満月通信

「満月(バドル)」とは「美しくて目立つこと」心(カリブ)も美しくなるような交流の場になるといいですね。

イスラームにおける子供の教育

2009-05-30 | ハルカ
بسم الله الرحمان الرحيم


السلام عليكم

イスラームは子供に重点をおいている
イスラームの教育は子供が生まれる前から始まっている

婚約するとき、相手の女性の美しさではなく自分の子供の母親に相応しい人を選ぶべきである
「もし男性が女性を選ぶなら自分の精子がくっつく理性ある卵子の持ち主を選びなさい」

夫婦関係を結ぶ時も「ビスミッラー」と言いい、その後、ドゥアーを言う。アッラーに祝福され、アッラーに自分と自分の妻がシャイターンから守ってもらうように頼む。

妊娠した時は
《「主よ、わたしは、この胎内に宿ったものを、あなたに奉仕のために捧げます。どうかわたしからそれを御受け入れ下さい。本当にあなたは全聴にして全知であられます。」 》(3-35)の節を読んでドゥアーをする(アッラーのために産むというニーヤを確認する)

胎児には母親の精神状態が生まれてからも影響があるので、心をいつも安らかに、そして信仰心を持つように。

生まれてすぐからイスラームの教育は始まる

右耳にアザーンを聞かせ左耳にイカーマを聞かせる。はじめてこの世で聞く言葉は「アッラーの偉大さを讃える礼拝の呼びかけ」となる

幼児時代は2歳過ぎると個人の教育が始まる

教育は慈悲に基づいたやり方で行うこと。大きな声でどなったり、ぶったりしないこと。悪いことをしても感情でしかってはいけない。子供は良いことか悪いことが判断が出来ず、ただ親が怒ったこと(それに対しての恐怖)しか記憶に残らないからである。スパルタ式はその時は効果があるように見えるが長じて悪い影響が出てくる。

クルアーンでは子供のことを以下のように形容している
1. この世の飾り・・飾りとは「美しくすること」、家族の生活が子供によって美しく輝いたものになる。夫婦の間で少々の行き違いやいざこざがあっても子供の存在が解消してくれる

2.フィトナ(誘惑)

3.敵

全ての子供が2&3という意味ではなく、逆にそうならないように子供を育てなさいという警告である

親が子供をどう育てるかで参考になるのは
《さてルクマーンが、自分の息子を戒めてこう言った時を思い起しなさい。「息子よ、・・」》
でルクマーンが息子に呼びかけているのは「ヤー ブナイヤ」というアラビア語で「ヤー イブニー」よりもずっと丁寧で優しさを込めた呼び方である

自分の子供でも丁寧な言葉で、子供といえども一人の人間として尊重して扱う。

どの親でも自分の子供が良い子になってほしいと思っているが、それが上手くいかないのは教育の方法を知らないからである

子供の間違いを正すだけではなく、子供の中に価値観を受け付けるのが教育である。

精神的・理性的・身体的・知的・内面的・社会的などさまざまな面から教育すること

1.身体面からの教育

強い健康な子供に育てる
「アッラーは強い信仰者を弱い信仰者より好まれる」

健康面では時間を決めて規則的に食事を与える・・泣く度にぐずる度に食べものをやる親がいるが、それはよくない。
また食事の際にもイスラームのエチケットやスンナを教える
立っていたら、座らせる。一気にのもうとしたら、2・3回に分けて飲むようにさせる

子供の要求を満たす(飲食など)間も子供の様子を見て、子供の行儀などを正す

眠り・・朝早くおきて、夜早くねる
自分が朝ゆっくり起きたいために、子供も夜遅くまで起こしている親がいるが、子供の脳にはよくない。母親自身も教育の知識がなければいけない、時間をどう使うか

2.知的面からの教育

母親は自分の時間を費やして子供と対話すること
イスラームの情報を教えなければならない。特に非イスラーム圏では母親一人ではイスラームの教育はできないので、家の者以外の第三者(家族以外の者)である先生(よいムスリムでイスラームの知識のある人)を週1回ぐらい招いて、学ぶ必要がある
イスラームが繁栄していた時代には子供を先生のところに送って、先生に代金を払って教えてもらっていたが、今はそういうことが難しくなっている

母親がいくら教えても就学年齢に達するとその教えたものは半分ぐらいしか子供に残らず、同年齢の子供から影響を受けるようになる

子供が自分で友人を選ぶ前に、イスラームの先生を選んだ段階で、そこで同じように学んでいる子供を自分の子供の友達にしておくこと

そうすれば学校に入ってもその子たちとの友人関係が継続し、学校で悪い子を選ぶことがない。

就学前にそのようなイスラームを共に学べんでいるような子を友人にできなかった場合は、就学してからできた友人とどういうつきあいをしているか母親は密かに知っていなければならない

