満月通信

「満月(バドル)」とは「美しくて目立つこと」心(カリブ)も美しくなるような交流の場になるといいですね。

最後の審判 最終回

2012-05-03 | ハルカ
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم 

前回まで、死後に起こることを順番に見てきました。
①死の天使が、体から魂を抜き取る。 → ②(墓の中の)バルザフの世界  → ③最初のラッパ(生きている物がすべて死ぬ) → ④2回目のラッパ(全員復活) → ⑤預言者さま(صلى الله عليه و سلم)のハウド(水飲み場) → ⑥全人類の結集  → ⑦預言者さま(صلى الله عليه و سلم)の取成し → ⑧アッラーから記録書の授与 → ⑨自分の行いがはかりにかけられる → ⑩スィラート(地獄にかかる橋)を渡る → ⑪報奨(天国と地獄)


最後の審判の日を信仰することの影響

1.常にアッラーを心に留めること:


例えば、万引きしようと思った人が、万引きをしたら100%どんな例外もなく確実に職場や家庭に連絡されて警察に引き渡される、とわかっていたら、やめるでしょう。その確信が100%ではなく、もしかしたら見つからないかもしれない、ばれないかもしれない、また見つかっても支払えば許してもらえるだろうと思っていれば万引きしてしまうかもしれません。最後の審判の日に対する信仰も同じで、その確信が深まれば深まるほど、100%確実にアッラーにお会いして絶対に問われる、ということがわかることで、常に自分を客観的に見て清算することができるという効果があります。

アッラーの判定は絶対に公正で、自分のした事で何一つ見逃してしまうようなことはなく、アッラーはすべてご存知で、その日には自分の行いがすべて書かれた記録書、もしくは録画されたビデオのようなものを見せられて、何も言い訳をすることができない、そしてその判決によって、天国に行く人たちと地獄に行く人たちに分かれると100%わかっていれば、日ごろから何かをするときに、そのことを思い出してアッラーのことを心に留めることができます。ですから最後の審判の日を信仰する人は、人々の前であっても、誰も見ていないところであっても、アッラーを心に留めて、アッラーの目の前でしても恥ずかしくないことをしようと心がけます。そして、あの世で清算される前に、自分を常に清算して、審判の日の準備をすることができます。

【 あなたがたは、アッラーに帰される日のために(かれを)畏れなさい。
その時、各人が稼いだ分に対し清算され、誰も不当に扱われることはないであろう。】クルアーン雌牛章281節
【كُلُّ نَفْسٍ مَّا كَسَبَتْ وَهُمْ لاَ يُظْلَمُون  وَاتَّقُواْ يَوْمًا تُرْجَعُونَ فِيهِ إِلَى اللّهِ ثُمَّ تُوَفَّى】



2.行動が正される:


 アッラーの元で自分の行いが清算されるということを確信を持って知ることで、犠牲を払ってでも善いことをがんばってしようという気持ちが増えます。善いことをするのは、時にはすごく難しいかもしれません。善いこととわかっていても簡単にはできないこともあるかもしれません。それでも、必ずアッラーが見ていてくださって、それについて近い将来ご褒美がもらえると確信を持って知っていることは、善い事をするための努力をする強い原動力になります。また、必ずアッラーがご覧になっていて、近い将来、そのことを問われると知っていることは、悪い事をするのを何とかしてやめようと努力する原動力にもなります。そうした努力をすることによって、結局、善行が増え、悪行が減ることになり、審判の日には自分の記録書を右手でもらえる人の中に入り、彼の報奨は人々に公にされて、人々が見ている前で天国入りのチケットを授かる名誉を与えられることになります。

【それで右手にその(行状)記を渡される者は言う。「ここに(来て)、あなたがたはわたしの(行状)記を読みなさい。」(彼は言います。)「いずれ私は、清算(審判)に合うことが、本当に分っていました。」こうしてかれは至福な生活に浸り、高い(丘の)園の中で、様々な果実が手近にある。「あなたがたは、過ぎ去った日(現世)で行った(善行の)ために、満悦して食べ、且つ飲みなさい。」(と言われよう)。】クルアーン 真実章 19~24節
فَأَمَّا مَنْ أُوتِيَ كِتَابَهُ بِيَمِينِهِ فَيَقُولُ هَاؤُمُ اقْرَؤُوا كِتَابِيهْ إِنِّي ظَنَنتُ أَنِّي مُلَاقٍ حِسَابِيهْ19فَهُوَ فِي عِيشَةٍ رَّاضِيَةٍ فِي جَنَّة】ٍ
【 ِ عَالِيَةٍ21قُطُوفُهَا دَانِيَةٌكُلُوا وَاشْرَبُوا هَنِيئًا بِمَا أَسْلَفْتُمْفِي الْأَيَّامِ الْخَالِيَة



