海鳴記

歴史一般

沈黙の百二十年

2021-10-18 07:40:57 | 歴史

                (四)

           福島ヨネと奈良原貢氏の邂逅

 ヨネさんは、昭和二十六年三月二十四日の衆議院運輸委員会に参考人として出席していた。全く予想外のことだった。福島家の子孫氏から教えてもらわなければ、なかなかこういう事実には行き当たらなかっただろう。おまけに、その時の肩書は金泉閣主婦ではない。自動車内燃補助器研究所長という物々しい肩書である。

 この参考人として出席する前、正確には、三月十二日。ヨネさんは、政界フィクサーの矢次(やつぎ)一夫とともにモーターボート競走法案を衆院各派の議員に働きかけ、議員立法として国会に提出させていたのである。そのため、二十四日の衆院運輸委員会に、前舟艇(しゅうてい)協会理事長の堤(つつみ)徳三とともに参考人となって出席していた。

このモーターボート競走法案は、もともと笹川良一の発案だったらしい。ところが、笹川はA級戦犯として、昭和二十(一九四五)年十二月、巣(す)鴨(がも)拘置所に収監され、三年前にはそこを出ていた。が、公職追放中だったのである。だから、表だった行動はできなかった。そこで、戦前からアマチュアのボートレースに関わっていたヨネさんや、堤徳三らを使って有力議員に働きかけていたようなのである。

 こうしたヨネさんの行動は、むろん戦前から舟艇協会と繋がりがあったからである、と推測される。

 前に、ヨネさんが昭和八年にある詐欺事件に関わったとして、警視庁に事情聴取されたことがあった、と書いた。この詐欺事件の真相は、闇に包まれてしまったようだが、首謀者(しゅぼうしゃ)は江連(えづれ)力一郎(りきいちろう)とういう過激派右翼だったのである。

 江連は、大正九(一九二〇)年、アムール川河口のニコライフスクで起きた赤軍パルチザンによる日本人居留民虐殺事件、いわゆる尼港(にこう)事件の報復を企てた男だった。その事件の二年後の大正十一(一九二二)年、大輝丸という船を準備し、オホーツク海に砂金採取に行くと偽(いつわ)って乗組員を集め、ニコライフスク港を襲ったのである。そして船やその荷物の略奪行為に及び、ロシア人十四名、中国人と朝鮮人五名を殺害した。その後、彼は捕まって十二年の刑を受けたが、昭和八年には出獄していたのである。だから、出獄後すぐにどんな詐欺事件を起こしたのか、よくわからないが、ヨネさんの金泉閣が舞台の一つになったに違いない。つまり、ヨネさんは、その詐欺事件に関わったとされる有馬子爵を含め、そういう人物たちを吸引する何か謎めいた魅力を持っていたのだろう。それゆえ、温泉旅館の客筋は、金に困る人たちではなかった。つまり、ヨネさんがモーターボートを所有していても何の不思議もない。事実、昭和七(一九三二)年当時には、千葉県の富津岬近くに別荘を所有し、舟遊びを楽しむことができたのである。そして、民間のモーターボート協会は昭和五(一九三〇)年には発足していたし、その翌年には、アマチュアによるモーターボート選手権が墨田川で開催されている。

 ヨネさんが彼らに近づき、いや逆かもしれない。富裕なボート所有者が、金泉閣を利用しているうち、彼女がボート遊びの楽しみを知ったのかもしれない。日本で最初に飛行機に乗るような女性だったのだから。それゆえ、モーターボート協会で彼女の名前が知られるようになるのに、それほど時間はかからなかった。おそらく、かなり有力なサポーターになったと想像できる。そうでなければ、衆院運輸委員会の参考人に、自動車内燃補助器研究所長などという肩書をつけて出席できるはずがないのである。自動車にしろ、飛行機にしろ、モーターボートにしろ、エンジンがすべてなのだ。別な言い方をすれば、自動車だろうが、モーターボートだろうが、同じエンジンで動かすことができるのである。さらに、『津競艇沿革史』には、次のような記述も見られる。

「福島女史は内燃機関や精密機械の特許を多く有っていて、着想力に富み、競輪や改正競馬法なども同女史の発案と言われている。又同女史は奇行逸話に富み、当時天下の多くの名士と深い交わりがあった(後略)」

 この記載は概(おおむ)ね正しいのだろうが、彼女自身が特許を申請したわけではない。もし彼女が特許権を多く持っていたとすれば、たとえば、三次の「飛行機重心安定装置」なども含まれていたに違いない。三次が、借金の抵当としてヨネさんに預けていたとすれば、だが。

 奈良原三次と別れたヨネさんは、三次の度重なる借金の申し込みに応(こた)えた。ヨネさんが三次や奈良原家にどんな感情をもっていたかわからないとしても、生活費は、渡していただろう。なぜなら、三次家には、ヨネさんがかわいがっていた「緑さん」がいたからである。ただそれも、三次が音次郎と再会し、しばらくして終わった。これらのことは、音次郎日記や、緑子の手紙で充分推測できるのである。


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