子供が学校でいろいろな考えを吸収してしまい、その中にはイスラーム的ではないこともあるので、母親は英知を使って(怒ったり叱ったりしないで)子供の頭からそういう考えを消さなければならない。

子供は現代では18歳ぐらいになったら大人とみなされて、もう大人だから好きなようにしなさいという風潮があり、若者達が家族から離れ、家族は若者が何をしているかわからないということがあるが、これは間違いで、イスラームでは子供はいくつになっても親にとっては子供である。
若者だけでいつも集まって年長者が周りにいないということは「賢さ」が学べない

大きくなってから厳しくすると親の前ではいい子でいるが親の監視の行き届かないところでは何をしているかわからないという状態になる危険がある

間違った考えを正すのは難しい。

いくら子供が大きくなっても母親とは何でも話せるいい関係を続け、いつでも子供から相談をしてもらえるようにしておく

これはイバーダ(礼拝や断食など)と同じぐらい重要なアッラーからの命令であり義務である。

若者が酒を飲んだり、見てはいけないようなハラームな映画を見たりすると、生産性がなくなり社会に貢献できなくなる。

3.精神面からの教育

身体的・知的面教育に比べると内面は表面に現れにくいが、それを怠るのはとても危険である
勇気を持つこと、はきはき応えること、人に親切にすることなど

恥ずかしさや臆病さはそれをその要因を取り除くようにしなければならない

預言者さま(صلى الله عليه و سلم)の右にはいつもアブー・バクル(رضى الله عنه)座っていて彼に飲み物や食べ物を与えて、それから更にその右の者に渡していた。ある日、いつものように右に飲み物を渡そうとするとそこには小さい子が座っていたので、預言者さま(صلى الله عليه و سلم)はその子に丁寧な言い方で「最初にアブー・バクルに渡してもいいか」と許可を求めた。子供は、「いいえ、私は預言者さま(صلى الله عليه و سلم)のすぐあとにいただきたいです」と断り、それを聞いた預言者さま(صلى الله عليه و سلم)は彼の望むとおり、手渡した。

預言者さま(صلى الله عليه و سلم)大人の中にいる子供をぞんざいに扱わなかった、また子供も大人の中でもはずかしがらずに自分の主張をした。

子供にたちにはそういう面を指導する先生が必要。子供の成長に影響する。

ウマル(رضى الله عنه)がカリーファの時代、みんなから恐れられていたので、子供達は彼が来ると、恐がって逃げた。しかしある一人の子供は逃げなかったので、ウマル(رضى الله عنه)は「どうして逃げないのだ」と聞くと「私は逃げるような悪いことは何もしていない。それに道は広いから私がどく必要もない」と礼儀を持ってはきはき理性的に応えた(これはきちんと教育を受けていたから)

タービイーンの時代、ウマル・イブン・アブド=ル=アジーズがカリーファになったお祝いに著名な人々がフトバをしに来た。フトバをする人々の中に子供がいたので、追い出そうとしたした大人に対して、その子供は「人間は年齢ではなく舌と心で評価される」と反論した。
「心がきちんとしていてそれを舌が表現できるなら、年長者を差し置いて、ウマル・イブン・アブド=ル=アジーズがカリーファになったように私もフトバができる」と言った。

はずかしがっていたらその度に母親は正していくこと。
そうしなければ大きくなって不義不正や権利の侵害に対してものが言えない大人になってしまう。
礼儀をもった勇気を身につけさせること  勇気だけでは無作法であり、勇気のない礼儀だけでは中身がない

こわがりやすい性格も小さいうちに正すこと、大きくなってから矯正するのは難しい

よく大人たちが犯罪事件やギャングの話などのこわい話やその手の作り話をしていることがあるが、これを子供が聞いてしまい、悪い影響を与えるので、子供の前ではその手の話はしないこと

怪我などをおそれて子供に何もさせないで禁じてしまう親がいるがそうすると子供は失敗をおそれて何もできなくなってしまう

昔の学者は、「子供が転んで血が出ていなかったら母親は遠くから見ているだけで、子供自身で起き上がってほこりをとるようにさせなさい」と言っていた

子供のフィトラは転んだときにまわりを見る。誰もいなかったらそのまま起き上がる。でも母親が大きい声を出して近づくと泣き出す。

子供が小さいときに母親(母親自身は忘れている)がどなったりしていたことがトラウマになってしまうこともある

ある子供が預言者さま(صلى الله عليه و سلم)の膝の上にいたとき、おもらしをしたことがあり、預言者さま(صلى الله عليه و سلم)の服を汚したことがあった。その子の母親は「キャー」と言って子供を預言者さま(صلى الله عليه و سلم)から引き剥がした。その時預言者さま(صلى الله عليه و سلم)は静かにこう言われた。「服は洗えばきれいになるが、子供の心に植えつけられた恐怖というしみはなくならない」と。

