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満月通信

「満月(バドル)」とは「美しくて目立つこと」心(カリブ)も美しくなるような交流の場になるといいですね。

200のハディースその19

2009-05-14 | ハディース&子どものための物語
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم

労働について(労働の原点)

 アブー・アブドッラー・アッズバイル・イブン・アルアッワーム(رضى الله عنه)によるとアッラーのみ使い(صلى الله عليه و سلم)は言われた。「あなた方は誰でも自分の縄を持って山に行き、薪の束を背負って戻り、それを売りなさい。そうすることによって、アッラーはその者の顔を覆ってくださるでしょう。そうすることはこれるかくれないか分からない人に物乞いをするものより良いことです。」(アル=ブハーリーの伝承。注:「顔を覆ってくださる」とは「他人に物乞いをするという恥辱から守ってくださる」の意)アブー・フライラ(رضى الله عنه)は伝えている。アッラーのみ使い(صلى الله عليه و سلم)が「あなた方の一人が朝、薪を集めに行き、それでサダカを行い、更に人々の助けを借りずに自立することは、与えられるにせよ拒絶されるにせよ、人に乞い求めるよりは良い。まことに上方の手は下方の手に優る。それで先ずあなたが養っている者から始めよ」と言われるのを聞いた。(ムスリムによる伝承)

 人間はアッラーの代理人としてこの世界に運営を任されました。労働はその責務を果たすためにあります。初めのハディースは働くことで自立心が養われ、人間の尊厳が保たれることを教えています。誰でも山や林に行き額に汗して薪を取り、その薪を売って食を代えるほうが、何もせず他人に食を乞うよりもずっとましです。それは乞うという行為そのものが不名誉であり自尊心を傷つけるからです。アッラーは、労働をする人が恥辱をこうむらないような計らいをしてくれるのです。このように労働は人間の使命を自覚させ自身を持たせるものです。
 次のハディースでは労働のあり方について述べられています。働くことが単に自分のためだけでなく、働いて得たお金を同胞にサダカすることが勧められています。それにより相互扶助の精神が養われ社会連帯の意識を根づかせます。それに対し健康で働く力がありながら他人に乞うことは、二重に本人を苦しませることになります。なぜなら他人に乞うても与えられなければ恥辱を感じるだろうし、たとえ貰えたとしても、その人に対し負債を受けることになるからです。それでサダカをする手は上方の手となり、他人に乞うて差し出す手は下方の手をなるわけです。また次のようなハディースもあります。「物乞いを慎み、家族を養い、隣人に親切にして、合法的に生きようとする者は、満月のように輝く顔でアッラーに出会うでしょう。」(アル・バイハキ「信仰集成」)「まことにアッラーはしもべ、信者、貧者、物乞いをしない者、大家族の長を愛し給う」(イブン・マージャによる伝承)
 これから考えられるのは、働くことが出来る者が労働しないのはハラーム(禁じられること)であり、健康な者が家族のために働くことは義務であること。そして労働とはアッラーから託された世界運営に携わる一人として働かさせて頂くこと(勤労)であり、それを思念して世俗の業務に精励すること(勤労)は宗教的生き方そのものになることです。


アッラーのご加護と祝福がありますように
والسلام


200のハディースその18

2009-05-14 | ハディース&子どものための物語
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم

生き物に対する思いやりについて[その3]

 アッラーのみ使い(صلى الله عليه و سلم)は言われた。「アッラーはあらゆるものに対して慈しみ深くあるようにお命じになりました。殺生する際には最も思いやりのあるやり方で殺しなさい。犠牲を屠(ほふ)る場合にも最も思いやりのあるやり方で屠りなさい。あなた方は誰でもナイフを研ぎ、屠られる動物の苦しみを最小限に留めてやりなさい。」(ムスリムによる伝承)

 わたしたちは生きるために他の動物の命をとる定めにあります。人間のタンパク質源として魚を始め牛や鶏など家畜している動物の肉を料理し食用せざるを得ないのです。
 世界には数多くの宗教がありますが、生きることと殺生の関係に言及している例は皆無といってよいでしょう。ある宗教はただ生き物を殺してはならない(殺生戒)と説くだけです。それではの現場にいる人々を始め、肉食をする人々が感じる葛藤を解決することはできません。書店には宗教的教えとは関係なく生命の大切さや動物愛護を説く書が並んでいますが、人間の病気治療のために多くの動物実験をせざるを得ないことや犠牲となる動物の苦痛など全く無視されています。このような多くの教えや意見は片方だけの立場を述べる偏った主義主張にすぎず万人を納得させる教えからほど遠いものです。その中で現実を直視し、他の動物の犠牲の上に成り立っている人間の営みという根源的な問題に対処し、人間の生活に指針を示している宗教がイスラームです。
 人間はアッラーの許しのもとで他の生き物の命を頂いて生かして貰っています。生き物に対する思いやりを持つことは自然界の運営を委託されている人間の務めとなります。
 人間が他の生き物の命をとる行為は非情のように見えますが、それは自然界の他の生物の間でも見られる生存の法則であり善悪を超えた事柄です。このような自然界の現象は人智を超えたものであり私達の理解が及ぶものではありません。わたしたち人間はアッラーが創られた大自然の摂理(アッラーの法)をあるがままに受け入れなければなりません。
 イスラームでは食用の家畜を屠る際には慈悲深きアッラーの御名を唱えます。この言葉が唱えられる意味はこの世に存在するものはアッラーの創られたものなので、それらを食として頂くための感謝の気持ちを表す言葉だと理解できます。そして預言者ムハンマド(صلى الله عليه و سلم)は人間のために犠牲となる動物に気を使い、恐怖心を与えない作法を教えています。それは屠畜に使用する刀はよく研がれたものを用いるようにすることです・これは動物に恐怖を与えないやり方であり、動物の苦痛を少なくする方法であることが分かります。
 クルアーンの冒頭はアッラーの慈悲と慈愛の言葉で始まりますが、預言者ムハンマド(صلى الله عليه و سلم)はこの言葉の体現者であり、動物に対しても憐れみの心を持っていらっしゃたことがこのハディースからうかがうことが出来ます。


