goo blog サービス終了のお知らせ 

matasaburo3の散歩日記

日本各地を旅しながら、日本の四季を撮ります。
又、世界各地の街を巡りながらの印象記やあれこれ。

駿府城

2017-09-19 11:46:14 | 日本100名城




 静岡

 9月初め、静岡を訪ねました。

室町時代以来、駿河国は今川氏の領国
でした。

今川氏全盛期の義元の時代、1549年
徳川家康(幼名 松平竹千代)は人質と
して19歳までの12年間、駿府で生活
しています。


 (東御門)

臨済寺の住職太原雪斎などから、種々の
教えを受け、人間形成の上で重要な時期
を駿府で過ごしました。

1560年今川義元が桶狭間で織田信長
に討たれると、今川氏は衰退し1568
年、武田氏により駿府を追われました。

家康は駿府の武田氏を追放(1582年
)。この戦功により駿河国を与えられ、
駿府において信長を接待しています。
この接待のために街道を整備し宿館を造
営しました。

駿府城の築城を開始し、浜松城から移り
ます。(1586年)


 (紅葉山庭園)

しかし秀吉が家康を関東に移封すると
(1590年)、豊臣系が城主となり
ます。

家康は関ヶ原の戦いに勝利すると、16
03年江戸幕府を開きます。

1605年将軍職を息子秀忠に譲り、大
御所として三たび駿府に入りました。
「江戸の将軍」に対して「駿府の大御所
」として実権を掌握し続けました。


 (家康公の像)

駿府の町を大改造し、大々的な土木工事
が実施され、「駿府城と駿府城下町」が
誕生しました。

江戸時代最初の城下町です。

1607年7月に新装された城が完成す
ると、家康はすぐ入城します。

ところが12月大火災により御殿や天守
など本丸の全てを焼失してしまいます。


 (天守台発掘調査現場)

家康は江戸城で使用予定であった材木を
駿府に運ばせ、再建工事を命じます。
江戸より駿府城の再建を優先させたとい
われます。

1615年豊臣氏を滅亡させた後、翌
1616年家康は75才で死去します。

生涯のおよそ3分の1を駿府城で過ごし
たことになります。

辞世は次の2首。

「嬉やと再び覚めて一眠り
 浮世の夢は暁の空」

「先にゆき跡に残るも同じ事
 つれて行ぬを別とぞ思ふ」


 (坤櫓内部)

家康没後の1635年、再び火災により
豪華絢爛たる天守や御殿をほとんど失い
ました。

駿府城がどんな城だったかを知るために
は、二条城を参考にするのが良いそうで
す。

二条城も駿府城も大工の棟梁が同一人物
であり、内部の意匠その他が酷似してい
たそうです。


 (巽櫓)
 

甲府城跡(舞鶴城公園)

2017-08-31 10:45:37 | 日本100名城




 甲府

 甲府駅南口から徒歩約5分に舞鶴城公
園はあります。

現在舞鶴城公園として親しまれている
甲府城跡。

約6ヘクタールが都市公園となっていま
すが、かつては20ヘクタールほどの広
大な城郭でした。



1582年(天正10年)、甲斐の国は
武田氏の滅亡後、織田信長の領国となり
ましたが、同年の本能寺の変の後は徳川
家康の支配をうけました。

1590年(天正18年)、豊臣秀吉が
北条氏を倒し日本統一を成し遂げると、
東海・甲斐・信濃を支配する家康を関八
州に移封しました。


 (内松陰門)

秀吉は関東の家康を見張る城として、
甲府城を築城しました。

秀吉は1598年に病死しますが、城が
完成していたかどうかは不明です。

1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦い
以後甲斐は徳川家の直轄地となり、将軍
家一門が城主となりました。


 (天守台)

明治になると、甲府城は廃城となり主な
建物は破壊されました。

中央線の開通と甲府駅(甲府城清水曲輪
跡にあたる)の開業により、城跡は分断
されました。


 (天守台からの眺め)

天守台は当時のままに残っていますが、
天守が建てられていたかは不明です。

1706年(宝永3年)に甲斐国を訪れ
た荻生徂徠が「峡中紀行」において、
甲府城天守は存在しなかったとする証言
を残しているそうです。


 (稲荷櫓)

江戸時代には武具蔵として使われていた
建物です。

2003年に絵図や史料などをもとに
復元されました。



甲府城では発掘調査で金箔のついた瓦が
数多く発見されました。金箔をつけた瓦
で屋根を飾るのは、織田・豊臣が築城し
たお城の特徴です。

舞鶴城という名称はいつのころからか、
白壁が重なりあう優雅な姿から、鶴が
舞う雄大な姿を連想してつけられたも
のと考えられています。

武田氏館跡(武田神社)

2017-08-25 10:42:02 | 日本100名城




 甲府

 8月中旬、甲府を訪ねました。

甲府駅を降り、武田通りをまっすぐ歩く
こと約30分で武田神社に着きました。



武田神社は武田信玄を祭神として、躑躅
ヶ崎館跡に鎮座しています。

躑躅ヶ崎館は、1519年武田信虎(信
玄の父)が石和館より移り、1581年
勝頼が新府に移るまで62年の間、甲斐
武田氏の本拠、甲斐の政庁として天下に
その名を轟かせました。



