京大植物園TODAY

京都市左京区の京都大学北部キャンパス内にひっそり佇む現代の杜、京都大学理学研究科附属植物園の日々の風景を紹介します。

西園寺公望(1849-1940)と清風荘での読書。

2006年07月05日 19時23分14秒 | Weblog
以下、岩井忠熊著「西園寺公望ー最後の元老ー」(岩波新書829)、「はじめに」より引用。

「透徹した見通しと冷静な分析」(同書~頁)

『西園寺は国粋主義の勃興期にあたる明治二〇年代に文部大臣として「世界主義」の非難を受けながら国粋主義に抗した。そして三〇年代に二度目の文部大臣となった時には、上下の両階級からできていた時代の道徳を改めて、人民がすべて平等の関係で自他たがいに尊敬する道徳をたてねばならぬと主張し、在来の教育勅語一辺倒の国民教育を批判した。また、対露強硬論が一世を風靡した日露戦争直前の時期にあえて対露慎重論を唱えて動かなかった。』

『国内の大勢が一つの方向に向けて動き出そうとする時に冷水をあびせるのが、西園寺の言動の特徴である。晩年のファシズムの台頭と新たな大陸侵略論に対する断然とした反対は、現代人にも強い共感をさそい出す何物かを秘めている。西園寺は小事にはこだわらなかったが、大事にかかわる自分の信条に反する場合には、あくまで拒否をつらぬいた。自分が先頭に立って攻撃するがわに回らないことが、政治家としてのイメージを希薄にしてしまったことは否定できないが、守りに立った時の強さは無類であり、時にはそのための捨身もいとわなかった。』

「なぜ孤高の立場をつらぬけたか」(同書~頁)

『西園寺が時流に掉さすことをきらい、政治上で一種孤高の立場をつらぬきえた背景として、彼の教養と経歴と門地を考える必要がある。西園寺の教養は日本近代の政治家として第一等の地位を占めると断言してよいだろう。彼はみずから「本の紙魚」と自称し、幼少期からあらゆる分野の漢籍に親しんだ。』

『その範囲は幕末明治期知識人の一般的教養だった漢学の域をはるかにこえ、京都の清風荘に居住した頃には内藤湖南・狩野君山ら一流の中国学者との交際が深まり、たがいに漢籍を貸借した。晩年まで京都の中国書専門店の彙文堂にはみずからハガキで漢籍購入の注文をしている。いま立命館大学、京都大学の所蔵となっている西園寺収集の漢籍は、学術的水準が高いとの定評がある。』

『また西園寺を語る時に、篆刻や盆栽などその多彩な趣味を忘れるわけにはいかない。要するに西園寺は教養や趣味で一つの世界をきずいていた人物だった。西園寺は政治家である前に一人の読書人であった。このような確固とした自分の世界をもっていたからこそ、西園寺は時流に流されなかったといえるであろう。』