アッラーのご加護と祝福がありますように
والسلام



200のハディースその17

2008-10-04 | ハディース&子どものための物語
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم

生き物に対する思いやりについて[その2]


アブドッラー(رضى الله عنه)によるとアッラーのみ使い(صلى الله عليه و سلم)は言われた。「ある女は一匹の猫ゆえに責め苦にあいます。彼女は猫を閉じ込めて餓死させてしまいました。そのため彼女は業火に入りました。彼女は猫を閉じ込めて食べ物も飲み物も与えず、地を這う虫ですら自由に食べさせなかったのです。」(アル・ブハーリーとムスリムによる伝承。引用はムスリムの伝える表現)
 ジャービル・ビン・アブドッラー(رضى الله عنه)は、アッラーのみ使い(صلى الله عليه و سلم)は動物の顔面を打つこと、あるいは顔に焼印を押すことを禁じられた、と伝えている。(サヒーフ・ムスリム)
 イブン・アッバース(رضى الله عنه)はこう伝えている。預言者(صلى الله عليه و سلم)は「生きている動物を標的として用いてはならぬ」と言われた。(サヒーフ・ムスリム)


 上記のハディースは動物虐待を戒める教えです。最初のハディースは猫を閉じ込めて餓死させる行動を取った女性の衝撃的な話しです。猫は2~3日では餓死しません。少なくても1週間は生き延びるでしょう。その間、苦しみながら弱まる猫を見届けるのですから、冷酷非情そのものです。このような狂気の沙汰の背景には彼女が猫から余程の被害を受け正気を失い復讐の念に駆られたのではないかと思いたくなりますが、人間はかくも残酷になる一面を持っていることも事実です。世間では猫にまつわるトラブルは多いようです。たとえば他人の家の庭に侵入し排泄する場合などです。それも一度ならず、二度三度と繰り返し自宅に庭に入られ糞をされた人から見ると、猫はれっきとした害獣となります。腹立たしくもなり追い払おうと石を投げつけたくなるのが人情かと思います。

 ここでは人の度量を試されるような気がします。怒りを自制する理性を持っているか、また追い払うにもしても限度がわきまえているかなどです。一方、飼い主も試されます。ペットに対するしつけに抜かりはないか。愛情を注いでいるペットが自分に知らぬ間に他人に迷惑をかけていないか、何のために自分はペットを買うのか真剣に考えたかです。
 人間には生命、財産、名誉を保護される権利がありますが、動物に権利と名のつくものは存在しません。勿論義務もないわけですが、人間に飼われている猫や犬、また家畜の命は人間の裁量に握られており人間に逆らうことが出来ない弱い立場におかれていますから、動物への虐待など残酷な仕打ちは人間の品位をおとしめます。
 それで生殺与奪の力を持つ人間として動物を憐れむ気持ちを持つことが説かれるのです。アッラーの被造物のひとつである動物に対し、人間として最低限のマナーを身につけるべきなのです。人間が動物と共存する場合は人間が保護者となり、自分の保護するものに対して責任を負っています。人間は自然界に君臨する栄誉を与えられた存在ですが、それは傍若無人に振舞うことが許されたわけではないのです。人間は自然界の頂点に立つ者としてそれに相応しい見識、行動が要求されるということです。

アッラーのご加護と祝福がありますように
والسلام

200のハディースその16

2008-08-22 | ハディース&子どものための物語
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم

生き物に対する思いやりについて[その1]

アブー・フライラ(رضى الله عنه)によるとアッラーのみ使い(صلى الله عليه و سلم)は言われた。「ある男が道を歩いた時、ひどく喉の乾きをおぼえた。彼は井戸を見つけてそこに下り、水を飲んで上にあがると、一匹の犬が激しい乾きから舌を垂らし、湿った土を食べていた。彼は『この犬も私が激しい乾きをおぼえたと同じ程に喉が乾いているのだ。』と言った。そこで彼は再び井戸に下り、自分の履物に水を満たし、それを口にくわえて這い上がり犬に飲ませた。アッラーはこの行為を愛でられ、彼(の過去の罪)をお許しになった。」人々は「アッラーのみ使い(صلى الله عليه و سلم)よ、われわれにとって、そのような畜生に奉仕することにも報酬があるのですか。」と言った。み使い(صلى الله عليه و سلم)は「その通り。全ての生き物に対する奉仕に報酬があるのです。」と言われた。(アル・ブハーリーとムスリムによる伝承。引用はムスリムの伝える表現)

 最近になって自然環境や動物の保護を真剣に考える人が増えてきておりますが、イスラームの世界では1400年の昔に、すでに動物をはじめすべての生き物を愛護するする精神が説かれていたことに驚きます。さらに当時アラブの犬に対するイメージといえば、「犬のいる家には天使が入って来ない」とか、「犬のなめた食器は、砂を用いて清め、七回洗いなさい」と言われ、家の中で飼うことは避けられていました。犬は番犬や猟犬としての役割を果たしていました。そのような状況の中での犬への愛護のすすめですから当時の人にとって、まさに驚きであり信じられないことでした。話は続きます。人々の意識がまだ目の前の犬だけにとらわれた狭い視野で質問を発しているのに対し、み使い(صلى الله عليه و سلم)はすべての生き物を大切にすることが大事なのだと言って、人々の意識をより高い次元へと導いていきます。師の教えはこのように人々を教化していきます。
 そして重要なことはこの見識がすでに備わっていた人物の行動です。この話の描写から見る限り、この人は修行を重ね偉くなった人でも、また聖人や何か秀でた達人でもないようです。ある男とありますから、ごく普通の人のようです。そんな普通人の取った行動ですが、実は自然界の運営はアッラーから委託された人間の大事な役目なのです。宇宙を創造し、自然界を創り、人間や動物など命あるものを創られ、世界の管理を人類に一任されたアッラーの見方からすると、たとえ一匹の犬といえども命あるものを大切に扱い愛情を注ぐ人は、自然界運営の責務を果たしたとしてアッラーからの報償を受けるに値するということです。
 人を助ければ、ありがとうという感謝の言葉が聞けますが、助けた動物や他の生き物からは言葉はもらえません。その代わり人はアッラーに愛でられる存在になることができるのです。生き物を思いやり助ける人はアッラーが味方になってくださるのです。