子供が掃除機を音を恐がったら、その正体を教えて「恐くないんだ」と教えること

「自分は劣っているという」という劣等感をもっている子供がいるが母親は観察してそれを察知してすばやく対処しなければならない

母親がよかれと思ったことで逆に劣等感を持ってしまうことがある
例えば学校に行く時は運転手つきの車で送り、買い物にはいつも誰か付き添う人がいる。他の子供は一人で学校に行き、一人で買い物に行っているのを見て自分は何もできないと劣等感を抱く子もいる

身体的な欠陥をもっている場合は、そういう身体的な問題を抱えた偉大な人の話を聞かせ、子供に自信を持たせる

自分の周りの子供が裕福で、ある子だけ貧しい・盗みをするかもしれない。他の子供が妬むような贅沢なものを持たせないこと。
父親がいない場合は、母親が気をつけて子供を見る。子供に預言者さま(صلى الله عليه و سلم)生まれた時にはお父さんがいなかったし、またその後お母さんも亡くなったと話してやる、それでも預言者さま(صلى الله عليه و سلم)は今でも世界中の人から尊敬され、愛されているという話をして自信を持たせる

イスラームでは母親の仕事は子供の教育である。人間を形成するという偉大な仕事アッラーから命じられている(任されている)。
他の仕事は夫に任せればいい。
父親・・物質的・身体的なものを育てる能力を与えられた
母親・・一人前の人間を育てる能力を与えられた

個々の人間をつくる母親はとても大切なものであり、もしその社会に送り出す人間をつくる母親が駄目ならその社会も駄目になってしまう。

すべての偉大な人物の裏には偉大な母親がいる
母親の役目→立派な人間を育てて社会に送り出すこと

そのためには結婚する前から母親になる女性は教育が必要。子育ては女性に与えられた役目なので、その知識をもっていなければならない

医者になるのには何年もかかる、特に名医は。
あなたは母親となるのに何年勉強しましたか。

ウンム(母親)というのは家族にいる一人だけのことではなく深い意味をもつ偉大な言葉です。ウンムには「拠り所、避難所、自分を守ってくれる」という意味がある。イマームという言葉もウンムからきている。

アッラーの同意がありますように
والسلام

イスラームにおける結婚(妻の権利=夫の義務)

2009-05-22 | ハルカ
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم

女性の勉強会では「妻の義務」についてだけ伝えています。男性の義務(女性の権利)については男性の勉強会で話されるのが望ましいからです。それそれが自分の義務を果たすことに熱心である社会は成功し、自分の権利ばかり主張する社会は失敗します。同様に成功する夫婦というのは自分の義務を気にしている夫婦で、そういう夫婦には愛情がめばえてきます。

今回夫の義務を日本のシスターにお話するのは、ムスリムの夫自身が自分の義務を知らないとその息子に伝えることができず、次世代の健全な家庭つくりに支障になる惧れがあるからです。

日本のシスターたちはここでお話することを夫への糾弾材料にするのではなく、次世代の育成に役立つものとして捉えて下さい。

夫の義務というのは基本的に夫婦双方にとっても義務であることが多いがとくに夫に課せられるものです。

アッラーが仰っています。夫は妻のことが好きでなくても、丁寧に扱いなさい、嫌いでもよく遇すればよいことがあると

《出来るだけ仲良く、かの女らと暮しなさい。あなたがたが、かの女らを嫌っても(忍耐しなさい)。そのうち(嫌っている点)にアッラーからよいことを授かるであろう。 》(4:19)

アッラーの命令のとりこになっている者は、現世で幸福を得て、来世でも報奨を得られる

感情のとりこになっている者は、現世では失敗し、来世でも報奨を得られない

離婚の際にも妻の権利を傷つけずに穏便に別れるように

妻を痛めつけて妻のほうから離婚を申し立てするように仕向けマハル(婚資)を放棄させるなとクルアーンにも書いてある

《あなたがたが、かの女らに与えたマハルの一部を取り戻すために、かの女らを手荒に扱ってはならない。》(4-19)

