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満月通信

「満月(バドル)」とは「美しくて目立つこと」心(カリブ)も美しくなるような交流の場になるといいですね。

娘への愛

2008-05-17 | 預言者の娘たち
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم

娘への愛

ムハンマドの娘たちの話に戻ろう。兄もなく弟もなく育った四人の姉妹たちは、父親に見守られてみな結婚をしたのだが、三人は若くして世を去り、この父には末娘のフアーティマひとりが残った。ムハンマドと同時代に生きた人たちは、どんなにムハンマドに敵対心を燃やした人であろうと、ムハンマドが娘に寄せた愛情の深さを否認する者は誰もいなかった。それなのに近代の東洋学者の一部の人々はイスラームに敵意を持ち、ムハンマドの娘への愛の深さを推し量れぬばかりか、それこそ彼らはアブノーマルな愛と見たのだろう、殊にファーティマに寄せた愛については、これを伝える史料に攻撃を集中させて次のょうに評している・・・「創教後、時を経てシーア派が出現してから作り出された架空の話である!・・・」この件については、後ほどファーティマの章でもう一度見ることにしよう。今ここで慌てて、このような妄説に応答する必要もないだろうとりあえず、ムハンマドが四人の娘たちに注いだ深い父性愛について考える際、思い起こしておきたいのは彼がまだ父親となる以前に身近に接した心優しい婦人たちからの影響についてである。実母アーミナ・ビント・ワハブは彼の遠い日の記憶の中に生き続けている女性である。ハリーマ・ビント・アブーザウーブ・アッサイディーヤは幼少の彼を保育してくれた乳母であった。そしてファーティマ・ビント・アサド。この婦人はアブーターリブの妻で、母アーミナ亡き後に実質上彼の母親となった人である。この婦人のことを使徒はアブーターリプに次いで恩義を受けた人だと語った。そして最愛の妻であるハディージャ・ビント・フワイリド。過去の悲しみを癒して彼の人生に愛と希望と平安を与えてくれた、この上なき良き伴侶である。神は預言者として選んだ男が息子のない娘ばかりの父となって耐えることを学び、ひたすら男児にのぞみをかけることなく、模範的父性像として、当時の信徒たちの師となるべく導かれたのであろう。使徒が伝えた啓典には、今日の女性が期待する以上に多くの権利が女性のために定められている。

四人の姉妹

由緒正しいクライシュの家に生まれ、寛容な良き家庭に育まれた。当時としては例外的にムハンマド家は娘たちの誕生を快く受け入れた。彼女たちは十世代に遡って正しい血筋を継承した、愛と信頼で結ばれた幸せな結婚の結晶であった。娘たちの姿に父は愛する妻の姿を重ねていた。孤児の運命を背負ってすごした悲しい少年時代の境遇を愛といたわりの心で優しく癒し、その悲しみに代わる美しい温かい存在となった妻……。また母は娘たちの面立ちがつくづく愛する夫に生き写しであると思う。初めて言葉を交わしたときから自分の心を捉えてしまった人、その気高い人柄と美しい言動に魅かれて閉じていた心の扉が開き、新しい人生を迎えることが出来たのだ。四人の娘たちの子供時代は生活に苦労は何もなく、平和で幸福な家族であった。ごく幼い時期はクライシュの一名家の慣わしとして、赤ん坊の育児にふさわしい環境が求められた。マッカ市内の息詰まるような猛暑を避けて四人の姉妹もひとりひとり、ふさわしい環境の中に預けられた。そして離乳の時期を迎えると、最良の保育者である実母のもとに戻った。母は結婚後、交易の業務からすっかり手を引いていた。多大な資産の管理は夫に委ねて、この平和な家庭の外部に起きる様々な出来事に気をとられることなく自分の新しい生活を大切に守ろうと全力を傾けていた。以前の経験から、育児の技術も保育の知識も豊かな母であった。この母の理想的な保育を受けて娘たちはすくすくと育っていった。肥沃な大地に播いた花が開くごとくに、娘たちは若々しく美しく成長した。財産の多くが使用人の費用として使われた。実際にはこれらの使用人の仕事は育児に必要な様々な雑事の手伝いにすぎなかった。ハディージャ夫人はマッカでも屈指のこの娘たちを、それぞれの好ましい将来に相応しく育て上げようと自らの手で、この大切な任務を果たしていたのである。長女のザイナブが少女期に入ると、母は家事を分担させて生活の訓練を始めたいと思った。まだまだ若かったけれど、真面目に真剣に手伝わせた。彼女は同年齢の少女たちがまだ夢中になっている遊びから次第に遠ざかった。ザイナブは末の妹の小さなお母さん役であった。世話を引き受けて暇をつくっては一緒に遊んだ。五十歳を過ぎた高齢な母が忙しく働くときなど、幼い妹が母の邪魔をしないよう、母に負担をかけないよう、とりわけ気を配るのだった。そんなことからザイナブとファーティマはとりわけ親しい間柄であった。同じくルカイヤとウンムクルスームのふたりも年齢が近かったこともあって、いつも仲良く一緒だった。ふたりは同じ一つのベッドで眠り、性格や特徴までよく似ていた。ちょうど双子のようであった。姉妹たちはこのように心地よい生活を楽しんでいたが、長女ザイナブが結婚して抜けると部屋も淋しげになり、残された三人の姉妹は幾晩も空になった彼女のべッドをながめながら、悲しみと慶びの混じり合った重たい感情に戸惑うのだった。この期間の姉妹たちのお喋りは、もっぱら結婚に関してであった。少女がただひとりで生家を出て、家族でもない、よく知らない男の家に行ってしまう・・・。結婚の実状がよく分かって、姉妹をがっかりさせたのだった。末のフアーティマは年少の所為もあって結婚について最も無知で最も苛立った今まで一緒に遊び甘えてきた小さなお母さんを自分から切り離してしまったことが、大変に不満であった。家族はどうして結婚のために盛大な祝宴など催して祝ったりするのであろうかと、恐らく他の二人に質問したことだろう。ザイナブをこの上なく慕っていた彼女には祝宴などなしに、嫌々泣きながら別れればよかったのにと思われるのだった。ルカイヤは幼いファーティマの気持を察して安心させねばと思ったのだろう。「お父様とお母様があのように盛大にお祝いをしてザイナブを嫁がせるのですもの、きっと幸せで良いことがあるからなのよ」と言い聞かせてみたが、ファーティマの結婚への絶望感は癒せなかった。ウンム・クルスームは二人の姉妹にこう言うよりほかないと思った。「誰に分かることでしょうか、もしかしたら、結婚式のあの大騒ぎは生まれ育った家を離れて新しい人生を始める花嫁の心の不安をとり除いてあげるためかもしれないわね」と。妹のファーティマが納得した様子を見せたので、話を変えて姉妹の心を母に向けさせた。母はザイナブが嫁いでから淋しさを表情に出すまいとしているものの、その感情をコントロールできない様子だった。「お母様が何度もルカイヤのことをザイナブと呼んでしまってから、はっと夢から覚めたときのように、『ああザイナブはもうここには帰らないのを忘れていたわ……』と小声で漏らすのを聴いているでしょう!」ファーティマは深く同情して「ほんとうにそうね……」と頷く。ルカイヤは「あなたは考えすぎよ、ウンムクルスーム。お母様はザイナブの名前をロにするのが慣れっこになってしまったの、胸の奥に秘めた想いがロに出たわけではないのよ。ただ弾みで出てしまうのだわ」 ウンムクルスームは感じたままを話し続けた。「じゃあ、お父様についてはどう思うの? お父様はあれ以来、すっかり黙って独りで考え込むことが多くなってしまったと思わない? お父様は何かとても重大な問題に気をとられているように見えない?」ファーティマの胸は震えた。「ああ、お父様。ウンムクルスーム、あなたの言うとおりよ」ルカイヤは言った。「ザイナブがお嫁に行ったことと、お父様が独り考えごとをなさることと、何か関係があると思うの?」ウンムクルスームは頭を振ると、意味深長な様子で言った。「今度はあなたの番なのよ、覚悟なさいな」ルカイヤは表情も変えずに答えた。「そんなこと、あんまり重大じゃないわ」ファーティマが言った。「二人とも結婚なさいな、おめでとう。でも私はたとえ誰とでも、お父様やお母様と別れることなんかしないわ」ファーティマは、このとき口にしたこの言葉が彼女のなかば運命的な言葉となったのを、まだ知らない・・・。ザイナブが嫁いでから間もなく二人の姉ルカイヤとウンムクルスームが結婚し、ファーティマひとりが父の家に残った。彼女はたとえ誰とであっても、結婚したくなかった。さて、ここで四人の姉妹が両親と共に暮らした時期の話を終え、次の章からは彼女たちひとりひとりの跡を追って、姉妹がどのような生涯を過ごしたのか、その後半の生活の様子を見ていくことにしよう。

إن شاء الله

続きます

アッラーのご加護と祝福がありますように

و السلام

四人の姉妹③

2008-04-16 | 預言者の娘たち
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم

二人の兄弟


幸福が更に完璧となるには、あと一つだけの望みが、・・・四女に恵まれた故に男児の誕生が・・・この夫婦に残されていた。この願いは遠い夢のまた夢のように思われた。ファーティマを産んだ後、ハディージャ夫人は50代に達していた。しかし高齢ではあっても出産の願いが絶望的な状態だったわけではない。彼女は妊娠の可能性を秘めた、それまでどおりの夫婦の生活を送っていた。そしていつも二人は神の恵みを願い続けていた。ついに神は二人の願いに応えられた。長男アルカースィム、続いて次男アブドゥッラーが授かった。夢のような息子の誕生に喜びは殊更だった。だが、神はこの二人の息子を長くこの世に留めて置こうとはなさらなかった。まもなくこの貴い託し子を、ひとり統いてもうひとりと天に戻してしまわれた。このふたりの息子が何年に生まれ、なぜ死んだのか、これについては使徒伝の史家たちの間に一致した記録がない。この部分はムハンマド家の家庭生活を知る上でも、イスラーム史を考える上でも、大変重要な点であるのだが……。また、この時期は父親が啓示を受け預言者としての使命を帯びる時期と非常に近い時期でもあるのだが……。もっと意外なのは、ムハンマドとハディージャの息子の数までが著書によってかなり開きがあることだ。二人だったのか、三人だったのか、あるいは四人なのか?イブン・イスハークの「使徒伝」に拠ると・・・・・長男はアルカースィム、次にアッタイイブ、そしてアッターヒル。この三人はジャーヒリーヤ期に夭逝した。一方、娘たちは皆イスラームの時代を知り、ムスリマとなり、彼と共にヒジュラした・・・とある。アッタバリーの「歴史書」には……ハディージャは使徒の八入の子供を産んだ。アルカースィム、アッタイイプ、アッターヒル、アブドッラー、ザイナブ、ルカイヤ、ウンムクルスーム、そしてファーティマである。「アルイスティアーブ」に拠ると……ウラマー(イスラーム学者)たちの見解はハディージャが四人の娘を産んだ点で合意している。ザイナブ、ファーティマ、ルカイヤ、ウンムクルスーム……それから二人の息子―ひとりはアルカースィムと名付けられ、この子によってムハンマドには「アブー・アルカースィム」のクンヤ(呼び名)があった。この点ではウラマーたちの間に異論はない。だがイブン・シハーブから聞いてムアンマルが伝える話に拠ると……アッターヒルと呼ばれる男の子をハディージャが産んだと主張したウラマーが何人かいたという。また「ハディージャがアルカースィムを産んだこと、四人の娘を産んだこと以外ははっきりしない」と見るウラマーたちもいた。オカイルがイブン・シハーブから開いたという話では……ハディージャはムハンマドの子を産んだ。ファーティマ、ザイナブ、ウンムクルスーム、ルカイヤ、アルカースィム、アッターヒル。カッターダが伝えるところに拠ると……ハディージャは二人の男児と四人の女児を産んだ。アルカースィム、この子の名でムハンマドはクンヤを持った。そしてアブドゥッラー、この子は赤ん坊のとき死んだ。「アッラウド・アルウヌフ」には、アッズバイル・イブン・アルアッワーム・イブン・フワイリドの話が載っている……ハディージャはムハンマドの息子を産んだ。アルカースィムとアブドッラーで、このアブドッラーはアッターヒルともアッタイイブとも呼ばれたが、それはこの子が啓示が降りた後に誕生したからで、この子の本来の名はアブドッラーと名付けられていた。アルカースィムは乳児期が完了しないうち、まだ歩き始めの頃に死んだ。またこの息子のことは同じ書物にこう書かれている・・・「ハディージャのところへ使徒が入って来た。啓示の降りた後のことであった。彼女は泣きながら言った。「使徒様よ、私の小さな胸は、まだアルカースィムのためにお乳が出るのです。もう少し、せめて授乳期を終えるまで生きていてくれたなら……」父である使徒は言った。「彼には天国に保育所が用意されている。そこで成長するのだよ」「それを知っていたら、気も安まりましたのに……」預言者は言った。「望むのなら、天国の彼の声を聴かせようか」「いえ、神とその使徒を信じます」ハディージャは答えた。このハディースに拠れば、アルカースィムはまだ乳児の頃、イスラームの時代になってから、弟のアブドッラーと同じく夭逝したことになる。弟のアブドッラーはハディージャの甥にあたるアッズバイルが伝えているように、誕生がイスラーム期に入ってからであったので、別名アッターヒルとかアッタイイブとか呼ばれたらしい。「アルイサーバ」には信徒の母ハディージャ夫人の項に、ムハンマドの息子アルカースィムとアブドッラーを産んだ。このアブドッラーがアッタイイブであり、またアッターヒルである。イスラーム期に入って生まれた子なので、こう呼ばれた・・・とある。部族の家系図を記録したアンサーブの史料を参考にすると、「ナスブ・クライシュ」の中に・・・使徒には長男アルカースイム、ついでザイナブ、そしてアブドゥラー、ウンムクルスーム、ファーティマ、ルカイヤ……となっている。「ジャムハラ・アンサーブ・アルアラブ」には・・・使徒にはイブラーヒームの外に世維ぎとなる息子はなかったが、この子も二歳を待たないうちに幼くして死んだ。かつて使徒にはこのイブラーヒーム以外にアルカースィムと、もうひとりその名をアッターヒルとかアッタイイブとかアブドゥッラーとか色々に呼ばれていた息子があったが、赤ん坊のときに死んだ。使徒には娘がいて、長女ザイナプ、次女ルカイヤ、三女ファーティマ、四女ウンムクルスームである。イブラーヒームを除く、これらの子供たち全員が、信徒の母ハディージャの産んだ子であった・・・とある。ムハンマドの子供たちの数については、これらの記録に見る以上の資料はなく、名前すらはっきりしだ定説がない。アッタイイブとアッターヒルが二人なのか、そしてアルカースィムと合わせて三人だったのか。それともアルカースィムとアブドッラーを加えて四人だったのか。それとも、アッタイイブとアッターヒルは単に別名にすぎなかったのか、すると預言者はハディージャによって二人の息子を持ったことになる。そして、これが今日ムスリムの聞で比較的広く認められた説なのである。以上が史料をひもといてみた結果、明らかになったことである。この息子たちの生まれた時期、死んだ時期を断定できる史料はさらに乏しい。イブン・イスハークが(イスナード無しで)伝えるところでは、二人が死んだのはジャーヒリーヤ期である。その他の史家たちは「アルカースィムはジャーヒリーヤ時代に生まれ、イスラーム期に死んだ。アブドゥッラーは生まれも死もイスラームの時代であった」と言っている。アッスハイリーがアッズバイル・イブン・バッカールから聞いた話として、次のように伝えている・・・・この件を一番よく知っている人物アッズバイルが言うには、ハディージャはアルカースィムとアブドゥッラー(アッターヒルでもあり、アッタイイブでもある。イスラーム期に生まれたのでこう呼ばれた)を産み、アルカースィムは乳児期を完了せぬうちに、歩き始めた年に死んだ。どの説であれ、ムハンマド家の男児誕生の喜びが長く続かなかったことは間違いない。息子たちは天啓を授かる直前か、あるいはイスラーム期のごく初期の頃死んだ。この点をさらに明確にしたいと、あれこれ捜して行くとクルアーン・アルカウサル章の中で、神が預言者に告げた次の言葉が見つかることだろう。「われはあなた(ムハンマド)に潤沢を与えた。あなたの主に祈り犠牲を捧げなさい。あなたを憎悪する者こそ、先(将来の希望)を断たれることだろう」(第一〇八章一~三節)アルカウサル章は初期のマッカ啓示であって、年代順の編纂ではマッカ啓示八九章のうち十五番目に納められている。この啓示はサハム家のアルアース・イブン・ワイールに関して降ろされたものといわれている。アルアースはアブーターリブの家に押しかけ、ムハンマドのイスラームヘの呼びかけに応じるか否かを詰問したマッカ市民のひとりであった。イブン・イスハークに拠れば、このアルアースは使徒の話になったときにこう人々に言ったという。「奴の教えだと!奴など息子のない不完全な男じゃないか。死んでしまえば(世継ぎがないので)すぐに忘れられてしまうさ、そうなればあなた方の気持も安まることだろうよ」そこで神はこのアルカウサルの章を下された。ザマフシャリがアルカウサル章のこのアーヤ(節)を注釈している。「あなたを憎悪する者こそ、不完全な者であって、あなたが不完全なのではない。最後の審判の日に復活して生を授かる総ての信徒たちがあなたの子どもであり子孫である。マスジドの塔の上ではいつもあなたの名が唱えられ、いつの世も世界の人びとから、あなたの名前が忘れられることはない。神の名で始まり、続いてあなたの名前が唱えられよう。あなたのような人を先を断たれた不完全な者とは言えまい。現世と来世を忘れ、あなたを憎悪する者こそ先の断たれた不完全な者である。呪う者は呪われる・・・」ムハンマドを非難したこれらの人たちには、やがてこの地球上で神の使徒の名が栄光の輝きに照らされて生き続けることなどとても考えられなかった。アルアースもクライシュの多神教徒たちも、彼らが考えたことは最悪の場合でも、ハーシム家のアブドル・ムッタリブの孫が自分たちを差し置いてマッカの指導権を握るかもしれない。その影響力は生存中は近隣の部族にまで及ぶかもしれない。だが死んでしまえば消え去ってしまうだろう・・・くらいのことであった。ところが、その影響力は東の端から西の端に及び、何世紀を経た後でもその名は忘れられることなく尊ばれ唱えられている。当時半島内で生涯を送り、交易のために旅立つ以外に外部を知る機会がなかった彼らには想像すらできないことであった・・・。ムハンマドは生粋のクライシュであったが、主導権がムハンマドの手に渡るのは至難のことであった。当時のクライシュ族は、各支族の間で主導権をめぐる凄しい対立、競争が起きていた。アルアフナス・イブン・シャリークはアブールハカム・イブン・ヒシャームのところへ行き、こう質問したという。「アプールハカムよ、ムハンマドのことを聴いて、どう思うか?」すると彼はこう答えた。「何を聴いたんだって? 我々もアブド・マナーフー族も向等に名誉のために競ってぎたではないか。与えるときは同じように与え、ディヤ(血の代償)の支払いも同じように負担してきたし、同じように持分もとった。まるで二頭の競走馬が並んで走るようにな! だったら我々にも天から送られた預言者がやって来るはずじゃないか!いつそれが分かるのか? 絶対に我々は奴のことなど認めない!」アブドマナーフー族の内部争いもまた同じく、否それ以上に激しかった。一族にアブドシャムス家とハーシム家があった。この二家のそれぞれの先祖がアブドシャムスとハーシムである。このふたりのアブドマナーフの息子たちが祖父クザイイから相続したものをめぐって、両家が対立をぶり返していたのだ。クサイイはアブドマナーフがすでに種々の特権を与えられていたので、それに見合うようにとアブドッダールにも自分の持つ様々な特権を譲った。以来、ことごとく競い合っていた。そこヘムハンマドが神の使徒として天啓を授かった。さらにハーシム家には水場の権利とリファーダ(巡礼者受け入れに関わる接遇権のことで、具体的には貧しい巡礼客に食物等を買い与えるための出費など)がある。一方のアブドシャムス家は力とリーダーシップを示す旗を有している。ここで思い出してみよう。ハーシム家のアブドルムッタリプがザムザムの井戸を掘り起こそうとしたとき、この権利を独占させまいと、クライシュの男たちが立ちはだかった話を。さて、このアブドルムッタリブの孫が、預言者として、天の使徒として出現したのだ。彼らがすんなり黙って認めることなど出来ようはずがない。一族の間でさえ、支配権をめぐる対立関係はここまで来ていた。人びとが躍起になり、「ムハンマドを殺せばその名声を消せる、そうすれば事は簡単、彼は世継ぎのない男だから」などと言い出す者が現れても不思議はなかった。ムハンマド自身は総てを神に委ねており、神の使徒の勝利とイスラームの栄光を確信していた。神のみ言葉は選ばれた者に授けられるものであって相続されるべきものではなく、跡を継ぐ自分の息子を必要としないことも、また自分が最後の預言者となることも。だからといってムハンマドが、子供に未練を持たなかったなどというつもりはない。彼の人間性がそんなことはさせなかった。本能に根ざした人間らしい情愛を失ったり、生きる物すべてが持つ種族保存の本能に背を向けたりはしない。事実、ムハンマドは身近なふたりの少年を実の子のように可愛がり、父親代りとなって限りない愛情を住いでいた。そのひとりはアリー・イプン・アブーターリブである。クライシュが飢饉に襲われたとき、アブーターリブには扶養する子供が多勢あった。ムハンマドは、アブドルムッタリブ一門の中で一番経済的に豊かであった叔父アルアッバースにこう申し出た。「あなたの兄弟のアブーターリブは沢山の子持ちです。今は知ってのとおり飢饉に見舞われています。アプーターリブから子供をひとりずつ引き取って、父親代りとなって養育し、荷を軽くしてあげましょう」ムハンマドは従弟アリーを自分の家に、自分の胸に受け入れた。そしてヒジュラの後に一番大切な末娘ファーティマと結婚させた。もうひとりはザイド・イブン・ハーリサで、母親はサアダー・ビント・サアルバと言い、幼いザイドを連れてタイイの生家を訪ねに出かけたところを、アルカイニ族の騎馬に襲われ、少年はハバーシャ市場で売られた。ハキーム・イブン・ヒザーム・イブン・フワイリドが伯母ハディージャのために少年を買い、彼女はこの少年を夫に与えた。まだ啓示が下る前の出来事であった。ムハンマドはこの少年を自由にし、養子にしてクライシュの面前でこれは自分の息子であると宣言した。そこで少年はザイド・イブン・ムハンマドと呼ばれた。イスラーム期になって『実の父親の名で養子を呼ぶ』ことが定められ、以後はザイド・イブン・ハーリサと呼ばれるようになったが、その後もザイドは使徒のもとに留まり、使徒に愛された。ムハンマドの豊かな父性愛は信徒の母となった妻たちの連れ子にも十分に注がれた。ヒンド・イブン・アブーハーラはハディージャの連れ子で、使徒は継父になる。「アルイスティアーブ」の中でアリー・イプン・アブーターリブの息子ハサンが使徒の優しい性格を伝えているが、彼は、母ファーティマの兄であり自分には叔父にあたるこのヒンドから聞いた話を伝えたのであった。そしてサラマ・イブン・アブーサラマとその兄弟姉妹たちのアムル、ザイナブ、ドッラ(彼らの母はウンムサラマである)も、またハピーハ・ビント・オバイドゥッラー・イブン・ジャフシ(彼女の母はウンムハビーバである)も、みな使徒が愛した子供たちであった。ムハンマドは晩年に至っても子どもを恋しく想った。高齢で待望の息子を授かったとき、彼の大きな心は感激にむせび、喜びに満ち溢れて震えたことだろう。しかしこのときの息子イブラーヒーム(コプドの女マーリアが生んだ子)も十八ケ月に達したときに昇天してしまう。幼な子は召されて、残された父はまたもや悲嘆にくれた総ては神のご意志によるものと神に委ねた運命であっても、流れ出る涙は止めようがなかった。男児を尊重する社会にあってムハンマドはひとりの息子にも恵まれなかったが、彼の伝えた福音は遠く広く永遠に、数知れぬ人々に受け継がれていった。

