満月通信

「満月(バドル)」とは「美しくて目立つこと」心(カリブ)も美しくなるような交流の場になるといいですね。

地獄の住民

2005-03-27 | ハディース&子どものための物語
بسم الله الرحمان الرحيم

اليلام عليكم

「地獄の住民には二つの特徴がある。その一つは、彼が雄牛の尾のような鞭を持ち、それで人々に体罰を加えることである。第二は、女たちはなにも身につけず、裸身で、駱駝瘤のように髪を高目に結び、男を誘惑していることで、このような女たちは天国に入れない。また天国の香りすらも、しかじかの遠い距離までただようにも関わらず。嗅ぐことはできない。」

「身につけず、裸身で」の解釈に4つのものがあるそうです。

①身体にぴったりしたものを身に付けている
ジーンズ等が「眉をひそめられる」のもこうした理由かと思われます。
またジーンズは本来は作業着であり、西洋(つまりクリスチャンやユダヤ教徒)の模倣とも考えられますので、勧められないのでしょうか。

②透け透けのもの(シースルーのもの)を身に付けている・・・服を着ているが、まるで着ていないようなもの。
この項目には、「ヒジャーブ」はしていても髪を半分しか隠していないような「していながらその機能を果たしていないような被り方をしていること」も該当するようです。
普段はしていないが、「アザーン」を聞いたときだけ、聖クルアーンの一節を聞いたときだけ、さっと頭にドパタを載せるのも同様とも考えられるのでは。アスタグフィルッラー

ハルーン・ラシッドの妻であるズベイダが天国の住民となったのは彼女の名前がついた人工の川(これは水を供給しつづけるのでサダカ・ジャーリヤですね)のためではなくアザーンの時に畏敬の念でヒジャーブをしていた理由によるというストーリーがあるので、そこから「アザーン」を聞いたら「スカーフをする」ということになったのかもしれません。

「聖クルアーンを読誦するときにスカーフを被る」こともアッラーの行為に対して畏敬の念を表す、敬意を示すという点では何ら非難すべきことではありません。



③アバイヤを着てヒジャーブをしてムスリマのドレスコードは押さえてるが、イバーダ(崇拝行為・・・つまり礼拝や断食など)をしない、もしくはイバーダをしてもそこにイフラース(アッラーのためだけにする真摯な気持ち)がない。
・・・・・アスタグフィルッラー

④夫が見ているところではさまざなことを守るが、いないところでは守らないこと
ー『かの女らはあなたがたの衣であり、あなたがたはまたかの女らの衣である。』(2:187)
夫という衣を脱ぎ捨てるということで、それは裸身ということになるのでしょうか。


アッラーが一番ご存知です。

日本ではムスリムは少数ですので、「ヒジャーブ着用」は奇異なものに映り、浮きあがってしまうことでしょう。イスラーム圏でも現在では「ヒジャーブ着用」がファッショナブルなものとして捉えられる傾向になった国もあり、ムハッジャバ(ヒジャーブをするムスリマ)も増えてきているようです。
しかし、一昔前はムハッジャバは「頭の悪い」「おしゃれ感覚のない」「田舎者」というやや侮蔑めいた取り扱いをされていた国もあったようです。

世の中が、殆ど裸同然な服装や、鍛えた肉体を強調するような服装で、溢れているときは、ムスリムのドレスコードは奇異でしょう。

しかし、預言者さま(صلى الله عليه و سلم)の言葉を思い出しましょう。

بَدَأَ الإسلامُ غَرِيباً٫

سَبَعُودُ لِمَا بَدَأَ٫

َفَطُوْبَى لِلَغُرَبَءِ الَّذِيْنَ يُصْلِحُوْنَ مَا اَفُسَدَ النَّاس



「イスラームは変わり者として始まり、始まったと時と同様にすぐ変わり者に戻るだろう。人々が悪をなすときに善をなす変わり者たちに祝福あれ」

「変わり者」は否定的な言葉としてではなく、「特別な者」として捉えましょう。
スーパーに買い物に行き、例えば果物を買おうとするとき、陳列された中から、一番状態のいいものを選びますよね。
同様に、アッラーがお導きくださったムスリムやムスリマは「アッラーより選ばれた特別なもの」なのです。

その「選んでくださった」アッラーの愛に、アッラーがお喜びになる方法で応えたいものです。


アッラーのご加護と祝福がありますように
و السلام

女性だけの集団礼拝について

2005-03-19 | ファトワ&フィクフ
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم

4つの法学派は「女性のみの集団礼拝」について意見が異なっていますのでご紹介します。

ハナフィー学派は、「マクルーフ(アッラーが嫌われる行為)」と位置付けています。ハナフィーのフィクフ「HIDAYAH Vol.1」p9-305

ASK the IMAMに詳細が載っています。

マーリキー学派は、女性のみの集団礼拝に女性は先導者となることができず、その集団礼拝で追従した者の礼拝も無効となります。

シャフィイー学派は、女性のみの集団礼拝に女性は先導者となれます。女性のみであろうと集団礼拝はムスタハブ(推奨行為)です。

ハンバリー学派は、「許された行為」であるが、イスラーム学者の見解はさまざまです。
Question#65965に詳細が載っています。

アスマ(رضى الله عنها)と’ウマル(رضى الله عنه)によると「アザーンもイカーマも女性のみの集団礼拝の場合はない」(バイハキー)

