بسم الله الرحمان الرحيم
السلام عليكم
二人の兄弟
幸福が更に完璧となるには、あと一つだけの望みが、・・・四女に恵まれた故に男児の誕生が・・・この夫婦に残されていた。この願いは遠い夢のまた夢のように思われた。ファーティマを産んだ後、ハディージャ夫人は50代に達していた。しかし高齢ではあっても出産の願いが絶望的な状態だったわけではない。彼女は妊娠の可能性を秘めた、それまでどおりの夫婦の生活を送っていた。そしていつも二人は神の恵みを願い続けていた。ついに神は二人の願いに応えられた。長男アルカースィム、続いて次男アブドゥッラーが授かった。夢のような息子の誕生に喜びは殊更だった。だが、神はこの二人の息子を長くこの世に留めて置こうとはなさらなかった。まもなくこの貴い託し子を、ひとり統いてもうひとりと天に戻してしまわれた。このふたりの息子が何年に生まれ、なぜ死んだのか、これについては使徒伝の史家たちの間に一致した記録がない。この部分はムハンマド家の家庭生活を知る上でも、イスラーム史を考える上でも、大変重要な点であるのだが……。また、この時期は父親が啓示を受け預言者としての使命を帯びる時期と非常に近い時期でもあるのだが……。もっと意外なのは、ムハンマドとハディージャの息子の数までが著書によってかなり開きがあることだ。二人だったのか、三人だったのか、あるいは四人なのか?イブン・イスハークの「使徒伝」に拠ると・・・・・長男はアルカースィム、次にアッタイイブ、そしてアッターヒル。この三人はジャーヒリーヤ期に夭逝した。一方、娘たちは皆イスラームの時代を知り、ムスリマとなり、彼と共にヒジュラした・・・とある。アッタバリーの「歴史書」には……ハディージャは使徒の八入の子供を産んだ。アルカースィム、アッタイイプ、アッターヒル、アブドッラー、ザイナブ、ルカイヤ、ウンムクルスーム、そしてファーティマである。「アルイスティアーブ」に拠ると……ウラマー(イスラーム学者)たちの見解はハディージャが四人の娘を産んだ点で合意している。ザイナブ、ファーティマ、ルカイヤ、ウンムクルスーム……それから二人の息子―ひとりはアルカースィムと名付けられ、この子によってムハンマドには「アブー・アルカースィム」のクンヤ(呼び名)があった。この点ではウラマーたちの間に異論はない。だがイブン・シハーブから聞いてムアンマルが伝える話に拠ると……アッターヒルと呼ばれる男の子をハディージャが産んだと主張したウラマーが何人かいたという。また「ハディージャがアルカースィムを産んだこと、四人の娘を産んだこと以外ははっきりしない」と見るウラマーたちもいた。オカイルがイブン・シハーブから開いたという話では……ハディージャはムハンマドの子を産んだ。ファーティマ、ザイナブ、ウンムクルスーム、ルカイヤ、アルカースィム、アッターヒル。カッターダが伝えるところに拠ると……ハディージャは二人の男児と四人の女児を産んだ。アルカースィム、この子の名でムハンマドはクンヤを持った。そしてアブドゥッラー、この子は赤ん坊のとき死んだ。「アッラウド・アルウヌフ」には、アッズバイル・イブン・アルアッワーム・イブン・フワイリドの話が載っている……ハディージャはムハンマドの息子を産んだ。アルカースィムとアブドッラーで、このアブドッラーはアッターヒルともアッタイイブとも呼ばれたが、それはこの子が啓示が降りた後に誕生したからで、この子の本来の名はアブドッラーと名付けられていた。アルカースィムは乳児期が完了しないうち、まだ歩き始めの頃に死んだ。またこの息子のことは同じ書物にこう書かれている・・・「ハディージャのところへ使徒が入って来た。啓示の降りた後のことであった。彼女は泣きながら言った。「使徒様よ、私の小さな胸は、まだアルカースィムのためにお乳が出るのです。