إن شاء الله

続きます

アッラーのご加護と祝福がありますように

و السلام

四人の姉妹②

2008-03-08 | 預言者の娘たち
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم

娘たちの父

つわりの時期も過ぎてハディージャには身重の体が心地良くさえ感じられるようになっていた。この間はもっぱら生まれてくる赤ん坊のために彼女は気を配った。すでに乳母となる人も選んだ。出産の時を迎えると、経験もあることゆえ静かに苦痛に耐えるのだった。夫は別室で不安と期待に緊張しながら、その瞬間を待っていた。まもなく隣室から弱い産声が上がって誕生が知らされた。 歓喜の騒めぎが続いて湧き上がった。喜びの声は風に乗ってカアバに、クライシュの居住地域に運ばれて、人々はハディージャとムハンマド・イブン・アブドッラーに最初の子が誕生したことを知った。心優しい父親は隣室の妻を気づかいながら、自分の肉体の一滴から生命を得た赤ん坊との対面の瞬間を今か今かと待ちこがれていた。部屋の戸が開き、サルマー(サフィーヤ・ビント・アブドルムッタリプの下女)が赤ん坊を抱いて父親の前に現れた。そして父親の両腕に赤ん坊をのせた。ムハンマドは大任を果たし終え、体をリラックスさせて床に臥している妻に近寄った。彼女は喜びを噛みしめて穏やかな表情を見せていた。ふたりの視線は愛らしい赤子の顔に注がれた。両親を足し合わせた姿そのままの娘を見て、ふたりの心は和んだ。ふたりは長女にザイナブと名付けた。犠牲が捧げられ、誕生が祝われた。そのとき、この二人の胸を複雑な感情が横切ったであろうか、神が二人に授けたのは女の子であった。男の子ではなかった。「男であったら・・・・・」と二人は思ったであろうが。恐らくそうであろう。二人がそう願ったとしても当然ではないか。根強く男の子を尊ぶ社会にあって、自然とその影響を受けているのであるから。しかし、その感情は無事の誕生を喜ぶ純粋なふたりの気持を揺さぶる程のものではなかったし、長女の無事誕生を感謝する心に気まずい感情が入り込むようなこともなかった。マッカの名家のしきたりに沿って、ハディージャも赤ん坊に乳母を選んだが、乳母に委ねるまでの日々を母は片時も離れず娘の世話に徹した。やがて長女が野の花の蕾のように愛らしくなって戻り、一層明るく楽しい家庭となるであろう、それまでの期間、ふたりの話題は長女の成長に明け暮れていたことだろう。長女が生家に戻って程なく妹ルカイヤが生まれた。家族の繁栄を願い、優しい両親は次女の誕生も快く祝った。そして長女、次女に続いて三女ウンムクルスームが生まれた。三番目の女児の誕生は男児を好む社会の風潮から苦痛と見受けられたが、二人はことは神に委ねられたものと、授けられた恵みを拒むことなく、次はぜひ男の子を願いながら、三女の誕生も神に感謝しつつ気持良く迎え入れた。ムハンマドとハディージャは結婚10年目を迎えていた。四度目の結婚の実りを間近に迎えて幸福であった。この四度日の誕生は、父親にとって生涯の大仕事、否マッカの人びとの生涯の大事業と、時を偶然に同じくすることになった。その少し前から、クライシュの人びとはカアバ神殿の修復工事について話し合いをもってぎた。神殿の威光を畏れて長い開手をつけずにためらっていた工事であった。それは……ある女が焚いた香炉の火が飛んで、カァバの覆いが焼け、建物が弱くなっていたところへ、マッカの頂上にある貯水池から、てっぽう水のような激流が流れ込み、火事でヒビ割れた壁を押し崩してしまった。クライシュの人びとは、聖なるカアバのこと故、畏れ多く、何も出来ずに手を洪いていた。この聖なる神殿ゆえに、マッカはアラビア半島各地からの信仰と巡礼の中心となっている。そしてクライシュ族は特別にその聖域に隣接して住む特権が認められているのだ。さて、どのようにこの神殿を保存したらよいのだろう、彼らには大きな問題であった。ローマの船が難波してジェッダに流れ着いたとの知らせが届いた。そこでクライシュの男たちはジェッダに急ぎ、船の木材と、それを組み建てるエジプト人のコプトの大工を連れて戻った。カアパ再建の準備は整った。だが、人びとは、まだ古い建物のとり壊しに手をつけるのが恐ろしくためらっていた。アルワリード・イブン・ムギーラ・アルマフズミーが立ち上がり斧を振り上げて言った。「我々は邪な心で壊すのではない。我々は良きをのみ願って行なうのだ!」そして斧を振り降ろした。人びとはその様子を驚いてながめながら、彼の身を、また自分たちの身を案じた。何も凶事は起きなかった。それでも彼らは災厄が起こるかもしれないので一晩様子を見てからと作業を拒んだ。翌朝アルワリードは作業を開始したが、彼の身の上に何のわざわいも起きなかったので、人びとも加わって壊体が進められた。各支族は競ってカアバ再建のために石材を集めた。ムハンマドもその晴れの作業に加わり、人びとと一緒に石を運んだ。神殿が築かれると、今度はクライシュの各支族の間で黒石に端を発して対立が起きた。どの支族も、この聖なる石を設置する栄誉を自分たちの手にと望んだからであった。黒石をめぐる対立は深刻で、内乱に発展しかねない有様だった。クライシュは幾晩も話合いを続けた。アブーウマイヤ(マフズーム家のザート・アッラキブ・イブン・アルムギーラである。その当時彼はクライシュの最高齢者であった)が立ち上がり、こう言った。「クライシュの人びとよ、争いを止めよう。どうだろうか、このマスジドに最初に入って来た者に、この件を任せることに決めようではないか」人びとは同意した。人びとの視線は入口に住がれた。やがて現れるであろう未知なる審判の決定にロを凝らしていた。すると若い男が近づいてやって来る。立派な体格、よい歩調の響き、静かな、しかも活力に溢れた威厳ある姿の青年であった。彼を見て全員が声を上げた。「あれはアミーン(預言者の幼・青年時の呼び名で正直者の意)だ。ハーシム家のムハンマド・イブン・アブドッラーだ。決定に同意した!」そこで人びとが事の次第を伝えると、ムハンマドは石を置く布を求めて、その清らかな良き手で黒石を布に載せて言った。「各支族のひとりが布の端を持ち、上げよう。」人びとは賛成し皆で石をその位置まで持ち上げ、最後にムハンマドがその手で石を場所に納めて神殿の建設は完成した。そのとき彼は三十五歳(イブン・イスハーク伝による)であった。ムハンマドは家に帰った。その朝は妻が出産直前の様子だったので、カアバに出かけ祈願を済ませたのだった。帰宅を待ち受けていたのは四番目の女の子誕生の知らせであった。誕生の慶事があわや戦乱にもなりかけなクライシュの危機を自らの手で救うことのできた喜びに重なった。クライシュの詩人(マフズーム家のフバイラ・イブン・アブーワハブ)が詠み上げた詩をマッカの人びとは口ずさんだ。「あちらでこちらで揉事が絶えず、 幸運を共に喜ぶその後の、和のすき聞から邪が潜り込む。 友愛のあとを憎悪が追いかけ、火を付けてまわる……。 もはやこれまで、刀に訴えるほかに道は無しと思われしとぎだった。 予期せずこの場に現れた、最初の男を公正に選ぼう! やって来だのは正直者のムハンマド 我々はアミーンのムハンマドに賛同した」ムハンマドは無事出産を終えた姿をねぎらうと、四女を見つめ、この素晴らしい日に重なった誕生を心から喜び、この記念すべき一致は神の計らいと、天を抑ぎ神の恵みに感謝を捧げた。陰で人びとが『四人娘の父親』と噂することも気に留めなかった。穢れない小さな愛らしい生命に深く慈愛の情を寄せるのだった。たとえ人びとが彼女を忌み嫌ったとしても、自ら選んでこの世にやって来たのではないのだ。男でなかったことは彼女に責任はない!妻に同情を寄せ、神がふたりに贈られたものを彼女もまた心から喜んで迎え入れるようにと願うのだった。これは彼女にも自分にもどのようにもでぎない神のご意志なのだからと妻の気持を慰めようとした。しかしハディージャにそのような慰めの必要はなかった。四番目の娘を見たその瞬間から、彼女の気持は和らいでいた。娘の中に、そっくり父親の面影を見たのだった。彼女には神が特別な計らいで、この娘を授けてくれたに違いないと思われた。最愛の夫そのままの姿に創造して……。そっくりな面立ちだけで、もう周囲の冷やかな視線から娘を護り、愛と励ましを注ぐのに十分であった。この母の想いは自分の人生すべてをムパンマドの妻として添い遂げることに賭けていたのだ。長く結婚を拒み、心の扉を絶望的に閉ざしてきたその後にまで、天はこのような大きな実りを自分のために取って置いて下さったのだと、彼女は十分に満足であった。

إن شاء الله
続きます

アッラーのご加護と祝福がありますように

و السلام

四人の姉妹①

2008-01-14 | 預言者の娘たち
بسم الله الرحمان الرحيم
السلام عليكم

家と両親


マッカの聖域に隣接した地域、カアバをとり囲む地区には、他部族の居住を許さず、その栄誉を独占するかのごとくクライシュの家々が建ち並んでいた。その中の一軒に若き花婿ムハンマド・イブン・アブドゥッラー・アルハーシミーを迎え入れた家があった。この家こそ、その後15年を経たカドルの夜(ラマダーン月の27日、クルアーンの下った歴史上の一夜)に、最後の預言者として天啓を授けられたムハンマドが、震えおののきながら真っ青になってヒラーの洞窟から駆け戻った歴史的な家であった。この家は道路より低く、何段かステップを降りていくと通路があり、その左側は地面より1カダム(フィート)ほど高く盛り上がった空地のような庭になっていた。そこが長さ10m、幅4mであった。右側に小さな戸口があり、二段ほど登って行く。この戸口は幅2mほどの狭いホールに通じていて、そこにドアが3つあった。最初のドアは左側にあり、開けると6m四方ほどの小さな部屋になっていた。この部屋を預言者ムハンマドは礼拝のために使用していた。正面のドアは奥行き六m、幅4mほどの広間で、ここが夫婦の寝室であった。3番目のドアは入口の右側にあって、この部屋は奥行き7m、幅4mの長方形で、娘たちの部屋になっていた。家の北側に沿って広い空地が続き、広さは16m×7mで、1mほど地面より高くなっていた。ここはハディージャ夫人が結婚前に商品や資材を保管しておいた場所で、結婚後は商いから手を引いたため、この広場は客人の応対の場に使われた。この家にムハンマドは迎えられた。ハディージャ夫人が代行としてシリアヘの交易の旅にムハンマドを選んだ初めての出逢いの日に。そして再びその旅から戻った日に・・・。ムハンマドを迎え出たクライシュのこの佳き夫人が胸を高鳴らせ、その気高い姿に心うたれた日であった。そして象の年(アビシニア軍が象を使ってマッカに浸入したが、つぶての雨が降って退却した年、西暦570年。ムハンマドはこの年に誕生した)から25年が過ぎた年、啓示が下る15年前のある日のことであった。この家にタンバリンが鳴り響き、クライシュの高貴な若者とクライシュの富める貴婦人ハディージャ・ビント・ワワイリドが人々の祝福を受けて結ばれたのだった。幾日もマッカの人びとの間はこのカップルの話でもちきりとなった。お祝いの慶びだけが話題を集めた訳ではなかった。突然の出来事だった上、ハディージャ夫人に再婚の意志があろうとは思いもかけぬことだったので、人びとの驚きは一層であった。彼女はクライシュの由緒ある家柄の男たち、マッカの富豪たちからの申し込みも、すげなく断ってずっと1人暮しの生活を続けてきた。誰ひとり、25歳のムハンマドが40歳になるこの資産家の未亡人の夫に選ばれるとは想像もしなかった。この時クライシュの男たちは、財産もない青年が自分たちをさしおいて資産家の佳人と結婚するのを苦々しく思ったかもしれない。また、恐らくハーシム家の乙女たちも、二度の結婚歴のある婦人が若く花のごときハーシム家の乙女たちの前から有望な青年を奪ってしまったことを、いつまでも心残りに語り合ったことだろう。しかしながら、あれこれ言う人びとも本気になって豊かな貴婦人であるハディージャがムハンマドに相応しくないとか、血筋の良い好青年ムハンマドはハディージャに相応しくないとか、目角を立てていたわけではない。彼らの話題にしても、ハディージャは40歳に達した金持ちの中年の婦人、一方の彼は25歳の貧しい青年で、あまり釣り合わないと言ったくらいのものであったろう。誰もが一時驚いたものの、ふたりの間の貧富の差も、年齢の差も、もはや騒くほどのことではなかったのだろう。問もなくマッカの人々の夜のお喋りのひととぎにその話がもち出されることはなくなった。ときたま何かの折に思い起こされ、遠い話題となったが時とともに消えてしまった。恐らく、当時人びとが想起したとしたら26年前のこと、ハディージャの従姉にあたる、やはり金持ちであった婦人が、同じょうに貧しいハーシム家の青年を選んで結婚を申し込んだことがあったという話であろうか。この婦人はルカイヤ・ビント・ナゥファルでワラカの妹(あるいは姉)であった彼女はアブドゥッラー・イブン・アブドルムッタリブが父親の誓に従って犠牲に捧げられようとした後に、カアバから戻ってくる彼に出逢い、その姿に噂に聞いた待たれている預言者を偲ばせる神々しい光を見た。そして彼の身代わりに犠牲に捧げられたという百頭のラクダにみ合う額を贈って彼に結婚を申し込んだ。だがこの時アブドゥッラーは丁重に断って、その後にザハラ家の娘アーミナ・ビント・ワハブと結婚した。このルカイヤの従妹になるハディージャが、財産も地位も総てを捧げて、このアブドッラーの息子に結婚を申し込んだのだった。妹のルカイヤがムハンマドの父アブドゥッラーと結ばれることが出来なかった日の記憶が呼び起こされて、ワラカ・イブン・ナウファルには、この度のハディージャの申し出にムハンマドが応じ、二人の結婚を祝福できた喜びと感慨はひとしおであった。マッカ中が新しく誕生したこの倖せなカドフルの話題で賑やかだった頃、ワラカは以前ハディージャから聞いたマイサラ少年の話に憶いをめぐらしていた。マイサラはムハンマドの共をしてシリアまで商品を運んで行った少年であったが、この少年の話には二十六年前に妹がアブドゥッラーの顔に見たという『光』とつながるものがある・・・。ワラカは従妹の婿となったその青年に、長い間待ち続けてきた噂の預言者の到来の確証を見つけたように思う。 「ああ、胸が震える。 私は畏れのあまり感泣する。 何と長い聞、待ったことだろう…… ハディージャよ、あなたの話を聞いて以来、私は望みを大きくした」互いに真実の愛を分がちあい、協力しあい、信頼しあう、二人の深い安らぎに包まれた結婚生活が始まった。一滴の汚れも悲しみも混じらない、清らかに澄んだ幸福の泉がふたりの渇きを潤した。2年ないし3年の月日がたち、幸せなふたりに愛の結晶が芽生えた。父親となる喜びがムハンマドの胸を震わせる。初めての体験、しかもこの体験をもってはじめて男として人間として完全になる大きな体験である。ムハンマドは父性の感性が胸の奥深くから沸き出てくるのを覚えた。まもなくこの世に、自分の肉体の一部が生を授かるのだ。自分の生命を受け継いだ小さな愛しい命が誕生するのだ。ハディージャと結ばれて知ったムハンマドの幸福はここに完成することだろう。彼は遠い日の記憶、彼がまだ六歳のときに逝ってしまった母を憶った。母の胎内に自分を残したまま、ヤスリブの地で土となった父を憶った。ふたりが生きていてくれたら、ひとり息子にまもなく生まれる赤ん坊をどんなに喜んでくれたことだろう。父を失った後、養父となってくれた祖父アブドルムッタリブのことも忘れなかった。ムハンマドの胸に熱い想いがごみ上げた。懐かしい人びとへの思慕が募り、彼の瞳は慈愛と哀しみに潤むのだった。感傷を断ち切って、愛する妻に視線を移すと、彼女は妊婦の重たい足どりで家の中を往ったり来たりしている。その顔は幸せに満ちて明るく優しかった。母親となる経験は彼女には初めてではなかった。すでに前夫のアティーク・イブン・アーイド・アルマフズミーとアブーハーラ・イブン・ズラーラ・アッタミーミの二人から娘も息子も授かった。彼女にはもう子供は要らないのではないだろうか。すでに授かった子供たちで十分に彼女の母性は満たされたのではないだろうか。否々、ハディージャの母性愛は前夫の子供たちに十分注がれて、なおさらに最愛の夫ムハンマド・イブン・アブドゥッラーの子をぜひとも欲しいと願ったにちがいない。豊かに成熟した女の本能も、また子供を望んだことだろう。彼女がまだ十分に若々しく新しい生命を産み出すことのできる女である証明を望まぬはずはない!どうして子供を望まぬ訳があろう。彼女の愛する夫は若き乙女たちの憧れの青年である。一方彼女はすでに40代に達している。10歳にも達しない少女が結婚する社会にあっては、40歳を越えたら、もう老女の仲間入りなのであろうか?すでに子供を何人も授かった身であったが、今回の妊娠に彼女は非常に気を配った。最初の結婚、2度目の結媛以上に3度日のこの最後の結婚に子供が恵まれるよう願ったことだろう。前回の2度の結婚では子供が出来ないのではないかとの不安は皆無だったが、今回はもはや妊娠すら遠い望みのように思えて、あきらめにも似た感情に襲われるときがあった。この不安は当然結婚生活の当初から襲ってきた。夫は子供を授かる喜びをまだ知らない。初めての結婚で自分以外の誰をも知らないこの愛する人に子供が授からないかもしれない。彼女にとってはクライシュの婦人たちの聞で自分のことが年だから子供は無理だろうなどと、あれこれ取沙汰されても、さほど気にはならなかった。またハーシム家の婦人たちが口を揃えてハーシム家の好青年に跡継ぎが出来そうもないと、その不安を哀れんだり、勝手な推測をしたとしても、さほど気にならなかった。彼女が気に掛け悩んだのは、自分自身がその不運の原因となることであった。夫が商用で遠出の旅に出たときなどは、おそらく彼女は気がかりで眠れぬ夜を過ごしていたことだろう。「どうぞ、より完全な幸福をお与え下さい」ひたすら天を仰ぎ、祈ったことであろう。夫が戻ると、若さに溢れたみずみずしいその生命力に元気づけられて、彼女の心にかかっていた不安は消え自信が蘇るのだった。自分の身体に貯えられた肥沃な生命力に安堵することができるのだった。妊娠の兆がみえたとぎ、天にも昇る気持でその喜びを夫に告げた。そしてハーシム家の各家に吉報を伝える使者を遣わし、吉報はクライシュ居住他の隅々にまで伝わった。貧しい人々にお祝の施しが与えられた。彼女はマッカに住む総ての人びとが飢や貧困に悲しみ沈むことなく、この慶びを分がちあって欲しかったのだろう。

