海鳴記

歴史一般

大河平事件再考(13)

2010-09-23 08:03:20 | 歴史
 これに対して、隆芳は長々と提出した資料を例にあげ説明を加えているが、前にも言ったように、その資料に目を通していないので、なかなかピンとこない。ただ、たとえば、官(藩)有林(山奉行管轄下の山)で「稼山営業」をするには、特定の御用商人以外、許可を得られないのと同様、私有山林においても、樹木の種類によっては、許可を得て伐採しなければならない。それゆえ、大河平の山林の柞灰、椎茸、山餅、松煙などの林産物を販売しようとすれば、規則通り、許可を願いで、礼銀(手数料)も払わなければならなかった。そして、その願書は、明治10年の戦乱のときにほとんど焼けてしまったが、国に提出した資料は、明治5年、大山綱良が県令だったとき出したものだと言っている。つまり、当時もまだ旧藩制度にならっていたのは天下一般周知の事実で、だからこそ、旧藩時代と同じく、「稼山」願いを出したに過ぎないのだ、と。
 まあ、簡単に要約すると、以上のようになってしまうが、隆芳は、長々と執念深く、山林原野は大河平家の所有だと主張して止まない。

 さて、主家や家臣の生計がどうなっていたのかということに移ろう。稼山の林産物販売ほか「田畑ト成ルベキ場所ハ之ヲ開墾シテ田畑ト為シ、或ハ家来ノ者共ニ開墾セシメテ永代其小作権ヲ給与シ、或ハ稼山願ヲ為シ、或ハ伐木ノ件ヲ出願シ其許可ヲ得テ諸般ノ経費ヲ支へ来レリ」と言っている。
 私が、何度か訪れた印象では、平地部は少なく、開墾した田畑といっても、60家の家臣団を支えるには、とても足りるようには見えなかった。だとすれば、やはり、「稼山営業」や森林伐木が、主家のみならず家臣団の収入でもあったのだろう。以前の(注)でも少し述べたように、慶応年間に英国式銃兵一小隊を揃えるのに巨額の負債を背負ったとあったが、「稼山営業」をしてその負債を返したというから、山林収入がどれほどのものだったか容易に想像できる。
 もっとも、家臣団が独力で「稼山営業」が可能だったとは考えられない。おそらく、主家の独占だった。家臣団はその山仕事の手伝いなどをして、収入を得ていたに過ぎないだろう。
 これらの想像が正しいとすれば、明治5年、主家が鹿児島に去って以来、川野道貫や清藤泰助らが盗伐しようとしたのも無理はなかったのかもしれない、と思えてくる。隆芳の嘆願書を何度も読んでいると、家臣団のことなどほとんど眼中にない、独善的で専制的な像が浮かんでくるのだから。



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