NPO法人市民環境研究所・『市民研ニュース』2011年1月号に、「京大植物園を考える会」の活動についてメンバーが寄稿しました。以下に抜粋掲載します。
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市民の植物学園
大石高典
(京大植物園を考える会、京都大学こころの未来研究センター研究員)
京都市左京区には、いくつか歴史のある植物園がある。京都で植物園と言えば京都府立植物園を思い浮かべる人が多いだろう。府立植物園とは植物園の規模、知名度においては比べようもなく劣るが、地域の人々の生活の中に溶け込みながら、息をひそめるように存在してきた植物園がある。通称「京大植物園」こと京都大学理学部植物園である。大正12年に、生態植物園として植物学者・郡場寛によって構想され、八十余年を経て、放任管理の方針のもとに多様な生物の棲みかとして独特の景観を形作ってきた。
京大植物園を考える会は、この植物園に関心を寄せる大学人と市民の有志による、出入り自由の輪郭を持たない任意団体である。京大の名が入っているにもかかわらず、大学法人とは全く独立に活動を行ってきた。2003年、京都大学理学研究科は「環境整備」を名目に植物園内の3分の1の樹木伐採を強行しようとしたが、その際、樹木だけではなく、これに身体を張って反対の意見を述べようとした非常勤職員のクビをも切ろうとした。この事態に対して、違和感を感じた大学教職員、学生、周辺住民有志によって考える会はスタートした。当初から、「考える」べき問題は2つあった。1つは、学術に根差すと同時に地域に根差した大学植物園のあるべき姿の追究であり、もう一つは、京都大学という「自由な知的生産」の場の内部における隠された差別構造の告発と是正要求であった。言い換えると、われわれの活動は、意識的か無意識的かは別として、大学内外の左京人(ジモティー)による、学術のもつ一面としての「冷たさ」、あるいは学術を成り立たせている大学というシステムのもつ非人間的性格へのその足元からの告発と克服への希望の共有といった点で共通の意思を有していたと思う。そしてそれは、少なくとも現在まで継続的に運営に関わっている事務局メンバーの間で共有され、活動を継続する力となってきた。
考える会の活動で基幹をなしているのは植物園観察会の活動である。毎月1回、季節や植物園の中の「なう」な出来事をネタにテーマを設定し、植物園と関わりのある案内人が参加者とともに植物園の中を歩く。政治闘争ではなく、観察会に力を入れているのは、立場を越えて平等に感じられる植物園の価値はそこに棲息する生き物の極めて多様な生きざまそのものの中にあり、その面白さこそが植物園を守り生かすための最大の武器であり、資源であると考えたからである。観察会は、この12月で94回を迎えた。紆余曲折を経て、観察会は研究者や学生、職員、市民の立場を問わず、植物園に棲む動物や植物を媒介とした学び合いの場になることができていると思う。毎回の観察会には周辺住民を筆頭に、大学教職員、学生がコンスタントに参加している。参加回数10回以上のリピーターが多いことは、観察会が文化として地域に根付いていることを示している。
(写真: 最近の植物園観察会の様子)
一方、観察会の継続の中で、市民が大学に対して感じている壁を思い知らされることも少なくない。観察会リピーターのある市民は、数十年以上大学の近くに住んでいるが、大学キャンパスの中に入りこんだのは観察会が初めてだともらした。大学の門をくぐった瞬間に冷たい風に平手打ちを食らったような感じがして、近づきがたいのだと言う。植物園はどうですか、と尋ねると「ここは良い雰囲気ですね、なんだか解放区みたいだ。」という答えが返ってきた。京大北部キャンパスの中で、タンポポの在来種であるカンサイタンポポが濃密に見られるのは植物園周辺だけである。研究や仕事に行き詰まったり悩みを抱えた学部一回生から総長まで、少なからずの大学人の足が自然と導かれる先も植物園である。生き物にとっても、人にとっても植物園はレフュジア(環境変動の際の生き物の避難場所)として機能してきた。
観察会のスタイルやテーマは、初期から最近まで進化し続けている。ガイド役となる研究者や学生が動植物に関する最新の研究成果を目の前の生き物を材料に解説するという初期からのスタンダードに加え、市民参加者の中からガイド役を買ってでる人も出てきた。研究者が自然に関わる科学的知識を市民に分かり易く、しかし一方的に与えるという知的ヒエラルキーを越えた参加者相互の学び合いの場が理想であるが、なかなかそのレベルには達し得ていない。一つの理由は、日本では市民とアカデミーとの付き合いが成熟していないことが挙げられる。市民の概念とともに植物園の発祥の地でもある欧州では、植物園の原意は決して公園(park/parc)ではない。”Botanical Garden/ Jardin Botanique”を直訳すれば「植物学園」である。京大植物園に市民の植物学園としての文化が結実するには、まだまだ時間がかかりそうだ。
それにも関わらず、最近植物園の危機が目に見える形ではなくなったせいか、考える会の核である事務局を支えるメンバーが減り続けている。期待すべき学生や研究者は、観察会やシンポジウムなどのイベントには参加するが、こういった手弁当の組織の運営には、それが分かり易い「研究業績」としてはカウントされないせいか、まるで関心を持ってくれない。現在、100回目の観察会を一つの区切りとして、植物園をめぐるこれまでの活動を書籍として世に問う出版計画を進めつつ、今後の活動の在り方を模索しているところである。身の回りの動植物(人間含む)に深い関心を持ち、遊びごころを持った左京人の参加を強く乞う次第である。興味のある方は、下記まで連絡されたい。
郵便:〒606-0000 京都府京都市左京郵便局私書箱5号 京大植物園を考える会
E-mail: kyotoubg@gmail.com