إن شاء الله

続きます

アッラーのご加護と祝福がありますように

و السلام


アラブ社会と女性その3

2007-10-10 | 預言者の娘たち
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم

理想像・模範像

 女性の人権擁護を強く訴えてきたイスラームのシャリーア(聖法)及びその他の法規範の実例をここに書き加えて検討する必要はないであろう。宗教という名日のもとに長い間枷をかけられてきた東洋の女住たちを救おうと女性解放連動の第一声が湧きあがったわけだが、結局、最初の解放運動の起点であったのはイスラームのシャリーアだと、すでに多くの人びとが認めている。女性の隷属と宗教とは何のかかわりもないのだ。読者はもう十分ご承知のことであろうが、それでも敢えてここに、ムハンマドSの女性観を伝えてくれるエピソードの幾つかを拾い出し、女性に対する彼のやりとりの様子を書き留めておくことは意義のあることと思われる。これから私が書こうとする四人の娘たちの父親、その人物像を映し出す良き鏡となることであろうから。アルブハーリーのハディース集に拠ると……アーイシャ夫人、が言った。私のところに二人の女の子を連れた哀れな母親が物乞いに来ました。そのとき私のところには棗椰子の実がたった一つ残っていただけでした。彼女はそれを二つに割つて二人の娘に分け与えると、(自分は何も口に入れずに)立ち上がって出て行きました。そこへ使徒様が入ってこられたので、彼女のことを話すと、こう言われました。「(不学にして娘たちの親となった者が)娘たちを通して試みられたのだ。娘たちを立派に養育した親は、娘たちはその者には業火を避ける囲いとなることだろう(その娘たちが地獄への道を防いで救ってくれるの意)ムスリムのハディース集にアナス・イブン・マーリクから聴聞して伝えられたハディースが載っている……預言者は言った。「ジャーリヤ(奴隷の少女)をふたり、成人するまで家族同様に差別なく面倒を見た者は、最後の審判の日に、私とその者は2本並んだ指のように一緒に並んで(天国に入る)……」アブーダーウドのスンナ集にイブン・アッバースが伝えたハディースがある……預言者Sは言った。「女児を得て生き埋めにせず、泣き悲しませることなく男児と同等に育てた者を、神は楽園に迎える」 アルブハーリーもまた、サハーバのひとりが預言者Sのもとに遺産のことで許諾を求めにやって来たときの様子をこう伝えている……その男は息子がないので、死後に財産をムスリムのために残したいと言った。まだ遺産相続の啓示は降りていなかった。そのとき預言者Sは「女の子はいるのか?」と聞いた。「はい」と答えると「それならば財産をムスリムのために残すことはならない」と言った。アンサールのサアド・イブン・アッラビーウの妻が二人の娘を連れてやって来たときも同様であった。「使徒様よ、この二人はあなたと一緒にウフド戦に参加して死んだサアド・イブン・アッラビーウの娘です。伯父がこの娘たちの分まで財産を私有してしまいました。使徒様よ、どう思われますか、財産がなければ、この娘たちの結婚にも差し支えます」預言者Sは「あなたの訴えは神が聞き届けてくれるでしょう」と、彼女を帰らせた。相続の啓示が降りた。そこで預言者Sは言った。「婦人とその連れを私のところへ呼んで下さい」ふたりが来ると、娘たちの伯父に向かって言った。「二人に2分の3を与えなさい。母親に八分の1を与えなさい。残った分があなたの取り分です」彼ほどに女性にきめ細かな配慮を見せた人物は史上に見あたらない。アーイシャが伝えるハディースに拠ると……ある娘が面会を求めて来て、苛立った様子で言った。「父はお金のために、私の大嫌いな従兄と結婚させようとするのです」アーイシャは彼女を坐らせて、預言者Sが来るのを待った。預言者は娘の不満を聞くと、彼女の父親のもとに使いをやって、娘のことは娘に任せるようにと論した。すると彼女はもはや父親に対して感じていた攻撃的な気持が消え、こう言った。「私は父の決めたことを承諾しました。本当に知りたかったのは、女にも大事を決める権利があるかどうかでした」アブーアルアースがまだイスラームに改宗する前のこと、アディーナで捕虜となったとき、預言者の娘ザイナブが彼を救った。この話は後で彼女の章に載せた。またウンムハキーム・ビント・アルハーリスは、マッカ開放の年にイクリマ・イブン・アブージャフルを保護したいと申し出た。イクリマは、たとえカアバの覆いの下に隠れても見つけ出したら殺せと名前を呼び上げられた者のひとりであったのに、預言者は彼女の申し出に応じて彼の身を保護した。またマッカ開放の日、マフズーム家の二人の男がアブーターリブの娘ウンムハーニーの家に保護を求めて来た。「どうしても殺してやる」と、アリーが二人を追跡した。彼女は戸を諦めて二人を匿うと、マッカの町の頂上に天幕を張っていた預言者Sのもとへ走って行き、マフズーム家の二人を保護した旨を中し出て、兄弟のアリーがその二人を殺すと言ってきかないことを訴えた。すると預言者は「あなたが助ける者は私たちも助けよう。ウンムハーニーよ、あなたの保護した者は私たちも保護しましたよ。殺しはしない」預言者Sが女性に示したこのような思いやりはジャーヒリーヤ期を抜けたばかりの当時では、彼女たちが望み、期待した以上のものであった。新しい社会が古い時代の女性観を打ち砕くために、ぜひとも必要としていたのが、使徒Sの人柄の中にみるこの理想像・模範像であったのだ。二冊のサヒーフ (アルブハーリーとムスリムによるハディース集)が伝えるオマル・イブン・アルハッターブの話を思い出してみても、その必要性がどれほどであったか推察できよう。……全く、我々がジャーヒリーヤの時代には女は何の重要性もないものと思っていたが、神の啓示が降りて女にも権利を与えたから……私があるとき、あることを行なおうとすると、妻が「こうだったら、こうやって」と口を出す。そこで「あなたには関係ないだろう。私のやることはあなたの知ったことではない」と言った。すると彼女は私にこう言った。「あらあら、おかしいですね。オマルよ、あなたは未だ頑固にそんな古い考えを変えないのですか。あなたの娘も頑固者で我を張って、使徒様Sをまる一日怒らせたけれど?」そこで私は急ぎ、着替えてハフサのところへ出かけた。私は彼女に言った。「娘よ、使徒に逆らって怒らせたというのは本当なのか?」すると彼女は「ええ、本当よ」と言うではないか!そこで親戚にあたるウンムサラマのところへ寄って事情を話した。すると彼女は「おかしいですね。オマルよ、あなたは何事にも関与なさいますが、使徒様とその妻の間にまで介入なさいますのか」彼女の言葉にショックを受けて、これにはもう何も言えなかった……。長い間に培われた女性観の変革のためにイスラーム社会にぜひとも模範となる人物が必要であったことを、オマルのこのエピソードがはっきりと教えてくれている。このオマルは預言者Sの妻ハフサの父であり、イスラームが最も誇りとするサハーバ(教友)のひとりである。クルアーンを十分得心していたはずのこの人でさえ、自分の妻が、物事に口をはさむのを疎ましく思い、意見を述べるのを嫌った。そして妻が娘のハフサの例をあげたとき、まさかと思い、娘のもとへ直行して耳にした件を尋ねてみると、娘は「そんなことありません」と答えるものと思ったが、彼女は「本当よ。私も預言者Sの他の妻たちも、頑固に言い張って使徒様Sを怒らせてしまいました」と言うではないか! オマルは信じられない娘のことばに怒り心頭に発する想いでその場を出たが、なんとウンムサラマの返答は打ちのめされるようなショックな葉であった。「おかしいですね、オマルよ。あなたは何ごとにも関与なさいますが、預言者Sと妻たちの問にまで介入なさいますのか」オマルは預言者Sの家で大きな教訓に出会った。他のサハーバも、ムスリムたちも、また同じであった。かつての習慣から抜け切れず、古い信念と新しい教訓との狭間で揺れていた。勇士アブーダジャーナのエピソードも奇妙な話とはいえまい。彼はウフドの戦いで預言者の刀を預かると勇敢に飛び出した。彼は頭にイサーバ(ターバン)を巻いていたので、「死のイサーハ」と呼ばれて恐れられた。敵を見つけるやー刀のもとに斬り捨てた。その彼がヒンド・ビント・オトバがムスリム壊滅を叫んで多神教徒の士気を鼓舞している場にやって来た。彼女の脳天に刀を振りかざしたものの、こう言いながらその場を去ってしまったという。「使徒Sの刀を尊んで女を打たず……」細やかな心づかい、深い思いやり、理想的な人間性と情け深い父性、これがムハンマド・イブン・アブドッラーSであった。さて、それでは四人の娘たちの父親ムハンマドSの様子を見ていこう。彼の娘たちは皆、啓示が下る前に生まれ、その後、父の聖なる戦いに勝利の栄光が目映ゆく輝く日々を生きたのである。

إن شاء الله

続きます

アッラーのご加護と祝福がありますように

و السلام

アラブ社会と女性その2

2007-10-10 | 預言者の娘たち
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم

  さて本来のアラブ社会の女性の地位について話を戻そう。古い文献から拾った実例を添えて、女性も十分に人格を発揮でき、敬意と信望を受け得た存在であったこと、そしてワアドはすべての少女に降りかかった悲劇ではなかったとの見方に確信を持ったものの、どのように調べあげてもやはり、女の子の誕生と男子の誕生は同等ではなかった。アラブには、あるとき砂中に女児を埋めた人びとがいた。またいやいやながら女の子を育てた人がいた。娘の行く末に気を揉んで眠れぬ日々を過ごした人もいた。また娘に死を選んで安息を得た人もいた。アラブはそういう時代をすぎてきたのだ。イスラームの時代が訪れて、この悲劇は幕を降した。ワアドについて最初に降された啓示は、恐怖の日の警告であった。「埋められた女児が、どんな罪で殺されたのかと問われるとき」……クルアーン・第八一章(アッタクウィール)八~九節。そしてこの後にマッカ啓示・第一七章(アルイスラーウ)31節で「困窮を恐れて、あなた方の子女を殺してはならない、われは彼らをもあなた方をも養うものである。彼らを殺すのは本当に大罪である」 またマッカ啓示の第六章(アルアンアーム) 一五一節ではこう述べられた。「言ってやるがよい。わたしは主があなた方に禁じられたことを読誦しよう。彼に何者でも同位者を配してはならない。両親に孝行であれ、困窮するのを恐れて、あなた方の子女を殺してはならない。われはあなた方をも彼らをも養うものである。また公でも隠れていても醜い事に近づいてはならない。神が神聖化された生命を、正義のため以外には殺害してはならない。このように彼は、命じられた、恐らくあなた方は理解するであろう」アルアーン注釈者たちは、この二章にある「子女を殺してはならない」の一節を、女児のワアドを指したものであると断言している。子女を殺す人びとは愚かで裡造する者、迷える失敗者とされた。「無知のため愚かにもその子女を殺し、神が彼らに与えたものを禁じ、また神に対し捏造する者たちは正に失敗者である。彼らは確かに迷った者で、正しく導かれない」……クルアーン・第六章(アルアンアーム) 一四〇節。ムスリムのハディース集には様々な個所にアブドゥッラー・イブン・マスウードの話が採録されている。……彼は言った。「どんな罪が一番重いのですか」と使徒に尋ねた。すると彼は言った。「神に配偶者を置くことだ。彼こそあなたの創造主であられる」そこで訊いた。「それは確かに大罪です。「その次は?」彼は言った。「その次は、食べられないからと恐れて子供を殺すことだ」「その次は?」「隣人の妻と不義を犯すことだ」ワアドは禁じられたが、女児を嫌悪する心情と女性に対する禁欲の心はすぐには解けなかった。前代からの長い年月を継承するうちに、いつの間にが我々アラブの自然なオリジナリティと化して、初めに何故こうなったのか理由のないまま、心に染み付いてしまったのだろう。新しい女性が社会に進出し、仕事を持ち、生活の収入を得るようになり、文芸の面でも、科学・技術面でも指導的な役割を果たすほどになったけれど、女児の誕生はやはり男子の誕生と同じではないのだ。イスラーム期のアラブの詩集(ディワーン)の民謡にうたわれたょうに、誕生のその瞬間から、女児は嫌悪の視線を浴びて迎えられる……ここにアルジャーヒズが伝える数行の詩がある。女児を産んだ結果、夫が自分から離れてしまった母親の悲しみを詠んだものである。夫は隣人の家から(恐らくこの隣人は彼のもう一人の妻であろう)戻らない。「アブーハムザよ、 なぜ戻ってくれないの。 となりの家に行ったまま…… 男児が生まれぬばかりに怒ってしまった…… それは私たちの手には届かぬこと…… ああ、私たちに与えられたものを授かりましょう」ここでクルアーンの次の一節を誦んでおこう。「また彼らは神には女児があると言う。何ともったいないことよ、自分たちには自分の願うもの(男児)があるというのに……。彼らのひとりに女児(の出生)が知らされると、その日は終日暗く悲しみに沈む。知らされたものが悪いために恥じて人目を避ける。不面目を忍んでそれをかかえているか、それとも土の中にそれを埋めるか(と思い感う)。ああ、彼らの判断こそ災である」……第一六章(アンナハル)五七~五九節。経済の仕組みが変わっても、社会の女子に対する嫌悪の心情は変わらなかった。娘の不祥事が家名を汚すのではないかとの恐れや不安も、遺産相続の際の差別も残った。これについては社会体制の問題ではないのだと断言しよう。人の素行など気にしない進歩的で自由奔放な社会にあっても、所有財産が限られて家柄の良し悪しなど問題にされない社会主義的社会にあっても、やはり女子は歓迎されてないのだ。それは遠い昔からひき継いだ心情である。社会の動向の中で生育し、経済的な要因に影響されつつ、長い間、我々の心に注がれて浸み込んだ心情で、社会体制が変わり経済的要因が消滅しても、その流れの跡を拭い去ることは容易でないのだ。クルアーンはその比類なく深い人間への愛と造詣から、またいがなる要因にも左右されぬ超越した英知から、伝統や慣習の力に支配され、抜け出ることが出来ずにいる人間の心情を汲み取った。人間に寄せる深く尊いその愛は、女性を嫌悪や虐待から守るため、ムスリムの再教育に惜しみない努力を重ねている。繰返し、何度も啓示が下されて、娘たちのことは神に委ねるように、そして出来る限りの範囲で男子と差別なく平等であるようにと、声援を送り続けた。

إن شاء الله

続きます

アッラーのご加護と祝福がありますように

و السلام

アラブ社会と女性その1

2007-10-10 | 預言者の娘たち
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم

 男児と女児は同じではない

 種族の継続は生殖による。すべての生物がこの種族保存の本能に支配されて生きている。そして人間のみがこの本能を自覚し、生殖の仕組みを知る別格な生き物である。さらに人間は己の子孫の繁栄と豊かな生活を願って、財産を築くことに執着する。この自然の法則に合致しないアブノーマルな事例があった。それは女児の誕生が忌み嫌われたことである。成長してその子宮に胎児を宿し待望の子孫を授けることの出来る女性であるのに。アラビア語で出産(インジャープ)とは、元来、男児を出産する意味であり、以下のような派生語があるムンジバ(アラブの母―すなわちインジャーブした女)とは、三人以上の男子を産んだ母親を指す。そしてこれらの婦人たちには部族の人々から敬意と信望が払われた。なぜ女児の誕生が疎まれたのだろう。母親となるべき女児なくして子孫繁栄の道はないではないか?我々は昔の生活環境が男子の多きを必要としたため、女子を忌み嫌わせたと考えることが多い。女は合戦となったら一族を守る力となることが出来ないばかりか、襲撃を受けた後には女たちは勝利した敵の獲物とされ、捕虜となり、彼女たちもその子孫も、いやしい身分となって隷属の羽目に陥るおそれがあったからである。このような事例は歴史に多く見られることでアラブだけが咎められる事柄ではなかった。クルアーン第3章(アール・イムラーン)35~36節にこのような言葉がある。「イムラーンの妻がこう祈って言ったときのことを思え。『主よ、わたしは、この胎内に宿ったものを、あなたの奉仕のために献げます。どうか、わたしからそれをお受け入れ下さい。本当にあなたは全知全聴の方であられます』そして女児を生んだとき彼女は言った。『主よ、わたしは女児を産みました』神は彼女が産んだ者をご存じである。男児は女児と同じではない。『私は彼女をマリヤムと名付けました。あなたの御加護を願いまず。どうか彼女とその子孫の者をのろうべき悪雲からお守り下さい』」アラブ社会の問題としては、彼らが殊更に女児を疎んだこと、また女性に関心を向けなかったことが、あまねく知られた事実である点に目を向けてみようと思う。あるアラブ詩人がこう詠んだ。「私は結婚などしたくない。たとえ巨万の財宝が贈られても。おお、とんでもない。女を娶るなど。私はむしろ墓の中をのぞもう」ジャーヒリーヤ期の婚約の席では、同席した花嫁側の身内の者たちは次のように言ったという。彼女の結婚相手がアシーラ(一門)の出身者であれば、花嫁が連れて来られると花嫁の父あるいは兄は言った。「安喜に暮らせ。元気な男の子が授かるように、女の子でないように。子孫に繁栄あれ、末の世までも……」そして一門外の者との結婚の場合は彼女にこう言ったという。「安喜に暮すことはない。男の子でなくてよい。あなたはよそに行き、よそ者を産むのだから……」母性を崇め神聖視し、恋愛詩の中では女性への愛を切々とうたいあげているというのに、彼らの女性に対する態度がこのようであるのは全く不可解な現象である。しかも多くの息子を産んだ母親はムンジバと呼ばれ敬まわれたが、多くの息子を持っても父親の方はムンジブと呼ばれて敬意を表された記録はなく、ムンジブの子と呼ばれて称賛されたという例もない。さらに不可思議な現象がみられる。そんな彼らが天使の名前に女性名を宛てていることだ。「本当に来世を信じない者は天使に女性の名を付けたりする。彼らは何の知識もなく憶測に従っているだけだ」・・・クルアーン第53章(アンナジュム)27~28節。彼らは天使を神の娘と呼んだ。同じように偶像にも女性の名を付け、神々として崇め祭った。「あなた方はアッラートとアルウッザー(共に偶像神)を(何であると)考えるか。それから3番目のマナートを。あなた方には男の子があり、神には女の子があるというのか。それでは本当に不当な分け方であろう」・・・クルアーン第53章(アンナジュム)19~22節。彼らは不思議な儀式を行った。神々にいけにえの動物を捧げるのだが、その動物の肉と皮および雌の乳から採れる物は男たちだけのものとされ、女は分け前に与れなかった。神々に捧げたその動物が死んだ場合は別で、その場合、その肉を食べるのには女も加わった。「彼らは言う。この家畜の胎内にあるものはわたしたち男の専用であり、わたしたちの婦女には禁じられている。だが死んだ場合は誰でもみなそれに与れる」・・・クルアーン第6章 (アルアンアーム)139節。埋められた女児が(どんな罪で殺されたのか、と)間われるときそして神に娘があると言い、天使を女の名で呼んだり偶像神に女の名を付けたりする、これらの人びとが女児を生き埋めにしたのだ。生き埋め(ワアド)……人間の尊厳を否定する何と非人道的ないたましい行為であろう。このワアドの行為を弁解しようと、幾つか理由があげられた。病弱な娘や身体に障害を持った娘の行く末の良縁を案じて、あるいは不吉に感じて、ワアドしだのだという。あるいは娘が不名誉な身となるのを怖れてワアドしだのだという。最初にワアドを行なった男は遊牧民のルクマーン・イブン・アードであったろうといわれている。彼の場合は妻たちの背信行為を知って驚き、彼女らを殺して復讐を果した。気を静めて、その後に道を下って行くと自分の娘に出会った。妻たちの背信に悩まされていたことから、彼はそのとき娘に飛びかかり、彼女をも殺した。それ以後、娘が捕虜の身に陥るのではと憂慮する父親や、娘の社会的に認められぬ不名誉な結婚を怖れる父親によってワアドが行なわれたという説が採られた。例えば・・・ヌアマーン・イブン・アルミンザルはタミーム族が税を払わなかったため彼らを襲撃して女たちを捕虜とした。タミームの首長カイス・イブン・アースィムが捕虜の返還を求めに行くと、娘のひとりが彼の意に反してヌアマーンの許に残りたいと言う。戻ったカイスは怒り狂って自分の娘たちをみな生き埋めにしてしまった。以来、彼は生まれるとすぐ女児をワアドした。タミーム族の男たちが彼の行為を真似た。他部族の中にもそれを真似た男たちがあった。ズバイル・イブン・バッカールの『アルマウフィキヤート』を典拠に、ハーフィズ・イブン・フジュルが『カイス・ビン・アースィム』の件を採り上げて書いている。・・・・アブー・バクルがカイス・イブン・アースィムに言った。「なぜワアドなどしだのか」カイスは第一にワアドを行なった男であった。彼は[彼女らが不祥な奴らと結婚すると困るからだ」と言った……。また、アンサールのヌアマーン・イプン・バシールまでイスナード(口伝者の一連の経路)が遡行するハーフィズが伝達した『イブン・マンダ』に拠れば……彼は言った。「殺された女児が問われたら」の一節について尋ねられたとぎに、オマル・イブン・アルハッターブがこう言うのを聞いた。[カイス・イブン・アースィムが使徒を訪ねて来て『私はジャーヒリーヤの時代に8人の娘をワアドしました』と悔悟すると、使徒は、ワアドした娘ひとりにつき、それぞれ一人の奴隷を自由にしなさい]と言った]弱く無力な女に悲惨な境遇が襲うのを哀れと思い、ワアドを行なった父親もいた。苛酷な運命に晒されて生きながらえるよりもと、死を彼女たちに選んだのだ。彼らは娘たちを手許に置き思い悩み続けるより、子を失う痛ましい不幸に耐える道を選んだ。ある詩人がこう詠んでいる。「私は生き延びなければ、生さていなければと願う。 娘が哀れな孤児となり、近親の男たちから虐待されることのないように。 叔父兄弟から荒々しく扱われることがないように。 ひと言でも愛する娘を傷つける言葉が吐かねたら、私は彼女のために泣くだろう……。 娘が私の生をのぞむのに、私はただ哀れと思い娘の死をのぞむ……。 女には死は生きるより清く安らかな道。 娘が私を慕って泣き叫ぶ姿を思いめぐらすとぎ、私の流す涙は血の涙……」 そして娘が死んだ後の安らぎのおとずれた心を詠んでいる。「私は眠る…… もはや想い煩う苦悩に眠れぬ夜は無い。 この静けさの後に情熱は消え、 夢を見ることも無く、私は眠る……」このワアドの行為には、古い信仰の流れを汲んだ部分があると言われている。娘たちを神々に生賛に捧げた古代の信仰で、我々が知っている事例ではイスラーム以前のエジプトにみられたナイルの花嫁が挙げられよう。もしかしたら先に言及したこと-天使を女性名で呼んだり偶像神に女性名を付けたり、これも何らかのつながりを持った行為なのかもしれない。非論理的な考え方であるけれども。もっともこのような行動が適正な理性や論理に基づいてとられるものであったなら、恐らく女性名の付いた偶像神など当時のアラブが拝むことはしなかっただろう。これらの行為は旧い慣習で、継承した伝統にすぎないので、それを行なうのに理性的判断など要らない。人間に男と女があるのなら、神ととも分け合おうではないか。男も女も。人間の彼らには男児があり、神には女児があるなんておかしなことだ。「神は娘を持ち、彼らは息子を持つというのか。それとも彼らは、われが天使たちを女に創ったと証言するのか。見よ、彼らの言うことは作りごとである。神が子を産まれるとは彼らも嘘つきの徒である。神は息子よりも娘を選ばれるというのか。どうしたのか、あなた方はどう判断するのか」……クルアーン・第三七章(アッサーファート) 一四九~一五四節。貧しさのあまり、ワアドせざるを得なかった父親がいた。これについては、貧困に疲れ果てワアドしようとする父親たちの手から何人もの少女を救い出した男サアサア・イブン・ナージャのエピソードが多くの文献に残されている。また十人のサハーバのひとりに数えられたサイードの父、ザイド・イブン・アムル・アルアドゥィーに助けられた少女たちの話も語り伝えられている。サアサアの場合、初めてこの善行の一歩を踏み出しだのは、タミームの男が穴を掘っているところに偶然に彼が通りかかったときだという。そう遠くないところで、女が生まれた子どもを抱いて泣いていた。サアサアが訳を尋ねると、男の方を指してこう言った。「あの私の夫が、この子を埋めるというのです」サアサアは男のところへ行って言った。「どうしてこんなことをするのです?」「貧しいのです……」と一言、男は言った。サアサアは雌のラクダ2頭を与えて、その子を救った。以来、この心ある善き紳士は貧困に喘ぎ子をワアドしようとする男のことを耳にすると耐えかねて出かけて行き、その娘を救ったという。そして子孫に素晴しい誉れを残して世を去った。サアサアの孫にあたるアルファラズダクが誇っている。「私の祖父は何人もの少女たちの命を救った。ワアドをせねばならない貧しい父親たちを助けた。私の祖父のような人物こそ、よく知っていたのだろう。後悔と恐れのない最後の日が迎えられることを……」ザイド・イブン・アムルの方は、娘を埋めようとする貧しい男のことを耳にすると、その男のところへ行き言った。「子を殺してはいけない。私が代わって育てよう」そしてその娘が成人した後に父親のもとに連れて行き、その娘の将来を父親に一任させた。彼女を親のもとに返すか、あるいはそのまま保護した者のもとに滞め置くかを選ばせた。イブン・イスハークの使徒伝に拠れば……このザイド・イブン・アムルの息子サイードとオマル・イプン・アルハッターブのふたり(この二人は従兄弟同士であり、また婿姻関係でも結ばれていた)が、ザイドの死後、預言者に「ザイド(ムスリムでなかった)のために、神の許しを乞うてもよろしいですか」と凧くと、預言者はこう答えたという。「よいだろう。そうすればザイドは別の一団として最後の審判の席に送られ神から特別の配慮があるだろう」結局、ワアドが行なわれた理由は、貧しさ故の場合がほとんどだったようである。クルアーンの次の2節がこれについて言及している。「イムラーク(困窮)するのを恐れて、あなた方の子女を殺してはならない。われはあなた方をも彼らをも、養うものである」……クルアーン・第六章(アルアンアーム) 一五一節。「イムラーク (困窮)を恐れて、あなた方の子女を殺してはいけない。われは彼らをもあなた方をも養うものである。彼らを殺すのは本当に大罪である」……クルアーン・第一七章(アルイスラーウ)三一節。このイムラーク(困窮)という単語が、この二個所以外に使われている例はなく、その意味は、とにかく貧しいこと金銭的な欠乏-すなわち、赤貧洗うがごとしで何も無い状況のことである。イムラークの語根となっているマラクについては、アラビア語では次のような使い方もある……「衣服をマラクする」この場合のマラクは『洗う』の意味である。また「子供が母にマラクする」この場合は『乳をもらう』の意味で使われている。……クルアーンのこの二節中に見られるイムラークの単語についてであるが、ふつう貧しさは、ほとんどの場合「ファクル」という単語で表記されていることからみて、このワアドの状況が父親のもとには全く何も無いという、酷い金銭的欠乏の状況下で行なわれたものだという例証になる。ザマフシャリが、どのょうにワアドが行なわれたかを描写したくだりがある……男は娘を連れて出た。彼女のためにすでに砂漠に穴が掘ってあった。彼女をその中に入れると、砂を掛けた。穴が完全に埋め尽されるまで砂を掛けた……。また妊婦に臨月が近づくと穴が掘られた。出産の瞬間はその近くに運ばれて、女児が誕生すると穴に投げ、男児が誕生すると受けとめて家に連れて戻った……。以上、ジャーヒリーヤ期の女性の地位が不当に低く、また醜く矛盾した有様で示されたが、この醜い光景を別の一面、アラブ女性の輝やがしい一面を示すことでカバーしようと思うのも当然であろう。これからここに登場する女性たちは勇気と情熱に満ちあふれた光かがやく存在である。だが同時にまた、あの暗い記録がこの輝やがしい明るい記録を拭い消していくのも当然なのであった。一部でアラブがいかに娘たちを大事に保護したか、また彼女たちがいかにのびのびと自由に活動したかを語っても、生き埋めにされた女児たちの叫び声や母親たちの泣き悲しむ声はこだまとなって人びとの耳もとに鳴り響いて返ってくる。人びとは耳を塞ぐ……。遠い昔の砂漠の彼方からやって来る、もう一つの響きに耳を煩けてみよう……ジャデイスの娘の話に……。ジャデイスの娘の物語はアルマスウードが『黄金の牧場』の中で伝えている彼女は一族をタスムの暴君の悪政から解放しだ勇者であった。ジャデイスの花嫁たちには夫の許へ嫁ぐ前夜には必ずこの独裁者の床で一晩を過ごさなければならぬ掟があった。掟に違反した結婚は許されなかった。この暴虐な掟に対して彼女は立ち上がった。王の部屋から飛び出すと、屈辱の血に汚れ破れた花嫁衣裳のまま村の人びとの前に現われて叫んだ。「ジャデイス!なんと惨めではないか! このように花嫁を迎えるとは!」そして彼女は夫の許には向かわず、勇敢に戦いを先導し、人びとを指揮して、ジャデイス族に勝利をもたらした。独裁者は殺された……。このようなワアドの悲話にとって替わるたのもしいエピソードが幾つも記録に残っている。例えば、バヒーサ・ビント・アウスのエピソードは……アバスの首長であったアルハーリス・イブン・アウフが彼女との婚約を済ませ、いざ結婚しようとした際、彼女は夫が自分に触れるのを拒絶した。アバスとズブヤーンの二つの村落を破壊して、戦いが続いている最中というのに、女のことに気をとられているとは!そこで彼は仕方なく、妻を満足させようと出陣した。彼もハラム・イブン・スナーンも、双方が(死者の)血の代償金(ディヤ)を支払うことで停戦になった……。また、ワアドの悲劇の裏でうっかり忘れられそうな事柄がある。それは娘の名をクンヤ(呼び名)に待つ父親たちがいることだ。アブー・ウマーマ (ナービガ・ズブヤーニ)、アブー・アルハンサー(カイス・イブン・マスウード)、アブー・サルマー(ラービウ・イプン・ラッバーハ、この人はズハイイルの父親である)、そしてアブー・アフラー(ハンザラ・アッターイ)、そしてアブー・サファーナ(ハーテム・タイイ)など。娘の名のクンヤを持つ例はイスラーム時代になってからも数多く残っている。サハバの中にも、クンヤの個所の索引を見てみると、何十人も娘の名のクンヤを持った人びとがいる。母親系の名を受け継いだ人びともいる。もう一つ、これもあまり知られてないようだが、アラブには娘の見事な活躍が称賛され、それ故に尊敬された男たちがいた。アウフ・アッシャイバニーの娘のように助けを求めた者を立派に保護した娘たちの父である。アッスライク・イブン・アッスラカを助けたファキーハ・ビント・カダードも、彼の詩集『善きを称える』の中で称揚されている。困ったことに、ワアドがアラブの全部族で行なわれた悪習であったかのようにアルマイダーニーやヌワイリーが伝えてしまった。しかしながら、他の史家たちが確かに書き残しているように、ワアドはタミーム、カイス、アサド、ハディール、そしてバクル・イブン・ワイルといった部族の間でのみ行なわれた風習だった。しかもタミーム族を除き、これらの部族もイスラーム以前にその悪習を絶っていた。タミーム族の問では、イスラーム期になってからもワアドが行なわれていたということである。ワアドが広くアラブに一般化した風習ではないと言い切ることは出来ても、恥ずべき行為であることには相違なく、我々アラブの汚点であったことを否認することは出来ない。古い文献の処々に記録され、クルアーンにも明示されたこの醜い行為が、疑うことの出来ない史実であるのは本当に悲しいことである。結論として、我々に断言できることはワアドは決して一般化した風習ではなかったということで、もっともそうでなければ集団自殺、民族崩壊という馬鹿げた道を進んだことになってしまう。ワアドの非一般性については人間の本能の面からも、また部族強化の面からも様ざまな制約が加わって、そのような行為の一般化を阻止しようとする方向に働いたはずである。かつて部族が、或いは個人が母親の家系に帰属した『母系時代』があった。母系の名を拝した部族や女性名の付けられた偶像神や天使たちが現れた。その名残りが、否その根源であったものが、女性神聖化への動きにつながって、女性を護り救おうとする働きになり、それが時おり矛盾対立した行動をひき起こす力と化して-これは一部の社会学者たちの見解であるのだが-それが女児のワアドであったろうという。ナイルの花嫁にみられるごとぎ古代の宗教的儀式と、ワアドは何らかの関連をもった行為だという。種族存続と生への願いは本能である。この本能は他のいかなる本能よりも強力に作用して、可能な限りワアドからアラブの少女たちを救ったはずである。男たちの人生には必ず女たちが参加している。母であり、妻であり、妹であり、恋人である。彼女たちが女性蔑視の偏見を正して人生に広がりと充実を与えたはずである。それに並行して、否それに優先して、自然の法則に縛られた社会的・経済的働きかけがある。少女は成長して子を産む、アラブが一方的に女性を負担になる存在と考え、側面を見落としていたとしても、それでも女が妊娠して子孫を得るのである。乳児を保育し、幼児の世話をし、少年をしつけ、成人として育て上げ、社会に送り出すのである。人間の一生は定められた段どりで進んでいく。人間が生存し、世代を継いで生き続けるには、部族の男たちが気付こうと気付くまいと少女たちの存在は重要なのだ。そこで、我々も気持を楽にしてワアドは一般的行為でないと考えよう。そしてジャーヒリーヤ期のアラブ社会に生きた女性像を別の視角から捉えていこうではないか。ワアドを免れ育てられた少女たちは、部族の仲間から大切な扱いを受けてのびのびと自由に暮らした。先に私の著書「預言者の母たち」で『女性と母性』の章に女性たちが得た称賛と敬服、また大活躍の物語を文献からひろい出し載せておいた(ので参考にして欲しい)。同一の時代、同一の社会環境の中に相矛盾する二面が存在することは少しも不思議な現象ではない。女児の誕生を忌み、女児に嫌悪感を募らせ、さらに女性に対して極端に禁欲的になったり女性の身持ちを極端に憂慮したり、それなのに一族の女性を護るために男たちは命を賭け、献身した。女児の誕生は嫌悪されたが女性は天使の地位にまで高められ、母と呼ばれて尊ばれた。少しも不思議なことではない。人生は航路に沿って進んで行くが、そこには相対立する矛盾が集合しているのだ。ワアドも、女性崇拝も、伝統と旧慣に起因するもので個人の思考や理性から離れて集団社会の動行の中で育成されたものである。古代アラブが偶像神に女姓名を奉ったことも同様で、これは女性神聖化の一面から、ワアドは惑悩あるいは忌み禁欲の一面から生じたものであろう。今日でも、我々の保守的社会の中では似た現象が見られるではないか女性は教育を受け、就職して社会に進出する機会が与えられたというのに、婚約者が彼女と会うことは許されてない。女性は大学の教授職まで昇格していても、アラブ・イスラーム機関などでは女性をそのメンバーに加えることはしない。事務職には迎え入れたとしても。イスラーム会議などで女の参加者があれば不快を表わし、また女が夜の社交場で働いたり人前で洒をたしなんだり、避暑地で裸に近い格好などすれば、それはもう黙っていない。このような矛盾した動きが起こるのは、先に述べたように、あくまでも慣習の問題であり理性の問題ではないからだ。個人が社会集団の感情に没しており、自らの行為を意識することなく集団の動行に流されてきたからだ。もし個人が仮に社会の成員に属さず、慣習や伝統の力に左右されぬ立場にあったとしたら、恐らく理性が否定したであろうことも、社会集団の中にあってはすなおに受け入れてしまうのだ。

