満月通信

「満月(バドル)」とは「美しくて目立つこと」心(カリブ)も美しくなるような交流の場になるといいですね。

最期の礼拝

2004-11-30 | アラビア語
بسم الله الرحمان الرحيم


ジャマ’アの礼拝をするときイマームが

سوُّوا صُفوفَكُم لا تُخْلِف قُلُوبُكُم

「列を真っ直ぐにしなさい。あなた方の心がばらばらにならないように。」

と言い、その後に

صلُّوصَلاَةَ مَوَدِع

「この世での最期(かもしれない)の礼拝をしなさい。」

と言います。
一回毎の礼拝を「この世で最期の・・」という思いがあれば、もっと真摯にもっと集中してできるものです。礼拝に限らず、何でも今日が最期の日と思うと、丁寧に気持ちを込めたことができることでしょう。

アッラーのご加護と祝福がありますように
و السلام

フィクフの初歩の初歩④

2004-11-28 | ファトワ&フィクフ
بسم الله الرحمان الرحيم

ウドゥー(الوضوء)

「ウドゥー」の意味(معنى الوضوء)
言葉本来の意味⇒清潔さ、美しさ、壮麗さ(من الوضاءة و من النظافة و الحسن و البهجة)

専門用語として⇒身体のある特定の部分に(シャフィイー学派ではニーヤと共に)水を使うこと。(استعمالء الماء في أعضاء معينة مع النسة)
ちなみに、ウドゥーに使われる水のことを「ワドゥー(الوَضوء)」という。

☆ウドゥーが必要とされること(الأمور التي يُشترَط لها الوضوء)
①サラー(礼拝ーالصلاة)
②カアバ神殿の周りを七周するタワーフ(周礼ーالطوَاف حَوْلَ الكَعبَ)
③ムスハフ(聖クル’アーンの写本)を触ったり、持ち運んだりすること。(مَسّ المُصْحَف و حَمْله)

《根拠》

-『信仰する者よ、あなたがたが礼拝に立つ時は、顔と、両手を肘まで洗い、頭を撫で、両足を踝まで(洗え)。』(5:6)

ー「アブー・フライラ(رضى الله عنه)によると、アッラーのみ使い(صلى الله عليه و سلم)は『汚れの状態にある者の礼拝は、清めを行うまで受け入れられない』と言われた」(アル=ブハーリー)


ー「アッラーのみ使い(صلى الله عليه و سلم)は次のように言われました。『神殿の周りをタワーフ(周礼)することは、礼拝と同じようなものです。ただその(タワーフ)の最中に話はしても構いませんが。ですからその中で(タワーフの最中に)話をする人は、よいことだけを話すようにしなさい。』と」
(ティルミズィ、ハーキム)


ー『لا يَمَسّه إلاَّ الْمُطَهَّرُونَ清められた者の外、触れることが出来ない。』(56:79)

大多数のクル’アーン解説者は冒頭の「لا」を禁止と解釈しているが、ザイド((رضى الله عنه)やイブン・アッバース(رضى الله عنه)を含めた少数のサハーバやタービィイー(サハーバの次世代)は、この説を取らず、冒頭の「لا」を否定と解釈し、「لَمَسَ」が「肌と肌が直接触れることを意味する」のに対し、「مَسَّ」はそれだけではなく、「精神的な触れ方」をも意味することから、聖クル’アーンに触ったり、持ち運んだりする場合はウドゥーがなくてもいいとしている。その根拠として大きな都市の諸王侯貴族宛てに使者に持たせて遣わせたアッラーのみ使い(صلى الله عليه و سلم)の書簡に中に聖クル’アーンの聖句が使われていることを挙げている。

※さまざまな見解がある場合は、その見解が何を根拠にしているかを見極めることが大切。

ー「アッラーのみ使い(صلى الله عليه و سلم)は次のように言われました。『لايَمَسَّالْقُرْآن إلاَّ طَاهِرクル’アーンには清浄な者以外は触れてはいけません。』と」(ダーラクトゥニー)

ここでいる「清められたطاهر」を少数派は「信徒」指しと解釈している、対になる「清められていないもの」は「ウドゥーをしていない信徒」のことではなく、つまり「不信仰者」のことになる。

