毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「なぜ『北国の春』を聞くとイライラするのか」 2013年7月3日(水) No.698

2013-07-03 14:10:38 | 
日本では何十年も聞いていなかった曲を、ここ南昌でよく聞く。
中国の人たちが日本の歌を熱唱してくれているのだ。
改革開放以降、雪崩をうって入ってきた外国文化の先頭を切ったのが
当時の日本の歌だ。
例えば「昴」「星影のワルツ」「北国の春」など・・・。


歌名人の博堅先生はこれらの歌が好きで、何度も歌ってくださった。
「日本の歌は感情が深い。すばらしい」
とおっしゃる。褒めてくださっているのだが、
実のところ、私は日本にいたとき何が嫌いと言って
千昌夫の歌(「星影のワルツ」「北国の春」とか)ほど
嫌いなものはなかったのだった。
声が嫌だとか、顔がキライとかじゃない。
歌が嫌だった。

つい最近、博堅先生が新たに「う~ん、感情が深いです。」
と感心して歌ってくださったのは、またまた千昌夫の「夕焼け雲」(|||▽||| )。
(ちなみに、博堅先生は日本の歌手を「千昌夫先生」「美空先生」「谷村先生」と言う。
「谷村先生」には直接会ったことがあり、「美空先生」は横浜でお墓参りしたそうだ)
博堅先生は「千昌夫先生は声があまり良くないねえ。しかし、深い。」
とおっしゃる。何が深いか。例えば、
「夕焼け雲」では「誓いのあとの せつなさに~♪」、
「帰れない 帰りたいけど 帰れない♪」
など、どうも第一に歌詞に感心なさっているのだ。

そんなに褒めているのに、
「イヤ、私はそれ嫌いです」
などと言えるものではない。
従って、心中、葛藤が渦巻き、日々悶々たる気持ちである。
今日は、なぜ日本人の自分が「北国の春」やら聞くと心がシラ~っとしてしまうのか、
私は国賊・売国奴・人でなしなのだろうか。
そこんとこをちょいと考えてみようと思う。

演歌の、いわゆるコブシの効いた歌い方も、あまり好きではない。
しかし、都はるみの「三日遅れの便りを乗せて~、ふねえ~が~~~♪」は、
(おお、いいねえ!)と感じる。
上野発の夜行列車降りた時から~~♪」(石川さゆり)は、大好きな歌だ。
だから、演歌だから嫌いな訳でもない。
どうも、その歌の醸し出す全体の雰囲気がイヤなのだ。
全体の雰囲気に重要な役割を果たすのは、メロディと歌詞である。

で、今日はそのうちの歌詞に照準を当て、
さらにキーワードとして「帰る」(帰らない・帰りたい・帰れない)を選び、
その言葉が歌詞に登場する次の3曲を比較して全体の雰囲気チェックを試みることにした。

1「北国の春」(千昌夫歌・いではく作詞・遠藤実作曲、1977年発表)
2「夕焼け雲」(千昌夫歌・横井宏作詞・一代のぼる作曲、1976年発表)
3「帰りたい帰れない」(加藤登紀子歌・作詞・作曲、1970年発表)

〈3曲とも歌詞は下に掲載〉

3曲に共通するのは、故郷を離れた者(男性)の言葉として詞が書かれていることだ。
1「北国の春」は「田舎」から「都会」に就職した若者、
2「夕焼け雲」は「杏の幹・堀の水」がある「街」からそれ以外のところに出た男、
3「帰りたい帰れない」は田舎か街かは分からないが、
  「家」から離れ、「人ごみ」に呑まれる都市に住んでいる僕。

1、2と3で違うことの一つに、
1、2の作詞家は男性、3は「僕」と書いてはいても、
歌詞を作ったのは加藤登紀子という女性だということがある。
1、2は自分が出てきた故郷に
「おふくろ」「あの娘」「(誓った)黒髪(の女性)」を残している。
この「おふくろ」「あの娘」という言葉は、
男性の使う言葉であるが、これは歌謡曲専門用語とでも言おうか、
この作品が発表された当時、一般社会では
こんな言葉を使っている若者はあまりいなかったと思う。
今では、ほぼ90%いないだろう。
これは内容以前の、些細なイラッだ。

1は(5年も経ったんだから、ボチボチ帰ろかな)といった、
出稼ぎ労働者的ムードを滲ませている。
おそらくだいぶお金も溜まったのであろう。「帰ろかな」という言葉には、
(帰りたいけど帰れない)という切なさは微塵も感じられない。
この歌の歌詞の魅力は、
冒頭に誰もが懐かしむ故郷の自然を言葉でバーンと出していることだ。
初めて「しらかば~!」と叫ばれた時点では、
私も決して(嫌な歌)と思わなかった(ような気がする)。