إن شاء الله

続きます

アッラーのご加護と祝福がありますように

و السلام

アラブの父性像

2007-10-08 | 預言者の娘たち
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم

イスラーム期・啓典クルアーンに見る父性とムハンマドSの父性


 ムハンマドSに啓示が降されると、ごく初期の頃からクライシュはその一神教の教えがマッカの神々を受け入れず先祖伝来の生き方に反駁するものであると知った。ムハンマドSの教義の核心が神の唯一性を認めることでなかったなら、決して偽りを言わぬ誠実なこの男の言葉に彼らが進んで耳を傾けることもあったろう。しかし、ムハンマドSは旧来の神々を一掃せずには満足しなかった。 「彼らに、『神が啓示され給うものに従え』と言えば、彼らは『いやわたしたちは祖先の道に従う』と言う。彼らの祖先は全く蒙昧で(正しく)導かれなかったではないか」・・・クルアーン・第2章(アルバカラ) 170節 クルアーンには邪教徒の一掃が説かれているが、親に対する敬愛の情は大変に尊ばれ、神の唯一性の教義に続いて親孝行が奨励されている。 「主は命じられた・・・神以外の何者も崇拝してはならない。そして両親に孝行せよ、もし両親の片方、または両方があなたと一緒に暮し老齢に達しても、両親に対して舌打ちなどしてはいけない。荒い言葉を使わず親切な言葉で話しかけよ。そして敬愛の情を込めて両親に対し謙虚に翼を低く垂れて(優しく思いやりをもって)。『主よ、両親が幼少の私を愛育してくれたように、ふたりの上にご慈悲をお授け下さい』と祈るがよい」・・・クルアーン第17章(アルイスラーウ)23~24節 イスラームはたとえ多神教徒の親であっても、息子が親に逆らうことを許してはいない。許されることは多神教徒の道に従わないことのみであって、親としての権利を奪うことはしない。現世では親を大切に孝養するようにと説いている。「われは両親への態度を人間に指示した。人間の母親は苦労にやつれてその子を胎内で養い、さらに離乳まで二年を要する。われとあなたの父母に感謝せよ。われに終着の帰り所はある。だがもし両親があなたの知らないものをわれに(同等に)配するように強いても、かれらに従ってはならない。だが現世では懇切に両親に仕えよ。そして悔悟してわれの許に帰る者の道に従え。やがてあなたがたはわれの許に帰り、われはあなたがたの行ったことを告げ知らせる」・・・クルアーン第31章(ルクマーン)14~15節 またクルアーンは子どもについて、子どもはこの世の生活を飾るもの、信じる人々に神が授けられた最大の恵みであると言っている。 「天はあなたがたの上に豊かに雨を降らせ、あなたがたの財産や子どもをふやし、あなたがたのために、数々の園や川を設けた」・・・クルアーン第71章(ヌーフ)11~12節 「財産と子どもはこの世の生活の飾りである」・・・クルアーン第18章(アルカハフ)46節 それは我々の子どもに寄せる愛が本能と認められるからこそで、そこでクルアーンは我々の子どもへの盲目の愛について警告を与えている。 「様々な欲望の追求は人間の目には素晴しく見える。婦女・息子・莫大な金銀財宝・焼印を押した名馬・家畜・田畑、これらは現世の生活の楽しみである。だが神のみもとにこそ最高の安息所があるのだ」・・・クルアーン第3章(アール・イムラーン) 14節 「あなたがたの財産や子どもは一種の試みであり、神のみもとにこそ、最高の報奨があることを知れ」・・・クルアーン第8章(アンファール)28節 我々の子どもに注ぐ愛、ときには目も見えず耳も聞こえぬほどに溺れてしまう、そんな強力な愛の支配下におかれた我々に覚醒を呼びかけたものである。 親子の絆をクルアーンは至高のものと考える。宗教や信仰の壁も乗り越えるもので、この関係については最後の審判の日の恐怖を告知する啓示の中で述べられたごとくである。 「彼らは互いに顔を合わせることができないほど恐れる。罪ある者はその日自分の罪をあがなうために自分の子どもたちをさし出し供えようと願うであろう。妻や兄弟、自分をかばった近親まで」・・・クルアーン第70章(アルマアーリジュ)11~13節 「人々よ、あなたがたの主を畏れよ。かの時の震動は全くすさまじいものである。その日、あなた方は見るであろう。すべての哺乳する者は自分の赤子に哺乳することを忘れ、妊婦はみな胎児を流し、人びとは酔わないのに酔いしれたように見えるであろう。実に神の懲罰が厳しいからである」・・・クルアーン第22章(アルハッジ)1~2節 預言者Sは信者たちにとって正しい模範であり、理想の人物であった。ムスリムたちは彼の言動の中に、自分たちの心の琴線に触れるものを感じとった。父性を呼び覚まし、親を慕い子を慈しむ、人間の天性の気高い愛のあり方を感じとった。預言者Sは言う。「あなたがたに最も大きな罪を知らせよう。多神教に惑わされること、親不孝、それと嘘の証言だ」 親孝行は神のためのジハード(聖戦)より大切とされた。ある男が預言者Sの許に進み出て言った。「神の報奨がいただきたいのです。どうぞジハードとヒジュラにお供させて下さい」預言者Sは尋ねた。「両親のどちらかが存命か?」「はい」「神の報奨を願うのであろう?」「はい」「それでは親のもとに戻って孝行しなさい」 教友のひとりムアーウィヤ・イブン・ジャーヒマが伝える話に拠ると・・・彼は使徒Sのところへ行き、こう願い出た。「使徒よ、私はあなたのお供をしてジハードに参加したいのです。神に召され、来世は神の家に招いていただきたいのです」預言者Sは言った。「困ったことだ。あなたには母親がいるのではないか?」「はい」「戻って孝行しなさい」そこで別の機会をみて彼の前に出て言った。「使徒よ、神の家に入れていただきたいのです。ジハードにお連れ下さい」「困ったことだ。母上が生きておられるであろう?」「はい」「彼女のところへ戻って孝行しなさい」またもや彼の前に進み出て同じことを言った。すると預言者Sは「困った者だ。彼女の片足になりなさい。それから天国だ・・・」と言った。 二冊のサヒーフ(ブハーリーとムスリムによる伝承集)にアブドゥッラー・イブン・アムルが伝えたハディースが納められている。使徒Sが言った。「その男のことで親までを悪く言うことは罪になる」人々は尋ねた。「他人の親の悪ロを言うことがですか」「そうだ。他人の父親を謗る者は自分の父親の謗りを免れない。他人の母親を謗る者は自分の母親が謗られる」 アプー・ウマーマが伝える伝承に拠ると・・・ある男が尋ねた。「使徒よ、子に課せられた親の権利とは何なのですか」「親はあなたの天国であり、あなたの劫火(地獄)である」と預言者Sは言った・・・。 それは異教徒であっても失うことのない親の権利であった。アブーバクルの娘アスマーが言った。「母が私のところへやって来ました。母は使徒様の時代になってもまだ多神教徒でしたので、私はこう言って使徒様のご意見を求めました。『母がやって来ました。彼女は神を拒む者のひとりですが、母と親しく行き来してもよいのでしょうか』するとこう言われました。『そのとおり、母上を温かく親しく迎えてあげなさい。』」 ムスリムの「サハーバの功績を称える書」にアブーフライラが伝えたハディースが載っている・・・私は母にイスラームヘの入信を勧めていたのだが、彼女は多神教徒のままであった。ある日も私が彼女に入信を勧めると、使徒のことでいやなことを言う。そこで私は泣きながら使徒のところへ行ってお願いした。「使徒よ、私が母にイスラームヘの入信を呼びかけると、母はそれを拒みます。今日も入信を勧めましたら、あなたのことをひどく言うのです。どうぞ、神に祈って、アブーフライラの母をイスラームにお導き下さい」「神よ、アブーフライラの母を導き給え!」預言者Sみずからの祈願に心安らいで家路を戻り、戸口まで来ると、戸が閉まっていた。私の足音を聞いて母が言った。「少し待っていて下さい」そして氷を掻き回す音が聞えた。彼が言うには、彼女は身体を洗い身なりを整えてから戸を開けて、こう言った。「アブーフライラよ。神以外に神はなし、ムハンマドはその使徒であることを証言します」そこで、喜びの涙に浸りながら使徒Sのもとに走った。「使徒よ、喜んで下さい。神があなたの祈りを開き届けられ、アブーフライラの母を導いて下さいました」使徒Sは神を称えて深く感謝した。そして言った。「それはよかった」 死んだ後にも親には孝行をすべしとされた。マーリク・イプン・ラビーウが伝えている……我々が使徒Sの傍に控えていると、サルマ家の者がやって来て尋ねた。「使徒よ、両親に孝行を尽しました。死んだ後にもまだ尽くすべきことがあるのですか」使徒Sは答えた。「そのとおり、両親のために祈り、彼らのために許しを乞い、両親が生存中にやり遂げることが出来なかったことを彼らに代わって行なうこと。そして両親と血のつながる人々との親交を深め、両親の友人たちを大切にしなさい」 たしかに親はそれだけの敬愛を受けるに値する。子供のために汗水を流し労苦を厭わず、深い真実の愛情を注ぎつづける。親の心はまさに奉仕と犠牲と愛にほかならない。そして使徒は、この無償の愛を最も大切にした人であった。マディーナの預言者の面前に連れて来られた捕虜の子供のエピソードを伝えよう・・・人びとの中にいた女が赤ん坊に乳を含ませていた。ふと捕虜の中に幼児がいるのを見て、その子を呼び寄せると自分のお腹の上に乗せて乳を飲ませた。預言者Sは教友たちに言った。「あの婦人が地獄の業火の中で我が子を投げ出すと思うかね」教友たちは「いいえ、投げ出しはしないでしょう」と言った。すると預言者Sは言った。「神は子を想うこの母より、もっと信者には慈悲深いお方なのだ・・・」 アブドゥッラー・イブン・オマルが伝えている・・・我々が使徒Sに従って遠征に出たときだった。あるを通り過ぎたところ、そこの女が火をおこしていた。子供が一緒だった。炎をあげて火が燃え盛ってきたとき、ゴホンゴホンとむせった。すると女は預言者Sのところにやって来て尋ねた。「あなたが神の使徒様ですか」「そうだ」「どうか、教えて下さい。神は誰よりも慈悲深いお方なのではありませんか」「そのとおりだよ」「子どもをいたわる母親より、神はもっともっと慈悲深いお方なのではありませんか」「そのとおりだ」「母親は子どもを火の中に投げて苦しめたりは致しません(たとえ悪い子どもでも預言者Sはうつ伏して泣き、女の方に顔を上げると、声を詰まらせて言った。「神は決して人間を苦しめたりなさらない。背信する者、唯一なる神の存在を信じない者だけが苦しむのだよ」 アブーフライラの話に拠ると……あるとき、子どもを連れた女が預言者Sを訪ねて来た。「どうぞ、この子のために祈って下さい。もう三人も埋葬したのです」「三人も埋葬した? それではあなたには業火から護ってくれる堅固な囲いがもう出来ている」ムスリムのハディース集に採録されているアーイシャが伝えた話に拠ると……アーイシャは言った。ベドウィンの男たちが使徒様Sの面前でこう言いました。「あなた方は子どもを抱きしめたり、口づけなどするのか!」「ええ、そうしますよ」そこにいた人びとが答えると、彼らは「我々はそんなことはやらない」すると、使徒様Sがこう言われました。「おやおや、神はあなた方から慈しみの心を取り除かれたのかな?」 アブーフライーラが伝えるハディースに拠ると……アブーフライラは言った。孫のハッサンを愛撫する預言者Sを見てアルアクラア・イブン・ハービスが「私には息子が10人いるが、ひとりも抱きしめたり、ロづけなどしたことがない」と言うと、使徒Sは「慈しまぬ者は慈しまれない」と言った。 イスラームの教義が子に対して親への孝養を強く説きながら、親に対しては子への義務を説いてないのには少しも不思議はないだろう。 人間の天性は、子が親を裏切ることはあっても親に子を裏切る心は無いからである。この見地からシャリーア(聖法)では「(子が父を殺した場合は死刑となるが)父は子を殺しても死刑にされることはない」と定めている。父は子のためには身命を投げ出すことさえ厭わないのが本能である。我が子を殺すごとき事態は止むに止まれぬ状況下に置かれた場合、あるいは正気を失った場合のみなのだ。

