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「魏志倭人伝」・「隋書倭国伝」・「古事記」
さてここまで、母権・母系制の起源をかなり概略的(がいりゃくてき)に捉(とら)えてきたが、今回から、日本の国家の起源や母権・母系制との関連(かんれん)を論じてみたい。
その史料として、「魏志(ぎし)倭人(わじん)伝(でん)」、「隋書(ずいしょ)倭国(わこく)伝」、『古事記(こじき)』の三点をあげておきたい。吉本の「起源論」(『共同幻想論』所収)を手がかりとして話を進めることになるからである。
最初にあげた「魏志倭人伝」は、邪(や)馬(ま)台(たい)国(こく)の女王(じょおう)・卑弥呼(ひみこ)が出てくる著名(ちょめい)な文献であり、三世紀頃の日本の状況を伝えてくれている。次の「隋書倭国伝」は、七世紀初頭の初期大和政権の様子が垣間見(かいまみ)れる。
また、八世紀始めの『古事記』は、「国の成(な)り立(た)ち」を語った「神話(しんわ)」である。「神話」を使用するのは、共同体の深層(しんそう)に潜(ひそ)んでいる、古い「国のかたち」を暗示(あんじ)したり、象徴したりしている挿話(そうわ)に満(み)ちているからである。
ところで、日本(倭国)について、もっとも古い中国の文献は、一世紀半(なか)ばに編纂(へんさん)された「漢書(かんじょ)地理(ちり)志(し)」とされているが、ここでの記述(きじゅつ)はいたって少ない。「楽浪海中倭人分為百余国以歳時来献云」(HP参照)だけだそうである。つまり、朝鮮半島の東南のほうの島に百余(あま)りにわかれた国があり、定期(ていき)的に中国に使者を送って来る、という記述のみである。これだけでは、国の様子がわかるとは言えない。では、我(わ)が国の様子がわかる最初の史料(しりょう)はというと、やはり「魏志倭人伝」しかないようである。江戸期の新井(あらい)白石(はくせき)以来、その所在地(しょざいち)が、九州(きゅうしゅう)なのか関西(かんさい)なのか議論(ぎろん)の対象になってきた史料でもある。最初の記述が、倭国への距離(きょり)や方角(ほうがく)がはっきりしないからだろう。もちろん、ここではそれを扱(あつか)うわけではない。
次の「隋書倭国伝」は、中国の統一(とういつ)王朝である隋(ずい)に小野(おのの)妹子(いもこ)を送った頃、すなわち、推古(すいこ)朝(ちょう)の様子を伝えている。「魏志」と「隋書」の情報(じょうほう)の間には、およそ三世紀半位の時間の隔(へだ)たりがあるが、当時の倭国の統治(とうち)状況(じょうきょう)を比較すれば、現在の天皇制と日本の基層(きそう)にある母権・母系社会をあぶり出すように思われる。