毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「与謝野晶子と大町桂月の戦争をめぐる論争」No.1885

2017-03-09 23:23:36 | 反戦平和

与謝野晶子の名前は中学や高校の国語の教科書に載っており、

子どもの頃の私の感覚では、遠い歴史上の人物でした。

生まれが1878年12月7日と書かれていると、それだけで、

(ああ、明治の人か。大分昔だな)と思ったものです。

「文明開化」「富国強兵」「殖産興業」の明治時代は、取りあえず自分とは無関係でした。

しかし、晶子が亡くなったのが1942年5月29日、満63歳であるのを見ると、

おや、両親と重なるぞ!

父が1917(大正6)年(おお、生きていたら百歳だ!)、母は1920(大正9)年生まれです。

想像力のない私のやり方は、

身近な人の生きた歴史と重ねることによって、

晶子の生きた時代の時間を自分に引き寄せるというものです

 

しかし、森本学園の教育や稲田防衛相の「教育勅語」発言によって、

現代の生活の中に、にわかに明治が蘇ってきた感がするのは私だけでしょうか。

 

また、その明治時代に戦争と教育勅語、天皇をめぐって

与謝野晶子と大町桂月が丁々発止とやり合った言葉をみると、

まるで今の日本でなされているかのような錯覚を覚えます。

 

「やわ肌の熱き血潮に触れもみで 寂しからずや 道を説く君」と、

明治としては考えられない女性の自我・性愛を心を開け放って歌った晶子は、

「やわ肌の晶子」と呼ばれ、民衆の熱狂的支持を得たそうですが、

1904年、日露戦争に召集されて従軍していた弟を思い、

『君死にたまふことなかれ』を発表しました

特に、三連目で

「すめらみことは戦いに おおみずからは出でまさ」 

(天皇様は戦争に 自分からお出でになることはない)       

と詠った勇気には、心が震えます。

それに対して、晶子と親交の深かった文芸批評家の大町桂月が、

「家が大事也、妻が大事也、国は亡びてもよし、商人は戦ふべき義務なしといふは、

余りに大胆すぐる言葉」

「皇室中心主義の眼を以て、晶子の詩を検すれば、

乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なりと絶叫せざるを得ざるものなり」

と非難しましたが、

この言葉、稲田防衛相たちも言いそうですね。

この激しい非難に対して晶子は、

「歌はまことの心を歌うもの」

女と申すもの、誰も戦争は嫌いです。

当節のやうに死ねよ死ねよと申し候こと、

またなにごとにも忠君愛国の文字や、

畏おほき教育御勅語などを引きて論ずることの流行は、

この方かへつて危険と申すものに候はずや」

と、一歩も引きませんでした。

晶子は非難に屈するどころか、

翌1905年刊行された詩歌集『恋衣』に再度、

『君死にたまふことなかれ』を掲載したそうです。

 

個人の生活を国家の下に組み伏せる国家主義に対して、

晶子の個人主義は今の国民主権の考えと一致するものと思います

与謝野晶子は、後年、日中戦争に対して賛美する考えを表明しました。

なぜ、そうなったのかは分かりませんが、

しかし、その変節を持って、26歳の晶子が全身全霊を傾けて詠った

『君死にたまふことなかれ』の値打ちが地に落ちることは決してないでしょう。

 

「君死にたもうことなかれ」  与謝野晶子(よさの あきこ)

   1  ああおとうとよ、 君を泣く、      

      君死にたもうことなかれ、          
       末に生まれし君なれば          
       親のなさけはまさりしも 、        
       親は刃(やいば)をにぎらせて     
       人を殺せとおしえしや、            
       人を殺して死ねよとて           
        二十四までをそだてしや。  

    2 堺(さかい)の街のあきびとの   

      旧家をほこるあるじにて  
      親の名を継ぐ君なれば、       
      君死にたもうことなかれ、 
      旅順(りょじゅん)の城はほろぶとも、 
      ほろびずとても 何事ぞ、    
      君は知らじな あきびとの    
      家のおきてに無かりけり。         

3  君死にたもうことなかれ、            

   すめらみことは 戦いに             

   おおみずからは出でまさね、           

  かたみに人の血を流し              

   獣の道に死ねよとは、               

   死ぬるを人のほまれとは、             

   大みこころの深ければ              

   もとよりいかで思されん。

 

 4 ああおとうとよ                                 
   戦いに 君死にたもうことなかれ、           
   すぎにし秋を父ぎみに       
   おくれたまえる母ぎみは、                
   なげきの中に いたましく      
   わが子を召され 家を守(も)り、     
   安(やす)しと聞ける大御代も          
   母のしら髪はまさりぬる 。      
 

5  暖簾(のれん)のかげに伏して泣く    
   あえかにわかき新妻を 

   君わするるや 思えるや             

   十月(とつき)も添わでわかれたる      

   少女(おとめ)ごころを思いみよ        
   この世ひとりの君ならで            

   ああまた誰をたのむべき     

   君 死にたもうことなかれ。         

 

 


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2 コメント

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本当に (天空)
2017-03-10 15:23:47
本当に、戦争も、軍隊も、天皇制もいらないですね。
声を大にして、訴えたいですね。
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思えば…… (ブルーはーと)
2017-03-12 13:18:17
天空さん、思えば戦争を推進し、国体のトップに天皇を据えてきた日本国の為政者は、民の幸せのことなど一つも考えてこなかったのですね。
いつも庶民はだまくらかされて、信じて、それで人生終わりでした。21世紀にまだこれか!と愕然としますが、それは多くの庶民がすぐ忘れるからですね。私達庶民の最大の抵抗は、決して忘れないことだと自分に言い聞かせています。物忘れが激しい今日この頃ですが(笑)。
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