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و السلام

ジャヒリーヤ時代

2007-10-08 | 預言者の娘たち
بسم الله الرحمان الرحيم

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ジャーヒリーヤ期預言者の娘たちについて書こうと思い立ち、その準傭にむけて使徒伝やハディース(伝承)、歴史書などの古典をひもとき始めた。歴史に傑出する人物を父とする大変な栄光を背負ったこの四人の娘たちの姿を、古典の中からひき出していこうと考えたからである。だが、読み進んでいくうちに、まずはムハンマドSの父性像をつかむことが肝要で、この探究なくしては問題の核心を正しくかむことは出来そうもないと気付いた。だが、この探究は容易ではない。当時のアラブの社会構造およびその内部状況から父権の位置づけまで、詳細かつ十分な知識が必要とされる。背後の事情に照明をあてて、はじめて使徒の父性像がくっきり浮び上がってくるのだから、そしてその威信もより明確に我々に伝達されることになるであろう。だが「アラブの父性像」を求めてハディースや史料を検討していくとなると、これは膨大な量になってしまう。さらにこの本の題名が定めている本流から外れていってしまうおそれも多分にある。そこで次の三点に沿って整理し、考察してみようと考えた。まず最初に「ジャーヒリーヤ期の父性」、それから「クルアーンに見る父性」、そして「使徒であり人間であるムハンマドSの父性」である。「ジャーヒリーヤ期の父性」については、これは直接のテーマとは関係なかろうと思われるかもしれないが、ムハンマドSが結婚をしたのは啓示を授かる十五年も前であったこと、4人の娘たち全員の誕生がジャーヒリーヤ期であったこと、さらに啓示が降されたときにはすでにそのうち三人までが結婚をしていたことを思えば、さらにまた伝統的・環境的に確立された思考や慣習が人間に及ぼす影響の大きさを思えば、ムハンマドSの父性像を考えること、ジャーヒリーヤ期のアラブの父性を知ることと、テーマとの繋がりは、とてもないがしろには出来ない重要な関係を含んでいることがわかっていただけるであろう。論理的に考えて、人間をその人の置かれた環境から切り離して考察することは不可能である。世代から世代に父祖伝来、肉体の深奥を流れ続ける血筋も、また無視されるわけにはいかない。人間である預言者Sについて考える際も、これらのことは思い起こすべき点である。預言者S自身がしばしばこう言っている「あなたの子孫のために良き配偶者を選びなさい。血は続いていくのだから」と、遺伝として残される力の大きさを認めている。「神は私を正しい血筋の男の肉体から移して滑らかな良き母胎に宿し、尊いふたりの結晶から私を創られた」とも言った。預言者Sはまたこういった。「神はイスマーイールの子孫の中からキナーナを選び出され、キナーナからクライシュを、そしてクライシュの中からハーシム家を、そしてハーシム家の中から私を選ばれた・・・」そして母方の祖先たちを『イスラムの清き婦人たち』と称え、彼自身をカディード(乾燥させた肉あるいは.パンのこと、当時の主要な食糧であった)を食べるクライシュの女の息子であると言った。ムハンマドSの人間性に宿るこの孤高の資質こそ、すでに何度も述べたように信仰や民族の隔たりを越え、長い年月の流れを越えてなお、敬服される彼の偉大さの証し、偉大さの秘密なのだ。だから我々はムハンマドSの父性について語るにあたって、使命を帯びる以前のムハンマド・イプン・アブドッラーSの初期の基盤となる父性をはっきりと見極めておこうと、ジャーヒリーヤ期まで遡り、ハディースを求めてアラプ社会の奥深く、その背景をさぐって行こうと思う。そこから神が彼を預言者として選ばれたのであるから。それでは初めに整理しておこうと考えたジャーヒリーヤ期のアラブ社会についてであるが、この社会は部族制度をとっていた。部族組誠において父親は危険性を孕むほどに強大な存在であった。というのも部族とはもともと血の源流となる一人の父祖に由来する。そのー本の根本から生長して肢を広げたにすぎない。それが時の流れとともに、大きく伸びた技は独立した支族巣団となり新たな生長を始め、その元の大木を必要とせずに生計の立つ準備が出来上がったときに、はじめてその源の集団と社会的な連帯関係が切れていく。ときおり母系に基いた部族も見られたが、これはジャーヒリーヤの古い時代の一時期にアラブに現れた形態であった。アラブ系ムスリムの家系の中に一部その形跡を残しているものがある。部族制社会の生活様式から、部族の首長たる人物は(実質上の部族の最年長の父祖であることから)自然と冠のない支配者・菅理者として絶対君主のごとき権力を持った。その管理下からのがれようとする成員は部族の保護を失い、さらに部族制社会全体から勘当され、追放を受ける身となった。ジャーヒリーヤ期の父権の強さについてはあまねく知られたことなので、改めてここに実例を求める必要もないであろう。 クライシュは特にそうであったといえる。クライシュが当時のアラブ社会において際立って父権を重視していたのは、当時クライシュが有力部族で様々な利権・特権を掌中におさめていたからであろう。この点でクライシュに匹敵できる部族は他に見られない。疑いもなく彼らは祖先の偉大な美徳を誇りとし、その血の正統性を守ろうとしたことであろう。それを裏付ける史料がクライシュの各支族およびその分家にあたる総ての家系を集録した文書「アンサーブ」である。何世紀、何世代にもわたる膨大な系図であり、そこにはクライシュのいかなる父・母もその名を忘れられることなく記録されている。遠い昔の、しかも文盲がほとんどの時代のことであるから、けっして容易な作業ではなかったろう・・・これを、でっち上げの系図であってアドナーン (北アラブ、カイス族の祖)とカハターン(南アラプ、ヤマン族の祖)に逆らなる部分だけが正しいとか、あれやこれや言う人々のことは気にしないでおこう。これらの批判は根拠に乏しい。ここでは部族の運命に父系の力が重要な役割を持っていた、その証しとなるものとして、この系図を受けとめよう。さもなければアラプ民族の長い歴史の変遷の中で時が指先で結びを残してつなぎ留めてきたこの鎖り、すなわちこの一族の系図を記録に残し続けてきた彼らの努力はどう酬いられると云うのだろう。 事実、祖先の美徳を誇りとするのはアラプ社会に特有現象であって、父祖を尊ぶことは彼らの民族的伝統であったといえる。アラブ民族の宗教上の歴史は、先祖イスマーイールが創造主の御心に背くまいと父の命令に従って身を捧げんとした故事に始まることを想い起こしてほしい。さらにその旧宗教史が、ジャーヒリーヤ期のアプドルムッタリブの息子たちの故事で諦めくくられていることも想い起こしてほしい・・・息子に恵まれなかったアプドルムッタリプは、「もし十人子供が授かったら、そのうちの一人をカアバ神殿で犠牲に捧げる」と誓った。父のその誓いを告げられたとき、息子たちはためらいも見せず、父に応えてカアバに矢軸を運び、父の傍らに立ち並んで犠牲に捧げられる者が自分たちの中から選ばれるのを待った・・・。またムハンマドSが唯一絶対なる神の存在を説いて布教を始めたとき、アラブは頑に偶像崇拝を守ろうとしたが、これも祖先が確立した慣わしだからという理由にすぎなかったのだ。 「彼らに神が啓示され給うものに従えと言えば、いや私たちは祖先の道に従うと言う。彼らの祖先は全く蒙昧で(正しく)導びかれなかったではないか」・・・クルアーン・第二章(アルバカラ)170節 「だから、これらの人ひとが崇拝するものについて、あなたは思い煩うことはない。彼らは祖先が以前から崇めてきたとおりに崇めているにすぎない」・・・クルアーン・第十一章(フード) 109節 彼らはムハンマドS個人についてはいかなる点も攻撃していない。彼が祖先の評価を貶え、祖先が仕えた偶像神を価値なきものと公言したことに対して非難したのだった。預言者Sの伯父であり養父であったアブ・ターリブも、甥の呼びかけに応えたいと思いながらも先祖代々の信仰を断つことにこだわりを感じたひとりであった。彼はこう陳謝した。「甥よ、私には祖先が守った信仰や祖先が踏み行うべきとした道から逸脱することはできない。しかし私が生きている限り、必ずあなたを護ってあげよう」 この点では古代のアラブも全く同じことを行なった。クライシュがその使徒に対抗した如く、アードの民は彼らにつかわされた預言者フードにこう言った。 「あなたは私たちが神だけに仕え、私たちの・祖先が崇めていたものを捨てさせるために来たのか」・・・クルアーン・第七章(アルアアラーフ70節) またサムードの民はこう言った。 「サーリフよ、あなたは私たちの中で、以前望みをかけた人物であった。それなのにあなたは私たちの祖先が崇めたものに仕えるのを禁じるというのか。あなたが勧める教えについて、私たちは真に疑いをもっている」・・・クルアーン・第11章(フード)六二節 彼らには、信仰に父祖伝来のスンナ(ならわし)が必要なのであった。祖先のならわしに忠誠を尽すことは、大切な義務を全うすることであった。これは彼らの抜き難い信念であった。 部族制度はアラブの父にこのような威信を与えた。それはまたアラブの男子を望み、1孫に恵まれ家系が強化拡大するようにとの願望につながっていた。数と力は繁栄の証しであった。このような社会構造下では、勢力を保っていくために部族間の競争や対立が、水場の権利や収益の問題をめぐって絶えずひき起こされていた。数多く息子に恵まれることは大変な優位となったから、多妻制が自然発生的に現れてきたのも少しも不思議ではない。ここでもう一度、預言者の祖父アプドルムタリブのエピソードを思い起こそう。アブドルムタリブが彼の祖父クサイイから巡礼者に水の供給をまかなう水場の支配権を譲り受けたとき、彼はそのためにかなりの労苦を重ねていた。遠い昔に砂に埋もれたというザムザムの井戸の話を聞いて以来彼は考えた。アラブの祖先イスマーイールに神が恵みを授けられ、不毛のワージー(涸谷)地帯に生命を甦えらせたといわれる、その奇跡の井戸の調査に踏み出す決意を固めた。アブドルムタイブは息子のアルハーリスを連れて歩いた。当時彼にはこの息子がひとりだけであった。道具を用意して井戸を堀起こそうとすると、クライシュの男たちが立ちはだかって、アサーフとナーイラの二大偶像神が安置されている、ちょうど中間の、その場所を掘らせまいと邪魔をした。アブドルムタリブは自分に子孫が少ない故に軽くみられ侮られたのだと悟り、それでは自分に十人の息子が生まれてもなお人々が井戸を掘らせまいとするのであれは息子のひとりをカアバで犠牲に捧げよう、そして神のお思召しを得ようと誓った。そして有名なエピソードとして語り伝えられてきたように、十人の息子を連れてカアバに向かった。占矢は一番末の息子アプドッラーに当った。このとき、もし身代わりが用意されなかったら、アブドッラーは犠牲に捧げらるところであった! このエピソードも部族社会の「子は力」の実態を示したものといえよう。部族を護る力となる子孫に恵まれない場合は、いかなる部族にも残存する望みはないのである。 旧アラブ社会に生きた父と子について、その締め括りにクルアーンから抜粋した人間味豊かな一節をここに示しておこうと思う。 父の子に対する感情にはどうにもできない理不尽さが混じっていることを、それは神に選ばれた預言者たちですら、そうであったということを読みとってほしい。これは自分と自分に従う者たちを方舟に乗せたときのヌーフ(ノア)の姿である・・・。 「方舟は彼らを乗せて山のような波の上に動き出した。その時ヌーフは離れたところにいる彼の息子に叫んで言った。息子よ、一緒に乗れ。不信者たちと一緒にいてはいけない」息子は(答えて)言った。「わたしは山へ避難します。そこは私を水から救ってくれます」ヌーフは言った「今日は神のご命令によって、神のご慈悲に浴する者のほかは何者も救われないのだ」そのとき二人のあいだに波が来て、息子は溺れる者の一人となった。御言葉があった。「大地よ、水を飲み干せ。天よ、(雨を)降らすことを止めよ」水はひき、事態は終り、舟はジューディ山上に乗り上げた。また御言葉があった「不義を行なう民を追い払え」ヌーフは主に申し上げた。 「主よ、わたしの息子はわが家族の一員です。あなたの約束は本当に真実で、あなたは裁決に最も優れた御方であります」主は仰せられた。「ヌーフよ、彼は本当にあなたの家族ではない。彼の行いは正しくない。あなたが知らないことをわれに求めてはならない。われはあなたが無知な者とならないよう戒めておく」ヌーフは申し上げた。「主よ、本当にわたしが知りもしないことについて、あなたに請い求めたりすることのないようお許しを願います。あなたがわたしをお許しになり、慈悲を与えられなければ、わたしはきっと失敗者の仲間になるでしょう」御言葉があった。「ヌーフよ、われからの平安によって、(舟を)降りて行け。あなたに祝福あれ、またあなたと共にいる人々の上にも。ほかに、われが(少しの問の生活を)亨受させる人々もあるが、結局彼らはわれからの痛ましい懲罰を受けることであろう」・・・クルアーン・第11章(フード)42~48節 息子の不義を呪えず、息子への救いを求める父の心のなんと優しいことであろうか。この啓示はイスラームが預言者達の欠点も弱みも持った人問味を大事にし、人間の本能に根ざした情愛を決して拒もうとしない証しなのであると言えよう。これらの情愛を持たない生命は生命といえない。 神は父が迷える息子のために祈るのを疎むことはなさらなかった。それゆえヌーフを退けようとも、神の使徒の栄光の序列から外そうともなさらなかった。ただ忠告を与えたのみで、彼に舟を降りるよう命じ、彼および彼と共にいる人々に平安と祝福を授けられた。 また、神にこう祈ったというイプラーヒームに平安あれ!「主よ、この町を安泰にして下さい。また私と子孫を偶像崇拝から遠ざけて下さい。主よ、偶像は多くの人々を迷わせました。私の道に従う者は本当に私の身内であります。わたしに従わない者は・・・だが、あなたはたびたびお許しなされる方、慈悲深い方であられます。」・・・クルアーン第14章(イブラーヒーム)35~36節 このように旧アラブ社会に生きた父と子は今日の我々の想像をはるかに越えた強い絆で結ばれていた。今日、我々の社会にみる父と子は大きくその伝統的な絆を緩めている。父親には子孫の数を限定する権利が認められ、一方、子には一個人としての自由な独立した人格が認められた。それどころか、ときには子供たちには明日を担う次の世代としてより多くの権利が認められ、親は彼らのために道を開け身をひかねばならない! 今日、我々は個人の先祖や家系についてまで調査したり、またそれに目を向けたりすることはめったにないが、旧アラプ社会では先祖の名誉や系譜の正当性、血筋の純粋性が誇示され、それらを守ることに部族の成員は面目をかけていたのである。

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ファーティマ・ザハラー(ラディヤッラーフ アンハー)⑨

2007-07-01 | 預言者の娘たち
بسم الله الرحمان الرحيم

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出発に先だってファーティマは生家とハディージャの墓所を訪ね、別れを告げた。
 マッカ滞在は二、三ケ月程の期間であった。ヒジュラ暦八年のラマダン月(第九月)に来て、同年ズルヒッジャ月(第十二月)にアンサールの町に向かって旅立った。
 ファトフ(開放)の晩にファーティマがつぶやいたごとく、この間の出来事すべてがまるで夢の中の出来事のようであった。夢の日々はそのまま二年の間統いた。ファーティマはいつも父のそばにいて、朝に晩にその輝かしい姿を日にしてきた。子供たちにも夫にも日々倍増する父の愛を一身に受けて彼女は幸福の絶頂にあった。初期に苦難の年月が奪った彼女の健康もすっかり甦り、子供たちの育児に力を住ぐ毎日であった。勝利の日を迎えて経済的にも豊かになったアリーがー雇った下男に家事の重労働はまかせることができた。
 だが、夢の日々から目覚めねばならぬ時がやって来た。
 預言者が病いに倒れ、頭痛を訴えた。ヒジュラ暦十一年サファル月(第二月)下旬であった。
 預言者の妻たちもムスリムたちも、すぐに治る軽い病気と考えた。使徒が病気で死ぬなどと誰も考えはしなかった。
 しかしながら『父親のお母さん』ファーティマは、頭痛の発作を耳にしてビクッとした。アチッと燃える火に触れたときのように、一瞬体中に戦慄が走った。
 いつぞや父がこっそりと話してくれたことが思い起こされたからであった。ファーティマが信徒の母アーイシャの家に父を訪ねると、父は「娘よ、よく来たね……」と笑顔で出迎えた。アーイシャが言うには、ファーティマは特徴がムハンマドに本当によく似ていたという。
 使徒はロづけして娘を迎え入れ、右に坐わらせると、いよいよ運命の時が来たようだとこっそり告げた。彼女が泣き出したので、こう言ってなだめた。「だが家族の中で、あなたが私のすぐ後をー番に追いかけてくる人だよ」そしてこう付け加えた。「トップレディーになるのは嫌なのかね?」彼女はにっこりした。アーイシャは変に思って「今日は悲しくて嬉しい日なのですか。おかしいですね」そして機会をみてファーァィマに預言者がこっそり告げた話について尋ねたが、『父親のお母さん』はこう答えた。「使徒様の秘密は教えてあげられないわ!」
 その日家に戻ってからも父の元気な様子からファーティマはさ程気にかけることもなく過ごしていたのだが、数日後、預言者が頭痛を訴えたとの知らせが届いて、胸騒ぎに襲われた。心臓が千切れそうに痛んだ。ファーティマは父の家に急いだ。
 父は気をしっかりと奮いおこし、痛みを堪えて、いつものように夫人たちを順に訪問し始めていたが、痛みはその間一層激しくなり、ついにマイムーナの家に着いたときにあまりの苦痛にとうとう動けなくなってしまった。夫人たちを呼び、アーイシャの家で介抱を受ける承諾を得て、彼は最愛の妻の家に移された。
 病床に伏した父を見守ってファーティマは一睡もせずに介抱を続けながら、冷静にじっと苦しみに耐え、神に願い祈り続けるのだった。
 しかし苦痛のあまり水を取って頭にかけ、「ああ痛い……」と呻く父を見て、ファーティマはとても冷静に耐えてはいられなかった。彼女は涙にくれ、悲痛な声をあげた。
「ああ、お父様、あなたの苦しさは私の苦しさなのです!」
 父は彼女に優しい目を向けて言った。
「もうこれからは、私のことで苦しませたりしないよ……」
 運命の時がぎて、ムハンマドは至高の天使に迎えられて昇天した。残されたファーティマはその後悲しみの果てることのない父亡き娘となった。
 ファーティマがいまだ深い悲しみに打ちひしがれている間、使徒が逝ってまだ四十八時間が立たないうちに、アブバクルヘの屋根の下の誓い(初代正統カリフとして推載)がなされた。
 切り刻まれた力をふり絞って、彼女は足を引きずりながら父の墓にたどり着いた。墓の土を握りしめ、泣き腫らした目を伏せて、両手の中の土の匂いを嗅ぎながら苦しそうにつぶやくのだった。
「ムハンマドの墓の土の匂いを嗅ぐ者に、何か起こったというの? ずっと昔から尊い人の墓の土の匂いを嗅ぐのが習慣ではなかったの? 尊い香りを嗅ぐはずではなかったの? 私に訪れたこの災難よ、昼と夜が逆さになったようなこの災難よ!」ファーティマは泣き崩れた。周囲に集まった人びとももらい泣きした。絶望的なしぐさで指先から土をすくい落とし、空になった両手をじっと見いる彼女の有様に、人びとは胸が千切れる思いであった。彼女はすべてが終った者のように無残なばかりの姿で立ち去った。
 彼女の後を打ちひしがれて涙にくれた人びとが従って歩いた。彼女の家まで来ると預言者の下男であったアナス・イブン・マーリクが入室の許可を求め、彼女に辛抱するように与言う。彼女は咎めるように言った。「どうして使徒様の遺体をあそこの土に埋めてしまったの?」
 アナスも他の人びとも、ただ止めどなく涙を流し、ひたすら「冷静に、忍耐を」とくり返すのみで何も言えなかった。
「冷静?忍耐?もうこれ以上の苦しみは何もないというのに?」
 統いて夫アリーが部屋に入って来た。ハーシム家の男たちが一緒であった。彼らはファーティマに聞こえるところで誓いのことを話していた。
 イスラームに大勝利をもたらしたアリーの偉業の数々を、使徒に愛され大切にされたアリーの立場を、彼らは思いかえしていた……アリーはいつも使徒と共にいて、あらゆる遠征に参加した男だった。ウフドの戦いではムハージルの旗手であった。クライザ部族征伐のときも、ハムラー・アルアサドのときも、フナインの戦いのときも、彼は使徒の旗を掲げ持った。
 ハイバルの日にはイスラームの最初の象徴旗、信徒の母アーイシャの服地で作られた旗「鷲」を待った。このとき預言者は「この旗は神を愛し、その使徒を愛する者に委ねられる。そして神も使徒もその者を愛する……」といった。オマル・イブン・アルハッターブはぜひその栄誉に預りたいと願ったのだが、翌日使徒はアリーを呼び、その旗を彼に手渡した。
 ファトフ(マッカの解放)の日、その旗はサアド・イブン・イバーダの手にあった。預言者はアリーに言った。「行って、旗を特ちなさい。あなたがそれを持って入都しなさい」と。
 ヒジュラ暦六年シャアバーン月(第八月)、アリーは使徒の軍団を率いてファダクに遠征した。九年にはアルフルスの戦い、そして十年にはアルヤマン(イエメン)に遠征した。
 そのすべての合戦に勇猛果敢な働きで殊勲をたてて凱旋した。
 ファトフの日から一年、アリーは使徒の愛用のラクダ、カスワーに乗ってハッジを行った。
 使徒がムハージルとアンサールに兄弟の契りを結ばせたとき、使徒は自分の兄弟としてアリーを選んだ。
 パドル戦に出陣したときは、それぞれ三人ずつが一頭ラクダに乗ることになった。このとき使徒はアリーとアブールハーバの二人を選んだ。二人はゆったり乗れるように歩くと申し出たのだが、使徒はこう言って二人の申し出を拒んだ。
「あなた達が私より歩行に強いとは思えない。私があなた達より、神からより多くの報酬をもらえる身、ということはないのだ」
 使徒が存命中にアリーのことをこう言っていたのを人びとは覚えている。
「あなたは私にとって、ムーサー(モーゼ)にとってのアロンのごとき人……」
「あなたは私の一部、私はあなたの一部……」
「あなたは私の死後に、すべての信徒を率いる者……」
「私に従う者はアリーに従う者……」
「忠実なる信者は彼を愛し、偽善者は彼をきらう」
 一体、このアリー以上に後継者たる資格を有する者がいるのか? 預言者の養子、従兄弟、娘ファーティマの夫、ハサンとフセインの父、初期からのムスリム、不屈の闘士、イスラームの旗手として指揮官として各地で勝利を納めたクライシュの勇者であり賢者なのだ……。
 ファーティマは何も言わなかった。無言のまま人びとを避けてひっそりと何日も部屋に蘢ったままであった。アブバクルが拒んだ自分の相続権を求めて競いを起こす気力もなかったのだ。大きな悲しみは競いを起こすほどの力を残してくれなかったのだろう。
 しばらく彼女は傷つき悲しみに沈んで過ごしていたが、夫の権利、息子の権利を求めるべきと思い直すと、使徒の家族の手に大権をとり戻すために動き出した。
 アリーは彼女を馬に乗せ、彼女を連れてある夜各地方のマジュリス(集会場)を訪問して回った。彼女は夫の手に大権をとり戻すためアリーを支援して欲しいと頼んで歩いたが、皆がこう答えた。
「使徒の娘よ。我々はすでにアブーバクルヘの誓いに署名してしまった。もし、あなたの夫が先に来てくれたのなら誰もそうはしなかったのに……」
 イマーム・アリーは言う。
「私が使徒の遺体を部屋に放置したまま埋葬もせずにすぐ飛び出して、指導権争いを起こせばよかったのか?」
 ファーティマは言った。
「アリーはすべきことをやったのです。あの人たちは勝手なことをやったのです」
 家に戻って彼女は体んだ。朝になると戸口の近くで騒がしい声がするのに驚いた。オマルが入室を求めている声が聞こえた。オマルはウンマ(イスラーム共同体)分裂の危機を恐れ、ムスリムの団結のためにアリーも誓いに賛同するよう説きふせると言っている。
 ファーティマは苦しそうに叫んだ。
 「ああ、お父様、使徒様よ、オマルやアブーバクルからどんな仕打ちを受けたと思いますか、あなたが亡くなられてから...」
 人びとの間に泣き声が広がった。オマルは悲しくうなだれて立ち去った。オマルはアブーバクルを訪ね、一緒にファーティマに会い、二人で彼女に分かってもらおうではないかと誘った。
 二人は入室の許可を求めたが、ファーティマは許さなかった。アリーが来て二人を部屋に通した。二人は挨拶をしたがファーティマは返事をせず二人から顔をそむけ、壁面を向いて怒りを表した。
 やっとの思いで言葉を見つけてアブーバクルが言った。
 「使徒の愛娘よ、神に誓って、使徒の身内は私の身内よりもっと私には大切なのです。あなたは私には娘のアーイシャより大事な方です。できることなら、あなたの父上が亡くなられたときに私も一緒に死にたかった……。私があなたの徳もあなたの誉れもよく知っていながら、使徒の遺産をあなたが受け継ぐ権利を拒んでいるとお思いなのでしようか。それはただ使徒がこう言われたからなのです。……預言者が残したものはサダカ(喜捨)であって、相続されない……と」
 ファーティマはロを開いた。
 「あなた方の知っている使徒様の言葉を挙げたら、そのとおりになさるのですか」
 「はい」
 「あなた方はひどい方々です。神を恐れなさい。使徒様がファーティマの満足は私の満足だと言われれたのを聞かなかったのですか。ファーティマの怒りは私の怒り、私の娘ファーティマを愛する者は私を愛する者、ファーティマを満足させる者は私を満足させる者、ファーティマを怒らせる者は私を怒らせる……と」
 ふたりは答えた。「はい、使徒のその言葉を聞きました」
 彼女は続けた。
「神と天使に誓って言います。あなた方は私を怒らせ、私に不満を与えたのです。使徒様に会ったらあなた方のことを訴えます……」
 ファーティマの激怒に苦しみ、アブーバクルは涙を流しながら人びとの前に出て、誓いの廃棄を頼んだが、彼らは危機を乗り切るまではと彼を押しとどめた。
 私が読んだ限りの史料では、ファーティマがその後考え直そうと努めた様子は記録にない。ただ父の死以来、彼女がいつも悲しみの中にいて泣きあかしていたことを歴史はよく知っている。
 悲しみに沈んだまま、彼女は父の後を追う日のことばかりを考えていた。以前、亡くなる前に父がこっそりと彼女に話してくれたように……。
 そして何と早く、彼女は後を追ったのであろう!
 ヒジュラ暦十一年ラマダン月(第九月)二日、月曜日になると、彼女は家族のひとりひとりを抱き寄せ、じっと見つめてから、父の下女であったウンムラーフィウを呼び、低く弱い声で彼女に言った。
「私に水をかけて流して下さい」
 体をきれいに洗い清めると、父の喪に服していたため手を通さずにしまってあった新しい服を身に着けて、ウンムラーフィウに言った。
「部屋の真ん中に床をつくって下さい」
 彼女が仕度を終えると、その上に横になり、キブラの方角に顔を向けて、神と父に会える準備を整えた……。
 そして目を閉じて眠りに着いた!
 アリーは立ち上がり、泣きながら彼女を運び、アルバキーウに埋めた。         」
 父の死後六ケ月も立たない内の出来事であったと、大方の意見が一致している。
 預言者の最後に残った娘の墓をとり囲んで別れを告げながら、ムスリムたちは悲しみにくれた日を過ごしたという。
 離散した家族が再び一つに集まることができたのは、この世ではなかった。マディーナの沃土がファーティマの遺体を抱き込んだ。すでに父・預言者の遺体も、三人の姉たち、ザイナブ、ルカイヤ、ウンムクルスームの遺体も抱き込んだように……。
 ザハラー(ファーティマの敬称)の生涯の第一部の巻はここでページが閉じられた。だが再び、歴史書が第二部の物語を書き綴る……。シーア派の戦い、カルバラーの悲劇、カリフ継承の争い、アッバース家台頭の陰謀、ファーティマ朝の繁栄、これらの歴史的大事件、それをとり巻く諸事象はイスラームの信仰生活上に、学派や政治史上のさまざまな動きに、遠く影響を与え続けている。
 時代は移り変わったが、『父親のお母さん』は預言者の聖家族、祝福された清らかな子孫たちの中にいつまでも生き続けている。
 預言者に、そして預言者の家族たちに平安あれ!