ハディースには「女性に親切にしろ」それを「言い伝えていけ」というのがある。「女性に関してアッラーを畏れなさい」というハディースもある。

〈アブー・フライラ(رضى الله عنه)によると、アッラーの御使い(صلى الله عليه و سلم)は言われた。「女性によくしなさい。 女性は肋骨から創られました。肋骨の一番湾曲した部分が 一番高い部分です。もしそれを真っすぐに伸ばそうとすれ ば折ってしまいます。放っておけば曲がったままです。で すから、女性にはよくしなさい。」〉(アル=ブハーリーによる伝承)

〈アーイシャ(رضى الله عنها)によると、アッラーの御使い(صلى الله عليه و سلم)は言われた。「最も完全な信仰を持っ た信者とは、最も性格がよく、最も家族に優しい者のこと です。」〉(ア=ッ=ティルミズィーによる伝承)


どうやって実際したらいいのか

1.妻を呼ぶとき彼女の好む呼び方で呼んで上げること

「おい」とか「のろま」とか「おデブ」とか相手の嫌がる呼び方では呼ばないこと。人前でも。

アーイシャという女性に「アイーユシュ」という呼び方もあるが本人がそれを望むならそう呼び本人が「アーイシャ」と呼ばれたいならそう呼んであげること

夫は仕事から帰ってきて疲れていても、妻の気持ちを尊重して話をきいてあげること
(妻は殆ど他の人を接触せずに家にいる場合、夫だけが話し相手や相談相手だったりするので邪険に扱わないこと)

妻がいいことをしたら「すごいね」「おいしいね」と感情を込めていってあげること→妻は励みになり更によいことをしようとする

男性はこういう細かいことを気にしないが、こういう夫の一言がどれだけ妻の励みになるかを意識すること

2.社会的に大きな責任があるからといって妻の感情を無視せずに大切にすること

預言者さま(صلى الله عليه و سلم)はイスラームを人類へダウワするという大きな責務があったが、妻を大切にしていた

アーイシャ(رضى الله عنها)がまだ幼い時、二人でかけっことした、その時は身軽な彼女が勝った。数年後、彼女が身体が大きくなったとき、再びかけっこをして、今度は預言者さま(صلى الله عليه و سلم)が勝って、「これは数年前に勝ったお返しだ」と言われた。

かけっこという子供が喜びそうな遊びを一緒にして、かつそのことを数年経っても覚えていた。アーイシャ(رضى الله عنها)はこのことがよほど嬉しかったらしく、預言者さま(صلى الله عليه و سلم)がお亡くなりなってかなり経ってからもこの話をしていた。

3.妻に相談すること

妻の意見を採用しようが採用しまいが、妻に相談し、彼女の意見も聞いてみること

フダイビーヤの誓いの際、ウムラの件で、信者達に不満があったとき、預言者さま(صلى الله عليه و سلم)は妻のウンム・サラマー(رضى الله عنها)に相談し彼女の助言を採用した。

妻に相談し、その意見と逆のことをしなさいというハディースがあるという人がいるが、そういうハディースはなく、間違いである。

4.間違いをしても細かいことはいわず、大きな間違いだけ正す。

預言者さま(صلى الله عليه و سلم)はアーイシャ(رضى الله عنها)に「あなたが怒っているときと怒っていないときは、すぐわかる。怒っていないときは『アッラーとアッラーのみ使いさまに誓って』と私の名前を言うが怒っているときは『カーバの主に誓って』というのだから」
と彼女が冷静のときに言われた。

いちいち「どうして私の名前を言わないのだ」と問い詰めたりなさならかった。

5.適度なやきもちをやく

嫉妬しすぎるのも駄目、全くしないのも駄目

アッラーが嫌う嫉妬の種類がハディースに書かれている
「男が疑う必要のないことで家族を疑うこと」
である。

6.生活費をもつ

女性は生活費を負担するべきではない。婚前は父親が、結婚後は夫が負担する。

夫の収入によって要求すること
サハーバが預言者さま(صلى الله عليه و سلم)に尋ねた
あなたが食べたら同じように彼女に食べさせなさい
あなたが着たら同じように彼女に着せなさい

外食したら、妻にも同じようなチャンスを与えること。一緒に外食できないときは、その店のものを持ち帰って食べさせるなど。

ただ夫に従わないような妻の場合は、生活費を払う必要がない
いい妻に戻ったら、生活費を払うこと

7.妻にイスラームの学習ができる機会を与えること

他の女性にいい見本があるなら、その彼女に倣うように学習させる

いい見本がなく、モスクに行っても益にならない場合は、夫自ら妻を教え、他の女性のいい見本になるように妻をし、他の女性が妻の許に習いに来るようにさせる

他の誰ともあわせないで家に閉じ込めることはよくない。社会とも関わりがあるようにさせること


アッラーの同意がありますように

والسلام


イスラームにおける結婚について(夫の権利=妻の義務)

