goo blog サービス終了のお知らせ 

matasaburo3の散歩日記

日本各地を旅しながら、日本の四季を撮ります。
又、世界各地の街を巡りながらの印象記やあれこれ。

宇和島城で現存12天守制覇

2019-02-07 10:56:43 | 日本100名城



  (伊達政宗・秀宗父子)

 1月中旬、宇和島城を訪ねました。
これで江戸時代から現存する12天守
登頂達成しました。

姫路城(2016.1)松江城(201
6.1)彦根城(2016.4)松本城
(2016.7)松山城(2016.9)
丸岡城(2016.10)弘前城(20
17.9)犬山城(2018.3)備中
松山城(2018.5)高知城(201
8.10)丸亀城(2018.11)
于和島城(2019.1)

と3年かかりました。

 宇和島

 松山に1泊して、翌朝宇和島へ向かい
ました。

JR宇和島駅から徒歩15分で城山の登
り口です。さらに20分程歩くと天守に
着きます。


  (石垣)

城山には450種の草木がうっそうと生
い茂り、苔むした石垣群が続いています。


  (宇和島城の井戸)

三ノ丸からの登り道に、数少ない城山の
遺構の一つ、深さ約11メートルの井戸
があります。


  (天守)

リアス式海岸の最深部に位置する、中世
に築かれた板島丸城の跡地に、1595
年藤堂高虎が宇和島7万石を拝領し入城
しました。

1614年には伊達政宗の長男秀宗が十
万石で入封、以後伊達氏歴代の居城とな
ります。

藤堂高虎が創建した望楼型天守を、2代
伊達宗利が層塔型に新造したものが、現
在の天守です。


  (天守内部)

小さいながらも御殿建築の意匠が随所に
見られ、非常に格式を重んじた造りです。


  (天守からの眺め)

8代藩主伊達宗城(1818-1892
年)は、福井の松平春嶽、土佐の山内容
堂、薩摩の島津久光と並び「幕末の四賢
候」と称されました。

蘭学を積極的に導入し、高野長英、大村
益次郎(村田蔵六)を来藩させ、軍事の
近代化と殖産興業を発展させました。



司馬遼太郎は「街道をゆく・南伊予・西
土佐の道」に

「天守閣と城山だけが

 凝然と青い空をささえていて、

 その孤独さは

 悲痛なほどである」

と記しています。


  (闘牛のモニュメント)

宇和島駅へ戻ると、闘牛のモニュメント
がありました。闘牛は直径20mの土俵
で巨牛が角を突き合わせる、宇和島の観
光名物です。


四国の名城ー丸亀城

2018-12-27 08:33:42 | 日本100名城




 現存12天守巡りの11城目は丸亀城
です。残すは宇和島城のみとなりました。

(撮影は11月中旬です。)

 丸亀

 丸亀城はJR丸亀駅から徒歩圏内の丸
亀中心街にあります。

標高66mの亀山に築かれた平山城で別
名亀山城。「石の城」と形容されるとお
り、石垣の名城として有名です。


  (大手一の門・二の門)

生駒親正は1587年(天正15年)播
州赤穂から17万石の領主として讃岐に
入り、高松城を築き、次いで西讃の鎮め
として、1602年(慶長7年)丸亀城
を築城しました。

その後一国一城令で丸亀城は廃城となり
ますが、1641年(寛永18年)山崎
家治が西讃岐5万石の領主となると丸亀
城を再築します。


  (一の門)

一の門は楼上に太鼓を置き、城下に刻を
知らせたことから、太鼓門とも呼ばれて
います。


  (三ノ丸北側の石垣)

三の丸北側の石垣は、丸亀城の石垣のな
かで最も高く、20m以上の城壁が続き
ます。隅角部の石垣は美しい曲線美から、
「扇の勾配」と呼ばれています。


  (天守)

1658年には京極高和が丸亀藩主とな
り、天守を完成させます。

3層3階の現存木造天守です。高さ約
15m、日本一小さな現存木造天守で
す。


  (天守内部)