アッラーのご加護と祝福がありますように

و السلام

ファーティマ・ザハラー(ラディヤッラーフ アンハー)⑧

2007-07-01 | 預言者の娘たち
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم

今日も明日も、これらのハディースは語り継がれていくであろう。
使徒であり人間であったこの英誰を温かく見守る神の御心がそこに感じられる・・・。
ファーティマは決して忘れることはないだろう。孫を肩に乗せてマディーナのスークを歩く父の姿を・・・
マスジドに着くと孫をそっと隣に降ろし、人びとの前に立って礼拝の先導をした。
あるとき例になく長いサジダ(平伏礼)をしたので、礼拝が終って人びとは尋ねた。
「使徒よ、いつもよりずっと長くサジダしておられましたが、何かお告げがあったのですか」預
言者は言った。「いや、何でもないのだ。ただこの子が肩にのってそうさせるので、私も無理にこの子を急がせたくなかったから...」

ファーティマにはこのときの出来事も忘れられないことだろう。
ムスリムたちの前で説教をしていたとき、ハサンとフセインが出て来た。
ふたりが赤い服を着てヨロヨロと歩いていると、預言者はミンバルから下りて来てふたりを両腕で抱きかかえ、再び説教を続けて人びとに言った。

「神の御言葉どおり、財産と子どもは魅力である。このふたりがヨロヨコ歩くのを見て、つい話を止めて抱き上げてしまった!」

またこのときの有様も決して忘れないであろう。
預言者はフセインの肩を掴んで足の上にそを乗せ、「タック、タック」と踊らせていた。
すると子どもは祖父の胸まで足を登らせて、こう言った。
「口を開けて」すると預言者はロを開け、口づけして言った。
「本当に私はこの子が好きだ。神もこの子を愛して下さい。そしてこの子を愛する人びとを神よ、愛し給え・・・」

またある日のこと、預言者は食事に招かれて教友たちと一緒に出かけた。
路地でフセインが仲間の子ども達と遊んでいた。
預言者は両手を広げて子ども達の前に出て行き、孫を捕えようとした。
子ども達はあちこちに逃げまわり、預言者は孫を捕まえるまでからかっていた。
フセインを捕まえると、一方の手を襟首に他方をあごにやって、口づけして言った。
「フセインは私、私はフセイン 神よ、フセインを愛する者を愛し給え・・・」

周りを囲んでいた人びとは素直に尊敬の気持を表して言った。
「預言者がこんなふうに孫を可愛がるのに、私はまだ息子に口づけしたことだってない!」

預言者は非情を嫌い、こう答えた。「親しみを持たない者は親しみを持たれない」

ファーティマには夢のようなゆとりと幸福に満ちた日々であった。
今や偉大な英雄である父は破竹の勢いで半島を限なく新しい光で征服していった。
神が使徒とムスリムに約束された大勝利の日は目前であった。
マッカヘ出発の準備を整えながら、八年ぶりに訪れる故郷を想って彼女は眠れぬ夜を過ごしていた。
共に故郷を出た夫の傍らに寄り添って、ふたりの幼い日々を述懐した・・・。
マッカはあの頃のままであろうか。それとも年月がその面影を変えてしまったか。のびのびと自由に遊んだ思い出の世界は、もう時が消し去ってしまったか。

懐かしい家族の住まい、ファーティマが生まれた家はまだ残っているだろうか。
それとも敵に打ち壊されて荒れた廃家となってしまったか。カアパは? あの白いハトはまだ聖域で安全に保護されて放し飼いにされているだろうか。それとも邪教徒たちに追われて傷ついた翼で苦しんでいることか
あの子供の遊び場は? 今でも去って行った友だちを覚えていてくれるだろうか。
それともすっかり忘れてしまって、もう誰一人知る人もなく、何を聞いても答えてくれないかもしれない・・・。
ハディージャの眠る墓所は? アブーターリブの墓所は? その外の親類家族の墓は? 
大切な人びとはちゃんと守られて眠っているだろうか。それとも異教徒に掘り返され荒らされて、亡き人びとの遺骸は散り散りになってしまったろうか。

ふたりが想いにふけっていると、戸を叩く音がする。アリーは立ち上がって戸口の人を迎えに出た。いまだ想い出の余韻に浸っていたファーティマは目を見開らいた。なんと目の前に現れたのはアブースフヤーン・イブン・ハルブではないか。

多神教徒軍の旗手であり、あのウフドの殉教者の死体から肝臓をひきち切って喰いついたばかりか、ムハンマドの生母アーミナの墓をもあばくよう人びとにけしかけたという女、ヒンド・ビント・オトバの夫である。

ムハンマドがマッカ行かの準備を始めたと耳にしたので、アブースフヤーンは交渉のためマディーナにやって来たのだと言う。そしてイスラーム軍が大軍を整えてマッカ入りする大勢を知って驚いた。
彼は預言者の妻となった娘のラムラ(ウンムハビーバ)を訪ね、そこの寝台に腰を掛けて休もうとした。
すると娘は大急ぎで寝台のそばまで飛んで来て床を片づけ、多神教徒の父が腰を掛けるのを拒んだ。
痛く心を痛めた彼は悲しい思いで預言者のもとに向かった。
預言者に話をもちかけたが何も答えてくれない。
アブーバクルにも、オマルにも、預言者に取り成してくれるよう助力を頼んだがだめであった。
オマルには冷たくこう返答された。「私があなたのために使徒に取り成すだって?神に誓って言う、ほんの少しでも敵意を見せてみろ、抗戦するだけだ!」

アブースフヤーンは息のはずみが整うまで少しの間黙ってから、アリーにこう言った。
「アリーよ、あなたは私の肉親のような方。私はこれこれの用件で来たのだが、どうか私の身になって預言者に頼んで下さい」

アリーの答えはこうであった。
「困った人だ、アブースフヤーンよ、神に誓って言うが、使徒が決定したことについて我々はロを挾むことはできないのだ」

アブースフヤーンは無言のままファーティマ夫人の方を向き、眠りから覚めて母の腕の中で足をバタバタさせている幼い息子ハサンを指して乞い願うように言うのであった。
「ムハンマドの娘よ、このあなたの息子に人びとにとり成してくれるよう言って下さい。そして末長くアラブの指導者であるようにと言い聞かせて下さい」

彼女は静かに答えた。「この子はまだ人びとの間をとり成して仲直りさせられる年ではありませんわ。誰も使徒様の意志に反する仲直りはできません」

望みを失ってアブースフヤーンはうちひしがれた姿で立ち去ろうとした。
が、戸口で少しの間立ち止まり、アリーに忠告を求めた。
「ハサンの父よ、本当に大変なことになったと思っている。どうか良いアドバイスを欲しい・・・」

アリが言った。「どうやったらあなたを救えるのか分からない。しかしあなたはキナーナ一族の首長たる人物、人びとのところへ出向いてあなた自身が和解を宣言したらどうですが。そして自分の地域にお帰りなさい」
「そうすればどうにかなると思いますか」

アリーはしばらく黙って考えてから、こう言った。
「そうは思えない。しかしそれ以外にあなたがやれることはないと思う・・・」

アブースフヤーンはアリーの家を出た。アリーの指示どおりやってみようと心に決めて。

ふたりは戸を閉めて、時の移り変わりと運命の不思議を語り合った。
夜は更けていき、ふたりは聖なるカアバの地、懐しい生まれ故郷、クライシュの居住地、マッカヘの帰環を夢見つつ眠りにおちていった。

預言者は一万のムスリムを率いて聖地に向けて出発した。
マッカを出て八年、皆そこに親しい人びとを残していた。

ファーティマもまた預言者の家の人びとと共に出発した。

砂漠の道、あの場所、姉のウンムクルスームとマディーナヘ向かったときに通過して生死の境をさ迷った地点が目に入った。

悲しい思い出が胸を刺した。ルカイヤはどこ? ザイナブは? 二人も同じようにマッカを出た。
そしてもう二度と戻れないところへ行ってしまった・・・。

このように自分は今、帰って行くのに、姉たちはもう一緒に帰れない。
マディーナの土の下に静かに眠ってしまった・・・。

姉たちの遺影は自分と共にあってマッカヘと一緒に進んで行くのだけれど、ファーティマの悲しみの心はマッラ・ザハラーンに到着するまで晴れることがなかった。そこに預言者は軍営を張り、最後の戦いに臨む態勢を整えた。

すると、夕暮が迫った頃多神教徒軍の旗手アブースフヤーンがやって来た。
預言者の天幕の前で、彼はマッカの人びとに向けて預言者が命じる言葉を待って一晩を過ごした。
朝を迎え、ムハンマドに面会が許された彼はこのときムスリムとなった。
そしてマッカに戻ると、人びとに聞こえる場所に立って声高く叫んだ。「クライシュの人びとよ、ムハンマドがあなた方のまだ見たこともない強力な軍勢を率いてやってきた。アブースフヤーンの家に入る者は安全である。自分の家の戸を閉める者、マスジドに入る者は安全である」

人びとはそれぞれの家に、聖なるマスジドにと散って行った。

使徒はラクダの背上でズー・トヮーの地に立った。大物の教友たちが使徒の周囲をかためていた。
使徒は神の御加護に感謝して謙虚に深く頭を下げていた。
あご髭がラクダの背に届くほど深く低く ムスリム軍は整列してマッカに入部した。
それぞれ大物の教友たちに率いられた隊列を組んでいた。このとき預言者の旗はサアド・イブン・イバーダの手にあったが、使徒はアリーに言った。「行って旗をもらい、あなたがそれを持って入都しなさい」

以前にもアリーはハイバルの際に「アルウカーブ」の旗を待った。それは預言者の最初の旗であった。またアリーはクライザ部族との戦いでも預言者の旗を待った。ウフドの戦いのときはムハージルの旗手であった・・・。

マッカ開放の日、預言者はアザーヒルの地から入都して、マッカの一番高い場所に陣をとり、そこに天幕を張った。そこはハディージャの眠る墓所の隣りであった。ファーティマも父に従ってそこに居た。今やあふれる歓びが、マッカヘの旅程でラクダを突っかれ放り出された地点を通過して以来、彼女の胸を押し塞いでいた悲しみを消し去った。
 しかし父は忘れはしなかった。ムスリムを殺害した者の外は殺してはならぬとの命令を出したが、他に名前を挙げられた者は例外であって、たとえカアバの覆いの下であろうと見つけ次第に死刑が命じられた。これらの人ひとり中にアルフワイリス・イブン・ミンカズの名前があった。夫アリーがその処刑を果たした。
「アッラーフ・アクバル……(神は偉大なり)唯一なる神、神以外に神はなし、その下僕(使徒)を勝利に導き、その兵士に力を投げ、数々の群団をうち破り、勝利を納めさせ給う……神以外に神はなし、アッラーフ・アクバル……」凄ましい一万の信者の声が大合唱となってマッカの空に響き渡った。マッカの山々さえも、畏れ敬まっで揺れ動いているかのようであった。
 使徒はファーティマの待つ天幕に戻ってきた。アブーターリブの娘ウンムハーニーの話では……「使徒様がマッカの高い場所を宿宮地にしておられたとき、マフズーム家の二人の男が私のところヘ逃げてきました(イブン・ヒシャームに拠ると、この二人はアルハーリサ・イブン・ヒシャームとズパイル・イブン・ウマイヤである)。私の兄弟アリーが入ってきて、二人を見つけ「殺してやる」と言うのです。私は二人を奥に匿い、戸を締めて、この一番高い場所の使徒様のところへ来ました。すると、そのとき使徒様はアギーナ(練り粉)の入っていたらしい桶で泳浴なさっているところでした。娘のファーティマが使徒様の衣服をカーテンのようにして彼の身体を隠してあげていました。休浴を終って服を着ると、八回ラカア(立礼一回と低頭礼一回と平伏礼二回によるイスラム礼拝形式の一単位がーラカア)して礼拝をなさいました。そして私の方を向いて言われました。「ようこそ、ウンムハーニー、何の用事かね?」私が二人の男のことを告げ、アリーのことを話すと、こう言われました。「あなたが助けた者は我々も助けよう。あなたが保護した人物なら我々も保護しよう。アリーは二人を殺しはしない……」
 マッカ征服の衝撃の波が治まって人ひとり心が落着くまで、しばらくの間使徒は休息をとった。その後、群衆の間を通り抜けてカアバに向かい、ラクダに乗って神殿を七周まわった。そしてカアバの開放を命じた。正面に立ち、人びとを前に開放の説教を行った。そしてこう言った。
「クライシュの人びとよ。私があなた方をどうすると思うのか」人びとは言った。「良きにお計らい願います。寛容なる兄弟よ、寛大なる兄弟の息子よ」「行きなさい。あなた方は自由です」
 暑く厳しい日中が過ぎて、やさしく心地よい夕暮が訪れた。盛大な祝賀の夜であった。帰郷したムハージルたち、共にやって来たアンサールたち、マッカの空はムスリムたちを大翼を広げて慈しんだ。天はその晩眠らずに預言者を囲んで集う盛大な人びとの群を見守ったことだろう。天使は神の戦士たちの勝利を祝って上空を飛び回ったことだろう。
 ファーティマはそこに、英雄・預言者から遠くないところで横になって、眠れずに想いめぐらしていた。母ハディージャはきっと天国から愛する預言者のこの素晴しい記念の晩を眺めて目を細めていることだろう。姉たちの魂も、きっとここマッカにあって、家族や愛する人びとと一緒にカアバを回わり、勝利の日の喜びをかみしめているにちがいない。
 家族が皆一緒に暮らした平和で幸福だった日々が偲ばれ、こみ上げる懐しさがどれほど彼女の胸を震わせたことだろう。
 このように眠らずに目を覚していることの何と素清しいことか、夜明けの祈りを呼びかけるビラールの声が聖なるマスジドの塔の上から流れてくるまで……。
 厳かに流れるアザーンに誘われて、信者たちは床を離れ、聖なるマスジドに集まった。偶像神の消えたカアバ、聖なるマスジドでイスラーム史上最初の朝の礼拝がこのとき行なわれたのだった。
 アリーは礼拝に向かう支度をしながら言った。「眠れなかったのか?」ファーティマは歓びに酔いしれていた。「ええ、私はこの勝利の夜は眠らずにいたかったのです。眠ってしまったら、この素晴しい出来事が眠りの中の夢の一こまとなってしまうのではないかと心配なのですもの……」
 そして起き上がり、静かに祈りを捧げた。やがて訪れた眠りに、しばしの間口を閉じた。
 彼女は生家を訪ねたいと思った。しかし家はヒジュラの後にオカイル・イブン・アプーターリブの持ち物となっていた。
その頃、使徒は「家にお住みになりませんか」と言われて「オカイルが家を明けてくれたのか」と訊いていた。
 ファーティマは考えていた。「父はどの家を我々のマッカの住まいに選ぶのだろうか」
 アンサールの人びとも考えていた。「使徒はきっとマッカに住むのだろう。クライシュの人びとがこぞって入信した歓びはこの上なく、彼らとのつながりを大切にしたいと願い、また長かった異郷での暮らしの後に懐しいマッカの土を踏んだ彼の感慨はひとしおであったから……。預言者は自分の民に会えたのだ!」と……。
 使徒がクライシュやアラブの他部族を(戦利品の)分配の面などで、より大切に扱う様子をみて、アンサールの詩人ハョサーン・イブン・サービトは不満を表わす非難の詩を詠みあげた。

「使徒のところへ行き、言おうではないか。
 信徒たちの大師よ!
 いかに多くの人びとがいてもスライム(マッカの有力一族)を第一に考えるのは何故か。
 ここには安らぎの宿を提供して助けた民、正しい教えを守って共に戦火をくぐり抜け、アンサールと名付けられた民がいる。
 神の道を進み、苦難を受け入れ、決して不満をもらさずに……。
 人びとがつまずいても我々はつまずかなかった……。
 どこに罪があるのだろう!」

 この声はファーティマの耳に届いた。マッカの人びとの耳にも届いた。このような非雑の声をどう受けとめるのだろう。
 ファーティマは父の難しい立場を思いやって胸を痛めていた。父は必ず解決を見つけると信じていても。
 しかしどんな解決策があるのだろう。ファーティマには見当もつかないことであった。彼女は父がアンサールの不満を訴えたサアド・イブン・イバーダにこう訊いているのを耳にした。
「それで、あなたはどうなのか」
「使徒よ、私は私の民と同じ気持です」
 預言者は少しも苛立ったり、困った様子を見せなかった。それどころか友に同情を寄せた表情で、アンサールの人びとを集めてくれるようにと頼んだ。サアドが人びとを集めてくると使徒はサでドに礼を言い、人びとの中に出向いてこう言った。
「アンサールの人びとよ、あなた方の不満は耳にしている。私のことをあなた方は本当にそう思うのか。神が導いてくれたのに、なぜ誤っていくのだ? 貧しい生活を神は豊かにしてくれたではないか、敵はあなた方の中ではないか?」
 人びとは言う。「ほんとうに、神とその使徒は我々を安全に守ってくれた親切なお方です」
「私の質問に答えてはくれないのか。アンサールの人びとよ」
 人びとは不安顔で「使徒よ、何と答えるのでしよう? 神とその使徒に感謝しております……」 人びとは預言者がこのように話を続けたので驚いた。
「もし好むならばあなた方はこう言ってもよかったのだ。私たちは間違っていました。嘘つきのあなたを信じました。苦悩していたあなたを助け、追い出されたあなたを救い、安住の地を与えてあげたのに! と。アンサールの人びとよ、緑豊かな里に住んで自分たちもイスラームに入信したからこそ、今は良き生活をする身分になれたのだと思わないのか。人びとに思う存分羊やラクダを持たせてあげようではないか。そしてあなた方は使徒と一緒に帰るのでは気に入らないのか。私はヒジュラしたのだから、もはやアンサールの一人なのだ。人びとがどの道を歩もうとも私はアンサールと共に同じ道を歩んでいく。アンサールに、アンサールの子孫たちに、神よ、永遠に慈悲を垂れ給え!」
 人びとはあご髭が濡れるほど泣いた。今や心の底から叫びたかった。「我々は満足です!」
 マッカの住民たちも泣いた。使徒は永住の地としてマディーナを選び、マディーナに帰って行くのだ。