もう少し、せめて授乳期を終えるまで生きていてくれたなら……」父である使徒は言った。「彼には天国に保育所が用意されている。そこで成長するのだよ」「それを知っていたら、気も安まりましたのに……」預言者は言った。「望むのなら、天国の彼の声を聴かせようか」「いえ、神とその使徒を信じます」ハディージャは答えた。このハディースに拠れば、アルカースィムはまだ乳児の頃、イスラームの時代になってから、弟のアブドッラーと同じく夭逝したことになる。弟のアブドッラーはハディージャの甥にあたるアッズバイルが伝えているように、誕生がイスラーム期に入ってからであったので、別名アッターヒルとかアッタイイブとか呼ばれたらしい。「アルイサーバ」には信徒の母ハディージャ夫人の項に、ムハンマドの息子アルカースィムとアブドッラーを産んだ。このアブドッラーがアッタイイブであり、またアッターヒルである。イスラーム期に入って生まれた子なので、こう呼ばれた・・・とある。部族の家系図を記録したアンサーブの史料を参考にすると、「ナスブ・クライシュ」の中に・・・使徒には長男アルカースイム、ついでザイナブ、そしてアブドゥラー、ウンムクルスーム、ファーティマ、ルカイヤ……となっている。「ジャムハラ・アンサーブ・アルアラブ」には・・・使徒にはイブラーヒームの外に世維ぎとなる息子はなかったが、この子も二歳を待たないうちに幼くして死んだ。かつて使徒にはこのイブラーヒーム以外にアルカースィムと、もうひとりその名をアッターヒルとかアッタイイブとかアブドゥッラーとか色々に呼ばれていた息子があったが、赤ん坊のときに死んだ。使徒には娘がいて、長女ザイナプ、次女ルカイヤ、三女ファーティマ、四女ウンムクルスームである。イブラーヒームを除く、これらの子供たち全員が、信徒の母ハディージャの産んだ子であった・・・とある。ムハンマドの子供たちの数については、これらの記録に見る以上の資料はなく、名前すらはっきりしだ定説がない。アッタイイブとアッターヒルが二人なのか、そしてアルカースィムと合わせて三人だったのか。それともアルカースィムとアブドッラーを加えて四人だったのか。それとも、アッタイイブとアッターヒルは単に別名にすぎなかったのか、すると預言者はハディージャによって二人の息子を持ったことになる。そして、これが今日ムスリムの聞で比較的広く認められた説なのである。以上が史料をひもといてみた結果、明らかになったことである。この息子たちの生まれた時期、死んだ時期を断定できる史料はさらに乏しい。イブン・イスハークが(イスナード無しで)伝えるところでは、二人が死んだのはジャーヒリーヤ期である。その他の史家たちは「アルカースィムはジャーヒリーヤ時代に生まれ、イスラーム期に死んだ。アブドゥッラーは生まれも死もイスラームの時代であった」と言っている。アッスハイリーがアッズバイル・イブン・バッカールから聞いた話として、次のように伝えている・・・・この件を一番よく知っている人物アッズバイルが言うには、ハディージャはアルカースィムとアブドゥッラー(アッターヒルでもあり、アッタイイブでもある。イスラーム期に生まれたのでこう呼ばれた)を産み、アルカースィムは乳児期を完了せぬうちに、歩き始めた年に死んだ。どの説であれ、ムハンマド家の男児誕生の喜びが長く続かなかったことは間違いない。息子たちは天啓を授かる直前か、あるいはイスラーム期のごく初期の頃死んだ。この点をさらに明確にしたいと、あれこれ捜して行くとクルアーン・アルカウサル章の中で、神が預言者に告げた次の言葉が見つかることだろう。「われはあなた(ムハンマド)に潤沢を与えた。あなたの主に祈り犠牲を捧げなさい。あなたを憎悪する者こそ、先(将来の希望)を断たれることだろう」(第一〇八章一~三節)アルカウサル章は初期のマッカ啓示であって、年代順の編纂ではマッカ啓示八九章のうち十五番目に納められている。