アッラーのご加護と祝福がありますように
والسلام


200のハディースその15

2008-06-04 | ハディース&子どものための物語
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم

隣人に良くすることについて(親切ともてなし)

 アーイシャ(رضي الله عنها)によると預言者(صلى الله عليه و سلم)は言われた。「ガブリエルが私に、隣人が良くするように言い続けるので、私は彼が隣人を相続人にするのではないかと思うほどになった。」(アル=ブハーリーとムスリムによる伝承)、イブン・アッバース(رضي الله عنه)によると、私はアッラーのみ使い(صلى الله عليه و سلم)が「隣人がかたわらで空腹を抱えている時に腹一杯食べる者は、信者ではない。」と言われるのを聞いた。(アル=バイハキー「信仰集成」)、アブー・フライラー(رضي الله عنه)によると、アッラーのみ使い(صلى الله عليه و سلم)は言われた。「アッラーと最後の日を信じる者は隣人を親切にしなさい。アッラーと来世を信じる者は客を寛大にもてなしなさい。」(アル=ブハーリーとムスリムによる伝承)

 隣人に対しどのように親切にすべきかについて、初めのハディースでは相続人にしても良い位までとしています。この一言で隣人への接し方をすべて言い表している感があります。それは身内と同じように尽くすことと理解しても良いでしょう。その一例が次のハディースで、隣人が空腹であると察した時は、そしらぬふりをするのではなく、「一緒にどうぞ」という言葉をかけ食べ物を分かち合うことが隣人の務めとなります。与えることが出来る人は毎日食事のできる生活を送っていることに感謝し、またアッラーから隣人を慈しむ実践の場を与えて頂いていることにも感謝すべきと思います。と言うもの他のハディースに「人を慈しまない者に、アッラーは慈悲を垂れることはない。」、「地にある者を慈しみなさい。そうすれば天にいらっしゃる御方があなたを慈しんでくださる。」(ともにムスリムによる伝承)とあるように、与えた人はアッラーからのお返しがあるからです。
 これにより隣人も自分も共同体(ウンマ)の構成員の一人であり助け合いの意識が芽生えていくような気がします。隣人への親切や愛を抽象的な言葉だけで終わらせずに具体的な行動が要求されているわけですが、このような対応が自然にできるように心がけたいものです。
 三つ目のハディースに信者として良いことを語るとありますが、これは話すときは相手を傷つけない言葉で話し、争いごとを起こさないという意味が込められているような気がします。その場に相応しい言葉が見つからない時は、挨拶だけはして後は黙っていることで隣人と良い関係を続けられる場合もあります。最後に客を寛大にもてなすとありますが、人間は利害関係のない時こそ人としてあるべき姿が問われます。他のハディースに、イスラームにおいて最善なことは何かという問いに対し、アッラーのみ使い(صلى الله عليه و سلم)は「人を食事に歓待し、顔見知りの者にも見知らぬ者にも挨拶することです。」(ムスリムによる伝承)と答えられています。客に対し、また、今自分を必要としている人を出来る限り親切にもてなし、良き隣人関係を保つことが求められています。このように隣人をはじめ他人を思いやる心の修養は世間から修業道場のような場所で特別な行を通して得られるのではなく、毎日の日常生活の中で培うことがムスリムの生き方となります。

アッラーのご加護と祝福がありますように
والسلام



200のハディースその14

2008-03-08 | ハディース&子どものための物語
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم

家族と親類について[その3](親戚との付き合い)

 アッラーのみ使い(صلى الله عليه و سلم)は言われた。「生計が潤い、寿命が延びることを願う者は親戚と良好な関係を維持することです。」(アル・ブハーリーとムスリムによる伝承)、「親戚との縁を切る者は天国に入れません。」(アル・ブハーリーとムスリムによる伝承)、ハキーム・ビン・ヒザーム(رضى الله عنه)がアッラーの使徒(صلى الله عليه و سلم)に「私が無知の時(改宗前)に行った親戚への務めや、奴隷の解放や施しに対する報償が来世で与えられるでしょうか」と尋ねたとき、「前に行ったすべての善い行いを持ったまま、あなたはイスラームに改宗したのです。」と答えられた。(アル・ブハーリーによる伝承)

 これらのハディースは家族の絆と同様に親族の絆を保つことの重要性を説いています。今の日本は個人中心の生活となり他人との付き合いは必要最低限になったため、親戚とも疎遠になりがちで葬式の時に顔を合わせる位になっているようです。友人や知人との付き合いと変わらないように見えます。しかし親戚が友人や知人と決定的に違うのは互いの先祖とつながっていることです。そう考えると血縁者である親戚との付き合いのすすめは、家族を大切にする教えの延長線上にあるといえます。特に存在感に敏感な子供にとって親戚の存在は、家族以外にも兄弟に近い人がいるという仲間意識を与え世界が広くなった実感が持てます。
 また、人との付き合い方を学ぶ機会にもなります。幼少期に多人数の集まりになじんでおくと大人になってからグループに入るのがそれほど苦にならないといわれていますから、親類縁者の集まりにはなるべく子供を連れて行くべきです。親戚の子供として親戚の年長者たちと遠慮なく対等に話ができるからです。
 こうした親戚付き合いを通して家族に次ぐ身内であるとの意識が生まれ連帯感の源となります。子供は家にいて家族の愛を学び親戚を通して人とのつながりを学びます。また家系に興味を持ち歴史意識を持つ子供にもなります。その意味では親戚付き合いは教育の一助にもなります。
 経済的に豊かになった現代日本では親戚同士が物質的助け合いをする必要度は低くなっていますが、個人を尊重する余りバラバラになりやすい人間関係を強めあうための交流は必要です。困難に直面した時に家族の次に頼りになり、援助しあい支えあうのが親戚です。親戚の先祖たちは自分たちの子孫が助け合い、幸せになるのを願っていたはずですから、この思いを忘れてはならないでしょう。
 これに対し、親戚付き合いを避けることは人を受け入れる余裕を持とうとしない狭量さにつながります。ましてや親戚同士が仲たがいし、断絶することは家族の不和と同じくお互いが傷つきます。
 互いに様々な有益な情報を共有しあえば無駄や無用な災いも避けられ、平穏な生活を送ることが可能になります。このような理由からも親戚付き合いはハディースにあるように生計が潤い、寿命を延ばすことに寄与するわけです。良き親戚関係を維持し善行の数を増やしたいものです。