إن شاء الله

続きます

アッラーのご加護と祝福がありますように

و السلام

ファーティマ・ザハラー(ラディヤッラーフ アンハー)⑦

2007-06-23 | 預言者の娘たち
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم

さて重要な問題が残った。アリーはいつ、ファーティマに加えて別の妻を迎えようとしたのであろうか。
ムスリム史家もハディースの大家たちも、この婚約の時期については無言である。大変に重要な事柄であるのに。

恐らく結婚してまだ年月の浅い時期であったろうと考える。
確かな伝承はないのだが、状況から推測して、恐らく子供が生まれる前のことであったろう。
ファーティマとアリーが二人の生活を始めて間もなくの頃、ファーティマはアリーの荒けずりな頑固さに馴めず、アリーもまた、実家を離れた悲しみから暗く沈んだファーティマとの暮らしに耐えられなかった頃のことであろう。

そこで我々はこの時期をヒジュラ暦二年、最初の子を授かる三年目に入る前の出来事と限定したいと思う。

どのくらいの期間がかかったのか定かではないが、ファーティマの心にかかっていた雲は消えた。家庭は爽やかな雰囲気に包まれていた。励調と友愛に支えられて、夫婦は幸福な良き家庭生活を築いていった。ファーティマは家にいて夫によく仕え、少しずつ少しずつ心の奥に残されたわだがまりも悲しみも消えていった。ムハージル(移住者)たちの多くがそうであったようにファーティマもマディーナの気候になかなか馴めずにいた。アリーはそんな妻の体調を思いやって優しく気を配り、努めて家事を手伝い協力して彼女の健康を大事にした。

そこで神はファーティマを喜ばせ、ファーティマを愛する人びとをも喜ばせたのだった。ヒジュラ暦三年に長男ハサン・イプン・アリーが誕生した。吉報が父・預言者のもとに伝えられ、父は満身に喜びをたたえて飛んで来た。両腕に赤ん坊を抱えると、赤ん坊の耳にアザーンを唱えた。そして赤ん坊を抱きしめ、慈しみの眼でいとおしそうにその顔をじっと見つめた。まだ離乳も完了しない幼ない年で神に召されて逝った二人の息子を思い出していたのだろう。

マディーナは町中をあげてハサンの誕生を祝った。祖父となった預言者は貧しい人びとに赤ん坊の髪の毛の量に等しい銀を施した。

そして日に日に成長していくこの新しい大切な生命を見守るのを大変に楽しみにしていた。
ハサンが一歳、あるいは一歳を少し過ぎたときに、母ファーティマは弟フセインをヒジュラ暦四年シャアバーン月(第八月)に産んだ。

使徒は『父親のお母さん』ファーティマの胸に抱かれたこの幼ない大切なふたりに、自分の生命の延長を見る思いであった。ハディージャ亡き後、息子に恵まれる望みを失べていた父性の感情が再びその大きな心を満たし始めるのを感じていた。

使徒はその時ほぼ五十七歳であった。ハディージャを失ってから十七年余りが過ぎた。その間五人の妻を迎えている。年老いた未亡人サウダ・ビント・ザムア、幼ない処女であったアーイシャ・ビント・アブーバクル、知的なハフサ・ビント・オマル、貧しい人びとの母と呼ばれたザイナブ・ビント・ホザイマさらにウンムサラマ。このウンムサラマ、すなわちヒンド・ビント・アブーウマイヤとはヒジュラ暦四年のシャッワールの月(第十月)に結婚した。彼女には前夫アブドッラ・イブン・アブドルアサド(使徒の従兄弟にあたる)との間にサラマ、オマル、ドッラ、ザイナブと四人の子供たちがあった。
それなのに使徒はこれらの五人の夫人たちの誰からも子供を授からない。
ムハンマド・イブン・アブドッラーの子孫はこのファーティマの息子ふたりだけであった。

多くの妻を迎えながら息子に恵まれない使徒がハサンとフセインを溺愛し、溢れ出る父性愛を思う存分注いだのは無理がらぬことであった。使徒はふたりの孫を『我が子よ』と呼んで目がなかったという。
アナス・イプン・マーリクが伝えるには・・・預言者はファーティマに言った。「私の子どもたちを呼んでくれ」そしてふたりの幼児が来るとロづけして抱きしめた・・・。

アルティルミズィーのスンナ集にウサーマ・イブン・ザイドの言葉が載っている・・・ウサーマが言った。
「用事があったので預言者の家の戸を叩いた。預言者が出て来たが衣服の中に何かくるんでいた。何だか分からなかった。用件を済ませてから訊いた。『一体、何をくるんでいらっしゃるのですか』すると開けて見せてくれたところが、ハサンとフセインだった。『私のふたりの子ども、娘の子どもたちだよ。ほんとうに私はこの子たちが大好きだ。彼らを愛する者を私は愛する・・・』」

ふたりの名前は使徒の口からこぼれ出る甘く楽しいメロディーであった。
ふたりの名前をロにするのが好きであった。ふたりには格別な肉親の情を抱いた。

神はこのような大きな恩寵をファーティマに与えられた。彼女だけに預言者の子孫を授けられた。
預言者の後裔となる栄誉を受けて、以来ずっと彼女の存在は後世に記録されて生き続けている。

アリーもまた神に愛されて、この氷遠の誉れを賜わった。
神はアリーの息子を人類に送られた最後の預言者の血をひく子孫に選ばれたのだ。

恐らくムハンマドがどの娘から後継者を望むか、どの婿をこの聖家族の父に望むか選ぶことになったら、神が選ばれたとおりを選んでいたことであろう!

アリーはムハンマドにとって最も身近な男、最も血のつながりの濃い婿である。
ハーシム本家を血脈としてアブドルムッタリブで預言者と血が結ばれている。

ムハンマドは八歳になってからはアブーターリブの家で息子と同じように養育された。
ハディージャ夫人と結婚後に生活が安定すると、今度はそのアブーターリブの息子アリーを引きとって父親代わりとなって育てた。

アプールアースにも、オスマーンにも、これほどのつながりはない。
二人ともクライシュきっての高い地位にあった人物だったが.・・・。
殊にオスマーンはイスラーム史上でも大変に重要な人物であったのだが・・・。

アリーはそんな自分の立場をよく知っていた。それを誇りとし、自信を持っていた。
あるとき感情余って預言者にこう訊いたほどである。
「使徒よ、どちらがお好きですか。娘のファーティマと、その夫のアリーと!」

預言者はにこやかに答えた。
「ファーティマの方があなたより愛しいよ。あなたの方がファーティマより私には頼みになるよ・・・」

以後、使徒がファーティマとアリーに寄せる深い愛情の証しに誰もが気づいたことであろう。
通りかかったときは必ずアリーの家に立ち寄った。
また暇な時間を見つけてはアリーの家に赴き、その幸せな家族を大きな愛で包み、孫の成長に目を細めるのだった。

あるとき娘と夫は深い眠りにおちており、ハサンがお腹を空かせて泣いていた。
立ち寄った使徒は眠っている二人を起こすのも可哀そうと思ったのだろう、家の中庭に繋がれたヤギのところへ急ぎ、乳を絞ってハサンが満腹するまで飲ませたという!

またある日彼は用事で急いでいたのだが、通りがかりにフセインの泣き声を耳にして、家に寄り娘に注意した。
「フセインが泣くのには耐えられないのを知らなかったのか!」

筆者はここで、この父の深い愛が幼ない頃から悲しみの日々を送ってきたファーティマをいたわり慰めようとする父性愛の表れだと言うつもりなのではない。
また貧しく厳しかった娘の結婚生活に訪れた幸福が、どんなに限りなく喜ばしいものであったのがを述べるつもりなのでもない。ファーティマは父にこれ程までに愛される息子たちの母となったことで十分に幸せだった。神の賜物によって最愛の父にふたりの子孫が授けられ、これ程の喜びを与えることができたことが何よりも嬉しく満足なのであった。

アリーの喜びもファーティマに劣るものではなかった。
従兄の預言者の生命の延長を自分の体に受けとめ、預言者の血と交わり、アラブの指導者となるべき預言者の娘の息子を生み出したのだ。全人類の中から自分が預言者の後裔の父粗となり、聖なる家族の柱となる栄光を担うのだ。

神の恵みは続いた。
ファーティマはヒジュラ暦五年に長女を産み、祖父はその子にザイナブと名付けた。忘れ得ぬ長女の名である。
赤子の伯母にあたるザイナプを偲んでの命名であった。ファーティマもまた姉を忘れることがなかった。

ザイナブの誕生から二年後、ファーティマは次女を産んだ。預言者はウンムクルスームの名を選んだ。
そのわずか二年の後に彼女を失う日がやって来ることを感じていたのであろうか。

そしてこの娘たちによってファーティマは二人の姉、預言者の娘たち、ザイナブとウンムクルスームの思い出を身近に大切に守ることができたのだ。

ファーティマに関しては、神は預言者を悲しませるようなことはなさらず、ファーティマはその後も父・預言者に喜びを与え続けた。預言者が神に召されるその日まで、ファーティマもその子供たちも幸せに生きて預言者を悲しませることはなかった。

ふたりの息子アルカースィムとアブドッラーは幼くして死んだ。
高齢になってから三番目の息子イブラーヒームが授かった。
ヒジュラ暦八年ズルヒッジャの月(第十二月)であった。預言者の喜びはひとしおであったが、この喜びも続がなかった。二歳にならないうちに三番目の息子も失った。預言者はすでに六十歳を越えていた・・・。

同じように三人の娘たちも他界した。ザイナブ、ルカイヤ、ウンムクルスーム、みな若い身であった。
父は心砕かれ、悲しみに沈んで娘たちをひとり、そしてひとり、ヤスリブの土の下に埋葬した。
ヤスリプの土には父アブドッラーがまだムハンマドが母のお腹にいた頃に埋められている。

ファーティマは生きた。その子供たちも生きた。預言者の人生に喜びを満たして生きた。
最愛の娘、このファーティマひとりが預言者に失ったものに代わるものを与えることができたのだった。

預言者の存命中ファーティマは生きて「お父様!」と呼びかける者をいつもその身近かに置いた。

ファーティマのふたりの息子は元気に生きて「子供たちよ!」と慈しみ甘やかす者を身近かに持つ喜びを人間・預言者に与えた。

ファーティマのふたりの娘ザイナプとウンムクルスームは優しい祖父にいつもその名を呼ばれて、亡き二人の娘を偲ばせた。

歴史はこの預言者の姿を息を止めてじっと見ていた。
そのあふれる父性愛が、大きな人間愛が、選ばれたる者が成した大偉業の数々とともに記録に残され、しばしば語り継がれるのを聴いていた。

إن شاء الله

続きます

アッラーのご加護と祝福がありますように

و السلام

ファーティマ・ザハラー(ラディヤッラーフ アンハー)⑥

2007-06-23 | 預言者の娘たち
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم

否、しかしながら問題は別の一面を符っていた。
アリーはアムル・イブン・ヒシャームの娘と言った。
神はアリーの家で使従の娘と神の敵の娘が生活を共にすることを望むであろうか?
彼女の父親アムル・イブン・ヒシャームとはアブールハカム、すなわちアブージャフルなのである!
預言者も、その信徒も、彼のイスラームに対する仕打ちは決して忘れはしない。
彼はクライシュの人びとにこう言った敵である。
「クライシュの人びとよ、ムハンマドは知ってのとおり我々の神々を非貧し、我々の狙先をいやしめ、我々の希望を茂んだ。明日こそ必ず奴のとなりに坐って奴がサジド(平伏礼)したら大石で頭を一発打ちのめしてやるつもりだ。
そのときにあなた方が私に味方しようが反対しようがかまわない。
奴を殺したその後のことは私を引き渡してアプドマナーワー族の勝手にするがいいさ!」

彼は預言者を嘲笑して言った。
「クライシュの人びとよ、ムハンマドは神の兵士が地獄であなた達を捕えて業火で苦しめると言っている。神の兵士は十九人だそうだ。あなた達は人数も多い、百人の我々が敵の一人にも立ち向かえないというのか?」

そこで啓示が下された。
「われは業火の看守人として、天使たちの外に誰も命じなかった。彼らの数を(十九と)限定したことは不信者たちに対する一つの試みに過ぎない」・・・クルアーン七四章(アルムッダスィル)三一節。

彼はこのクルアーンを聴いてどう思うかと訊いたアルアフナス・イブン・シャリークにこう答えている。
「何を聴いたんだって?我々はアブド・アナーワの一族とは同じように名誉をかけて競ってぎたのだ。二頭の競走馬のようにな!権利も義務もだ。我々にも預言者が天の啓示を伝えて現れるはずだ。それはいつわかるのだろう? 決して奴には従わないし、奴など信じない!」

彼こそマッカの身分良き市民がイスラームに改宗したと聞くと、一番に非難を浴びせて罵った男だった。
「先祖の教えを棄てるのか。奴が先祖より大切なのか?
全く、お前の信仰はお笑いものだ。お前の名誉を汚してやるぞ!」
そしてイスラームに帰依した者が商人であったらこう言う、「マーケットから締め出してやるぞ。財産をつぶしてやる」
そして弱い立場の者であったら暴力をふるって痛めつけた。

またこの男こそハーキム・イブン・ヒザームが囲いの中で窮乏に苦しむ伯母ハディージャに差し入れようと食料を届けたとき、それを見つけて妨害した男である。
「ハーシム家の奴らに食物を運ぶ気か。そんなことをしてみろ、マッカ中に言い触らしてやるぞ」そして掴み合いの喧嘩になったとい この男に対しては次の神の御声が下されている。
「ザックームの木こそは罪ある者の糧となる。溶けた銅のようにお腹の中で煮えたぎる!」・・・クルアーン第四四章(アッドハーン)四三~四五節。

この男はムハンマドの噂を聞いてハパシャからやって来たキリスト教徒の代表団にも敵対した。
彼らはムハンマドに会って話を聴くと、すぐ彼を信じた。
帰って行く彼らの背に、アブージャフルは罵倒を浴びせた。
「何という大ぼか者だ! お前たちの民がムハンマドのことを調べてこいと送ったというのに、奴に会ったらすぐに自分たちの立場を忘れて奴を信じてしまうとは!全くの大ばか者だぜ!」

彼こそヒジュラ直前にクライシュが決議したムハンマド殺害計画の張本人だった。
各支族から屈強の若者を一人ずつ選び出し、おのおのに鋭利な剣を与えてムハンマドを襲わせ、全員が一打ずつ切りつけて彼を打ち殺す。
そうすれば血の復讐は全支族に分散して返り、それぞれが代償金を分担して支払うだけで済む・・・と。

使徒がマディーナに逃れたときにはアブージャフルを含む数人がしつこく追跡した。
アブーバクルの家の戸口に立ち構え、迎え出たアスマーにきつく質問をあびせた。
「アブーバクルは何処に行った?」
「父は何処にいるのかわかりません」と彼女は答えた。
するとアブージャフルは手を上げて、耳飾りが吹っ飛んだほど彼女の頬を強く打った。
パドルの合戦に備えてムスリム軍、クライシュ軍、双方が準備を整えていたとき、クライシュ軍はひそかに敵の様子をさぐる者を送った。偵察者がこっそり戻ってくるとハキーム・イブン・ヒザームはオトバ・イブン・ラビーアのところに行き、合戦を避けて軍を引き上げようと勧告した。
オトバは賛成したが、ハキームにアブージャワルに話すようにと頼んだ。
オトバは彼だけは絶対に反対すると知っていたからである。
それを聞くなりアブージャフルは言った。「とんでもない、戦いだ!」

彼は、パドルの日に使徒が神に戒めを願った七人のひとりだった。
「彼を捕まえよ!」戦場で預言者は教友に呼びかけていた。

そして彼は呪われた邪教徒のまま殺され、その首は使徒のもとに届けられた。彼の愛用したラクダは使徒のもとに保有されて、四年の後、使徒がオムラのためマッカに向かったとき生費用として連れて行かれ、フダイビーヤで約定が成った日にザバハされた。

この男の娘が預言者の娘の夫のもう一人の妻となるのか?
神も、使徒も、納得するはずがない。
使徒は怒ってマスジドヘ向かい、ミンバル(説教壇)に立つとこう言って人びとに説教した。
「ヒシャーム家の者が自分たちの娘をアリー・イブン・アブーターリブに嫁がせたいと言ってきた。
私は許さない。許さない。許さない。
アリーが私の娘と離婚して彼らの娘を娶るなら別だが、私の娘は私の一部、彼女が怖れることは私の怖れだ。
彼女が苦しむことは私が苦しむことなのだ。私は彼女の信仰が迷わされるのを怖れている・・・」

使徒は長女の婿アプールアースのことを想った。
彼はアリーのようにアブドルムッタリブ家の身内ではなく、アブドシャムス家に属していたのだが、婿としては立派で使徒は彼を誉めた。
「言うことはいつも正しく、約束は必ず守る、信念に心の底から誠実な男だ・・・。
私は許されたことを禁じたり、禁じられたことを許したりはしない。
だが、神は一つの家に使徒の娘と神の敵の娘を一緒に住まわせることはなさらない」

このハディースは六正伝(六つの主要ハディース集)及びアハマド・イブン・ハンバルのハディース集に載っている。
しかしそのどこにもこの話をマディーナのムスリムたちがどう受けとめたのかは書かれてない。

恐らくマディーナの人びとは預言者の言葉を再確認しようと、その晩は眠らずに語り合いながら過ごしたのではないだろうか。人びとはそこに慈愛にあふれた理想の父親の姿を見てとって胸打たれたにちがいない。
そして娘への愛の証しの新しい表現を知った。
この愛こそ、娘を生き埋めにした時代に生きた人々のために神が預言者の心に注ぎ込みたかった愛だったのではないだろうか。

預言者の説教を聴いた後、重い足どりに重い心でマスジドを去っていくアリーの後姿を追うことができるだろう。
彼は何を考えながら家路に向かったのだろうか。

本当にアリーはファーティマがいるのにイスラームの敵の娘と結婚したかったのだろうか。
一体、長い年月をかけた彼のイスラームのための努力は何だったのだろうか。
どうして預言者の愛娘に不安を与えたり、胸を苦しませたりしてまで、このように別のタイプの女性を好んで結婚したいと考えたのか?

預言者の結婚はどの夫人にもそれぞれ特別な事情があった。
なぜ彼は五十歳に到るまで二十五年もの間ハディージャ以外に妻を迎えなかったのだろう。
彼が抱えた大きな問題に忙殺され、新しい宗教の伝道活動に時間を取られていたためだったのか?

アブージャフルの娘はアリー以外の人と結ばれたらよいではないか?
彼はこのような事で従兄であり義父でもある預言者を悩ませたりはしまい!
ムスリムでもないアプールアースがムハンマドの娘に忠誠を尽すのに、アリーがアブールアース以下のはずがなかろう。ムハンマドの娘婿として不誠実であるはずがなかろう!

家にたどり着いた。そこにひとり悲しみに沈んでいるファーティマを見つけ、歩み寄ると黙ってそばに坐った。
ファーティマは涙を流していた。彼は静かな声で許しを願った。
「あなたへの義務を忘れ間違いを犯してしまうところだった・・・。許してくれるか、ファーティマ」夜は更けていた。
ファーティマは答えた。
「神があなたをお許しなさいますように・・・」

アリーは彼女をやさしくひき寄せて、マスジドの話を聞かせた。
預言者がファーティマの不幸に胸を痛めアプージャフルの娘との結婚を許さなかったこと、そして使徒の娘と神の敵の娘を一緒に同じ家に住まわせてはならないと命じたことを・・・。

父の深い愛を感じて、また父の苦しい立場を察して、ファーティマの瞳から涙があふれ落ちた。
彼女は静かに立ち上がると、祈った・・・。

إن شاء الله

続きます

アッラーのご加護と祝福がありますように

و السلام

ファーティマ・ザハラー(ラディヤッラーフ アンハー)⑤

2007-06-23 | 預言者の娘たち
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم

ファーティマの年齢は結婚当時十八歳であった。
ラーマンスは理性を欠いた好奇心から彼女は実際はもっと年長であったと考える。
「ただ彼女が望まれずに婚期を逃がしたと言わぬために、使徒伝の著作者たちが誕生の日付けを遅らせたのである」など言う。

では彼に尋ねてみよう。なぜ使徒伝の著作者たちは同じょうなことをハディージャやアーイシャにやらなかったのだろう? ハディージャの年を少し若くし、アーイシャには十歳、いや二十歳ほど加えたら、夫・預言者と年齢の釣り合いがとれたであろうに? 我々がラーマンスにこの質問をしても、恐らく答えは得られないだろう。

恐らくラーマンスはファーティマの誕生について書かれた様々な異なった記録に左右されて、自分の一番好奇心の納得するものを採り入れたのだろう。
異なった記録を比較検討したり、理論的に分析することなく、ファーティマの誕生をヒジュラ前八年とするマスウーディーの説を採り上げた。その一方でヤコービーに拠る、彼女は啓典の下された後に生まれたとある説に目を向けた。
ラーマンスはこの件について、信用度の高い説-例えばイブン・イスハークやイブン・サアド、アッタバリー、イブン・アブドルバッリなどが彼女の誕生はほぼ創教の五年前と言っている-を無視している。

数字の違いは先にも述べたょうに、それ程目角を立てるょうなことではない。
伝承による歴史学には一般にこのような相違はよくあることだ。
記録のない時代のロ述による伝承は写本の際にこれらの相違がどうしても含まれてしまう。
特に生年月日については、伝記を綴る際、当然その人の成長後に顕著となった偉業に対して初めて注目が集まって成されることであるから。
このような一般的現象とみなされる相違点をこの東洋学者はそんな一部分として採り上げるのではなく、それを採り上がて悪意に満ちた説明にあてがう。

ラーマンスに異なった史料を比較・参照する際に必要な分析方法の知識がないとは思わない。
しかし彼はファーティマの誕生に関しては創教前五年とある史料には全く目を向けようとしなかった。
しかも一般論としても預言者の娘たちは全員が創教前に生まれたと言われているのに、ラーマンスはこの説を無視したばかりでなく、ハディースを伝えたイマームたちの意見、歴史家や教友たち、その道の権威者たちの意見にも耳をかさずに、ひたすらマスウーディーの見解を採り上げようとし、使徒伝の著作者たちは婚期を逃したといわせぬためにファーティマの誕生を遅らせていると述べ、それぞれの意見を退けょうと、ヤアコーピーの創教後誕生説まで待ち出してマスウーディーのそれさえも打ちこわしているではないか。

一部の東洋学者たちはこのように史料を偏見と独断で引用し、ファーティマの結婚年齢を遅らせているが、イブン・イスハークの説にしても十八歳という年齢は三人の姉たちが結婚した年齢と比べればとても遅いし、信徒の母アーイシャ・ビント・アブーバクルの年齢に比べればとてつもなく遅い。
しかし本当のところ、この遅い結婚は彼女が望まれなかったのではなく、彼女は尊い預言者の娘であったからなのだ。彼女はザイナブ、ルカイヤ、ウンムクルスームの妹である。
まだ若い頃がらクライシュの青年たちが嫁にと所望していた姉たちの妹である。
しかも彼女は性格も振舞いも一番父親似の娘であった。
その父はというと、堂々とした体格、立派な容姿の人物なのである。
人びとはファーティマの晩婚の理由が父・預言者への執着であることを知っていた。
ムハンマド家での彼女の立場を知っていた。
ハディージャ亡き後、『父親のお母さん』が父の心の支えとなっていることを思いやった。

これでも十分でないというのなら、ではこう述べよう。
彼女が晩婚だったのは人びとの彼女への畏敬の心からであると。
父は神の使徒として遣わされた者、彼女はそのたった一人残った大切な末娘。
彼女が五歳のとき人びとは二派に分かれた。「ムハンマドの娘なんてとんでもない」という異教徒の人びと。
すでにクライシュがムハンマドと縁組みした三人のもとに押し寄せ、娘たちを離婚させてムハンマドを困らせようとしたことを知っている。
一方で信者たちはムハンマドに忠実に従い、その啓典を信じた。
彼らの預言者に対する気持は尊敬以上のもので身命をも献げ尽す覚悟でいたから、ムハンマド家との縁組みなど考えるのも畏れ多いことであった。
『父親のお母さん』ファーティマを敬い、自分の結媛相手に望むことなどなかったのは少しも無理のない話である。

オスマーンがルカイヤを望んだことでこれに反諭しないで欲しい。
預言者の教友の中でも、またクライシュ全体を見回しても、オスマーンほどに財力にも名声にも恵まれた男はそうはいない。また彼が預言者の娘との結婚を望んだのもアブーラハブの息子から離婚された後のことであって、ファーティマの場合とは事情が異なっている。

我々は今日だって良家の冷たもがその相応しい相手が数少ない故、自然と晩婚になるのを見聞きしているではないか。彼女が知的にも財力にも優れば優れるほど相応しい相手が少なくなってしまうのが一般的なきまりである。

畏れとためらいを感じながらもファーティマとの結婚を申し込んだ者はアリーが最初だったわけではなかった。
その栄誉を授かりたいと、以前に教友のアブバクルとオマルが申し出たことがあった。
この話は「アンサーブ・アルアシュラーフ」や「タバカート」、アンナサーイーの「スンナ集」に載っており、このとき父は丁重に断ったとある。

それなのにラーマンスはファーティマが晩婚であったのは彼女が容貌に劣り、明朗さ賢さに欠けていた故としている!

