のある楽器のようで,容易に彼女の語ろうとする言語にきりかえることができ,非ギリシア人とも通訳を介して話をすることはきわめてまれで,大部分の民族には,エチオピア人,トログロデュタイ人,ヘブライ人,アラビア人,シリア人,メディア人,パルティア人のいずれにも自分で返答した。(弓削 達訳 『世界大百科事典』から借りる) 

ヘレニズム時代エジプトにふさわしい洗練された女性。しかしクレオパトラは恐れ、憎まれた。ローマの詩人たちは彼女を淫蕩な「娼婦である女王 meretrix regina」(プロペルティウス)に仕立ててしまう。「怪物」の死をローマはお祭り騒ぎで祝った。

?Et c’était une femme, une petite femme qui avait fait trembler le sénat et le peuple romain.?(そしてそれは一人の女性だった、元老院とローマの民を震えさせた小さな女。)

フランスは彼女を小柄な、細めの女性として想い描く。
宦官ポティヌスの目を逃れるため、クレオパトラは旅行者がマットレスや毛布を入れる粗布の大袋に入ってカエサルのそばに運ばれた。?Elle en sortit au yeux du Romain charné.?( 袋から現れたクレオパトラを目にして、ローマの男は魅了された。)

素朴な、コントのような味わいがある逸話だが、出典は不詳。造型表現と異なり、言葉の喚起するイメージは輪郭が曖昧で、重みがない。髪の色は?鼻の形は?すべてが空白のままだ。しかしアルマ=タデマの『アントニウスとクレオパトラ』()のような描き方に比べ、この文章が想像させるクレオパトラのほうが、ずっと魅力的ではないか?

真正のクレオパトラと呼べる肖像は、この世に存在しない、フランスはそう言う。デンデラ神殿の、クレオパトラと息子カエサリオンの浅浮彫り()は様式化され、ありのままを写そうとしたものではない。神話の時に属する浮き彫り像は、個々の人物の特徴など超越している。

クレオパトラを彫った貨幣がある。古銭学者は十五の異なる型に分類する。大半は彫りが粗悪である。すべてクレオパトラを粗野な、きつい顔にし、鼻が極端に長い。パスカルの深遠な言葉は知られている。「クレオパトラの鼻がもっと短ければ、地上のすべてが変わっていただろう」 この鼻は、貨幣を信じるなら、並みの長さではなかった。しかし私たちはそんなものを信じないだろう。国立図書館や大英博物館、ウィーンの収集室 le Cabinet de Vienne(*1)の古銭コレクションを全部見せられても、同じことだろう。すべての肖像の鼻がいっせいに伸びる、御伽芝居の幻想場面の一つのようだと私たちは言うだろう、そして私たちを馬鹿にする古銭学を馬鹿にするだろう。カエサルに世界の支配を忘れさせた顔は、滑稽な鼻に台無しにされてはいなかった。

(*1)ハプスブルグ家の「古銭古美術収集室」のエジプト美術コレクションは、ウィーンの美術史美術館Kunsthistorisches Museum(1891年から一般公開)に。http://www.khm.at/homeE/homeE.html