この啓示はサハム家のアルアース・イブン・ワイールに関して降ろされたものといわれている。アルアースはアブーターリブの家に押しかけ、ムハンマドのイスラームヘの呼びかけに応じるか否かを詰問したマッカ市民のひとりであった。イブン・イスハークに拠れば、このアルアースは使徒の話になったときにこう人々に言ったという。「奴の教えだと!奴など息子のない不完全な男じゃないか。死んでしまえば(世継ぎがないので)すぐに忘れられてしまうさ、そうなればあなた方の気持も安まることだろうよ」そこで神はこのアルカウサルの章を下された。ザマフシャリがアルカウサル章のこのアーヤ(節)を注釈している。「あなたを憎悪する者こそ、不完全な者であって、あなたが不完全なのではない。最後の審判の日に復活して生を授かる総ての信徒たちがあなたの子どもであり子孫である。マスジドの塔の上ではいつもあなたの名が唱えられ、いつの世も世界の人びとから、あなたの名前が忘れられることはない。神の名で始まり、続いてあなたの名前が唱えられよう。あなたのような人を先を断たれた不完全な者とは言えまい。現世と来世を忘れ、あなたを憎悪する者こそ先の断たれた不完全な者である。呪う者は呪われる・・・」ムハンマドを非難したこれらの人たちには、やがてこの地球上で神の使徒の名が栄光の輝きに照らされて生き続けることなどとても考えられなかった。アルアースもクライシュの多神教徒たちも、彼らが考えたことは最悪の場合でも、ハーシム家のアブドル・ムッタリブの孫が自分たちを差し置いてマッカの指導権を握るかもしれない。その影響力は生存中は近隣の部族にまで及ぶかもしれない。だが死んでしまえば消え去ってしまうだろう・・・くらいのことであった。ところが、その影響力は東の端から西の端に及び、何世紀を経た後でもその名は忘れられることなく尊ばれ唱えられている。当時半島内で生涯を送り、交易のために旅立つ以外に外部を知る機会がなかった彼らには想像すらできないことであった・・・。ムハンマドは生粋のクライシュであったが、主導権がムハンマドの手に渡るのは至難のことであった。当時のクライシュ族は、各支族の間で主導権をめぐる凄しい対立、競争が起きていた。アルアフナス・イブン・シャリークはアブールハカム・イブン・ヒシャームのところへ行き、こう質問したという。「アプールハカムよ、ムハンマドのことを聴いて、どう思うか?」すると彼はこう答えた。「何を聴いたんだって? 我々もアブド・マナーフー族も向等に名誉のために競ってぎたではないか。与えるときは同じように与え、ディヤ(血の代償)の支払いも同じように負担してきたし、同じように持分もとった。まるで二頭の競走馬が並んで走るようにな! だったら我々にも天から送られた預言者がやって来るはずじゃないか!いつそれが分かるのか? 絶対に我々は奴のことなど認めない!」アブドマナーフー族の内部争いもまた同じく、否それ以上に激しかった。一族にアブドシャムス家とハーシム家があった。この二家のそれぞれの先祖がアブドシャムスとハーシムである。このふたりのアブドマナーフの息子たちが祖父クザイイから相続したものをめぐって、両家が対立をぶり返していたのだ。クサイイはアブドマナーフがすでに種々の特権を与えられていたので、それに見合うようにとアブドッダールにも自分の持つ様々な特権を譲った。以来、ことごとく競い合っていた。そこヘムハンマドが神の使徒として天啓を授かった。さらにハーシム家には水場の権利とリファーダ(巡礼者受け入れに関わる接遇権のことで、具体的には貧しい巡礼客に食物等を買い与えるための出費など)がある。一方のアブドシャムス家は力とリーダーシップを示す旗を有している。ここで思い出してみよう。ハーシム家のアブドルムッタリプがザムザムの井戸を掘り起こそうとしたとき、この権利を独占させまいと、クライシュの男たちが立ちはだかった話を。