以下は、五木寛之の長編小説、「戒厳令の夜」(1976年、新潮社)の下巻に出てくる、水沼隠志というシャーマンと秋沢冴子といううら若い女性との会話です。カッパが沼の中でこの本を読んだ10年近く前からの疑問なのですが、はたして〈学〉と〈歌〉は、両立できないものなのでしょうか?
[「理屈や知識が語られるのを聞いているような気はいたしません。そうです、なにか美しい〈歌〉を聞いている時のように、血が沸(さわ)ぐのを感じるんですの」
「ほう、〈歌〉、をのう…(中略)…冴子さんとやら、おぬしは、西条八十の、歌をわすれたカナリヤは―という童謡を知っておるかな」
冴子はうなずいて、こういう歌でしょうか、と、小声でその一節を口ずさんだ。
「それそれ。ところで、歌を忘れた小鳥は、どうすれば忘れた歌を思い出すことになっておるかの」
歌をわすれたカナリヤは、うしろの山に捨てましょか、いえ、いえ、それはなりませぬ、と冴子は口の中でつぶやくと、
「象牙の船に銀の櫂をあたえて、月夜の海に浮かべなさい、そうすれば忘れた歌を思い出すだろう、という詞でしたね」
「わしは前に一度、松田から一通の葉書をもろうたことがある。それには一行、こう書いてあった。〈カナリヤが歌を思いだすのは、うしろの山に捨てられた時です〉と、な。あれは〈学〉をたてて〈歌〉をわすれたと気づいた男の苦い自嘲であろうか。それと反対に、わしは〈学〉をわすれて〈歌〉をおぽえた片輪者と言えるのかもしれぬ」
水沼隠志は、顔をそむけると、しかし事を為すのは歌であって学ではない、と独り言のようにつぶやいた。…]
(五木寛之、1976「戒厳令の夜(下)」p.66.より)
[「理屈や知識が語られるのを聞いているような気はいたしません。そうです、なにか美しい〈歌〉を聞いている時のように、血が沸(さわ)ぐのを感じるんですの」
「ほう、〈歌〉、をのう…(中略)…冴子さんとやら、おぬしは、西条八十の、歌をわすれたカナリヤは―という童謡を知っておるかな」
冴子はうなずいて、こういう歌でしょうか、と、小声でその一節を口ずさんだ。
「それそれ。ところで、歌を忘れた小鳥は、どうすれば忘れた歌を思い出すことになっておるかの」
歌をわすれたカナリヤは、うしろの山に捨てましょか、いえ、いえ、それはなりませぬ、と冴子は口の中でつぶやくと、
「象牙の船に銀の櫂をあたえて、月夜の海に浮かべなさい、そうすれば忘れた歌を思い出すだろう、という詞でしたね」
「わしは前に一度、松田から一通の葉書をもろうたことがある。それには一行、こう書いてあった。〈カナリヤが歌を思いだすのは、うしろの山に捨てられた時です〉と、な。あれは〈学〉をたてて〈歌〉をわすれたと気づいた男の苦い自嘲であろうか。それと反対に、わしは〈学〉をわすれて〈歌〉をおぽえた片輪者と言えるのかもしれぬ」
水沼隠志は、顔をそむけると、しかし事を為すのは歌であって学ではない、と独り言のようにつぶやいた。…]
(五木寛之、1976「戒厳令の夜(下)」p.66.より)