「向かいのアパートに住む魅力的な女性の部屋を望遠鏡で覗く青年の何も求めない愛とは?
友人の母親と暮らす19歳の孤児トメクは、地元の郵便局に勤めている。彼は向かいに住む30代の魅力的な女性マグダの生活を日々望遠鏡で覗き見ていた。マグダと鉢合わせしたトメクは、彼女に愛を告白するが、自分に何を求めているのかとマグダに問われてもトメクは答えられない。その後デートをした二人、マグダはトメクを部屋に招き入れるが......。」
友人の母親と暮らす19歳の孤児トメクは、地元の郵便局に勤めている。彼は向かいに住む30代の魅力的な女性マグダの生活を日々望遠鏡で覗き見ていた。マグダと鉢合わせしたトメクは、彼女に愛を告白するが、自分に何を求めているのかとマグダに問われてもトメクは答えられない。その後デートをした二人、マグダはトメクを部屋に招き入れるが......。」
いわゆる「覗き」に没頭する青年の、ある女性に対するストーカー的な執着と、「愛」の意味を巡る物語。
モーセの「十戒」で言えば「汝、姦淫するなかれ」に対応する。
デカローグ1~6の中で、一番見ていて「面白い」のは、この6ではないだろうか?
とにかく展開が読めないのである。
トメクは、ただ(望遠鏡による)「覗き」に没頭するだけではなく、自分がマグダを覗いていることを、なぜか彼女に知らせたいと熱望する。
しかも、この気持ちを、彼は(「欲望」ではなく)「愛」と表現した。
それは、彼の(おそらく正直な)言葉によれば、明らかに性的なものではない。
だが、マグダは、
「愛なんてものは、存在しないのよ」
と彼を突き放し、トメクのオーガズムを指して、
「これがあんたが『愛』と呼ぶ、崇高なものの正体よ!」
と吐き捨てる。
「・・・眼差しにおいて何が重要かということを我われが把握するのは、そもそも主体と主体との関係において、すなわち私を眼差している他の人の実在という機能においてなのでしょうか。むしろ、そこで不意打ちをくらわされたと感じるのが、無化する主体、すなわち客観性の世界の相関者ではなくて、欲望の機能の中に根を張っている主体であるからこそ、ここに眼差しが介入してくるのではないでしょうか。欲望がまさに物見の領野において成立しているからこそ、我われはその欲望をごまかして隠すことができるのではないでしょうか。」(p185~186)
「最初から我われは、目と眼差しの弁証法にはいかなる一致もなく、本質的にルアーしかないということに気づいていました。愛において、私が眼差しを要求するとき、本質的に満足をもたらすことなく、常に欠如しているもの、それは「君は決して私が見るところに私を眼差さない」、ということです。
逆に言えば、「私が眼差しているものは、決して私が見ようとしているものではない」ということです。・・・
欲望がそこで機能しているというかぎりでの視認の水準には、他のすべての次元において認められるのと同じ対象aの機能が見られます。
対象 a とは、主体が自らを構成するために手放した器官としてのなにものかです。これには欠如の象徴、ファルスの象徴、ファルスそのものではなく欠如をなすものとしてのファルスの象徴、という価値があります。・・・
視認の水準では、我われはもはや要求の水準にはいません。欲望の水準、<他者>の欲望の水準にいるのです。・・・この欲動は無意識の経験のもっとも近くにあります。
見たいものと眼差しとの関係は一般的にルアーの関係です。主体は自身とは違うものとして現れ、彼に見せられるものは彼が見たいものではありません。これによって、目は対象 a として、つまり欠如(略)の水準で、機能することができるのです。」(p222~225)
これを読めば、トメクが孤独な「視認」にとどまることが出来なかった理由も、彼がマグダとのセックスを望まなかった理由も、よく理解出来るだろう。
トメクは、自身の目(あるいは望遠鏡)が「対象 a 」として機能することを、「愛」と勘違いしていたのである。
ラストで、彼はマグダに、
「もうあなたを覗いていません」
と告げるが、いずれにせよ、彼もマグダも「愛」に到達していないことは明らかである。
つまり、「ある愛に関する物語」というタイトルではあるものの、登場人物がみな「愛」を掴み損なうという、皮肉なストーリーなのである。
さて、(私が観ていない)映画版では、
「望遠鏡(人工的な・誇張された「目」=対象 a であるが、これによって、”ファルス”との機能の一部共通性が明瞭となる)で覗いたマグダと愛人との絡み合う映像」
が出て来るのは間違いないと予想する。
さらに言えば、監督は、これこそが、幼い頃のトメクが見てトラウマの源となった、亡き両親の行為(これが「無意識の経験」(=抑圧されているもの)の正体と思われる)の反復であることを示唆しているかのようである。