さて、このアブドルムッタリブの孫が、預言者として、天の使徒として出現したのだ。彼らがすんなり黙って認めることなど出来ようはずがない。一族の間でさえ、支配権をめぐる対立関係はここまで来ていた。人びとが躍起になり、「ムハンマドを殺せばその名声を消せる、そうすれば事は簡単、彼は世継ぎのない男だから」などと言い出す者が現れても不思議はなかった。ムハンマド自身は総てを神に委ねており、神の使徒の勝利とイスラームの栄光を確信していた。神のみ言葉は選ばれた者に授けられるものであって相続されるべきものではなく、跡を継ぐ自分の息子を必要としないことも、また自分が最後の預言者となることも。だからといってムハンマドが、子供に未練を持たなかったなどというつもりはない。彼の人間性がそんなことはさせなかった。本能に根ざした人間らしい情愛を失ったり、生きる物すべてが持つ種族保存の本能に背を向けたりはしない。事実、ムハンマドは身近なふたりの少年を実の子のように可愛がり、父親代りとなって限りない愛情を住いでいた。そのひとりはアリー・イプン・アブーターリブである。クライシュが飢饉に襲われたとき、アブーターリブには扶養する子供が多勢あった。ムハンマドは、アブドルムッタリブ一門の中で一番経済的に豊かであった叔父アルアッバースにこう申し出た。「あなたの兄弟のアブーターリブは沢山の子持ちです。今は知ってのとおり飢饉に見舞われています。アプーターリブから子供をひとりずつ引き取って、父親代りとなって養育し、荷を軽くしてあげましょう」ムハンマドは従弟アリーを自分の家に、自分の胸に受け入れた。そしてヒジュラの後に一番大切な末娘ファーティマと結婚させた。もうひとりはザイド・イブン・ハーリサで、母親はサアダー・ビント・サアルバと言い、幼いザイドを連れてタイイの生家を訪ねに出かけたところを、アルカイニ族の騎馬に襲われ、少年はハバーシャ市場で売られた。ハキーム・イブン・ヒザーム・イブン・フワイリドが伯母ハディージャのために少年を買い、彼女はこの少年を夫に与えた。まだ啓示が下る前の出来事であった。ムハンマドはこの少年を自由にし、養子にしてクライシュの面前でこれは自分の息子であると宣言した。そこで少年はザイド・イブン・ムハンマドと呼ばれた。イスラーム期になって『実の父親の名で養子を呼ぶ』ことが定められ、以後はザイド・イブン・ハーリサと呼ばれるようになったが、その後もザイドは使徒のもとに留まり、使徒に愛された。ムハンマドの豊かな父性愛は信徒の母となった妻たちの連れ子にも十分に注がれた。ヒンド・イブン・アブーハーラはハディージャの連れ子で、使徒は継父になる。「アルイスティアーブ」の中でアリー・イプン・アブーターリブの息子ハサンが使徒の優しい性格を伝えているが、彼は、母ファーティマの兄であり自分には叔父にあたるこのヒンドから聞いた話を伝えたのであった。そしてサラマ・イブン・アブーサラマとその兄弟姉妹たちのアムル、ザイナブ、ドッラ(彼らの母はウンムサラマである)も、またハピーハ・ビント・オバイドゥッラー・イブン・ジャフシ(彼女の母はウンムハビーバである)も、みな使徒が愛した子供たちであった。ムハンマドは晩年に至っても子どもを恋しく想った。高齢で待望の息子を授かったとき、彼の大きな心は感激にむせび、喜びに満ち溢れて震えたことだろう。しかしこのときの息子イブラーヒーム(コプドの女マーリアが生んだ子)も十八ケ月に達したときに昇天してしまう。幼な子は召されて、残された父はまたもや悲嘆にくれた総ては神のご意志によるものと神に委ねた運命であっても、流れ出る涙は止めようがなかった。男児を尊重する社会にあってムハンマドはひとりの息子にも恵まれなかったが、彼の伝えた福音は遠く広く永遠に、数知れぬ人々に受け継がれていった。
إن شاء الله
続きます
アッラーのご加護と祝福がありますように