☆シャーフィイー学派におけるウドゥーの義務六つ
《根拠》
-『信仰する者よ、あなたがたが礼拝に立つ時は、顔と、両手を肘まで洗い、頭を撫で、両足を踝まで(洗え)。』(5:6)
①ニーヤ(気持ちを確認すること)
②顔を洗うこと
③両腕を肘まで洗うこと
④頭の一部をなでること
⑤両足をくるぶしまで洗うこと
⑥順番

☆ハナフィー学派におけるウドゥーの義務四つ
①顔を洗うこと
②両腕を肘まで洗うこと
③両足をくるぶしまで洗うこと
④頭の四分の一をなでること

☆シャーフィイー学派におけるウドゥーの推奨行為(スンナ)

①最初にアッラーの御名と唱えること
②容器に手を入れる前に、両手を三回洗うこと
③スィワークを使うこと
④口中を水でゆすぎ、鼻に水を通すこと
⑤ひげが濃い場合は、水を浸透させること
⑥頭全体をなでること
⑦手や足の指の間まで水を通すこと
⑧頭を使った水とは別に、新たに両耳の表裏を濡れた手でなでること
⑨すべての部位を三回ずつ洗ったり、なでたりすること
⑩右側を優先すること
⑪こすること
⑫続けて行うこと
⑬肘とくるぶしの周りを洗う際にその範囲を伸ばす
⑭水の無駄使いをしないこと
⑮キブラを向いてウドゥーをすること
⑯ウドゥーの最中は話をしないこと
⑰終了時にタッシャフド(信仰告白と唱えること)をし、ウドゥーを捧げること
أشهد أن لا إله إلا الله وحده لا شريك له، و أشحد أن محمد عبده و رسوله-رواه مسلم
للهم اجعلني من التوابين و اجعلني من المتطهرين-رواه الترمذي
سبحانك اللهم وبحدك، أشحد أن إله إلا أنت أستغفرك و أتوب اليك-رواه النسائي


☆ハナフィー学派におけるウドゥーの推奨行為(スンナ)

①手首まで両手で洗うこと
②最初にアッラーの御名を唱えること
③最初にスィワークを使うこと(ない場合はたとえ指ででも)
④口中を三回ゆすぐこと
⑤鼻の中に水を通すこと
⑥断食斎戒者以外は、マドマダとイスティンシャークをしっかりすること
⑦ひげが濃い場合は、下のほうから水をよく通すこと
⑧指の間に水を通すこと
⑨洗うべき箇所は三回ずつ洗うこと
⑩頭全体を一度なでること
⑪両耳をなでること(たとえ頭を濡らした手のままであっても)
⑫こすること
⑬続けて行うこと
⑭ニーヤをもつこと
⑮アッラーが聖クル’アーンで述べたとおりの順番で行うこと
⑯右から始めること
⑰指先から、頭の前方から始めること
⑱くびをなでること

ー「あなたがたのうちだれでもウドゥーをきちんと終えてから『アッラーの他に神はなく、ムハンマドはアッラーのしもべであり、み使いである』と証言するものに対して天国の八つの門は開かれ、どれでも好きな門からそこへ入ることができるだろう」(ムスリム)

ー「私と同様にウドゥーを行い、雑念なく二ラカートの礼拝を捧げる者の過去の罪をアッラーは全てお許しになろう」(ムスリム)

アッラーのご加護と祝福がありますように
و السلام

フィクフの初歩の初歩③

2004-11-27 | ファトワ&フィクフ
بسم الله الرحمان الرحيم

أقسام المياء
☆水の種類

※シャーフィイー学派では、水は四種類に分けられる。
①ターヒル・ムタッヒル(طاهر مطهر清く清められる水)
②ターヒル・ムタッヒル・マクルーフ(طاهر مطهر مكروه清く清められるが避けたほうがよい水)
③ターヒル・ガイル・ムタッヒル(طاهر غير مطهر清くても清められない水)
④ムタナッジス(متنجس汚い水)

※ハナフィー学派では、水は五種類に分けられる。
⑤マシュクーク・フィー・タフーリーヤティヒ(مشكوك في طهوريته清いかどうか疑わしい水)


①ターヒル・ムタッヒル(طاهر مطهر清く清められる水)
 至高のアッラーがお創りになったそのままの状態で残っている「ただの水」。ある一定の場所に長く残っていたり、土が入ったり、コケが生えたり、バクテリアが発生しても、「ただの水」とみなされうる。(そもそも自然界の水でそれらのものから徹底して守ることは非常に困難なため)