2009-05-21 | ハルカ
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم

ウスラأُسْرَةٌ(家族)は大切なもの 
アーダム(عليه السلام)とハッワーの子孫である人間をアッラーは家族にしないで個々別々の形にすることもおできにになったが、人間への手紙(啓示)で人間には家族が必要であるとお伝えになった

その家族の中にも規則がある

男性に対しての規則と女性に対しての規則と双方に定められた規則があり、遂行すれば天国が約束され、怠れば地獄が用意されているだけではなく、その規則に従うことで家族がうまくいく、その世でもあの世でも幸せになれる

それこそアッラーがくださった英知である

結婚は男性が相手を選ぶときの留意すべきことと女性が相手を選ぶときに留意すべきことがある

女性が男性を選ぶときには大切なことはその男性が
・信仰がしっかりしていること
・性格がいいこと
であり、

男性が女性を選ぶときに大切なことはその女性が
・信仰がしっかりしていること
・性格がいいこと
・女性の家族がしっかりしていること・・子育てをするときその女性の育った環境が影響を与えるから
・家系がいいこと
である

女性が美しいことも選択のひとつではあるが、イスラームではそんなに優先されない

イスラームは離婚は望まないのでアッラーは上記のような規則を設けられた。

離婚する夫婦は、結婚するとき選んだ理由が↑に従っていない場合が多い。

顔だけを見て好きになって結婚している人たちは、自分達がつくる家族が社会の基礎になるものだとわかっていない。男性が夫としてしなければならないことを怠ったり、女性が妻としてすることを怠ったりしたことが離婚の原因になっている。
アッラーがおつくりになった規則は、全ての人間に、また全ての時代に適ったものであり、それに従っていれば天国にいける

男性の義務と権利
女性の義務と権利
どちらも同等なものであり、補完的なものである

お互いがお互いを思いやって生活していくこと、自分が幸せになることよりも相手が幸せになることを望み、結婚とは相手を幸せにすること、イスラーム法の中で、一生懸命相手を満足させることである

イスラーム法に反する(アッラーに背く)ことは、夫婦の間でも、先生、国の首長でも従うことはない

夫に「礼拝するな」とか「外出時にヒジャーブをするな」と言われても従うことはない

結婚は契約。。お互いに共有している権利として
他の女性とは許されないことが妻とはできる
他の男性とは許されないことが夫とはできる
ことなので、夫から望まれたときは、ハイド(生理中)の時以外は、拒まずに応えること

あるサハーバの妻が預言者さま(صلى الله عليه و سلم)に「夫は毎日昼はサウム(断食)をし、夜は礼拝をしている」と訴えにきた。それで預言者さま(صلى الله عليه و سلم)はそのサハーバに「あなたの身体の権利は妻の権利でもあるから↑のイバーダを毎日ではなく一日おきにするように」と言われた。

2代めのカリーファであるウマル・イブン・アル=ハッターブ(رضى الله عنه)にもサハーバの妻が「夫が昼はサウムをして夜は礼拝をしている」と同様に訴えにきたが、ウマル(رضى الله عنه)は「素晴らしいご主人だ」と褒めた。他の人が、彼に「彼女は文句にきているのですよ」と教えてくれたので、預言者さま(صلى الله عليه و سلم)のアドバイスを思い出し、同様のアドバイスを当のサハーバに言われた。

預言者さま(صلى الله عليه و سلم)は夫婦間の楽しみをサダカと譬えられた。妻ではない女性との性交渉はハラームであるが、妻とだったらサワーブ(アッラーからの報奨)があると言われた。

また夫婦は相手が亡くなった場合、遺産相続の権利がある

夫の権利とはすなわち妻の義務である

1.妻は夫に従うこと

女性のイバーダは男性に従っていなかったら受け入れられない(スンナの礼拝やスンナの断食など)→スンナ行為より夫に従うほうがサワーブがあるということ

イスラーム集団にはリーダーが必要であり、リーダーに他のものは従うのが集団としてうまく機能する

サハーバが二人で旅するときでもどちらかをリーダーと決めなさいと預言者さま(صلى الله عليه و سلم)は言われた。

リーダーなしでの集団を認めていないので夫婦・家族という長い時間一緒にすごす集団にはリーダーが必要である

「従う」というのは何でも言ったことにいいなりになるのではなく、決定権を委ねるということである
女性は人生の中で女性にしかできない定められた義務(家を守ることや子育てのこと)があり、その義務の遂行とリーダーであることを同時にはできないことがある