و السلام
السلام عليكم
二人の兄弟
幸福が更に完璧となるには、あと一つだけの望みが、・・・四女に恵まれた故に男児の誕生が・・・この夫婦に残されていた。この願いは遠い夢のまた夢のように思われた。ファーティマを産んだ後、ハディージャ夫人は50代に達していた。しかし高齢ではあっても出産の願いが絶望的な状態だったわけではない。彼女は妊娠の可能性を秘めた、それまでどおりの夫婦の生活を送っていた。そしていつも二人は神の恵みを願い続けていた。ついに神は二人の願いに応えられた。長男アルカースィム、続いて次男アブドゥッラーが授かった。夢のような息子の誕生に喜びは殊更だった。だが、神はこの二人の息子を長くこの世に留めて置こうとはなさらなかった。まもなくこの貴い託し子を、ひとり統いてもうひとりと天に戻してしまわれた。このふたりの息子が何年に生まれ、なぜ死んだのか、これについては使徒伝の史家たちの間に一致した記録がない。この部分はムハンマド家の家庭生活を知る上でも、イスラーム史を考える上でも、大変重要な点であるのだが……。また、この時期は父親が啓示を受け預言者としての使命を帯びる時期と非常に近い時期でもあるのだが……。もっと意外なのは、ムハンマドとハディージャの息子の数までが著書によってかなり開きがあることだ。二人だったのか、三人だったのか、あるいは四人なのか?イブン・イスハークの「使徒伝」に拠ると・・・・・長男はアルカースィム、次にアッタイイブ、そしてアッターヒル。この三人はジャーヒリーヤ期に夭逝した。一方、娘たちは皆イスラームの時代を知り、ムスリマとなり、彼と共にヒジュラした・・・とある。アッタバリーの「歴史書」には……ハディージャは使徒の八入の子供を産んだ。アルカースィム、アッタイイプ、アッターヒル、アブドッラー、ザイナブ、ルカイヤ、ウンムクルスーム、そしてファーティマである。「アルイスティアーブ」に拠ると……ウラマー(イスラーム学者)たちの見解はハディージャが四人の娘を産んだ点で合意している。ザイナブ、ファーティマ、ルカイヤ、ウンムクルスーム……それから二人の息子―ひとりはアルカースィムと名付けられ、この子によってムハンマドには「アブー・アルカースィム」のクンヤ(呼び名)があった。この点ではウラマーたちの間に異論はない。だがイブン・シハーブから聞いてムアンマルが伝える話に拠ると……アッターヒルと呼ばれる男の子をハディージャが産んだと主張したウラマーが何人かいたという。また「ハディージャがアルカースィムを産んだこと、四人の娘を産んだこと以外ははっきりしない」と見るウラマーたちもいた。オカイルがイブン・シハーブから開いたという話では……ハディージャはムハンマドの子を産んだ。ファーティマ、ザイナブ、ウンムクルスーム、ルカイヤ、アルカースィム、アッターヒル。カッターダが伝えるところに拠ると……ハディージャは二人の男児と四人の女児を産んだ。アルカースィム、この子の名でムハンマドはクンヤを持った。そしてアブドゥッラー、この子は赤ん坊のとき死んだ。「アッラウド・アルウヌフ」には、アッズバイル・イブン・アルアッワーム・イブン・フワイリドの話が載っている……ハディージャはムハンマドの息子を産んだ。アルカースィムとアブドッラーで、このアブドッラーはアッターヒルともアッタイイブとも呼ばれたが、それはこの子が啓示が降りた後に誕生したからで、この子の本来の名はアブドッラーと名付けられていた。アルカースィムは乳児期が完了しないうち、まだ歩き始めの頃に死んだ。またこの息子のことは同じ書物にこう書かれている・・・「ハディージャのところへ使徒が入って来た。啓示の降りた後のことであった。彼女は泣きながら言った。「使徒様よ、私の小さな胸は、まだアルカースィムのためにお乳が出るのです。もう少し、せめて授乳期を終えるまで生きていてくれたなら……」父である使徒は言った。