《根拠》
ー「教友アブー・フライラ(رضى الله عنه)によると、或るとき一人のベドウィンがモスクで小便をしたので信徒たちは彼を罵った。するとアッラーのみ使い(صللى الله عليه و سلم)は『放っておきなさい。そして小便の上に桶一杯のーーー或いは鉢一杯のーーー水をかけよ。汝らの使命は物事を易しくすることであって難しくすることではないから』と言われた。」(アル=ブハーリー)
⇒アッラーのみ使い(صللى الله عليه و سلم)さまが小便のかかった場所に水をかけるように命じられたのは、水にものを清める効果があることの証である。

②ターヒル・ムタッヒル・マクルーフ(طاهر مطهر مكروه清く清められるが避けたほうがよい水)
☆シャーフィイー学派では⇒太陽に熱せられた日照り水。ただ、使用を避けたほうがいいとみなされるには、三つの条件に全て当てはまる場合のみfrある。
Ⅰ-暑い国(土地)での場合
Ⅱ-金銀以外の鉄や銅といった錆びやすい金属でできた容器に入っている場合
Ⅲ-用途が人間の身体を洗うためである場合(たとえ死体であっても)
  あるいは馬のようにライ病に罹ってしまう恐れのある動物に使う場合。

《根拠》
シャーフィイー師が伝えるには、第二代カリフ・’ウマル(رضى الله عنه)さまはそれ(日照り水)で洗うことを嫌ったという。そしてシャーフィイー師の見解として述べるには、「医学的な理由以外では、日照り水を避けるべきだとは思わない。それはライ病の原因になる恐れがあるからだ。」という。

☆ハナフィー学派では⇒ネコなどの動物が飲んだ少量の水。ちなみにハナフィー学派では、マクルーフにも二通りあって、「タンズィーヒー(تنزيهي)と「タハリーミー(تحريمي)とであるが、ここでの規定は「タンズィーヒー」である。しかもそれはあくまでも「ただの水」がある場合にあえてそうした水を使う場合であり、ネコが飲んだ水しかない場合は、、「避けるべき」という特徴そのものが打ち消される。
اَلضَّرُورَهٌ تُبِحْ الْمَحْذُورَاتِ
ー「必要不可欠なものは気をつけるべきものを許す)
الضَّرُورَةٌ بِقَدَرِهَا
(必要不可欠なものは過不足なく必要とする分だけ)

③ターヒル・ガイル・ムタッヒル(طاهر غير مطهر清くても清められない水)
A-グスルやウドゥーなど清めの義務で使われた少量の水・・・使用済みの水
B-きれいなものと混じることで「ただの水」とは呼べなくなった水。(お茶やジュースなど)
※一度身体から離れた水は使用済みとなる。
☆ハナフィー学派では、「A」のみが例えとして挙げられる。

《根拠》
ー「ジャーヒル(رضى الله عنه)が重病で意識を失っていたとき、アッラーのみ使い(صللى الله عليه و سلم)は見舞いに訪れ、先ずウドゥーをされ、その(残り)の水を彼にふりかけた。」(アル=ブハーリー、ムスリム)
⇒もし使用済みの水がターヒル(清いもの)でないなら、その水をかけることはなかったはずである。

ー「教友アブー・フライラ(رضى الله عنه)によると、アッラーのみ使い(صللى الله عليه و سلم)は次のように言われた。『汝らの誰一人として、性行為のあとであっても、淀み水の中で身体を洗ってはならない。』人々に『では、どうしたらいいのですか』とアブー・フライラは尋ねられると、『(手で掬うぐらいの)少量を掬って使いなさい』と答えた」(ムスリム)
⇒水を使ってグスルすると、水の浄化作用が失われてしまう。そうでなければ、禁止されることがなかったはずである。ただ、ほかのハディースとの総合的な解釈から、それも水が少量の場合と判断される。(つまり、川や海、湖では中に入ってグスルをしてもその水は不浄にならない。)

④ムタナッジス(متنجس汚い水)

A-少量の場合
B-多量の場合

A-少量の場合とは、「クッラターン(192.857kgقُلَّتَان)よりも少ない場合。(四方形の入れ物で言えば、縦・横・深さが約60cmのもの)そういった場合は、色やにおい、味が変わらなくても、汚物が落ちただけで汚い水に化したとみなされる。