アッラーのご加護と祝福がありますように
والسلام

 

200のハディースその13

2008-01-02 | ハディース&子どものための物語
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم

家族と親類について[その2](母親を大切にする)

 ある者が「アッラーのみ使い(صلى الله عليه و سلم)様、身近な者で、私に対して最も大きな権利を持っているものは誰でしょうか。」と尋ねると、「あなたの母です。」と答えられた。「その次は誰でしょうか。」と尋ねると、「あなたの母です。」と答えられた。さらに「次は誰でしょうか。」と尋ねると、「あなたの父です。」と答えられた。(アル=ブハーリーとムスリムによる伝承)

 アッラーのみ使い(صلى الله عليه و سلم)は言われた。
「偉力並びなきアッラーはあなた方に、母親に反抗することを禁じられました。」(アル=ブハーリーとムスリムによる伝承)
 
 アッラーのみ使い(صلى الله عليه و سلم)様のご存命中に、偶像崇拝者の母が私のところにやってきた。そこで私はアッラーのみ使い(صلى الله عليه و سلم)様に判断を求めて言った。「私のところに母が何かを求めてやって来ました。母の頼みをきいてやってもいいでしょうか。」するとみ使い(صلى الله عليه و سلم)は言われた。「そうです。あなたの母の願いを聞いてやりなさい。」(アル=ブハーリーとムスリムによる伝承)

 母親の子育てをする姿を見て母親の愛は無私であり、愛は家庭から始まると思わずにおられません。出産という産みの苦しみに耐え、赤ん坊が生まれてからは、お乳を与えたりオムツを取り替えたり休む間もなく世話をし、育児のために自分の睡眠も満足に取れない日々が続いても不平を言わず、子が二人になろうと三人になろうと注ぐ愛情に変わりはなく涸れることはありません。与えることが喜びなのが母親の愛です。
 母は自分の食事を減らしてでも子供にはおいしいものを食べさせます。子供の一大事には全てを投げ出す覚悟を持ち合わせています。母親は子供のために生きているといいっても過言ではありません。
 また養育と同時に母親は炊事に洗濯、掃除にと家事をもこなします。まさに母親は家庭の中心です。父親には容易に出来ることではありません。母親の愛情に包まれて育てられた子供が母親を尊敬するのは当然の感情となるでしょう。母親への反抗など思いもよらないことでしょうが、子供が大人への成長する過程での一時的な反抗期は別個と考えるべきです。子供は遊園地や戸外のどんな楽しい場所へ出かけても、最後は家に帰ろうよ、と言って自分の家で休むことが一番の幸せであり安住の場所と感じています。
 子供を丸ごと受け入れるので子供は不安を感じません。子供が落ち着いていられるのも、夫が何の不安もなく外で仕事が出来るのも、家計を含め妻がしっかりと家庭を守ってくれるからです。母親の愛情は、偶像崇拝者であろうと変わりはありません。母親の頼みごとをかなえてやれる大人に育ったのも母親のおかげなのですから。母親の愛は山より高く、海よりも深いという言葉は母親の自己犠牲精神を評して生まれたものです。

 女性の美徳について次のようなハディースがあります。
アブー・フライラー(رضى الله عنه)はアッラーの使徒(صلى الله عليه و سلم)が次のように語ったとして伝えている。「らくだに乗った女性(アラブ女性)で最も優れているのはクライシュ族の信仰深い女性である。彼女たちは子供が幼い時によく面倒を見るし、また彼女たちの夫の財産を良く管理する」(ムスリムによる伝承)

アッラーのご加護と祝福がありますように
والسلام


200のハディースその12

2007-09-11 | ハディース&子どものための物語
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم

家族と親類について[その1](家族を大切にする)

アッラーのみ使い(صلى الله عليه و سلم)は言われた。「あなた方のうちで最も良い人は、家族に最も良くする人です。私はあなたがたのうちで家族に最も良くしています。」、「最も完全な信仰を持った信者とは、最も性格が良く、最も家族に優しい人のことです。」(ア=ッ=ティルミズィーによる伝承)


 全ての宗教が家族を大切にするとは限りません。中には家族生活によって心が散り、物に執着し、自我から解脱できないと考え出家したり、社会生活を否定し神のことのみに意識を集中することが神への愛であり、従順さを表すとする宗教もあるからです。それらの人々は結婚を忌避し独身を通すことが人格を高め自己完成につながると考えています。

 これに対しイスラームでは、「人は結婚によって宗教の半分を成就できる。それで残りの半分はアッラーを畏れるようにしなさい。」(バイハキーによる伝承)とあるように結婚を勧め、健康な家庭生活を送ることが宗教的な生き方であるとします。

 人間は欲望や本能を健全に制御できる力を与えられています。肉体あっての人間です。欲にとらわれやすいからと言って苦行を求める必要はないのです。結婚によって夫は家庭を養うために働き、妻は家計を切り盛りし、子供がいれば世話をします。夫婦の愛情は歳月に鍛えられやがて赦しと尊敬に変わり、二人の絆を強めていくのです。家庭を持つ夫婦は一人の時よりも責任感が強くなり他を思いやる気持ちが育まれ成長していくのです。
 