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市民の植物学園
大石高典
(京大植物園を考える会、京都大学こころの未来研究センター研究員)
京都市左京区には、いくつか歴史のある植物園がある。京都で植物園と言えば京都府立植物園を思い浮かべる人が多いだろう。府立植物園とは植物園の規模、知名度においては比べようもなく劣るが、地域の人々の生活の中に溶け込みながら、息をひそめるように存在してきた植物園がある。通称「京大植物園」こと京都大学理学部植物園である。大正12年に、生態植物園として植物学者・郡場寛によって構想され、八十余年を経て、放任管理の方針のもとに多様な生物の棲みかとして独特の景観を形作ってきた。
京大植物園を考える会は、この植物園に関心を寄せる大学人と市民の有志による、出入り自由の輪郭を持たない任意団体である。京大の名が入っているにもかかわらず、大学法人とは全く独立に活動を行ってきた。2003年、京都大学理学研究科は「環境整備」を名目に植物園内の3分の1の樹木伐採を強行しようとしたが、その際、樹木だけではなく、これに身体を張って反対の意見を述べようとした非常勤職員のクビをも切ろうとした。この事態に対して、違和感を感じた大学教職員、学生、周辺住民有志によって考える会はスタートした。当初から、「考える」べき問題は2つあった。1つは、学術に根差すと同時に地域に根差した大学植物園のあるべき姿の追究であり、もう一つは、京都大学という「自由な知的生産」の場の内部における隠された差別構造の告発と是正要求であった。言い換えると、われわれの活動は、意識的か無意識的かは別として、大学内外の左京人(ジモティー)による、学術のもつ一面としての「冷たさ」、あるいは学術を成り立たせている大学というシステムのもつ非人間的性格へのその足元からの告発と克服への希望の共有といった点で共通の意思を有していたと思う。そしてそれは、少なくとも現在まで継続的に運営に関わっている事務局メンバーの間で共有され、活動を継続する力となってきた。
考える会の活動で基幹をなしているのは植物園観察会の活動である。毎月1回、季節や植物園の中の「なう」な出来事をネタにテーマを設定し、植物園と関わりのある案内人が参加者とともに植物園の中を歩く。政治闘争ではなく、観察会に力を入れているのは、立場を越えて平等に感じられる植物園の価値はそこに棲息する生き物の極めて多様な生きざまそのものの中にあり、その面白さこそが植物園を守り生かすための最大の武器であり、資源であると考えたからである。観察会は、この12月で94回を迎えた。紆余曲折を経て、観察会は研究者や学生、職員、市民の立場を問わず、植物園に棲む動物や植物を媒介とした学び合いの場になることができていると思う。毎回の観察会には周辺住民を筆頭に、大学教職員、学生がコンスタントに参加している。参加回数10回以上のリピーターが多いことは、観察会が文化として地域に根付いていることを示している。
(写真: 最近の植物園観察会の様子)
一方、観察会の継続の中で、市民が大学に対して感じている壁を思い知らされることも少なくない。観察会リピーターのある市民は、数十年以上大学の近くに住んでいるが、大学キャンパスの中に入りこんだのは観察会が初めてだともらした。大学の門をくぐった瞬間に冷たい風に平手打ちを食らったような感じがして、近づきがたいのだと言う。植物園はどうですか、と尋ねると「ここは良い雰囲気ですね、なんだか解放区みたいだ。」という答えが返ってきた。京大北部キャンパスの中で、タンポポの在来種であるカンサイタンポポが濃密に見られるのは植物園周辺だけである。研究や仕事に行き詰まったり悩みを抱えた学部一回生から総長まで、少なからずの大学人の足が自然と導かれる先も植物園である。生き物にとっても、人にとっても植物園はレフュジア(環境変動の際の生き物の避難場所)として機能してきた。
観察会のスタイルやテーマは、初期から最近まで進化し続けている。ガイド役となる研究者や学生が動植物に関する最新の研究成果を目の前の生き物を材料に解説するという初期からのスタンダードに加え、市民参加者の中からガイド役を買ってでる人も出てきた。研究者が自然に関わる科学的知識を市民に分かり易く、しかし一方的に与えるという知的ヒエラルキーを越えた参加者相互の学び合いの場が理想であるが、なかなかそのレベルには達し得ていない。一つの理由は、日本では市民とアカデミーとの付き合いが成熟していないことが挙げられる。市民の概念とともに植物園の発祥の地でもある欧州では、植物園の原意は決して公園(park/parc)ではない。”Botanical Garden/ Jardin Botanique”を直訳すれば「植物学園」である。京大植物園に市民の植物学園としての文化が結実するには、まだまだ時間がかかりそうだ。
それにも関わらず、最近植物園の危機が目に見える形ではなくなったせいか、考える会の核である事務局を支えるメンバーが減り続けている。期待すべき学生や研究者は、観察会やシンポジウムなどのイベントには参加するが、こういった手弁当の組織の運営には、それが分かり易い「研究業績」としてはカウントされないせいか、まるで関心を持ってくれない。現在、100回目の観察会を一つの区切りとして、植物園をめぐるこれまでの活動を書籍として世に問う出版計画を進めつつ、今後の活動の在り方を模索しているところである。身の回りの動植物(人間含む)に深い関心を持ち、遊びごころを持った左京人の参加を強く乞う次第である。興味のある方は、下記まで連絡されたい。
郵便:〒606-0000 京都府京都市左京郵便局私書箱5号 京大植物園を考える会
E-mail: kyotoubg@gmail.com
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