アッラーが一番ご存知です。

アッラーのご加護と祝福がありますように
و السلام

第18章洞窟章第46節

2005-03-17 | 聖クルアーン
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم

第18章は聖クル’アーンのちょうど真ん中にあります。第19節のワ=ルヤタラッタフ(慎重に振る舞わせて、話させて)が真ん中に当たります。

第18章は迫害者から逃れ洞窟でアッラーの恩恵により309年もの長きに渡り眠り続けた人々の話が章題になりました。

その第46節です。

الْمَالُ وَالْبَنُونَ زِينَةُالْحَيَوةِالدُّنيَا وَالْبَاقِيَاتُ

الصَّالِحَاتُ خَيْرٌ عِندَ رَبِّكَ ثَوَابًا وَِ خَيْرٌ أَمَلاً

ー『富と子女はこの世の生活の装飾である。だが永遠に残る善行こそは、主の御許では報奨において最も優れ、また希望(の基礎)としても最も優れたものである。』

同様な内容の節はほかにも見られます。

ー『様々な欲望の追求は、人間の目には美しく見える。婦女、息子、莫大な金銀財宝、(血統の正しい)焼印を押した馬、家畜や田畑。これらは、現世の生活の楽しみである。だがアッラーの御側こそは、最高の安息所である。 』(3:14)

ー『あなたがたの富や子女は、一つの試みに過ぎない。アッラー、かれの御許に(だけ)偉大な報奨はある。 』(64:15)

「永遠に残る善行」とは何か。

イブン・アッバース、サイード・ビン・ジュバイルや他のサラーフの解釈では
「善行とは5回の義務の礼拝である。」
(アッタバリー)

アター・ビン・アビーラバーとサイード・ビン・ジュバイリがイブン・アッバースの語ったことを聞いたところでは
「『スブハーナッラー』『アル=ハムドリッラー』『ラー イラーハ イッラッラー』『アッラーフ アクバル』である。」
(アッタバリー)

ウスマーン・ビン・アッファーンが「永遠に残る善行は何かと問われた時に、彼はこう答えた。
「それは『ラー イラーハ イッラッラー』「スブハーナッラー』『アル=ハムドリッラー』『アッラーフ アクバル』『ラー ハウラ ワ ラー クウワタ イッラー ビッラー』である」
(アハマド)

アリー・ビン・アビータルハーがイブン・アッバースの語ったことを聞いたところでは
「これは『ラー イラーハ イッラッラー』『アッラーフ アクバル』『スブハナッラー』『アル=ハムドリッラー』『タバーラカッラー』『ラー ハウラ ワ ラー クウワタ イッラー ビッラー』『アスタグフィルッラー』『サッラッラーフ アラー ラスールッラー』と唱えてアッラーの思い出す集まりや、斎戒、礼拝、巡礼、喜捨(サダカ)、奴隷の解放、ジハード、血縁者と仲良くすること、他の全て善行で、これらの善行は、天と地がある限り、永遠に楽園で残り続けるだろう」
(アッタバリー)

アル=アウィーがイブン・アッバースの語ったことを聞いたところでは
「永遠に残る善行とは良い言葉である」
(アッタバリー)

アブドルラフマーン・ビン・ザイード・アスラムが言うには
「全ての善行である」
(アッタバリー)
イブン・ジャリールもこの見解を採っています。

ムハンマド・タキーウ=ッ=ディーン・アル=ヒラール博士とムハンマド・ムフシン・カーン博士共著のタフスィールでは
「善行」とは
「5回の義務の礼拝、アッラーへの服従行為、善き優しい言葉、讃美と称賛と感謝を込めてアッラーを思いおこすこと。」

アブーフライラ(رضي الله عنه)によるとアッラーの御使い(صلى الله عليه و سلم)は言われました。

「人が死んだとき彼の行為は(次の)三つの事柄を除いてそこで中断される。それらは繰り返し行われるサダカ(例えば、孤児のための家や飲料用の井戸など)と役に立つ知識と彼(両親)ために祈りを捧げる品行方正な子供である。」(サヒーフムスリムⅡ672p)


アブーフライラ(رضي الله عنه)によるとアッラーの御使い(صلى الله عليه و سلم)は言われました。

「『ラー イラーハ イラッラー ワハダフ ラー シャリーカ ラフ、ラフ=ル=ムルク ワ ラフ=ル=ハムド ワ フワ アラー クッリ シャイイン カディール』と百回唱える者は、十人の奴隷を解放したと同じ功徳を与えられ、彼のために百の善行が記録される一方、百の悪行が抹消され、その一日、夜になるまでシャイターンの誘惑から護られる。『ラー イラーハ イッラッラー・・・』と百回以上唱える者のほか、誰もこれ以上の功徳を与えられることは決してないだろう」(サヒーフ アル=ブハーリーⅤ436p)