 家族は楽しみも苦しみも共に分かち合います。子を持ち泣かぬ親はなしと言うように親は子供が怪我をしたり、病気になったりすると自分のことのように心が痛みます。子を慈しむ心が養われるのです。また家庭は子供に愛情を注ぐ場であり、自立できるように育てる場でもあります。たとえ成長した息子や娘が落ち込んで無気力になって家に戻ってきても、温かく迎え入れ食事を作り暖かい寝床を用意し再び元気になるまで寄り添い我が子を見捨てることはありません。子供は自分が愛されている、大切にされていることに自信も持ち強くなります。優しくされた子は他人に対して優しい気持ちを持てる人間になります。家庭を通してお互いが深い愛情を知るのです。このように世間にとどまり日々の生活の中で自分の役目をまっとうしながら心を養い精神を磨くことが可能であり、特別な修行をせずとも普通の生き方で人格の向上が図られ宗教の成就へと向かうのです。

 次のハディースはそのような預言者(صلى الله عليه و سلم)の生き方を端的に示しています。

 教友らが預言者(صلى الله عليه و سلم)の夫人たちに、使徒の日常生活に関して質問した。この折、教友らは
「私は結婚しない」、
「私は肉を食べない」
更には「私はベッドに寝ない」
などと口々に話していた。預言者(صلى الله عليه و سلم)はアッラーを賛美してから、こう言われた。
「そのようなことを言う人々がいるとは一体どうしてですか。私は礼拝し、眠りもします。断食もするし食事も取ります。勿論、女性とも結婚します。私のこういうスンナ(慣行)を無視する人は、私と関係ない人です。」
(ムスリムによる伝承)

 このように、宗教は生活の正しい営みとあるのです。

アッラーのご加護と祝福がありますように
والسلام

200のハディースその11

2007-06-30 | ハディース&子どものための物語
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم

賞賛に値する人格、性質について[その6](恥じるべきことを知る)

 アッラーのみ使い(صلى الله عليه و سلم)は言われた。「人々が手にした初期の預言(ムハンマドさま(صلى الله عليه و سلم)以前の預言者たちの言葉)の中に『恥ずかしいと感じないなら、あなたの望むことをするがよい』という言葉があります。」(アブー・ダーウードよる伝承)

 伝承学者の注釈によると、このハディースは
①恥を感じない限りは人間は良心の命じるままに行動できる。
②羞恥心を持たぬ者に対しては好き勝手な行動をやめさせる手段はない。
の二つの解釈が可能とされています。
 恥の訳としては自分の良心に聞きなさいという意味合いから恥ずかしい気持ちだけの羞恥心よりも、恥じるべきことを知る意味の廉恥心と理解したいと思います。恥が主題のこのハディ―スを礼儀作法の根源と見なし「このハディースを軸にイスラーム社会全体は動いている」と評する伝承学者もいます。

 そう受け止めますと、後世のムスリム学者たちが人間の行為は五つに区分(①義務行為、②奨励される行為、③許容される行為、④嫌悪される行為《マクルーフ:度と越えずハラームにつながる行為をしない限り罰や責任は問われないもの》、⑤禁止行為《ハラーム:来世において罰を受け、現世においても法的責任に問われる行為》)されると考えたのは、創造主の元へ帰る者として自分の行いがアッラーの規準から外れ、恥じいることがないようにとの思いが強かったからだろうと想像されます。
 
 アッラーからの目から見て徳とは日常行為によって測定されるとの意識から、人間の行為を類別し共同体内での規範・行動原理にしたものと理解できます。このような廉恥心は道徳意識の出発点であり、日常的行為の中で恥じるべきことを知る人が最も尊敬される社会が健全で好ましいとなります。

 ここで常に絶対者と向き合う宗教的態度を基盤とするイスラームの道徳論に対し、神を信じず生きている今の世しか考えない現世中心主義の道徳論との違いが明確になります。
 それはこの世で魂を磨き人間性向上を目的とする考えと、単に人間関係を円滑にするために身の処し方や生き方しか考慮しない不安定で迷いやすい有限な存在の人間を中心に据えた考え方の違いともいえます。
 

 創造主を認めないこの世中心の世俗的価値観では、人間は運命共同体の一員であるという連帯の感覚が薄れ、公共の益よりも個人の権利と個性が優先されます。他人に干渉しないことを理由に他者の存在理由に真正面から向き合うことなく、人間の本性や人生に対し深い洞察をめぐらす時間を惜しんで日常生活での利便性や快適生活、物質的豊かさのみを追求することに専念するため、道徳は敬遠されます。共同体の原理であろう道徳や社会規範を軽視する社会そのものの軽視につながります。

 生かされていることを悟らず神から離れる人間は罪の観念が希薄になり個人を束縛するものはないと錯覚し、謙虚さがなくなり自己を肯定するが他人は否定する傾向が強まります。
 常に神への感謝と畏れを失うことを恥とする人間でいたいものです。

アッラーのご加護と祝福がありますように
والسلام

200のハディースその10

2007-05-24 | ハディース&子どものための物語
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم

賞賛に値する人格、性質について[その5](挨拶から連帯へ)

アッラーのみ使い(صلى الله عليه و سلم)は言われた。「人がその兄弟を避けて三晩以上会わないでいたり、会ってもお互いに顔を背け合ったりするのは正しいことではありません。二人のうちより良い者は、先に挨拶するものです。」(アル・ブハーリーとムスリムによる伝承)
(原訳者注:兄弟とは、イスラームの信仰をもつ信者同士を指し、血縁による兄弟のみに限定されない)

 三晩以上会わない、という箇所を読んで「何度も訪ねてくる人は良い友人だ」というアラブのことわざを思い出しました。人と友好関係を持つことを重視し、それには挨拶から始めなさいと説くこのハディースは、信者間の信頼関係、連帯感が共同体(ウンマ)の維持に必要であることを教えていると読みました。
 

 同じような意図がこめられた別のハディースにはこうあります。「病人を見舞ったり、訪問する者には(天使が)『よくやりました。あなたの歩む道はよいものです。あなたは楽園の館に住むことになるでしょう。』と呼びかけてくれます。」(ア=ッ=ティルミズィーの伝承)これを考えると、三日以上間を空けるなというのは、仲間の連絡は密にしなさいというたとえであると理解できます。
 