天守からの視界には、丸亀の町並みが広
がり、遠くに海や山が見え、見晴らしを
堪能できます。


  (讃岐富士)

見返り坂を登った三ノ丸からは、飯野山
(讃岐富士422m)を正面に望めます。


石垣にかかわる悲しい伝説があります。

羽坂重三郎は、常に仕事をするときは裸
になって一生懸命働くことから「裸重三」
と呼ばれ、丸亀城の石垣を完成させた功
労者です。
殿様は「さすがは重三の築いた石垣だけ
あって完璧だ。これでは空飛ぶ鳥以外に
この城壁を乗り越えるものはあるまい。」
とご満悦でした。

ところが、重三郎は「私に尺余りの鉄棒
を下されば、容易に登ることができます。
」と言って、鉄棒を使いすいすいと城壁
を登ってしまいました。

殿様は、重三郎を生かしておけば来敵に
通じた場合、恐ろしいことになると考え、
城内の井戸の底を重三郎に探らせて、そ
の隙に石を投じて殺してしまいました。
その伝説の井戸が二の丸井戸です。

(「丸亀城ものがたり」永田照雄より)



皆さま、今年1年どうもありがとうござ
いました。どうぞ良いお年をお迎えくだ
さい。




四国の名城ー高松城

2018-12-20 10:58:13 | 日本100名城




 高松・丸亀の旅の続きです。

 高松その2

 「栗林公園」を出て、琴電に乗り終点
「高松築港駅」まで。

高松城跡(玉藻公園)が間近にあります。

閉門30分前ですが、あわてて駆け込み
ました。



「菊花展」の最終日でした。



高松城は、またの名を玉藻城と呼ばれて
いますが、その由来は万葉集で柿本人麻
呂が讃岐の国の枕言葉に「玉藻よし」と
詠んだことに因み、このあたりの海が玉
藻の浦と呼ばれていたからだそうです。

1588年(天正16年)生駒親正が、
現在地を高松と改め築城に着手した平城
(水城)です。

瀬戸内海の海水を外堀、中堀、内堀に引
き込んだこの城は、日本の三大水城のひ
とつといわれています。


  (月見櫓)

1640年(寛永17年)、生駒騒動と
いわれるお家騒動により、生駒氏は出羽
国矢島1万石に移されました。

この後常陸国下館藩主だった松平頼重が
東讃岐12万石の領主として入城しまし
た。

頼重は中国・四国の監察役を命じられて
いたといわれ、以後松平氏の治世は11
代228年間にわたり、高松は松平氏の
城下町として栄えました。


  (天守台)

天守台には、かつて3重5階(3重4階
+地下1階)の天守が建っていました。
老朽化により明治17年に取り壊されま
した。



高松藩士・小神野与兵衛「盛衰記」の逸
話です。3代将軍家光が頼重に12万石
をあたえたころ(家光39才、頼重21
才)、いっしょに江戸城の風呂に入って
いました。

「頼重よ、水戸殿がうらやましくないか」
頼重の弟光圀は水戸藩28万石の世子と
なった。

「いいえ、ちっとも。私は上様のお風呂
の相手まで許されていますので」
「いずれは同格の大名にしてやろう」
「ほんとうですか。ゆびきりかまきり、
ゆびきりかまきり」

おそらくは頼重自身の回想を、誰かが聞
いて記憶していたのでしょう。

(日経新聞12月1日付け書評欄「大名
家の秘密」から一部引用させてもらいま
した。)

 撮影は11月中旬です。







四国の名城ー高知城その2

2018-11-22 11:22:56 | 日本100名城




 高知その2

 築城当初の一時期、山内一豊夫妻が
暮らしたといわれる本丸御殿は典型的
な書院造りです。


  (本丸御殿内部)

藩主専用の座敷「上段の間」は一段高く
なっています。床(トコ)、違棚、府書
院などを備え、格式の高い座敷。


  (上段の間)

