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だが、表(おもて)舞台から消えてしまったとしても、消滅(しょうめつ)したわけではない。
ここで、私なりの視点(してん)から、この「変質」を考えてみたい。
歴史家たちは、結跏趺(けっかふ)坐(ざ)して(未明に)政務を執(と)る兄(大王)や、太子(たいし)の和歌弥多弗利(ワカミタヒラ?)を様々な人物に比定(ひてい)しているが、このことにさほど意味があるようには思えない。また吉本が言うように、たとえ、卑弥呼的な位置が皇后(こうごう)に代わったとしても、これもとりたてて問題になるようには思えない。なぜなら、当時、推古(すいこ)という女性君主であり、それを補佐(ほさ)し、実際に政務を執りしきっていたのは、聖徳太子(厩(うまや)戸(どの)皇子(みこ))という男性だったからである。おそらく、隋には推古以前の体制が伝わったのかもしれないが、天皇系統(けいとう)譜(ふ)では、33代推古は、30代敏達(びたつ)の皇后(きさき)でもあった。
つまり、母権的、父権的という大まかな捉え方をすれば、氏族的(あるいは前氏族的)なヒメーヒコ体制をこの時代でも、まだまだ引きずっていたと言えないだろうか。
統治形態における母権制が、父権制に最終(さいしゅう)的に移るように見えるのは、奈良朝の末期の孝謙(こうけん)天皇(重祚<ちょうそ>して最後は称徳<しょうとく>天皇)になってからである。だから、母権制と父権制という視点からだけから言えば、実際(じっさい)の父権制への「移行」あるいは「変質」には、かなりの時間を費(つい)やしたように思われるのである。
それでは、邪馬台国における母権体制が、天皇制における父権体制にどのように繋(つな)がり、どのように「移行」あるいは「変質」していったのだろうか?