アッラーが男性に命じたのは家族全体の責任を負うことである
女性には出産・子育てという義務があり、それを果たすだけでも女性は日々忙しいので、社会とかかわっていくようになると更に忙しくなってしまう。女性は男性の保護のもとにいる方が心が安らかである
アッラーは男性に「責任感」という感情をお与えになった。そのようにアッラーは男性をそして女性をお創りになった。

アッラーは夫婦の意見が異なる場合は、決定は男性に任せておきなさいと言われた。

男性は家族を扶養する義務があるので、家族の費用は男性がもつ
女性自身の財産やお金は女性のものであるから、家族扶養の費用に充てる義務はない

2.夫婦間の秘密を他人に話さないこと

妻は家を守ることが義務であるので、夫の嫌う人を家に入れてはいけない

また夫婦の間で問題がおこった場合でも、イスラーム法に従って問題解決できる人物以外に話すことは、単なる「愚痴」になるので、気をつけること。相談する相手を吟味すること。相談される相手は夫婦の間を修復することを第一に考える人物でなければならない。

相談する場合も、「私が」「夫が」と人物特定しないで、「こういう人がいて」「こういう場合」と第三者のような言い方で相談するとよい(これは豊田モスクの講師が言ったこと)


3.妻をいちばんきれいな状態でみることは夫の権利であり妻の義務である

4.妻が興味のある男性は夫だけ

(つまりアイドルにうつつを抜かす奥さんはイスラーム的にはNGだということですね。)

5.ベッドを別にしない

カバーイル(大きな罪)
夫と喧嘩して他の部屋で妻が寝るのはハラームであるので、そうしないように気をつけること


アッラーを信じる女の信者は夫が嫌っている人を家に入れることをしません。(禁じられています)
アッラーを信じる女の信者は夫婦間に何事も入れません。
(夫婦の間の問題で誰かにアドバイスをしてもらっても、それが夫婦の間にヒビが入るようなことはいけません)(夫のベッドの誘いは断りません、拒みません)←ベッドを拒んだ妻に天使は朝まで「彼女に呪いがありますように」と言います。
一番よい女性(妻)は夫がみたとき喜びを感じ夫が望んだときそれに従う女性で夫の留守中に自分自身と家を守る女性です。

いい妻になるには

1人間としてよい人であること(男女とも)
《本当にムスリムの男と女、信仰する男と女、献身的な男と女、正直な男と女、堅忍な男と女、謙虚な男と女、施しをする男と女、斎戒(断食)する男と女、貞節な男と女、アッラーを多く唱念する男と女、これらの者のために、アッラーは罪を赦し、偉大な報奨を準備なされる。》
(33-35)

2 天国の女性(フール)の性質はそのまま良い妻の性質である


視線が度を越えない→他の男性をじっと見ない

「天国にいる乙女(フール)」クルアーンでは↓のように書かれている
《قاصرات الطرف》
《眼差しを押さえた(淑やかな)乙女たち》
「カサラقصر(制限する)」「タルフطرف(目)」
彼女達にとっては、彼らが美しいから、自分のパートナーしか目に入らない、彼ら以外を見ない女性たちのこと。
《مقصورات》
《美しい乙女は永遠の天幕に(引き籠る)》(55:72)
「マクスール(制限された)」は受動分詞で、名詞「マクスーラ(仕切り席、私室)」の複数形は「マクスーラートمقصورات」引き篭っているのは、配偶者に首っ引きで貞淑ある(マハスーナート)という意味だそうです。
《عربا أترابا》
《愛しい、同じ年配の者》(56:37)
「ウルブعرب」は「アルブ」(熱愛し)「ウルーブعروب」(汚れていない、純粋な)の複数形。従順で、夫に対してもベールをしているほどの女性だそうです。
《خيرات حسان》
《そこには素晴しく美しい乙女がいる。》(55:70)
「ハイラートخيرات」は「ハイラخيرة(最良の人)の複数形で「ヒサーンحسان」は「ハサナحسن(美しい)」の複数形で、性質・育ち・栄誉などに優れ。顔立ちも美しいもののことです。