「彼には天国に保育所が用意されている。そこで成長するのだよ」「それを知っていたら、気も安まりましたのに……」預言者は言った。「望むのなら、天国の彼の声を聴かせようか」「いえ、神とその使徒を信じます」ハディージャは答えた。このハディースに拠れば、アルカースィムはまだ乳児の頃、イスラームの時代になってから、弟のアブドッラーと同じく夭逝したことになる。弟のアブドッラーはハディージャの甥にあたるアッズバイルが伝えているように、誕生がイスラーム期に入ってからであったので、別名アッターヒルとかアッタイイブとか呼ばれたらしい。「アルイサーバ」には信徒の母ハディージャ夫人の項に、ムハンマドの息子アルカースィムとアブドッラーを産んだ。このアブドッラーがアッタイイブであり、またアッターヒルである。イスラーム期に入って生まれた子なので、こう呼ばれた・・・とある。部族の家系図を記録したアンサーブの史料を参考にすると、「ナスブ・クライシュ」の中に・・・使徒には長男アルカースイム、ついでザイナブ、そしてアブドゥラー、ウンムクルスーム、ファーティマ、ルカイヤ……となっている。「ジャムハラ・アンサーブ・アルアラブ」には・・・使徒にはイブラーヒームの外に世維ぎとなる息子はなかったが、この子も二歳を待たないうちに幼くして死んだ。かつて使徒にはこのイブラーヒーム以外にアルカースィムと、もうひとりその名をアッターヒルとかアッタイイブとかアブドゥッラーとか色々に呼ばれていた息子があったが、赤ん坊のときに死んだ。使徒には娘がいて、長女ザイナプ、次女ルカイヤ、三女ファーティマ、四女ウンムクルスームである。イブラーヒームを除く、これらの子供たち全員が、信徒の母ハディージャの産んだ子であった・・・とある。ムハンマドの子供たちの数については、これらの記録に見る以上の資料はなく、名前すらはっきりしだ定説がない。アッタイイブとアッターヒルが二人なのか、そしてアルカースィムと合わせて三人だったのか。それともアルカースィムとアブドッラーを加えて四人だったのか。それとも、アッタイイブとアッターヒルは単に別名にすぎなかったのか、すると預言者はハディージャによって二人の息子を持ったことになる。そして、これが今日ムスリムの聞で比較的広く認められた説なのである。以上が史料をひもといてみた結果、明らかになったことである。この息子たちの生まれた時期、死んだ時期を断定できる史料はさらに乏しい。イブン・イスハークが(イスナード無しで)伝えるところでは、二人が死んだのはジャーヒリーヤ期である。その他の史家たちは「アルカースィムはジャーヒリーヤ時代に生まれ、イスラーム期に死んだ。アブドゥッラーは生まれも死もイスラームの時代であった」と言っている。アッスハイリーがアッズバイル・イブン・バッカールから聞いた話として、次のように伝えている・・・・この件を一番よく知っている人物アッズバイルが言うには、ハディージャはアルカースィムとアブドゥッラー(アッターヒルでもあり、アッタイイブでもある。イスラーム期に生まれたのでこう呼ばれた)を産み、アルカースィムは乳児期を完了せぬうちに、歩き始めた年に死んだ。どの説であれ、ムハンマド家の男児誕生の喜びが長く続かなかったことは間違いない。息子たちは天啓を授かる直前か、あるいはイスラーム期のごく初期の頃死んだ。この点をさらに明確にしたいと、あれこれ捜して行くとクルアーン・アルカウサル章の中で、神が預言者に告げた次の言葉が見つかることだろう。「われはあなた(ムハンマド)に潤沢を与えた。あなたの主に祈り犠牲を捧げなさい。あなたを憎悪する者こそ、先(将来の希望)を断たれることだろう」(第一〇八章一~三節)アルカウサル章は初期のマッカ啓示であって、年代順の編纂ではマッカ啓示八九章のうち十五番目に納められている。