江戸中期の1727年(享保12年)の
大火でそのほとんどが焼失しましたが、
その後24年かけて修復し、1753年
(宝暦3年)までに創建当初の姿で再建
されました。


  (天守内部)

土佐藩は当初、「一領具足」と呼ばれた
半農半兵の長宗我部氏旧臣が、山内氏に
馴染まずに反乱をくり返しました。

郷士は在郷武士であり、下士の上位に位
置づけられ、一領具足の系譜を引く者が
多いといわれます。


  (天守内部)

幕末には15代山内容堂が、吉田東洋を
起用して改革を断行。しかし革新的な改
革は土佐勤王党との政治的対立を生み、
1862年東洋は武市半平太の指令によ
り暗殺されます。

東洋の門下より後藤象二郎、板垣退助、
岩崎弥太郎ら明治を代表する人物が生ま
れます。

坂本龍馬や後藤象二郎を通じて容堂から
徳川慶喜へ献策された大政奉還により、
江戸幕府の歴史は閉じられます。


  (天守からの眺め)

追手門は石垣の上に渡櫓を載せた櫓門で、
城の大手(正門)にふさわしい堂々たる
構えです。

追手門をくぐると板垣退助銅像がありま
す。


  (追手門と板垣退助銅像)

板垣退助は土佐藩上士、乾正成の嫡男。
乾家は武田信玄の重臣、板垣信方を祖と
した家柄です。

後藤象二郎とは竹馬の友、坂本龍馬とは
親戚です。上士としては珍しく武力倒幕
を一貫して主張。

戊辰戦争で活躍、旧武田家家臣の末裔で
あることを示し、甲斐国民衆の支持を得
て、甲州勝沼の戦いで新選組を撃破しま
す。

一方旧幕側の名誉回復にも尽力し、明治
政府の要職を歴任するも、征韓論争で下
野、自由民権を唱える契機となります。


四国の名城ー高知城その1

2018-11-16 11:24:07 | 日本100名城



  (山内一豊の妻の銅像)

 現存12天守巡りの10城目は高知城
です。

 高知

 徳島に1泊して、翌朝JRで高知へ向
かいました。高知駅から路面電車に乗り
「高知城前」で下車しました。

高知城は高知平野の中心、大高坂山(標
高44.4メートル)に築かれた平山城
です。

南北朝時代には大高坂松王丸がここに砦
を築いて、南朝方に味方して戦った記録
があります。


  (詰門)

戦国時代の1588年(天正16年)、
土佐の国主であった長宗我部元親がここ
に築城して、岡豊城から移りましたが、
城下が低湿地のため水難に悩ませられ、
3年程で浦戸に移りました。

関ケ原の戦いにおいて元親の子、盛親は
西軍に与して改易され、代わって山内一
豊が掛川城から転入し、大高坂山の地に
新城を築き始めました。


  (三ノ丸石垣)

三ノ丸は1601年の築城開始から10
年を要して最後に完成。出隅部分の石垣
の高さは約13メートル。穴太衆(あの
うしゅう)が、安土城の石垣で始めたと
される自然石の形を活かした野面積みで
多くの面が構築されています。


  (天守閣)

外観四重(内部3層6階)高さ18.5
メートルの望楼型天守で、創建当初の様
式を踏襲して1749年に再建。


  (本丸御殿=懐徳館内部)

本丸には天守閣・本丸御殿・納戸蔵・東
多聞・西多聞などの建造物が残っていま
す。

現存12城のなかでも、本丸御殿を残す
のは高知城のみです。


  (山内一豊像)

山内一豊の妻(通称千代)は、幼い頃父
を失い、17、8歳の頃一豊と結婚、貧
しい暮らしの中で家を守り、戦いに明け
暮れる一豊の出世を助けた逸話が残され
ています。

結婚の時持参した10両の金を出して一
豊に名馬を買わせ、それが織田信長の目
にとまって出世の糸口になった逸話は有
名です。

司馬遼太郎「功名が辻」は妻の千代を主
役とした作品です。


  (続く)