この曲は、自然豊かな(田舎)で家族が待っている(都会で働く若者)が、
故郷の自然、家族を懐かしみ、故郷へUターンすることを
射程に入れ始めたという内容だろうか。
2や3にある痛いほどの孤独感は、1ではほぼ感じられない。
結論を急ぐと、私のイライラは、
(帰るところなんてどこにもないんだ)という私自身の感覚に対して、
外側からベッタリと油を塗られ、窒息させられるような違和感が、
この歌の基底にあることだ。
私は、3の「帰りたい帰れない」が巷に流れていたころ、
ちょうど故郷の北海道を離れ、京都で暮らし始めた。
寺山修二の影響がちょっとあったかして、
「母さん、さよなら」と、自分としては精神的自立のための家出だった。
1や2の若者(男性)のように、
お金を貯め、あるいは成功した暁には必ず故郷に帰還するという意志はなかった。
糸の切れた凧だった。
2の男性は、なかなか誓いが果たせないので、気の毒にも帰れないのだが、
私は、帰るための目標も誓いも初めからなく、
ただ世界が何であるのか、
自分が何であるのか、
それを知りたいだけで家を出てしまった。
これは、永久の家出であると自分で思う。
「流浪の民」を自認している私としては、
やはり、1、2より、3の「帰りたい帰れない」を好んで歌いたい。
もう、母も5年前に死んでしまった。
よけいに、帰るところがなくなってしまった。

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「北国の春」
 作詞:いではく 作曲:遠藤実  歌:千昌夫
 いではく(本名・井出 博正(いで ひろまさ)、1941年11月22日 - )は、
長野県南牧村海尻出身の作詞家。早稲田大学商学部卒業。(wikipediaより)

白樺 青空 南風
コブシ咲くあの丘 北国の ああ北国の春
季節が都会では分からないだろと
届いたおふくろの 小さな包み
あのふるさとへ 帰ろかな 帰ろかな

雪解け せせらぎ 丸木橋
落葉松の芽が吹く 北国の ああ北国の春
好きだとおたがいに 言い出せないまま
別れてもう五年 あの娘はどうしてる
あのふるさとへ 帰ろかな 帰ろかな

山吹 朝霧 水車小屋
わらべ歌聞こえる 北国の ああ北国の春
兄きも親父似で 無口な二人が
たまには酒でも 飲んでるだろうか
あのふるさとへ 帰ろかな 帰ろかな


「夕焼け雲」   作詞:横井宏  作曲:一代のぼる  歌:千昌夫
 横井宏:1926年(大正15年)10月12日- 東京府東京市四谷区出身。
1943年(昭和18年)、帝京商業学校卒業。1945年(昭和20年)5月25日の東京大空襲で自宅が全焼し罹災する。同年6月召集され入営。茨城県で初年兵として沿岸防備隊の任務に就く。
終戦と共に軍隊から復員したものの、敗戦のどさくさで帰る家を失くし、知人のいた長野県下諏訪町に家族で転居。  1946年(昭和21年)、上京と共に、作詞家:藤浦洸に師事するようになる。(wikipediaより)

夕焼け雲に誘われて  別れの橋を超えてきた
帰らない  花が咲くまで 帰らない 帰らない
誓いのあとの切なさが あんずの幹に残る街

二人の家の白壁が 並んで浮かぶ堀の水
忘れない どこへ行っても 忘れない 忘れない
小指で梳かす黒髪の 香りに甘く揺れた街

あれから春がまた秋が 流れて今は遠い街
帰れない 帰りたいけど 帰れない 帰れない
夕焼け雲のその下で  一人の酒にしのぶ街



「帰りたい帰れない」
作詞/作曲 加藤登紀子1943.12.27旧満州ハルビン生まれ この曲は彼女が26歳の時の作品

淋しかったら 帰っておいでと
手紙をくれた 母さん元気
帰りたい帰れない 
帰りたい帰れない
もしも手紙を書きたくなっても
僕は書かない 母さん

呼んでも答えぬ 人波にもまれて
まいごの子犬は ひとりでないた
帰りたい帰れない 
帰りたい帰れない



破れたコートの ポケットにいつも
リンゴの花の 想い出を入れて
帰りたい帰れない 
帰りたい帰れない
一人ぼっちが つらくなっても
僕は泣かない 母さん

春になの花 夏には祭り
秋の三日月 木枯らしの冬に
帰りたい帰れない 
帰りたい帰れない

帰りたい帰れない 
帰りたい帰れない
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