《根拠》

ー「教友アブドゥッラー・イブン・’ウマル(رضى الله عنه)によると、「草食動物や肉食動物がそこを通うような水について尋ねられると、アッラーのみ使い(صللى الله عليه و سلم)は『水がクッラターン以上ある場合は、汚物がつくことはない』と言われた。」(アブー・ダーウード、ティルミズィー、ナサーイー、イブヌ・マージャー、アハマド)
⇒もし水がクッラターン(約193kg)よりも少ない場合は、水の特徴が変わらなくても不浄となりうる。(少しでも汚物が入ったら、それは不浄になってしまう。)

ー「教友アブー・フライラ(رضى الله عنه)によると、アッラーのみ使い(صللى الله عليه و سلم)は次のように言われた。『あなた方は眠りから覚めた時、三度洗わない限り、水容器の中に手を入れてはなりません。なぜなら、夜の間に手に何が触れたかわからないからです』と」(ムスリム)
⇒目には見えないが手の汚れが水を汚してしまうことを懸念して、寝起きの者がそのまま手を容器の中に入れることを禁じられた。目に見えない汚れは、水の特徴を何も変えないのに、である。つまり、水は汚れ(表面的な汚れと内面的な汚れ)と接しただけでも不浄となってしまいかねない、ということを示している。

B-多量の場合は「クッラターン(192.857kg)」あるいはそれ以上の場合。そういった場合は、汚物が落ちただけでは汚い水とはならない。ただ、水の特徴(におい、味、色)のどれかひとつでも変わった場合は、多量でも不浄となる。

《根拠》
イジュマーゥ(イスラーム学者たちの合意)
シャーフィイー学派の中興の祖ナワウィー師が「マジュムーウ(1/160)」で言うには、「イブヌ・=ル=ムンズィル曰く、水が少量であれ、多量であれ、汚物が落ちて『味』なり、『色』なり、『におい』なり変わった場合は不浄となる、と(先達は)合意した。」

⑤マシュクーク・フィー・タフーリーヤティヒ(مشكوك في طهوريته清いかどうか疑わしい水)
ロバやラバが飲んだ水。
どうしてもほかに水がない場合は、それでウドゥーをしてタヤンムムをし、礼拝すればよい。(ウドゥーを先にしたほうがよい。ズファル曰く、「タヤンムムよりもウドゥーを先にしなけばならない」)

《根拠》
ロバの肉はハラールであるとするハディースもあれば、ハラームであるとするハディースもあるため。根拠となるハディースが矛盾しているため、「疑わしい」とみなされる。また、ラバは雄ロバと雌馬との雑種であり、同じ規定が当てはめられる。

☆洗浄に使える水(シャフィイー学派)
タハーラ(お清め)に使えるのは、①と②だけである。
③はタハーラ以外で飲んだり、料理に使ったりはできるが、ウドゥーやグスルには使えない。
④は汚いから何にも使えない。

☆ウドゥーに使えない水
ー樹液や果実水(たとえ搾ったものではなく、ひとりでに出てきたものであってもーしかしながら、「ヒダーヤ」の著者や「カンズ」の解説者、「タンウィール」の解説者は、ひとりでに出てきたものは樹液や果実水でもウドゥーに使ってよりという見解をとる。搾ったものは、全員一致で’ウドゥーには使えないとみなされる。
ー料理や別のものが混じることで水本来の性質が失われてしまった水。
⇒水本来の性質が失われる混ざり方とは・・・
⇒固形物(例えば果実や木の葉)と混じった場合→水の持つ流動性が失われた状態。(色や味、においが変わっても構わない)
⇒液体と混じった場合→二種類の特徴しかもたない液体(例えば牛乳のように色と味はあってもにおいはないもの)の特徴がひとつでも出てきた場合、あるいは三種類の特徴を持つ液体(例えば酢)の特徴が二つ出てきた場合
⇒特徴のない液体、ウドゥーなどで使用済みの水やニオイなしのバラ水など)と混ざった場合
→重さ(分量)で判断→3リットルのうち2リットルが使用済みの水で、もう1リットルがただの水の場合(逆なら使える・・・きれいな水の方が2/3以上だったら使える)