この啓示はサハム家のアルアース・イブン・ワイールに関して降ろされたものといわれている。アルアースはアブーターリブの家に押しかけ、ムハンマドのイスラームヘの呼びかけに応じるか否かを詰問したマッカ市民のひとりであった。イブン・イスハークに拠れば、このアルアースは使徒の話になったときにこう人々に言ったという。「奴の教えだと!奴など息子のない不完全な男じゃないか。死んでしまえば(世継ぎがないので)すぐに忘れられてしまうさ、そうなればあなた方の気持も安まることだろうよ」そこで神はこのアルカウサルの章を下された。ザマフシャリがアルカウサル章のこのアーヤ(節)を注釈している。「あなたを憎悪する者こそ、不完全な者であって、あなたが不完全なのではない。最後の審判の日に復活して生を授かる総ての信徒たちがあなたの子どもであり子孫である。マスジドの塔の上ではいつもあなたの名が唱えられ、いつの世も世界の人びとから、あなたの名前が忘れられることはない。神の名で始まり、続いてあなたの名前が唱えられよう。あなたのような人を先を断たれた不完全な者とは言えまい。現世と来世を忘れ、あなたを憎悪する者こそ先の断たれた不完全な者である。呪う者は呪われる・・・」ムハンマドを非難したこれらの人たちには、やがてこの地球上で神の使徒の名が栄光の輝きに照らされて生き続けることなどとても考えられなかった。アルアースもクライシュの多神教徒たちも、彼らが考えたことは最悪の場合でも、ハーシム家のアブドル・ムッタリブの孫が自分たちを差し置いてマッカの指導権を握るかもしれない。その影響力は生存中は近隣の部族にまで及ぶかもしれない。だが死んでしまえば消え去ってしまうだろう・・・くらいのことであった。ところが、その影響力は東の端から西の端に及び、何世紀を経た後でもその名は忘れられることなく尊ばれ唱えられている。当時半島内で生涯を送り、交易のために旅立つ以外に外部を知る機会がなかった彼らには想像すらできないことであった・・・。ムハンマドは生粋のクライシュであったが、主導権がムハンマドの手に渡るのは至難のことであった。当時のクライシュ族は、各支族の間で主導権をめぐる凄しい対立、競争が起きていた。アルアフナス・イブン・シャリークはアブールハカム・イブン・ヒシャームのところへ行き、こう質問したという。「アプールハカムよ、ムハンマドのことを聴いて、どう思うか?」すると彼はこう答えた。「何を聴いたんだって? 我々もアブド・マナーフー族も向等に名誉のために競ってぎたではないか。与えるときは同じように与え、ディヤ(血の代償)の支払いも同じように負担してきたし、同じように持分もとった。まるで二頭の競走馬が並んで走るようにな! だったら我々にも天から送られた預言者がやって来るはずじゃないか!いつそれが分かるのか? 絶対に我々は奴のことなど認めない!」アブドマナーフー族の内部争いもまた同じく、否それ以上に激しかった。一族にアブドシャムス家とハーシム家があった。この二家のそれぞれの先祖がアブドシャムスとハーシムである。このふたりのアブドマナーフの息子たちが祖父クザイイから相続したものをめぐって、両家が対立をぶり返していたのだ。クサイイはアブドマナーフがすでに種々の特権を与えられていたので、それに見合うようにとアブドッダールにも自分の持つ様々な特権を譲った。以来、ことごとく競い合っていた。そこヘムハンマドが神の使徒として天啓を授かった。さらにハーシム家には水場の権利とリファーダ(巡礼者受け入れに関わる接遇権のことで、具体的には貧しい巡礼客に食物等を買い与えるための出費など)がある。一方のアブドシャムス家は力とリーダーシップを示す旗を有している。ここで思い出してみよう。ハーシム家のアブドルムッタリプがザムザムの井戸を掘り起こそうとしたとき、この権利を独占させまいと、クライシュの男たちが立ちはだかった話を。