 同じイスラームの道を行くもの同士とはいえ、各人の思いは様々で他者は容易にわからないものです。お互いが理解しあうには、どちらかが進んで相手に関わらなければなりません。始めはさしさわりのない挨拶から入りますが、それだけでは不十分で自分の思いを率直に伝え合う対話を通さないと深まらないものです。そのために見解の違いから互いが傷つきあうことがあるかもしれませんが、相手の真意を理解すれば友情や連帯の絆が生まれるきっかけとなります。連帯感は共通の道を歩む他者と語り合うことにより、どちらも同じ土台の上にいる気づきから生まれます。この土台とは共にアッラーによって生かされている存在であり、共に共同体(ウンマ)を運営する責任を持ってこの地上に生きている使命感です。
 
 こうして結ばれた小さな連帯は、他の同胞の連帯感と共鳴しあいながらより大きな連帯の輪となって広がります。この連帯は石垣のように堅固なものとなり、同じ理想に向かって励ましあい同悲同苦の思いを共有しあう同胞愛となるでしょう。「あなたがたはアッラーの絆に皆でしっかりと縋り、分裂してはならない。そしてあなたがたに対するアッラーの恩恵を心に銘じなさい。初めあなたがたが(互いに)敵であった時かれはあなたがたの心を(愛情で)結び付け、その御恵みによりあなたがたは兄弟になったのである。・・・あなたがたは正しく導かれるだろう。」(第三章イムラーン家章第103節)
 
 そして連帯意識を保持するムスリムは
「また、あなたがたが一団となり、(人びとを)善いことに招き、公正なことを命じ、邪悪なことを禁じるようにしなさい。これらは成功する者である。」(同イムラーン家章第104節)という教えに沿った正しい生き方を実践していると言えるでしょう。


アッラーのご加護と祝福がありますように
والسلام

200のハディースその9

2007-04-11 | ハディース&子どものための物語
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم

賞賛に値する人格、性質について[その4](関係のないことに立ち入らない)

アッラーのみ使い(صلى الله عليه و سلم)は言われた。「イスラームの良い点は、自分に関係のないことに立ち入らないことです。」(アッテルミズィーによる伝承)
(原訳者注:立派なムスリムになる条件の一つとして、他人のことに干渉しないこと)

 他人への配慮の感覚が述べられているこのハディースを読むと、イスラームの教えは他人や社会との関わり方にも配慮しつつ自己の研鑚を図っていくものなのだな、と思います。

 関係のないことに関わり立ち入ろうとする人は、善意から行う場合と自分の考えに従がわせようとする場合のどちらかとなりますが、どちらも歓迎されません。
 自分が良かれと思い込み他人の行動に口を出すお節介は主観的善意であり自分の価値観の押し売りにすぎないからです。
 受け取る側は相手の善意が分かっていても煩わしく感じたり素直に喜べない時もあるのです。関わろうとした人はせっかく親切にしてあげたのに自分の好意が無駄になったことを残念に思い、受け手はありがた迷惑の思いが残るのです。
 親しい関係を築こうとした思惑が反って疎遠な関係を作ってしまいます。それで頼まれもしないことに関わらないことが無用な悩みや煩わしさを作らない教訓となります。
 さらに歓迎されない関わり方は自分の意志に従わせようと他人の行動に口をさしはさむ行為です。干渉と呼ばれるこの行為は自分の主義主張を最善と考える独善から生まれます。受け手側には押し付けられるという意識が生じますから、親しい間柄でも大きなお世話と受け取られることもあります。ここで必要とされるのは相手を尊重する気持ちで他人の生き方や規範に干渉しないことです。それで他人のことに無闇に立ち入らず、自分と違う考えに対し寛容さを持つことが無益な争いを避ける道であるとの教訓が引き出されます。

 このことから、他者との交流の有り方、礼儀作法が学ばれます。誰でも人には家族や友人にも干渉されたくない私的な時間や状況やプライバシーがあること。人は誰でも選択の自由があること。それは個人の自由と尊厳を尊重することであり、相手を尊重するが自分を尊重して貰うことになります。自分と意見が違う相手の存在を認めることは、結局は自分の存在も認められることにつながっていくのです。他者との交流を通して自己の主義主張や相手との立場の違いを広い視野から眺める余裕を持ちたいものです。

 ただ、関係のないことに立ち入らないと言っても冷ややかな傍観者的態度や無関心を勧めるのでもなく、また隣人や社会との交流を断ち孤立を勧めるものでもありません。他者との程より距離感を保つことの大切さを教えていると捉えることです。イスラームでは個々の人が社会との関わり方においてバランス感覚・中庸の精神を持つことを重視します。このハディースを社会の健全さを保つための知恵の一つとして受けとめたいと思います。

アッラーのご加護と祝福がありますように
والسلام


200のハディースその8

2007-04-11 | ハディース&子どものための物語
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم

賞賛に値する人格、性質について[その3](和を優先する)

 アッラーのみ使い(صلى الله عليه و سلم)は言われた。
「断食や礼拝、サダカ(喜捨)よりも一段上の行いについて話しませんでしたか。」
教友たちが
「何も伺っていません」
と言ったので、み使い(صلى الله عليه و سلم)は話された。
「人々の間に和をもたらすことです。嫌悪や不和はカミソリで髪をそるように人の善行を根こそぎ取ってしまいます。」(アブー・ダーウード)