☆唾液(سُؤر)に関する規定(ハナフィー学派)
少量の水の場合、動物がそれを飲むと「唾液」と呼ばれて四つの種類に分けられる。
①ターヒル・ムタッヒル(清く、清められるもの)
人間や馬、あるはしび肉を食べることができる動物(羊や牛など)が飲んだ水。
(ただ、水を飲んだ人なり動物なりの口の中に汚物が入っていた場合は別である。例えば豚肉を食べたり、酒を飲んだりした直後に飲んだ水は、「汚い水」となってしまう。)
⇒時間がたって痕跡がなくなれば大丈夫→アブー・ハニーファ師とアブ・ユースフ師
⇒洗わなければいずれにせよ「不浄」となる→ムハンマド師

②ナジス(汚いもの)・・・使用禁止
犬やブタ、ヒョウやオオカミ、トラやサルなどの肉食動物が飲んだ水。

③ほかの水がある場合は避けるべきもの
ネコや放し飼いの鶏、タカやワシなどの猛禽類、ネズミが飲んだ水。

④清いかどうか疑わしいもの
ラバやロバが飲んだ水。もしそれ以外に水がなければ、それでウドゥーをし。それからタヤンムムをして礼拝すればよい。

アッラーのご加護と祝福がありますように
و السلام

フィクフの初歩の初歩②

2004-11-26 | ファトワ&フィクフ
يسم الله الرحمان الرحيم

神事編・タハーラ(お清め)

☆タハーラ(طهارة)の意味

本来の言葉の意味は、「清潔さ」(نظيف)。そこから汚物などの表面的な汚れや、恥などの内面的な汚れから解き放つことを意味する。
例えば、「水で清めた」(تطهر بِالْمَاء)⇒「汚物から清浄になった」
    「嫉妬を清めた」(تطهر من الحسدِ)⇒「嫉妬から解放された」

シャリーア(イスラームの決まりごと)での意味は、「それによって礼拝することが許されるようになる行為(礼拝するのと同じような前提条件を必要とする行為もそれに準ずる・・・例えば、カアバ神殿を回るタワーフや聖クル’アーンの読誦)。」
例えば、①ウドゥー(小さいお清めーー身体の一部を水で洗う行為)がない場合の’ウドゥー
    ②グスル(大きいお清めーー全身を水で洗う行為)が義務付けられる場合のグスル
    ③服や身体、その場所から汚物を取り除くこと。

☆タハーラの根拠
《聖クル’アーンより》

ー『信仰する者よ,あなたがたが礼拝に立つ時は,顔と,両手を肘まで洗い,頭を撫で,両足を踝まで(洗え)。』(5:6)

ー『あなたがたがもし大汚の時は,全身の添浴をしなさい。』(5:6)

ー『またあなたの衣を清潔に保ちなさい。』(74:4)

ー『誠にアッラーは,悔悟して不断に(かれに)帰る者を愛でられ,また純潔の者を愛される。』(2:222)

《預言者ムハンマドさまのお言葉よりーハディースより》

ー「清浄であることは信仰の半分を満たすことです。」(ムスリム)

ー「全てのムスリムにとって、七日に一度、頭と体を洗うことは義務である」(アル=ブハーリー、ムスリム)

ー「フィトラ(天性)には次の五つがあり、それは割礼すること、恥毛を剃ること、口髭を切り揃えること、爪を切ること、脇毛を抜くことである」(アル=ブハーリー、ムスリム)

「切り揃える(قَصُّ)」は当時の意味では「切る」だけではなく「限りなく短くする」という意味もあり、つまりは「剃る」こととも解釈できる。顎鬚を残すことは、スンナ(預言者さまは、顎から拳一握りのところまで伸ばしていられた)であり、ユダヤ教徒やキリスト教徒との違いを際立たせる目的だった。だが、現在は顎鬚を伸ばしているユダヤ教徒もキリスト教徒もいるので、その本来の目的は機能していないのではないかとも思える。また「清潔さ」「美しさ」というイスラーム的な観点からワッハービ派の一部に見られる「鬚ぼうぼう」はイスラーム的かどうかは疑問視されるのでは。中央アジア出身者のハディース学者アル=ブハーリーは、髭は殆ど生えていなかったと言う。(エジプトで見られる彼の肖像画もどきには、顎鬚があるが、あれは後世の人が勝手にそう描いたと考えられる。)

☆タハーラが義務付けられた英知(一部のみ)
①清潔さは、人間が本来好み、求めるもので、人は自然と汚れや醜いものから身を遠ざけ、きれいなものを好むから。
اَلاِسْلاَمُ دِيْنُ الْفِطْرَةِ←イスラームは天性の教え

