海鳴記

歴史一般

続「生麦事件」(119) 松方日記について(26)

2009-03-07 11:36:29 | 歴史
 前回で文久3年(1863)度分の日記が終わり、次は文久4年(元治改元は2月20日)正月元旦から元治元年4月27日までの分と5月20日から6月28日の分、そして10月13日から11月10日までと3分冊になっている。年度が同じなのでそのまま読んでいくことにする。
 この年は、7月19日に始まった禁門の変の際、喜左衛門が出水部隊の隊長となって実戦で活躍した年である。前年までは、お供目付として主君の側近くに仕えていたのに、どうしてそこから離れ、そして実戦部隊の長になったのか、その辺りの事情がわかれば有難いのだが、どうもそこまではわからないようである。のちにかれを賞賛し、尊敬している松方でも、当時はそこまで気に掛けなかっただろう。
 では、この年の松方日記に、喜左衛門や幸五郎がどのように出てくるか見てみよう。
 まず、最初に登場するのは文久4年(1864)1月4日である。その部分をそのまま掲載してみる。
一 今日幸五郎へ下之関之蒸気船焼失一件ニ付上 京被仰付今宵出立
 とある。これは、他の公的な記録にもしっかり記載されているので、新しい事項ではない。むしろ、前日、前年暮に起った長崎丸事件の交渉を命じられていた喜左衛門と高崎佐太郎(正風)が、幕府からそれを見合わせるようにという知らせが届き、中止になっていたことは書かれていない。まあ、これは松方の預かり知らぬ事柄であったろうから仕方があるまい。
 ところで、この蒸気船焼失および長崎丸事件というのは、薩摩藩が幕府から借りて運用していた長崎丸が、長州砲台から攻撃を受け、船将宇宿彦右衛門以下28名が亡くなったという事件のことである。
 この長崎丸事件で藩独自の判断からだろうが、長州藩の様子を探らせるため園田彦左衛門という人物を前日の3日に小倉に送っている。幸五郎は、その後を追うように、長州藩の様子を探り、それを前年9月から上京していた久光に報告する使命を帯びて出掛けていたのである。
 ただ、幸五郎が鹿児島にいつ戻ったかわからなかったが、松方日記では、2月8日夜となっており、また私の繁年譜が一つ埋まったことになる。
 この間、喜左衛門の消息はない。前年の9月の3度目の久光上京に海江田とともに従い、在京していたからである。


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