 イスラームが求められたのはどんな状況だったのか、歓迎されるイスラームとは何かを示唆するものとしてイスラーム草創期を考えながらこのハディースを読んでみました。
 預言者ムハンマド(صلى الله عليه و سلم)がマッカよりマディーナへ移住することになった背景には、マディーナ出身のムスリム達が預言者(صلى الله عليه و سلم)の誠実さを信頼し部族間の抗争に悩んでいたマディーナの調停者として相応しい人物であると判断したことにあります。
 住民が求めたものは自分たちが住んでいる町が安全になり平和に暮らせること、そして交易による商業的繁栄や経済的豊かさ得られることを願って招いたのです。
 これに応えて預言者(صلى الله عليه و سلم)は和解と平和の道を示し地域も抗争を調停し和を広めました。同時にマッカからの大勢の移住者を迎え入れた地域住民との間に兄弟意識を育み、信頼関係を構築することを最優先課題として取り組まれました。先住者と移住者の間にありがちな摩擦や対立感情の発生を避け、連帯感や同胞意識を持たせ、経済的な豊かさを実現したのです。預言者(صلى الله عليه و سلم)のこの活躍がイスラーム発展の礎となったのは歴史の示す通りです。このことから受け入れられるイスラームとは人々が直面する問題を解決し、社会に和をもたらし経済的繁栄を築く場合です。
 このマディーナで最後に下されたとされる啓示の章には、隣人と友好な関係を築くために謙虚な態度をとることが説かれていますので要約してみます。
「信者たちは兄弟である。だからあなたがたは兄弟の間の融和を図りなさい・・・人は誰でも他人を嘲笑してはならない。彼らは自分より優れているかもしれない。女性たちも他の女性たちを嘲笑してはならない。彼女たちは自分たちよりも優れているかもしれない。互いに中傷してはならない・・・信者は様々な邪推をしてはならない。それは時には罪悪である。無用の詮索をしたり、互いに陰口をしてはならない」(第49章 部屋章10節から12節)

 生き方のスタイルが異なる様ざまな人々と連帯するには、相手の生活様式を広く認めるという寛容な心が求められます。人は単純に生きることは出来ず互いに依存しあう関係的存在ですから、地域社会や国家に責任を持ち信頼関係を築く努力が重視されます。それはアッラーの慈愛に応える人間としてふさわしい行為であり、人々や社会に平和をもたらす行いが宗教的「行」よりも一段と高い善行として評価を受けるものと理解しました。

 「真心から帰依し、善行を積む」(第2章雌牛章112節)ことがムスリムの本分です。今回のハディースはイスラームの教えを伝える心構えとして受け止めたいと思います。


アッラーのご加護と祝福がありますように
والسلام

200のハディースその7

2006-10-29 | ハディース&子どものための物語
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم


賞賛に値する人格、性質について(嫉妬、憎悪、虐待、侮辱の禁止)[その2]

 アブー・フライラ(رضى الله عنه)によるとみ使い(صلى الله عليه و سلم)は言われました。
「互いに嫉妬し合ってはならない。値段を吊り上げてはならない。憎悪し合ったり敵対し合ったりしてはならない。他人の取引に割り込んではならない。アッラーの僕として互いに兄弟になりなさい。ムスリムは他のムスリムの兄弟である。彼を虐待したり、見捨てたり、侮辱してはならない。敬神はここにある(と胸を三度指さした)。人にとっての悪は兄弟であるムスリムを侮辱することである。全てのムスリムは他のムスリムに対して神聖な存在であり、彼の生命、財産、名誉を犯してはならない。」
(ムスリムによる伝承)

 中世アラブの歴史学者で「歴史序説」を著したイブン・ハルドゥーンは
「強い嫉妬の心を持つ者は、他人が手中した物やその満足な様子を見て羨み、その者の羨望が極度に高まると、それを享受している者からそれの消滅を切望する。」
(小笠原良治「アラブの秘密」)
とその心理を分析しています。
 嫉妬の災難から逃れるためにアッラーのご加護を願わなければならないほどです。
『黎明の主にご加護を乞い願う。・・・また嫉妬する者の嫉妬の悪から』
(黎明章113章1-5節)
 
 嫉妬は人間の本性かと思うほど誰にでも湧き出る感情ですが、
「嫉妬を避けなさい。嫉妬は善行を食べてしまいます。ちょうど火が薪を食べてしまうように。」
(アブー・ダーウードによる伝承)
とあるように嫉妬の害悪は明らかです。

 劣等心や嫉妬心を持たずに生きることができるか。どうすればそれらを捨てることができるかについて、学者・西部邁は若かりし頃の克服方法を語っています。
「誰かを相手にしていて自分にまたしても込み上げてくる嫉妬の感情があれば、あわてふためくようにして、『うらやましいね、君は』と言ってしまうことにしたのです。言ってしまったとたんに嫉妬の感情はなくなる。そういう工夫を身につけたのです。」
(「人生の作法」飛鳥出版社)

 これは参考になります。この世には優れたものと劣っているものがあり、評価を受ける人もいれば評価されない人もいますが、全てはアッラーの計らいで、その理由は人知では推し量ることができません。

 立派なものを見た時アラブの社会では、マー シャーア=ッ=ラーما شاء الله(アッラーが望まれたものは何でも実現するであろう)と言ってアッラーを称えます。
 ムスリムは兄弟です。
「(経済的に困っている)兄弟の必要に応えると、今度はアッラーが応えた人の必要を満たしてくれます。また他のムスリムの苦悩を取り除く人に対し、アッラーが審判の日の苦悩を一つ取り除いてくれます。」
(アブー・ブハーリーとムスリムによる伝承)

 アッラーはムスリム一人ひとりを神聖なものとして造られました。虐待や侮辱は人間の神聖さを否定するものです。そして自分の胸(心)に湧き起こる荒ぶる感情の正しいコントロールが敬神につながります。このハディースは同胞同士が相手を尊重し支えあうことを勧め、人間の尊厳を守るのがムスリムの姿であることを説いています。

アッラーのご加護と祝福がありますように
والسلام

200のハディースその6

2006-08-26 | ハディース&子どものための物語
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم

賞賛に値する人格、性質について(心と行い、親切、挨拶)[その1]

 アブー・フライラ(رضى الله عنه)によるとみ使い(صلى الله عليه و سلم)は言われた。
「アッラーはあなたがたの体をご覧になっているのでも、容姿をご覧になっているのでもありません。あなたがたの心と行いをご覧になっているのです。」
(ムスリムによる伝承)