アブーフライラ(رضي الله عنه)によるとアッラーの御使い(صلى الله عليه و سلم)は言われました。
「舌には軽いが、秤は重く、慈悲深いアッラーに愛される二つの句は『アッラーフ アクバル』と『スブハーナッラー』である」
(サヒーフ アル=ブハーリーⅤ437p)

「善行」のアラビア語「الصالحات」が女性形の複数であるのも、物の複数が女性形であるという考え方と女性そのものの複数とも考えられ、子女の善行のことであるとも解釈できるそうです。
(アッラーフ アアラム)

ある男が審判の日にアッラーから「地獄行き」と宣告されるが、彼の娘が、「父は良い人でした」とアッラーに訴えるのに応えて、アッラーは慈悲を賜われ、男は地獄行きが間逃れたという話もあります。(これはウルドゥー語で書かれていました。ウルドゥー語を解せるシスターが訳してくれました。ジャザーハッラーフ ハイラン)

このことから親は娘を大切に育て、娘から「いいムスリム」であると評価されるよう親は奮闘努力すべきだということではないでしょうか。

感情に任せて、子供を怒っていませんか。(「叱る」ことと「怒る」は違います)
気分によって昨日は「ダメ」今日は「いいよ」と朝令暮改のような指示をしていませんか。
子供は「親が子供に言うこと」は聞かず、「親のすること」を見ています。
子供にとって私たち自身が「ウスワトゥン ハサナ(トゥン)(模範)」になるように日々努力して行きましょう。これは私自身への訓戒でもあります。アスタグフィルッラー


私たちの次世代は「私たちの所有物」ではなく「アッラーからのアマーナ(預かりもの)」です。
次世代はイスラームの将来を左右する私たちが共有する大切なものでもあります。

どうかアッラーが私たちを私たちの家族を正しく導いてくださいますように

アッラーのご加護と祝福がありますように
والسلام


お赦しになるのも三通りある

2005-03-04 | 聖クルアーン
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم

聖クル’アーンの第64章騙し合い章(التغابن)は
第9節の


يَوْمَ يَجْمَعُكُمْ لِيَوْمِ الْجَمْعِ ذَالِكَ يَوْمُ الْتَغَابُنِ


ー『かれがあなたがたを召集なされる集合の日は騙し合いの日である。』

から章題になりました。マディーナ初期の啓示とされています。

その第14節に


وَ إِن تَعفُوا وَتَصْفَوا وَتَغْفِرُوا
ー『だがもしあなたがたがかれらを赦し、大目にみ、かばうならば(それもよい)。』


و
「ワ」は接続詞の「そして」


إِن
「イン」は「もし」
إِن شَاءَ اللهインシャーアッラー(アッラーがお望みならば)とご存知のムスリムの定番表現は、この「イン(もし)」と「シャーア(彼が望む)」と「アッラー」の三語から成っています。
「アッラー」の「ア」はハムザト=ル=ワスルと言って前に語があると発音されません。
つまり「インシャッラー」も「インシャーッラー」も「イン シャー アッラー」も表記としては正しくないということですね。


تَعْفُوا
は「
عَفَا
(消し去る)」の二人称複数のsubjunctive(مَنْصُوب)
アッラーはお赦しになりますが、罪を犯したことさえなかったことにしてくださるのです。

ラマダーンのライラトルカドルに言うドゥアーは


اللَّهُمَّ إِنَّكَ عَفُوٌّ كَرِيْمٌ تُحِبُّ الْعَفْوَ فَاعْفُ عَنَّا
ー「おお、アッラー、あなたはお許しくださる御方です。お許しを好まれる御方です。ですから私達をお許しください。」

と何度も「عَفَا(消し去る)」が出てきます。
「お赦し」の中でも最大に寛大さでお赦しくださるのです。
صُبْحَانَ اللهِスブハーナッラー


تَصْفَحُوا
は「
صَفَحَ
(平らにする、赦す)」の二人称複数のsubjunctive(مَنْصُوب)
罪を犯した事自体は消えないが、アッラーはお赦しになり、アッラーと罪を犯した僕(しもべ)との関係は罪を犯した前となんら変わりません。


تَغْفِرُوا
は「
غَفَرَ
(赦す)」の二人称複数のsubjunctive(مَنْصُوب)
アッラーはお赦しになりますが、犯した罪は消えません。またアッラーとの関係も罪を犯す前とは多少異なると考えられます。

このように「お赦し」もアッラーの望まれるままに三通りあります。

アッラーに赦しを請い、心から罪を悔い改め、二度としないように固く誓って、日々を送っていきたいものです。


فَإِنَّ اللهَ غَفُرٌ رَّحِيْمٌ
ー『本当にアッラーは、度々御赦し下される御方、慈悲深い御方です。』

アッラーのご加護と祝福がありますように
والسلام