境内は樹木が杜を作り、豊かな緑に包ま
れています。周囲の堀・土塁等は当時の
ままです。



武田神社宝物殿には、風林火山の軍旗
「孫子の旗」や、信玄の軍扇、太刀、
武田二十四将図などが陳列されていま
す。

冒頭の信玄像のみが撮影可でした。



武田水琴窟は、江戸期庭師によって考案
された技術で、竹筒に耳をつけると、琴
の音に似た澄んだ音色が聞こえます。




太宰治は昭和14年1月から約8か月の
間、武田神社近くの甲府市御前町で、妻
美知子と新婚時代を過ごしました。

「富嶽百景」「女生徒」などの作品を執
筆しました。



「春昼」という作品には神社の例祭と境
内の桜について記されています。

「・・・けさは上天気ゆえ、家内と妹を
連れて、武田神社へ、桜を見に行く。
・・・毎年、四月十二日に大祭があり、
そのころには、ちょうど境内の桜が満開
なのである。四月十二日は、信玄が生れ
た日だとか、死んだ日だとか、家内も妹
も仔細らしく説明してくれるのだが、私
には、それが怪しく思われる。サクラの
満開の日と、生れた日と、こんなにピッ
タリ合うなんて、なんだか怪しい。話が
うますぎると思う。神主さんの、からく
りではないかとさえ、疑いたくなるので
ある。・・・・・」


箕輪城跡(高崎)

2017-08-03 11:08:35 | 日本100名城




 高崎

 箕輪城は高崎市箕郷町にあった平山城
です。

高崎駅からバスに乗り30分。バスの本
数は極端に少ないです。

箕郷本町で下車し、城下町本町上町を歩
きました。途中、諏訪神社があります。



30分程歩くと、こんもりと突き出た丘
に箕輪城跡がありました。

城地は東西約500メートル、南北約
1100メートル、面積約47ヘクター
ルにおよぶ広大なものでした。

搦手口から入り、大堀切を横切り、二の
丸、本丸、御前曲輪と進みました。



1500年頃、上野国長野郷出自の豪族
長野氏が築城しました。

相模を本拠とする北条氏、甲斐の武田氏
、越後の上杉氏が侵攻を繰り返す場でし
た。

長野業正は、箕輪衆と呼ばれる在郷武士
団を束ね、長野氏全盛時代を築きまし
た。



1561年(永禄4年)、業正が没する
と、14歳で子の業盛が家督を継ぎま
す。

業正は臨終に際し「我が葬儀は不要であ
る。菩提寺の長年寺に埋め捨てよ。弔い
には墓前に敵兵の首をひとつでも多く並
べよ。決して降伏するべからず。力尽き
なば、城を枕に討ち死にせよ。これこそ
孝徳と心得るべし。」と伝えました。



その死は永らく秘匿されましたが、竹田
信玄は業正の死を知るや再び侵攻を開始
します。

1566年(永禄9年)、竹田軍の総功
撃により箕輪城は落城しました。



若き業盛は重臣たちが落ち延びることを
提言しても聞かず、
「暫時の命を惜しみて不慮の横死などせ
ば、父の遺訓に背き、祖先の名をも汚す
べし。」

父の位牌の前で三度礼拝した後、本丸の
奥、御前曲輪の持仏堂で自害しました。

19歳の短い生涯でした。

「春風に 梅も桜も散り果てて

 名のみぞ残る みわの山里」



その後は、竹田氏、織田氏、北条氏、
徳川氏と次々と主が代わりました。

1598年(慶長3年)、井伊直政は
城を高崎に移し、箕輪城は廃城になり
ました。

佐賀の旅ー名護屋城

2017-06-08 10:35:42 | 日本100名城




 佐賀に一泊して、翌朝唐津へ向かいま
した。

「唐の津」と書いて唐津。古代「唐(か
ら)」とは朝鮮や中国の呼び名で、唐へ
渡る津(港)というのが地名の由来だそ
うです。

 唐津

 唐津駅からバスに乗りましたが、呼子
で乗り換え、1h程して波戸岬行きのバ
スが来ました。



名護屋城は肥前国松浦郡名護屋にあった
城です。

豊臣秀吉が文禄・慶長の役の際に、国内
拠点として築いた城です。



わずか5ヶ月で築城され、当時の大坂城
に次ぐ規模を誇りました。

全国から戦国大名が集まり、周辺には
陣屋が130以上も建てられ、約20
万人の城下町が出現しました。


 (天守台)

本丸・二の丸・三の丸などを配し、本丸
北西隅に5重7階の天守が築かれまし
た。

1592年(文禄元年)3月に城が完成
すると、西国衆を中心に16万の兵が朝
鮮に出兵しました。

秀吉は在城中、指示を出す一方、茶室で
茶会を楽しんだり、仮装大会を催したり
しました。





天守台からの玄界灘の眺めです。

この日は曇り空ですが、松島の向こうに
壱岐が見えました。
よく晴れていれば対馬も望見できるそう
です。

この地域は大陸への最短海上路線をかか
える港として、古くから交流の門戸にな
っていました。


 (安宅船)

安宅船(あたけぶね)は、当時日本水軍
の最強軍船です。
総矢倉形式の船体に二層の屋形を持ちま
す。

1598年(慶長3年)8月、秀吉が
62年の生涯を終えると、全軍撤収し、
名護屋城は役割を終えました。

関ヶ原の戦いの後、寺沢広高は唐津城
の築城を開始し、名護屋城を解体、遺材
を使用しました。

島原の乱の後には、一揆に利用されない
ように、石垣も要所が破却されました。

秀吉の限りない野望によって生まれた
幻の巨大都市です。