海鳴記

歴史一般

安積疎水・明治政府現地責任者時代の奈良原繁(17)

2013-10-17 16:17:24 | 歴史
                    (17)
 要するに、事故にあった有栖川宮一行は、六日夜にも滝沢陣屋に泊まった。そして、七日朝そこを出発し、予定を一日過ぎた八日に郡山に戻ってきた。なぜなら、当時、その距離は一日の旅程では無理だったからである。
 この間、北海道から、青森、秋田、山形と経由で戻ってきた天皇一行は、十月五日に桑野村(郡山市)の行在所に立ち寄っている。天皇一行は、そこで昼食を取った後、久留米士族の開墾地を訪れているのである(注1)。この際、疎水出張所職員に褒賞金が下賜され、最高責任者の奈良原繁は綿織物一巻、下僚の南一郎平は、金八十円という記録がある。
 以後、繁の記録は、十二月まで見当たらない。その記録とは、十二月十七日付けの勝海舟宛て書簡(注2)のことである。
 その内容というのは、「過日参邸した折、拝借した刀二本のうち、一本は備前の作でお譲り願いたい」という簡単なものだが、この頃は東京に滞在していて、のんびりしていたようだ。と同時に、繁の幅広い交友を垣い間見る一例(注3)である。
 私は、これを発見したとき、どういう人物の仲介で海舟と知り合うようになったか興味をもったが、わからず終(じま)いだった。結局、大久保か松方あたりだろうか。ともかく、繁は気さくで人のいい面を多分に持っていた。明治二年から四年にかけて繁が藩政から追われていた頃、福島からやって来た御代田豊(注4)などにも会っているし、幕府遊撃隊の隊長だった人見勝太郎(寧・やすし)(注5)ともこの頃知り合っている。
 この明治十四年は、繁の周囲が大きく変化した年であったが、明治十五年の正月は、東京で迎えたに違いない。

(注1)・・・「今に見る安積開拓・安積疎水」HP参照。
(注2)・・・ある記録に明治三十年前後、勝が沖縄を訪れた際、奈良原邸に泊まっていたということが書かれているが、海舟全集にはその記録が見当たらない。
(注3)・・・繁の大隈重信宛て書簡も何通かあるが、まだ翻刻されたものが出ていないので、ここでは踏み込まなかった。現在『大隈重信関係資料』として刊行中なので、それを待っているところである。
(注4)・・・(5)の(注2)参照。
(注5)・・・明治九年三月、『人見寧履歴書』(桐山千佳)によれば、人見が「太政官より召されて七等判事に任ぜられ、東京裁判所詰民事課被仰付、同年同月、勧業七等出仕に補せられる」とあるが、これより前、「大久保内務卿より奈良原繁氏を介して霞ヶ関同卿の邸に招かれ内旨を受けた」ともある。繁はこの頃、まだ島津家の家令だった。


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