♪海ゆかば 水漬く屍 山ゆかば 草生す屍
大君の辺にこそ 死なめ かへり見はせじ♪ (大伴家持)
前川元文科相事務次官が少年時代に、
軍歌とフォークソングを相次いで好きになったという話を聞いて、
思い出したのが『海ゆかば』にまつわるエピソードです。
私は、「軍歌」という言葉そのものは、聞いただけでげっそりするのですが、
そのジャンルに含まれる歌は、実はそうでもないのです。
特に、♪どこまで続く ぬかるみぞ 三日二夜 食もなく~♪
と ♪海ゆかば 水漬く屍~♪ は、
何かのとき、例えば、
アベ政権の支持率が少しでも上がったりした時、
ふいに口をついて出るほど心に入っています。
今から5年ほど前に前任地の江西省南昌市で、
博堅先生という中国人の方に出会いました。
南昌市内の八一公園では、毎週末、
「日語角」(日本語コーナー)という青空日本語教室が開かれていましたが
(今も続いているはずです)、
1980年代にその教室を始めたのが、博堅先生です。
先生は1933年福島で生まれ、11歳まで福島の地元の小学校に通っていました。
日中戦争が勃発すると、中国人である両親は当局に目をつけられ、
憲兵が家に来て、
「天皇陛下万歳をしろ」と、
父親の両腕を持って、むりやり万歳をさせるのを
小学生の博堅さんは目の前で見ていました。
博堅さんも学校の帰りにいじめっ子たちに襲われ、
チェーンで叩かれたり、
制服のボタンを全部引きちぎられたりして、
泣いて帰ることも多かったそうです。
1944年、迫害が酷くなり、博堅さんのお父さんは
職場の福島高等商業学校(現在の福島大学経済学部)を退職し、
一家は中国に帰りました。
そんな経歴を持つ博堅先生と南昌でたまたま知り合い、
個人史を伺う機会が何度もありましたが、ある時、先生がふっと、
♪海ゆかば 水漬く屍 山ゆかば 草生す屍
大君の辺にこそ 死なめ かへり見はせじ~♪
と歌われたのには仰天しました。
福島の小学生時代、町でよく聞いた歌なので自然に覚えてしまったとのこと。
軍人が亡くなって戻ってきたときはその歌で出迎えたのだそうです。
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戦時中の国民学校では、何かというと宮城(皇居)の遥拝だとか、
校長先生の読む教育勅語を黙祷姿勢で拝聴するとか、君が代の斉唱、
紀元節(建国記念日)の歌から天長節(天皇誕生日)の歌、明治節
(明治天皇の誕生日)の歌なども斉唱して、皇室を崇めていました。
戦況が不利になってきて、相次ぐ玉砕の報に接したその国民学校では、
死者を悼もうと全校生徒を集め、「海行かば」を、斉唱することに
なったのです。
ところが運の悪いことにこの学校には、顏がカバとそっくりの怖い
先生がいて、生徒たちは彼を「カバ」と呼んで恐れていました。
お察し通り「海行かば」の歌詞には「カバ」が四匹も出てきます。
♪ 海行カバ 水漬くカバね 山行カバ 草生すカバね~~♪
生徒達は「カバ」の所だけ声を大にして日頃の鬱憤を晴らすのでした。
これを「晴らすメント」と言うのだそうで…。」
良く父が歌っていた「♪明日はお立ちか お名残惜しや♪」だったり戦後中国を訪れた時に叔母と唄った「♪ここはお国を何百里♪」だったり・・・・・
戦争中は旧満州にいましたので、戦死者を悼んで「海ゆかば・・・・・」は歌う機会はありませんでした。よく覚えていませんが、小学校では音楽の時間にいつも軍歌を歌わされていたのだと思います。
それにしても「海ゆカバ」には思わず吹き出してしまいました。
軍歌は日本の侵略を美化するものが多いですね。作られた目的がそうだからですね。
わけの分からない子どもの頃から私は軍歌が大きらいでした。なぜだろうと振り返ってみると、それは言葉遣いが野蛮なことが第一の理由だと思います。
一番嫌いなのは『同期の桜』で、「きさまとおれ」という男どもの粗野で下品で高圧的な言葉遣いには今も反吐が出ます。私は「おまえ」と呼ばれるのも頭に来る人間です(笑)。
♪どこまで続く泥濘ぞ~♪には『討匪行』というタイトルがついていて、ユーチューブの動画には、「今も変わらない《暴戻支那を膺懲》する歌です」などと堂々と書き込まれています。手前勝手に中国を侵略したことを不問に付すのみならず、「暴戻支那」(荒くれて道理をわきまえないシナ)を「膺懲」(征伐)するという恐ろしい歴史改竄主義には、「学問を何と心得ておる!真実を政治の都合で歪めるな!」と怒鳴りつけたい思いです。
しかし、しかしです。
軍歌にもよりますが、歌詞から浮かび上がるのは、決してそれだけではなく、従軍兵士の大変な有様を聞く者の想像させ、(戦争はだめだ、二度としてはいけない)と思わせる力を持つものも多いのではないでしょうか。
「嘶く声も絶え果てて 倒れし馬のたてがみを
形見と今は 別れ来ぬ
既に煙草は無くなりて 頼むマッチも濡れ果てぬ
飢え迫る夜の 寒さかな
敵にはあれど 亡骸に 花を手向けてねんごろに 興安嶺よ いざさらば 」
「ここはお国を何百里 離れて遠き満州の~
友は野末の石の下」……
詞を担当した人が、戦争に対する自分の心を当局に引っかからない程度に込めたのではないかと、私は、勝手に想像しています。