参考資料「アル=ジャーラーライン」(中田香織さん訳)「イスラームの天国」(水谷周さん訳) جزاءهما الله خيرا


美を他の人に見せない(夫だけ)→外に行く時だけ着飾って家では構わないのは対極をなす行為である、他の人には飾りはみせない
清いこと
*内側の清さ→他の男性に惹かれないこと 夫に嫉妬しすぎないこと(しすぎるということは夫を信頼していない、安心感をもっていないということであり、すなわち心が汚れている、ということになるから)
*外側の清さ→臭い、変な臭いをさせず、いつもいい匂いでいること、例えば台所での調理した服で臭いをさせたまま、夫を迎えないで、香りのよいきれいな服で迎えるなど、汗臭い場合は、夫の帰る前にシャワーをしてさっぱりしておくなど

総括
1 信仰深い
2 夫に自分からすすんで従う(信頼して愛情から従う)
3 自分と家を守る

アッラーの同意がありますように


والسلام

200のハディースその20

2009-05-15 | ハディース&子どものための物語
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم

全ての人が責任者(保護者と責任について)

 イブン・ウマル(رضى الله عنه)によると預言者(صلى الله عليه و سلم)は言われた。「あなた方はみな保護者であり、自分の保護者する者に対して責任を負っています。統治者も保護者です。男は自分の家族の保護者です。女は夫の家と子供の保護者です。あなた方はみな保護者であり、自分の保護する者に対して責任を負っているのです。」(注:本文での「保護者」は「責任者」の意味で使われている。)(アル・ブハーリーとムスリムによる伝承)

 このハディースで述べられている保護者は責任者の意味ですので読み替えると、あなた方はみな責任者であり保護する者(扶養する者、護らなければならない人)に対して責任を負うという意味になります。最初の統治者の意味は国を動かす為政者、政治家と考えてよいでしょう。為政者は国務をあずかる者として国民の生命、財産、安全を護る責任があります。為政者は国民を信頼に応えているか、有権者への責任を果たしているか、公務に忠実であるかなど日々振り返りながら責務をまっとうする気構えが必要です。
 次に一家の長の立場にある父親の責任は家族の扶養です。母親の責任は家計の管理と子育てです。父親も母親も共に子供の保護者であり家庭生活の共同責任者です。子供が社会人として振舞うことができるように躾けるのは両親の責任です。そして繰り返しあなたがたすべての人は保護者であり、保護する者に対し責任を持つことが述べられています。つまり社会において保護者となるのは為政者、父親、母親だけでなく、誰でも保護者や責任者の立場になりうるということを示唆しております。
 わたしもあなたの責任者なのです。
 すべての人が保護者であり責任者であるということは、すべての人が護る人や守るべき物を持っていることを意味します。そのために人は仕事持ち責務を果たしているのです。どの人も仕事や果たすべき役割を持っているということは、すべての人はこの世界この社会のためにアッラーから選ばれ、何らかの役割を担うために生を与えられていることになります。仕事は人間が与えられた生を表現する場となり、自分の役割に対する責任感と使命感を意識させられます。
 責任を果たす心構えを持って仕事と向き合えば自己を磨き高める場となります。どの仕事も社会を動かすのに必要ですから、お互いが責任感を持つことにより信頼関係が深まり社会の安定が図られ、連帯意識の基礎が作られます。
 責任感は自らを律し、他を護ることにつながります。責任感をもつことを義務とし、それを誇りにしたいものです。

アッラーのご加護と祝福がありますように
والسلام



200のハディースその19

2009-05-14 | ハディース&子どものための物語
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم

労働について(労働の原点)

 アブー・アブドッラー・アッズバイル・イブン・アルアッワーム(رضى الله عنه)によるとアッラーのみ使い(صلى الله عليه و سلم)は言われた。「あなた方は誰でも自分の縄を持って山に行き、薪の束を背負って戻り、それを売りなさい。そうすることによって、アッラーはその者の顔を覆ってくださるでしょう。そうすることはこれるかくれないか分からない人に物乞いをするものより良いことです。」(アル=ブハーリーの伝承。注:「顔を覆ってくださる」とは「他人に物乞いをするという恥辱から守ってくださる」の意)アブー・フライラ(رضى الله عنه)は伝えている。アッラーのみ使い(صلى الله عليه و سلم)が「あなた方の一人が朝、薪を集めに行き、それでサダカを行い、更に人々の助けを借りずに自立することは、与えられるにせよ拒絶されるにせよ、人に乞い求めるよりは良い。まことに上方の手は下方の手に優る。それで先ずあなたが養っている者から始めよ」と言われるのを聞いた。(ムスリムによる伝承)

