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「1945年8月の後菏澤にいた〈偽(にせ)日本軍〉とは?」No.2103

2017-11-08 23:43:05 | 中国事情

 10月の国慶節休みの時に菏澤の革命記念館に行ったことをブログで書きましたね。

 

そのとき下の写真を見て、

日偽残余勢力を全力粛清した―10月29日山東省西部主要都市菏澤」

の「日偽」の意味が

菏澤出身の日本語学科の李海鵬先生に調べていただき、ついに分かりました!

 

「偽の日本軍」とは、日本軍でも日本人でもなく、

あの汪兆銘の「南京国民党政府」の軍隊のことでした。

(汪兆銘〈汪精衛〉)  (妻とともに)

当時、日本との戦争を極力回避しようと、

妥協に次ぐ妥協策を提案した汪兆銘に対して、

日本が当初の目的であった中国侵略に歩を進めるために、

和平妥協案を踏みにじったことで面目丸つぶれになった汪兆銘は、

中国国内からは裏切り者とされて、

 死体も墓に安置されることなく散逸したといいます。

そりゃそうですよね、中国では理不尽な日本の要求に対して

全国民が怒りに燃えていたのです。

記念館で当時の写真を見ても、正規兵でない民兵までも、

決して侵略に負けないという強く、そして明るい気迫が

感じられました。

その気迫は、日本のみならず、

日本に屈しようとする汪兆銘の「偽国民党」にも

向けられたのでしょう。

 

偽(にせ)日本軍の記載について、また、汪兆銘についても、

興味深い見解を述べていらっしゃる日本語学科の同僚李海鵬先生のメール文を

掲載させていただきます。

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 「1945年10月から1946年1月13日まで、冀魯豫軍区部隊が全力を挙げて日偽残余勢力を粛清した」のことについて

  「日偽」というのは、

日本軍の占領下における汪兆銘の国民政府(傀儡政府)の軍隊のことです。

蒋介石の国民党政府はこの汪兆銘の国民政府を「偽国民政府」、

軍隊を「偽軍」と呼びました。

「偽軍」はよく日本軍に利用され、共産党や国民党の部隊と戦わされたため、

「日偽」とも呼ばれていました。

つまり、「日偽」は日本軍のことでも、日本軍に編入した中国人兵士のことでもなく、

「偽国民政府」の部隊のことです。

 (註:ブルーはーと)1944年汪兆銘病死。「偽国民政府」及び「偽軍」は1945年8月16日に解散し、「偽軍」はその後蒋介石の国民党軍に加わる。「偽国民政府」は日本では「南京国民政府」と呼ばれる。

 1945年8月15日以降、日本軍は中国の占領区から撤退して日本に引き揚げましたが、

残された数多くの「日偽」が解散されてなかったのです。

というのは、当時、中国で政権をとるため、共産党と国民党が内戦に迫られて、

いずれも勢力を拡大させたがっていたのですが、「日偽」は戦闘した経験があるし、

人数も大勢いたので、無視できない大切な軍事的存在と見られました。

「日偽」が共産党の軍隊に入るか、それとも国民党の軍隊に入るか、

二つの選択肢の中、国民党が当時、代表的合法的な政府として

「日偽」の大部分に受け入れられました。

それで、日本軍が占領区から撤退したあと、

「日偽」は国民党軍への再編入を待っていたのです。

この間にもともと地元にいた共産党のゲリラ部隊と衝突が起きて

戦ったことが時々あるわけでしょう。

その時の「日偽」はまだ国民党の軍隊に正式に編入されてなかったので、

前と同じ「日偽」と呼ばれていたのではないかと存じます。

 

中国は近世に入り、西欧の先進文化の伝来に伴って

近代国家観念や国民意識も伝わってきました。

ただし、これらの先進理念は中国一部のエリート層に認識されたのみで、

数多くの庶民たちにとっては誰も理解できないものでした。

当時の庶民たちが国家概念や国民意識どころか、

漢字を読める人もほんの少ししかいませんでした。

要するに中国の近代化は日本の何十年ほどもおくれていたのです。

日本と国民党政府との戦いは、中国の庶民たちにとっては

歴史上の政権転換と同じくみられました。

例えば、唐のあと宋になり、宋のあと元になり、元のあと明になる、ということで、

政権転換に伴って戦争が相次いで起きたのはたいしたものではありません。

さらに、千年以上にわたる独裁政治の影響を受けて、

庶民たちはどの政権の下で暮らしても、

支配されて蔑ろにされた階層に属していたのです。

どの政権の下で暮らしても、しんどい運命が変えられませんでした。

一方、中国の歴史に遡ると、少数民族政権に占領され、

支配された時代が少なくありません。

少数民族は当時の中国人にとって外国人に相当したのです。

しかし、中国は少数民族政権に占領されても、支配されても、

中国の人種とか文化とかは消滅せず、

逆に少数民族が中国人に同化され、中国人の一部分となりました。

それで、1937年日本が中国に侵略したあと、

国民党の一部の要員らが日本に一時的降伏し、中国の文化を保存させ、

国力を発展させ、将来強くなったら日本と決戦しようということになりました。

その中の代表的な人物が汪精衛氏(汪兆銘)です。

汪精衛氏は日本軍の支持を受けて、

日本軍の占領区で新たな「国民政府」を作りました。

汪精衛氏の「国民政府」は蒋介石氏が率いた「国民政府」と異なるので、

蒋介石氏の「国民政府」から「偽国民政府」と呼ばれました。

「偽国民政府」も軍隊を創立しました。

 徴兵の対象としているのはもちろん中国人でした。

「偽国民政府」の率いた部隊に編入した中国人兵士が「偽軍」と呼ばれました。

「偽軍」はよく日本軍に利用され、共産党や国民党の部隊と戦わされたため、

「日偽」とも呼ばれていました。

つまり、「日偽」は日本軍に編入した中国人兵士のことではなく、

「偽国民政府」の部隊のことです。

  

 戦争罪を逃れるために、戦後、日本軍部隊の一部が

当時の国民党に雇われて共産党と戦ったことは聞いたことがあります。

例えば、元中国派遣軍総司令官の岡村寧次氏が戦後、

国民政府の軍事顧問として雇われました。

戦争罪が問われずに、残った人生を無事に送ることができたのです。

でも、日本軍部隊が中国に残留したことはただ山西省一省のことか、

それとも、中国のどこでも普遍的なことか、

そんな深いところまで触れていないので、私にも分かりません。

でも、戦争史に携わる専門家が掲載した論文や書物を調べていくことで、

究明できると思います。

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