ファーティマの夫の家は豪華でも豊かでもなかった。
むしろ質素で貧しい暮らしといえた。
彼女はこの点でも姉たちが皆経済的に恵まれた生活を送ったのとは違っていた。
ザイナブはマッカの数少ない資産家の商人アプールアースと結婚した。
ルカイヤとウンムクルスームも最初は金持ちのアーブラハブの息子たちと、その後ひとりひとり大資産家でかつ名門のオスマーン・イブン・アッファーンに嫁いだ。

しかしアリーは経済的には自分で稼いだ資金も遺産として譲り受けた財産もなかった。
父親は尊敬を受ける立場にあったけれど、子供が多く生活は苦しかった。
ムハンマドが叔父アッハースに、それぞれ息子をひとりずつ養育してアブーターリブの苦労を軽くしようと申し出たほどであった。そしてその子供たちの中からアリーがムハンマドに選ばれた。

ムハンマドが使徒として遣わされると少年アリーはすぐに信者となった。
イブン・イスハークに拠ると十歳であったという。
以後アリーは十歳の年からずっと、生活の資金を稼ぐかわりに聖戦に加わった。
預言者の教友たちが邪教徒との戦いに向かう彼の出費をまかなった。
作物の育たないワージー(澗谷)での生業として当時のマッカ市民が主に携わっていた商業に精を出すこともなかったから、ファーティマとの婚約を申し込んだ際も、勇敢に活躍したパドルの戦利品の楯以外にマハル(結納金)として与えるものは何も彼の手もとにはなかったのだ。

父がアリーの申し出を伝えたとき、ファーティマにはその点もよく分かっていた。
アルビラーズリーの話が仮に本当で、ファーティマが彼の貧しさに不満をこぼしたとしても、恐らく父・預言者がこう諭したであろう。
「彼はこの世のムスリムのりーダーとなる人物、天国に迎えられる正しい人物だ。
賢者であり、イスラームの最良の教友だ・・・」

この話が本当であったとしても、このような場合によくある話の一つにすぎないと思う。
しかしラーマンスは、これに目をつぶって済ますことが出来なかった。アリーの評価を低めようと必死になった。
貧しさは預言者自身が貧しい孤児であった故、アリーにも少しも失点とならないと考えると、別の欠点を捜し始めた。
そしてアリーは容姿の点で劣ると言い出した。
ラーマンスがよくよく考え直してみれば、どうしてそのような見方が正しいものかと気づいたであろうに・・・。
ファーティマについて述べたときも彼女が重要視されたのはずっと後のこと、シーア派の人びとが脚色した結果だと言ったが、これと同じように、それならファーティマだけでなく、アリーの話だって同じ原典から採っているのではないか!

私が言いたいのは、よくよく考えてみればラーマンスも次の点に気がついたであろうということ、すなわち、なぜラーマンスの言うようにイスラーム史家たちはイマーム・アリーについても、その理想像を創り出すため、容姿の美しさや経済力を補足して書き加えたりしなかったのかということだ。
ただ彼らはアリーについて『カッラマッラーフ・ワジュハフ(神は、その顔を尊く守られた)』と唱え、『貧しく、背が低く、低い鼻、細い腕』と言っているのであって、そこには少しも彼を低める気持はなく、平均的男性像と比較して形容しただけの詣である。卑しめる気持も、英雄としての力量に相応しく飾りたてるつもりも毛頭ない。

さて十八歳で新しい人生を迎えようとしているファーティマの話に戻ろう。
彼女の迎えた生活が、かなり倹しく厳しいものであったことをムスリム史家たちは誰も否定しようとはしない。
花嫁道具は美しい家具に柔らかな寝具などと言いはしない。
彼女は板のようなべッドにリーフ(ヤシの木の繊維)の詰まったクッション、そして粉挽き臼と水飲み用の食器、少しばかりの香を持参して新居に移ってきたと書いている。

夫は貧しく、妻のために家事の重労働を助け、引き受ける下女を雇ってやることが出来なかった。
彼女はひとりでこの重労働をこなさればならなかった。
アリーには彼女がこのように働き続けるのを見ているのが辛かった。出来るかぎり手助けした。
五歳の年を迎えて以来、彼女の辛く厳しかった生活-囲いの日々、ヒジュラの苦労と努力-その後までも、彼女に残った体力をこの厳しい家事労働が奪っていくのではないかと気掛かりであった。

辛抱を続けていたふたりに好い機会が訪れた。父・預言者がある合戦から凱旋して、戦利品の家畜や捕虜を連れて戻ったという。そこでアリーは妻に言った。

「ファーティマ、あなたが訴える不満は私を悲しくさせる。神が好い機会を下さった。行って、あなたのために一人求めて来たらよい」

粉挽き臼を横において、疲れ切ったファーティマは言った。「そうしますわ」

しばらく、歩く元気が出るまで中庭で休んでから、彼女はスカーフを巻くと疲れた足を引きずって父の家に向かった。
娘を見た預言者は和やかな表情を見せて訊いた。
「娘よ、どうかしたのか?」
「いえ、ご挨拶に来たのです」と彼女は答えた。何のために来たのか、とても言い出す勇気が湧かなかったのだ。

もと来た道を彼女は戻った。父に何か物を頼むのは心苦しいと夫に告げた。

そこでアリーは彼女を連れて預言者の家に行き、気がひけてうな垂れている彼女に代わってお願いをした。

預言者は答えた。
「いや、それは出来ない。ひもじい思いをしているもっと貧しい人びとをほっておいて、あなた方のために捕虜をあげることは出来ないのだ。捕虜を売り、その金額を貧しい人びとのために使いたい・・・」

ふたりは礼を述べて帰った。ふたりの訴えた不満が優しい父の心に触れて、終日それを気に掛けていたことなど二人には分からなかった。

夜更けて、寒さが非常にこたえた。二人は固い床に入って眠ろうとしても、あまりの寒さに眠れずにいた。
すると戸か開いて二人の部屋に使徒が入ってきた。
二人は掛け蒲団に縮まっていて、頭を隠せば足が出て、足を被えば頭が出てしまう。
二人は起き上がって大切な客人を迎えようとしたが、「そのままで」と使徒が制した。

そして二人の生活の厳しい状況を察して同情し、優しく語った。

「あなた方に良い答えを見つけなよ。教えようか?」
「はい」と二人は答えた。
「ジブリール(天使)が私に教えてくれた言葉だ。スブハーナッラー(神に讃えあれ)を祈りの最後に十回、アルハムドリッラー(神に感謝します)を三十三回、アッラーフ・アクバル(神は偉大なり)を三十三回、そしてベッドに入る前にはスブハーナッラーを三十三回、アルハムドリッラーを三十三回、アッラーフ・アクバルを三十三回唱えるのがよい」

苦難を乗り切るための精神的支えとして、このような個人的なアドバイスを二人に与えて帰っていった。

三分の一世紀を経た後でも、イマーム・アリーは使徒のこの言葉を忘れずに守っていた。
「教えてもらってから、いつも欠かさずやっていた」と言った。教友のひとりが訊いた。
「スィフィーナ(ユーフラティス河畔の地名、戦場となった)で過ごした晩もですか」

アリーははっきりと答えた。「そうだ。スィフィーナの夜もそうした」

この厳しい暮らしがファーティマの健康に差し障ったのは当然であった。
彼女は幼少の頃から、ずっと戦いの真只中を生きてきた。
遊び興じた日々もなく、それに重なった母の死の深い悲しみは彼女の心に暗い影をおとした。
彼女は父・預言者のそばに身を置いて絶えず気を配り、近くにいても遠くにいても父を想い案じた。
心は戦いに出る父のあとを追いかけた。
父に従って遠征に出たときは彼女自身も戦場で働いた。ウフドの活躍で知られるように負傷者の手当をひき受け、瀕死の戦士たちに水を含ませて彼女は走り回った。

このような過去の境遇が、彼女の性格形成に強く影響したこともあったのだろう。
気楽に生きて、明るく楽しんで生活を送る気待にはなれなかったようだ。
恐らくファーティマも父・預言者の家の夫人たちのように振舞おうとしたことだろう。

彼女は信徒の母アーイシャ夫人が、意欲的に明るい家庭を築き、家に戻る英雄を朗かな微笑と心はずむ楽しい会話で迎え入れるのを見ている。

恐らく彼女もそのように心がけようとしたことだろう。
家庭から陰りを追い払い、潤いのある楽しい結婚生活を築き上げようと努力したことだろう。
しかし、父や夫の身を案じるあまり、また自分が、家族が、そしてムスリムたちが受けた忘れがたい苦しみの跡を拭い去ろうとするとき、それ故に家庭におとしてしまう陰りでもあった。
彼女にはそばに彼女を優しく包み込んでくれる温かく、陽気でおおらかな夫が必要であった。
しかしアリーはこのタイプの夫ではなかった。
鋭く、厳格で、頑画といえるほど堅物であり、むしろ粗野で荒けずりな面のある男であった。
ファーティマが心の傷跡を癒すのに柔かな大きな手を必要としたように、アリーだって同じように少年時代からの辛かった日々を忘れさせてくれる優しい肌かな手が欲しかった。深い安らぎが欲しかった。

だから時おり、二人の間に生じる諍の話を聞いても、さ程驚きはしない。
二人の諍はしばしば父・預言者の耳に届き、預言者も気にかけて二人にもう少し辛抱をと論すこともあった。

人びとの話では、ある晩預言者は娘フアーティマの家に出かけたが気が重く心配そうな様子であった。
だがそこで時間を過ごした後出て来たときには、とても明るく爽やかな表情であった。そこで教友のひとりが訊いた。
「神の使徒よ、入るときは沈んでおられたのに、出て来たときのお顔はとても嬉しそうですね!」

預言者は答えた。
「そう、私の一番愛する二人の間を仲直りさせたのだから、とても嬉しいよ」

またあるとき夫の頑固さに苛立ってファーティマ、が言った。
「本当に、使徒様に言いつけるわ」

そして外に飛び出した。アリーは彼女の後を追いかけた。
父の家に来ると、彼女は夫の気に入らぬ点をあげて不平を述べた。
父は優しくなだめてから言い含め、アリーのことを受け入れさせた。

アリーは妻を連れて家路に向かいながら言った。
「あなたの嫌がることはしないよ、絶対に!」

しかし故意ではなかったにしてもファーティマが本当に嫌がることが起きようとした。

ファーティマにとって、夫が、従兄が、もうひとり別の夫人を迎えることほど耐えがたいことかあろうか・・・。

アリーにとってファーティマとの結婚は特別に大切であったものの、シャリーヤ(聖法)で許された範囲の行動ならば問題はないと考えた。
預言者の娘に対しても他のムスリマたちと同じようにシャリーヤが定める多妻制が認められると思った。
恐らく彼はファーティマも多妻をさ程気に留めないであろうと思ったのだろう。
同じようにアーイシャ・ビント・アブーバクルも、ハフサ・ビンド・オマルも、ウンムサラマ・ビント・ザートッラフキブも多妻を受け入れている。
それに、あるとき物を盗んだマフズミーの女が預言者が目をかけているザイド・イブン・パーリサの子ウサーマに頼んで助けてもらおうとしたことがあったが、そのとき預言者は「神が許された範囲での許しだろうか?」と問いかけて、人びとにこう言ったのだ。
「以前の人びとの考えは消滅したのだ。彼らは良き家柄の人々を治し、弱い立場の人々に罰を与えた。神の定めに従って、たとえムハンマドの娘ファーティマが盗んだとしても、同じくその手を切る!」と。

しかし事はアリーの思ったようには進まなかった。
アムル・イブン・ヒシャームの娘との婚約をファーティマに告げると、彼女は激怒し、父もまた娘を想って憤った。
彼の立場は難しいものとなった。

預言者はアリーのその結婚が正統なものであると知っている。
たとえムハンマドの娘ファーティマに対してであっても。
しかしムハンマドの胸中は父親としての情愛から、最愛の娘が多妻に怯えている姿に苦悶した。
娘の受ける苦しい試練に同情した。彼女がこの試練に耐えられないのを知っていた。
できることならアリーよ、一人の妻で辛抱して欲しい。
ちようどその従兄(預言者ムハンマド)がハディージャを失うまで四分の一世紀もの間そうであったように!
そうすれば父親・預言者の立場は楽になる・・・。

大切な娘が悲しみと不安にくれて弱り切っている。怯えながら試練を迎えようとしている。
父はどのようにしてでも、この苦しみを取り除いてやりたいと思ったことだろう。
まぶたを腫らし、不安に眠れぬ日々を送る娘を見て、ぜひ救ってやりたいと思ったことだろう。
しかし預言者が神の許されたことを禁じたり出来るのか?


إن شاء الله

続きます

アッラーのご加護と祝福がありますように

و السلام

ファーティマ・ザハラー(ラディヤッラーフ アンハー)④

2007-06-23 | 預言者の娘たち
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم

ヒジュラから数ケ月後、アーイシャがムハンマドの家に嫁いで来てハディージャの座を占めた日、その晩はファーティマは亡き母を偲んで過ごしていたことだろう。恐らくその晩ファーティマは熱い涙を流し続けていたことだろう。
しかし間もなく我が身以上に大切な父が若い花嫁を大変に可愛がり、ハディージャ亡き後五年の間、暗く淋しい時期を過ごしてきた父の心が彼女によって慰められることを知って、ファーティマの気持も落着いた。
父、ムハンマドとアーイシャの結婚は娘にとっても他の人びとにとっても突然の話ではなかった。
この婚約はすでにマッカの時代に取り交わされていた。ハウラ・ビント・ハキームがやって来てこう勧めた日のことであった

「使徒様よ、ハディージャに代わる婦人を迎えてはいかがでしょう」
このとき使徒は彼女を遣わして、サウダ・ビント・ザムア及びアーイシャ・ビント・アブーバクルの二人と同時に婚約をしたのだった。

ファーティマは父・預言者が心を寄せて安らげる愛妻を得たことに異存はなかった。
父が布教のためにいかに苦しい重荷を背負っているかを彼女はよく知っていた。
異郷での父の淋しい想いも、一族の人びととの辛い対立や訣別の悲しみも、よく分かっていた。

サウダがアーイシャより先に嫁いできたが、ファーティマには(恐らく彼女以外の人には感じられなかったろうが)、
預言者の夫としての家庭生活は以前と同じく空虚なものであると思われた。
サウダと結婚したのは、夫アッサクラーン・イブン・アムルに先立たれた彼女を憐れと思い、その苦しみを救うためであった。夫アッサクラーンはハバシャからの帰途、年老いた妻を残して死んだ。
一人残された彼女は苦しかった長い年月と負い重なる不幸に打ちのめされて気力を失っていた。

ファーティマにもサウダにも使徒のの結婚が深い同情心、慈悲の心から出た義務感によるもので、男女の愛の交わりでないことは分かっていた。だからサウダの存在をさ程意識せずにファーティマが『父親のお母さん』の役をそのまま演じていることがでぎたのだった。

しかしアーイシャがやって来たとき、事は全く異った!
だからこそアーイシャが嫁いで四ケ月も経たぬうちに、ファーティマはアリー・イブン・アブーターリブの家に向かったのだ。

アリーはファーティマを妻として預言者の家から迎え入れる相応しい時期を待って、ためらってきたのだった。

何年もの間待ってきたが使徒が愛妻アーイシャを迎え入れると、いよいよ念願を達成する時期だと思った。
だがそれでもなおしばらくの間控えていた。
マハル(結納金)を与えようにも手許に何もなかったからである。
さらにアブーバクルとオマルがファーティマとの結婚を申し込んだところ、父・預言者が丁重に断ったと聞いてますます躊躇してしまった。

それは一大事とアリーの友人たちは彼にファーティマとの婚約申し込みを急ぐべきだと勧めた。
血のつながりの強さ、預言者にとってのアリーの立場、両親の一族における立場を諭して励ました。
父はアブーターリブである。
母ファーティマ・ビント・アサド・イブン・ハーシムはハーシム家の者と結婚してハーシム家の子孫を産んだ最初のハーシム家の婦人である。だがアリーは絶望的な声を出した。「アブーバクルとオマルが申し込んだ後にか?」

人びとは言った。
「なぜだめなのかい? 神に誓って言う。ムスリムの中には、たとえオマルだってアブーバクルだって、あなたほど血筋からみても使徒に近い人はいないではないか。あなたの父が使徒を養育したのだし、あなたの母が彼の養母なのだ。それにあなたは彼の家で養育された。あなたは最初のイスラームの信者だ」

友人たちに励まされ元気づけられて、アリーは従兄の家に向かった。
ムハンマドが出迎えると、イスラーム式の挨拶を済ませてから遠慮がちに何も言わずにそばに坐った。

預言者は兄弟でもあり従弟でもあり友でもあるこの男、が言いにくい事情でやって来たことを察し、優しく尋ねた。

「何の用件だろうか。アリーよ」

小さな声で俯いたままアリーは答えた。

「使徒の娘ファーティマのことで伺いました」

預言者は「マルハバン・ワ・アハラン (それは歓迎だ)」と二語、喜んだ様子であったがそれ以上は何も言わなかった。

無言のままであった。アリーは困惑し、不安のまま預言者のもとを去った。
預言者の返答を持ち帰る自分を待っている友人や家族たちに何と結果を報告すればよいのだろうと・・・。
そこで聞かれるとこう言った。
「分からない。使徒にその話をしたら、「ただマルハバン・ワ・アハランとふた言、言っただけなのだ・・・」

皆は「それで十分だ。そのどちらかー言だけだってO・K・なのだよ」と言った。そしてアリーに期待を持たせて帰って行った。ひとり残されたアリーは坐って深く溜息をついた。

翌日アリーは預言者からあまり遠くない声の届く場所にいてこう言った。
「使徒の娘と婚約を望んでいる旨を告げたが、私には何も資金がない・・・彼との関係の深さを思い起こして申し込みに行ったのだが・・・」

ファーティマの父が顔を向けて、深く同情した様子でこう言ったのでアリーは驚いた。
「何もないのか?」
「使徒よ、私には何もないのです」

そのとき使徒はパドルの戦利品の楯がアリーの手もとにあったのを思い出してアリーに訊いた。
「あの日に与えた楯はどうした?」
アリーはムハンマドの心配りに感激した。
「はい。私のところにあります」
預言者は「それを彼女に上げればよい」と言った。

アリーは急ぎ楯を持ってきた。預言者はそれを売って、その金で結婚の準備をするようにと命じた。
オスマーン・イブン・アッファーンが申し出て楯を四百七十ディルハムで買い、アリーはそれを使徒の前に置いた。
使徒はその手で受け取ると、そのいくらかでビラールに香を買い求めさせ、残りをウンムサラマに渡して結婚の仕度に必要な品々を用意させた。

預言者は教友たちを呼び、慣例に従って四百ミスカルの銀で娘ワァーティマとアリーを結婚させると公言し、彼らはその証人となった。ふたりのために子孫繁栄の祈願がなされ、ハーシム家の花嫁花婿の婚約が成立した。来客たちには棗やしの実が入った器が差し出された。

このように筒単に、質素に、預言者の娘ファーティマと従兄アリーとの結婚がまとまった。
イスラームの栄光に輝く歴史上で最も重要な縁組みがここに成されたのであった。

マディーナにヒジュラしだ年のラジャブ月(第七月)にアクド(契約)が成立し、同じ月に入婚した。ヒジュラ歴の二年目を迎えパドルの戦いから戻って、アリーは自分の家を借りることが出来、そこに花嫁を迎えた。

アブドルムッタリブー族は盛大にこの結婚を祝った。ハムザ(ムハンマドとアリーの叔父) はラクダ二頭を連れてきて犠牲に捧げ、預言者の町(マディーナ)の人びとに振舞った。祝宴が終り人びとがお祝いや言葉を残して立ち去ると、預言者はウンムサラマを呼んで花嫁を連れてアリーの家に行き、そこで自分を待つようにと言った。

ビラールがイシャーの祈り(夜の祈り)のアザーンを呼びかけた。
預言者はムスリムだちとマスジドで礼拝を済ませ、その足でアリーの家に向かった。

そこで水を求めて、それにクルアーンの一節を詠み上げ、花嫁と花婿に飲むように勧めた。残りの水で清めを行ない、ふたりの頭に振り掛けた。その後帰り際にこう言った。
「神よ、ふたりに祝福を・・・。そして子孫を恵み給え・・・」

ファーティマは涙を堪えぎれなかった。父は少しの間足を止めて娘を気遣った。
最も信頼できる男であり、信仰厚く知性も人格もこの上ない人物のもとに残すのであっても、父にはやはり娘が気になった。

花嫁を残して父が去ると、ハディージャの幻が初夜の花嫁を優しく見守って父との別れの淋しさ、母のいない悲しさをいたわるのだった。

神は預言者の祈順に応えて、この結婚に預言者の子孫を授けられた。

إن شاء الله

続きます

アッラーのご加護と祝福がありますように

و السلام