モーリス・パポンが亡くなった。
デナンクス『記憶のための殺人』(堀 茂樹訳 草思社)は、ヴィシー政権時代のパポンと、彼が警視総監の時パリで起きたアルジェリア系住民虐殺、そして現代(原著 は1984年刊)、三つの時を結ぶ物語。詳細な訳者註記は1995年、「パポン裁判」予審の手続きが長びく中で書かれていた。
高齢の被告の健康状態は、裁判の過程でたびたび問題になった。?Les vrais-faux déboires de santé de Maurice Papon.?(Le Figaro)?Jurisprudence Papon?(Le Monde 20.09.02)他の記事を参考に、この点を整理してみる。
1997年10月から翌年4月まで行われた裁判でボルドー重罪裁判所は、ユダヤ人の強制収用所送還に関与したとして(「人類に対する罪への共謀」)パポンに禁固10年の刑を宣告。裁判は入院により何度も中断。10月22日、故人となった上司の夫人が証言中、ひどい震えに襲われる。翌日には気管支炎で救急部に。
1999年10月、上告が破棄院で審理される直前スイスに逃亡するがすぐに逮捕、この時頻脈tachycardieの発作を起こし、ベルンの病院に送られた。
2000年1月からは心臓ペースメーカー装着。3月と10月、シラク大統領は医療恩赦の申請を棄却。
この時期、ロベール・バダンテール元法相が、人道的にこれ以上拘禁を続けるべきでないと発言。バダンテールの声は、政敵からのものだけに重みを持った。またVéronique Vasseur, Médecin chef à la prison de la Santé( ヴェロニック・ ヴァスール 『パリ・サンテ刑務所―主任女医7年間の記録』 集英社)の衝撃もあり、囚人の置かれた悲惨な状況は議論を呼んでいた。
2002年3月から、「クシュネル法」la loi Kouchnerの条項が、「生命に関わると医学的に予測される病」あるいは「持続的拘留とは相容れない健康状態」の囚人には、二つの医学鑑定が共にこの結論に達するなら、刑の停止を認める。
9月、パポンは仮釈放、以後はGretz-Armainvilliers(地図)の自宅拘禁となる。ユダヤ系団体からは反対の声が上がり、ドミニック・ペルベン法相もこれを批判。
伝えられた鑑定結果から文字通り「寝たきり」の老人を想像した人たちは、車椅子も要さずラ・サンテ刑務所を出るパポンの映像に驚いた。
03年1月、継続観察のため検事から召喚を受けるが出頭せず。ヴァロー弁護士によれば外出できる健康状態ではない。
出獄の日の写真(time.com)は今回の報道でも用いられ、あるものなどつい「不敵な笑い」と取りたくなる。一人の人間の顔が、これほど注視にさらされたことも稀だろう。
刑の長期化にともなう高齢の囚人の増加。フランスでは2001年に80代の囚人が27名いた。
刑法の改正は、決してパポン個人のために行なわれたものではない。採択から三月後、初めてその恩恵を受けたのは、07年までの刑期満了を待たず、エイズ治療のため仮釈放を認められた囚人だった。ただタイミングと注目度は、まるでパポン救済が目的のような印象を与えたかもしれない。
「クシュネル法」の名は当時「雇用連帯大臣付き厚生担当大臣」を務めたベルナール・クシュネルに因むが、パポンの死にクシュネル氏はコメントする、(Libération記事)
Maurice Papon a bénéficié d'une loi généreuse et juste alors qu'il n'en était pas vraiment digne. Pour que la justice passe enfin, il a fallu l'acharnement des familles de victimes déportées et mortes dans les camps d'extermination. Cet acharnement n'était pas justifié par la haine, et il est venu à bout de cette incroyable indifférence que manifestait M. Papon, de cette suffisance de certains puissants dont il était un terrible représentant. C'est ce contraste entre la mansuétude de la justice, sa rigueur et son humanité à la fois, et la mort, l'oubli et l'indifférence, dont je veux me souvenir. Sa faute était imprescriptible, mais nous l'avons traité comme tous les malades. C'était aussi la loi.
モーリス・パポンは寛大で公正な法の恩恵を受けました、真にその資格があったとは言えませんが。ようやく正義がかなうためには、送還され強制収用所で死んだ犠牲者の家族の執念が必要でした。この執念は、憎悪にもとづくものではありませんでした。パポン氏が見せたあの信じがたい無関心、彼をその恐るべき代表とする権力者たちの驕りに、この執念が勝ったのです。司法の寛大、司法の厳格さとまた人間性、対するに死と忘却と無関心。この対照を私は記憶したい。彼の過ちは時効のないものでした、しかし私たちは彼をすべての病人と変わらず扱ったのです。それもまた法でした。
(Wikipédiaによる追記)アルジェリア戦争中の1961年10月17日、デモ行進するアルジェリア系住民に警官隊が襲いかかり起きた虐殺について、歴史家Jean-Luc Einaudiは、暴力的弾圧はパポンの「命令」によったとする。一方ゴーリストでこの時陸軍大臣だったPierre Messmerは裁判での証言で、混乱の中、総監に全権を委ねていた政府、つまりは内相Roger Freyと首相 Michel Debréの政治的責任をも問題にした。