 人間はアッラーの代理人としてこの世界に運営を任されました。労働はその責務を果たすためにあります。初めのハディースは働くことで自立心が養われ、人間の尊厳が保たれることを教えています。誰でも山や林に行き額に汗して薪を取り、その薪を売って食を代えるほうが、何もせず他人に食を乞うよりもずっとましです。それは乞うという行為そのものが不名誉であり自尊心を傷つけるからです。アッラーは、労働をする人が恥辱をこうむらないような計らいをしてくれるのです。このように労働は人間の使命を自覚させ自身を持たせるものです。
 次のハディースでは労働のあり方について述べられています。働くことが単に自分のためだけでなく、働いて得たお金を同胞にサダカすることが勧められています。それにより相互扶助の精神が養われ社会連帯の意識を根づかせます。それに対し健康で働く力がありながら他人に乞うことは、二重に本人を苦しませることになります。なぜなら他人に乞うても与えられなければ恥辱を感じるだろうし、たとえ貰えたとしても、その人に対し負債を受けることになるからです。それでサダカをする手は上方の手となり、他人に乞うて差し出す手は下方の手をなるわけです。また次のようなハディースもあります。「物乞いを慎み、家族を養い、隣人に親切にして、合法的に生きようとする者は、満月のように輝く顔でアッラーに出会うでしょう。」(アル・バイハキ「信仰集成」)「まことにアッラーはしもべ、信者、貧者、物乞いをしない者、大家族の長を愛し給う」(イブン・マージャによる伝承)
 これから考えられるのは、働くことが出来る者が労働しないのはハラーム(禁じられること)であり、健康な者が家族のために働くことは義務であること。そして労働とはアッラーから託された世界運営に携わる一人として働かさせて頂くこと(勤労)であり、それを思念して世俗の業務に精励すること(勤労)は宗教的生き方そのものになることです。


アッラーのご加護と祝福がありますように
والسلام


200のハディースその18

2009-05-14 | ハディース&子どものための物語
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم

生き物に対する思いやりについて[その3]

 アッラーのみ使い(صلى الله عليه و سلم)は言われた。「アッラーはあらゆるものに対して慈しみ深くあるようにお命じになりました。殺生する際には最も思いやりのあるやり方で殺しなさい。犠牲を屠(ほふ)る場合にも最も思いやりのあるやり方で屠りなさい。あなた方は誰でもナイフを研ぎ、屠られる動物の苦しみを最小限に留めてやりなさい。」(ムスリムによる伝承)

 わたしたちは生きるために他の動物の命をとる定めにあります。人間のタンパク質源として魚を始め牛や鶏など家畜している動物の肉を料理し食用せざるを得ないのです。
 世界には数多くの宗教がありますが、生きることと殺生の関係に言及している例は皆無といってよいでしょう。ある宗教はただ生き物を殺してはならない(殺生戒)と説くだけです。それではの現場にいる人々を始め、肉食をする人々が感じる葛藤を解決することはできません。書店には宗教的教えとは関係なく生命の大切さや動物愛護を説く書が並んでいますが、人間の病気治療のために多くの動物実験をせざるを得ないことや犠牲となる動物の苦痛など全く無視されています。このような多くの教えや意見は片方だけの立場を述べる偏った主義主張にすぎず万人を納得させる教えからほど遠いものです。その中で現実を直視し、他の動物の犠牲の上に成り立っている人間の営みという根源的な問題に対処し、人間の生活に指針を示している宗教がイスラームです。
 人間はアッラーの許しのもとで他の生き物の命を頂いて生かして貰っています。生き物に対する思いやりを持つことは自然界の運営を委託されている人間の務めとなります。
 人間が他の生き物の命をとる行為は非情のように見えますが、それは自然界の他の生物の間でも見られる生存の法則であり善悪を超えた事柄です。このような自然界の現象は人智を超えたものであり私達の理解が及ぶものではありません。わたしたち人間はアッラーが創られた大自然の摂理(アッラーの法)をあるがままに受け入れなければなりません。
 イスラームでは食用の家畜を屠る際には慈悲深きアッラーの御名を唱えます。この言葉が唱えられる意味はこの世に存在するものはアッラーの創られたものなので、それらを食として頂くための感謝の気持ちを表す言葉だと理解できます。そして預言者ムハンマド(صلى الله عليه و سلم)は人間のために犠牲となる動物に気を使い、恐怖心を与えない作法を教えています。それは屠畜に使用する刀はよく研がれたものを用いるようにすることです・これは動物に恐怖を与えないやり方であり、動物の苦痛を少なくする方法であることが分かります。
 クルアーンの冒頭はアッラーの慈悲と慈愛の言葉で始まりますが、預言者ムハンマド(صلى الله عليه و سلم)はこの言葉の体現者であり、動物に対しても憐れみの心を持っていらっしゃたことがこのハディースからうかがうことが出来ます。


アッラーのご加護と祝福がありますように
والسلام