 聖クルアーンに
「本当にわれは、人間を最も美しい姿に創った。」(無花果章95章4節)
とあるようにアッラーは人間に晴れ着を着させるごとく美しい体にしてくれたのです。ところがアッラーが見られるのは容姿ではなく、人の心であり人の行為であるというのです。そして
「本当のそれ(魂)を清める者は成功し、それを汚す者は滅びる。」(太陽章91章9-10節)
となり、人の心と行いが魂を清める道であり、人生の目的だと教えています。人は美しい姿にふさわしい心の成長と立居、振舞いを求められているわけです。
 この心をどう磨いていくべきかについていくつのもハディース(以下「」内に表示)があります。

  賞賛に値する人については
「最も優れた者は最も性格がよい者です。」
とあり、アッラーが好まれる二つの性格は
「温和と寛容です。」
と述べています。温和については
「ある男が預言者さま(صلى الله عليه و سلم)に『助言を下さい。』と言うと『怒らないことです。』と言われた。」
 高ぶる感情をコントロールすることは難しいことです。怒りを静めるため
「アウーズ ビ=ッ=ラーヒ ミナ=ッ=シャイターニ=ッ=ラジーム(私は忌まわしき悪魔から逃れてアッラーに救いを求めまつる)」
と言うのも一つの方法です。

次に「アッラーは思いやり深く、親切を愛される。」、「親切の欠けた者には、あらゆる美点が欠けています。」と親切心は美点の大本となっています。
 
 ある男がアッラーのみ使いに(صلى الله عليه و سلم)に
「イスラームにおいて最善のことはなんですか。」
と尋ねると、
「人を食事に招待し、顔見知りの者にも見知らぬ者にも挨拶することです。」
と答えています。挨拶のマナーについては
「乗り物に乗っている者が歩いている者に挨拶し、歩いている者が座っている者に、また少数の者が多数の者に挨拶するように。」「年下の者が年上の者に挨拶するように。」
と具体的にルールを示し、
「至高なるアッラーに最も近い者とは、最初に挨拶をかける者です。」
とされています。
 さらに人(ムスリム)として行うべき事については、
「ムスリムはムスリムに対し六つの特質を持っています。病気になったら見舞うこと、人が亡くなったら葬儀に参列すること、招待に応じること、出会ったら挨拶する事、くしゃみをしたらアッラーの祝福を祈る事、その者がその場にいなくてもその者に対し誠実である事です。」
「あなたがたは信仰心を持つまで楽園に入ることはありません。互いに愛し合うようになる迄信仰を持つようにはなりません。互いに愛し合うようになる行為について教えましょうか。挨拶を交わすことです。」
とあり挨拶を重視しています。それでイスラームでは挨拶の言葉アッサラーム・アライクム(あなた方に平安ありますように)を大事にしてきました。

アッラーのご加護と祝福がありますように

والسلام

200のハディースその5

2006-08-20 | ハディース&子どものための物語
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم

審判の日と天国の民、業火(地獄)の民について(その2)

 アブー・フライラ(رضى الله عنه)によるとみ使い(صلى الله عليه و سلم)は言われた。
「剣で自らの命を絶つ者は、その剣を手に持って自分の腹を突き刺し地獄の火の中に永住することになる。毒を飲んで自らの命を絶つ者は、地獄の火の中で永遠にそれを飲み続けることになる。山から身を投じて命を絶つ者は、地獄の火に身を投じて永遠にそこに永住することになる」
(ムスリムによる伝承)

 聖クルアーンに
「またあなたがた自身を、殺し(たり害し)たりしてはならない。誠にアッラーはあなたがたに慈悲深くあられる。」
(婦人章4章29節)
とあるように、アッラーの慈悲を裏切る行為は避けなければならない。
「アッラーの慈悲に絶望してはならない。」
(集団章39章53節)
のである。

 WHO(世界保健機構)の世界の自殺率統計によるとムスリム諸国での発生率は非常に少ないが、日本では自殺者が毎年三万人にも達し交通事故死の三倍を超えており、自殺率から見ると日本は世界のトップに入っている。日本は古くは万葉集に激務から自殺を図った部下の死を嘆いた歌があり、奈良時代から仕事や人間関係を苦に自殺を図ったことがわかるが、その行為に対し周りの人は嫌悪感を抱く様子はなく、人生を結末を自殺という形で見出す人がかなりいたこと、それも身の処し方、生き方の一つとして容認してきた日本的風土があったように思う。
 厚生労働省の自殺予防対策の報告書によると、自殺の原因・動機としては、うつ病をはじめとする精神疾患が最も多く、経済的・生活問題、家庭問題がこれに続いている。特に近年の自殺の増加の原因は、生きる意味・希望といった精神面での欲求が満たされ難くなっている面や職場や地域において人と人のつながりや絆が薄れ、仲間作りが困難な状況になっていることなどが挙げられている。
 専門家によると自殺防止の鍵は、悩み苦しむ人の話に耳を傾け心を寄り添う「共感」と「傾聴」にあるという。一人ぼっちと孤独を感じている人には、いつも誰かに見守られている安心感が必要になる。人がそばにいてくれて、話を聞いてくれるだけでいいという。
 これに関して、イスラームには仲間意識や連帯感を強める教えは多い。
「互いに憎みあったり、嫉妬し合ったり、敵対しあってはいけない。アッラーの僕たちよ、あなた方は互いの兄弟になりなさい。そしてムスリムは彼の兄弟と三日以上疎遠になってはならない。」
「隣人がかたわらで空腹を抱えている時に腹一杯食べる者は、信者ではない。」
「互いに行為を抱き合い、慈しみ合い、思いやる関係にいる信者は一つの体のようなものだ。もし体の一部が痛めば全体が不眠と熱で反応する」
(以上ムスリムによる伝承)
 このように人を孤立させず、人の苦痛を感じ取り、人間が孤独に陥り生きる力を失わないように支え助け合い、相手を思いやること(ビッル)をイスラームは勧めている。

アッラーのご加護と祝福がありますように
و السلام