②ムスリムの尊厳を守るため。(人は清潔な人を好み、不潔な人を嫌うもの)
・・・しかし清潔に保つためには、お金がかかる。イスラームの国は第三世界が多いので、金銭的な理由で「清潔さ」を保持できない状態にある所も残念ながらある。

③健康を守るため。
 清潔であることは、病気から身を守る最大の手段である、不潔であること以上に病気を蔓延させる原因となるものはない。
・・・ヨーロッパで大流行したペストも不潔が大きな原因であった。

④清らかな状態で至高の主アッラーの御前に立つため。
 例えばお清めが義務付けられる礼拝は、人が自らの主に呼びかけ、祈りを捧げる機会である。だからアッラーと対峙するにあたっては、表面的にも、内面的にも清くあらねばならない。
至高なるアッラーは、自らを清める者がお好きなのだから。

☆タハーラに使える水の種類
①天空の水(ماء السماءマーウ=ッ=サマー)、つまり雨水(مطرマタル)
②海水(ماء البحرマーウ=ル=バハル)
③井戸水(ماء البئرマーウ=ル=ビ・イル)
④川の水(ماء النهرマーウ=ル=ナハル)
⑤泉の水(ماء العينマーウ=ル=’アイン)
⑥雪水(ماء الثلجマーウ=ル=サルジュ)
⑦雹水(ماء البردマーウ=ル=バラド)

《ポイント》
空から降って来た水、あるいは大地から湧いた水

《根拠》
ー『われは、天から清浄な雨を降らす。』(25:48)
ー『われは、天から雨を降らせ,それであなたがたを清めるためである』(8:11)

ー教友アブー・フライラ(رضى الله عنه)によると
「あるときアッラーの御使いさま(صلى الله عليه و سلم)にある男が尋ねた『アッラーのみ使いさま、私たちは船で海を行き来しますが、水は少量しか持っていけません。ですから’ウドゥーをしたとなると、(飲み水を失って)のどの渇きに苦しむことになります。海の水でウドゥーしてもよろしいでしょうか。」そこでアッラーの御使いさま(صلى الله عليه و سلم)はお答えになったと言います。『それ(海)の水は清らかで、それの死せるもの(海の中で死んだもの)は食べてもよいハラールです。』」
(アブー・ダーウード、ティルミズィー、ナサーイー、イブヌ・マージャ、アフマド)


アッラーのご加護と祝福がありますように
و السلام

フィクフの初歩の初歩①

2004-11-25 | ファトワ&フィクフ
بسم الله الرحمان الرحيم

「フィクフ」(فقه)の語根は「ファキハ(فقه)」で、「ファヒマ(فهم)」の同義語で「理解する」という意味です。能動分詞の「ファキーフ(فقيه)」は「イスラームの教えに深い理解のある人」を意味します。
من يرد الله يه خيرا يفقهه في الدين انما العلم بالتعلم
ー「アッラーがよかれと思う者には、イスラームのフィクフをお授けになるだろう。誠に知識は学ぶことによって得られる」(アル=ブハーリー)

انما يخشى الله عباده العلمؤ
ー『アッラーのしもべの中で知識のある者だけがかれを畏れる。』(35:28)

理解に長けた人の徴としては「礼拝にかける時間が長く、口にする話が短い」(ムスリム)

専門用語としての「フィクフ(فقه)の意味は

①シャリーアの諸規則を知ること。
いろいろな行為が義務付けられている人(ムスリム成人男女)の言動に関わるシャリーアの諸規則を知ること。
詳細にわたる根拠によって導き出されたもの。

その根拠とされるものには4つあり、
聖クル’アーン、スンナ(預言者さまの言行)、イジュマーゥ(合意)、キヤース(またはイジュティハード・・類推)

②①が浸透するに従い「シャリーアの諸規則そのもの」を意味するようになる。

イジュマーが法源とされるには、現在は委員会に参加したウラマーの合意によるが、本来はウラマー全員の合意が必要とされた。一人でもサハーバ(教友)が異議を唱えれば、イジュマーは成立しなかった。

ان شاء الله

次回はフィクフは「お清め(طهارة)」についての講座でメモしたことを紹介します。

アッラーのご加護と祝福がありますように
و السلام