さて、このアブドルムッタリブの孫が、預言者として、天の使徒として出現したのだ。彼らがすんなり黙って認めることなど出来ようはずがない。一族の間でさえ、支配権をめぐる対立関係はここまで来ていた。人びとが躍起になり、「ムハンマドを殺せばその名声を消せる、そうすれば事は簡単、彼は世継ぎのない男だから」などと言い出す者が現れても不思議はなかった。ムハンマド自身は総てを神に委ねており、神の使徒の勝利とイスラームの栄光を確信していた。神のみ言葉は選ばれた者に授けられるものであって相続されるべきものではなく、跡を継ぐ自分の息子を必要としないことも、また自分が最後の預言者となることも。だからといってムハンマドが、子供に未練を持たなかったなどというつもりはない。彼の人間性がそんなことはさせなかった。本能に根ざした人間らしい情愛を失ったり、生きる物すべてが持つ種族保存の本能に背を向けたりはしない。事実、ムハンマドは身近なふたりの少年を実の子のように可愛がり、父親代りとなって限りない愛情を住いでいた。そのひとりはアリー・イプン・アブーターリブである。クライシュが飢饉に襲われたとき、アブーターリブには扶養する子供が多勢あった。ムハンマドは、アブドルムッタリブ一門の中で一番経済的に豊かであった叔父アルアッバースにこう申し出た。「あなたの兄弟のアブーターリブは沢山の子持ちです。今は知ってのとおり飢饉に見舞われています。アプーターリブから子供をひとりずつ引き取って、父親代りとなって養育し、荷を軽くしてあげましょう」ムハンマドは従弟アリーを自分の家に、自分の胸に受け入れた。そしてヒジュラの後に一番大切な末娘ファーティマと結婚させた。もうひとりはザイド・イブン・ハーリサで、母親はサアダー・ビント・サアルバと言い、幼いザイドを連れてタイイの生家を訪ねに出かけたところを、アルカイニ族の騎馬に襲われ、少年はハバーシャ市場で売られた。ハキーム・イブン・ヒザーム・イブン・フワイリドが伯母ハディージャのために少年を買い、彼女はこの少年を夫に与えた。まだ啓示が下る前の出来事であった。ムハンマドはこの少年を自由にし、養子にしてクライシュの面前でこれは自分の息子であると宣言した。そこで少年はザイド・イブン・ムハンマドと呼ばれた。イスラーム期になって『実の父親の名で養子を呼ぶ』ことが定められ、以後はザイド・イブン・ハーリサと呼ばれるようになったが、その後もザイドは使徒のもとに留まり、使徒に愛された。ムハンマドの豊かな父性愛は信徒の母となった妻たちの連れ子にも十分に注がれた。ヒンド・イブン・アブーハーラはハディージャの連れ子で、使徒は継父になる。「アルイスティアーブ」の中でアリー・イプン・アブーターリブの息子ハサンが使徒の優しい性格を伝えているが、彼は、母ファーティマの兄であり自分には叔父にあたるこのヒンドから聞いた話を伝えたのであった。そしてサラマ・イブン・アブーサラマとその兄弟姉妹たちのアムル、ザイナブ、ドッラ(彼らの母はウンムサラマである)も、またハピーハ・ビント・オバイドゥッラー・イブン・ジャフシ(彼女の母はウンムハビーバである)も、みな使徒が愛した子供たちであった。ムハンマドは晩年に至っても子どもを恋しく想った。高齢で待望の息子を授かったとき、彼の大きな心は感激にむせび、喜びに満ち溢れて震えたことだろう。しかしこのときの息子イブラーヒーム(コプドの女マーリアが生んだ子)も十八ケ月に達したときに昇天してしまう。幼な子は召されて、残された父はまたもや悲嘆にくれた総ては神のご意志によるものと神に委ねた運命であっても、流れ出る涙は止めようがなかった。男児を尊重する社会にあってムハンマドはひとりの息子にも恵まれなかったが、彼の伝えた福音は遠く広く永遠に、数知れぬ人々に受け継がれていった。
إن شاء الله
続きます
アッラーのご加護と祝福がありますように
و السلام