3.現世のための行いと来世のための行いのバランスをとる:


 現世というのは、私たちが試される所で、来世の種を植え育てる所です。信仰する人は、現世の装飾に騙されてそれだけを大切にしてそれに振り回されて溺れる人生を送ることはなく、また現世を欲しがる欲に従って来世を台無しにするということがないように注意することができます。そうかと言って、現世の生活を全く省みず、家に篭ってお祈りだけして、他の人に食べさせてもらって生活し、ただ来世への望みだけの中に生きるということもありません。イスラームにおける中庸の教えを守り、現世と来世のどちらも大切にします。

【アッラーがあなたに与えられたもので、来世の住まいを請い求め、この世におけるあなたの(務むべき)部分を忘れてはなりません。そしてアッラーがあなたに善いものを与えられているように、あなたも善行をなし、地上において悪事に励んではなりません。本当にアッラーは悪事を行う者を御好みになりません。】クルアーン 物語章77節
وَابْتَغِ فِيمَا آتَاكَ اللَّهُ الدَّارَ الْآخِرَةَ وَلَا تَنسَ نَصِيبَكَ مِنَ الدُّنْيَا 】
【وَأَحْسِن كَمَا أَحْسَنَ اللَّهُ إِلَيْكَ وَلَا تَبْغِ الْفَسَادَ فِي الْأَرْضِ إِنَّ اللَّهَ لَا يُحِبُّ الْمُفْسِدِينَ


4.アッラーの公正さに対する信仰が深まる:


信仰する人は、私たちが今いる現世というのは、ずっと住むわけではなく、ただ通り過ぎる場所だという事を知っています。日本語で仮の住まいと言いますが、まさに現世は私たちの仮の住まいです。現世というのは、報奨を受ける場所でもなければ、永遠に私達が住む場所でもありません。また、現世というものは、常に不足していて、満ち足りる事がなく、いろいろな種類の災難や不幸がたくさん起こる場所で、来世に比べてそんなに大きな価値を置くべき所ではないということを知っています。預言者さま(صلى الله عليه و سلم)のハディースで、
≪もし現世が、ハエの羽ほどの価値があったなら、不信者は水一杯も飲むことはできないでしょう。≫
というものがあります。つまり、それほどアッラーの元では現世の喜びというのは、来世の喜びに比べて比較にならないものだということです。ハエの羽一枚よりも価値のないものだということです。

一方、来世は、報奨と公正さの実現する場所であり、公正で絶対に正しい基準のある場所です。そこでは、アッラーの公正さが実現され、誰一人不公平に扱われる事は決してありません。アッラーの判決によって権利を侵害されたり、虐げられたりする人は1人もいません。また、アッラーの判決によって、報奨が確定された人の報奨は必ず与えられ、誰もそれを邪魔する事はできません。これは、アッラーがお約束なさった事で、アッラーのお約束は必ず実現します。

【(行いを記録した)書冊が(前に)置かれ、犯罪者がその中にあることを恐れているのを、あなたがたは見るでしょう。かれらは言います。「ああ、情けない。この書冊は何としたことだ。細大漏らすことなく、数えたててあるとは。」かれらはその行った(凡ての)ことが、かれらの前にあるのを見ます。あなたの主は誰も不当に扱われません。】クルアーン 洞窟章 49節
وَوُضِعَ الْكِتَابُ فَتَرَى الْمُجْرِمِينَ مُشْفِقِينَ مِمَّا فِيهِ وَيَقُولُونَ يَا وَيْلَتَنَا مَالِ هَذَا الْكِتَابِ لَا يُغَادِرُ】
【صَغِيرَةً وَلَا كَبِيرَةً إِلَّا أَحْصَاهَا وَوَجَدُوا مَا عَمِلُوا حَاضِرًا وَلَا يَظْلِمُ رَبُّكَ أَحَدًا



 こうして、最後の審判の日の信仰を持つことによって、アッラーの公正さへの信頼が高まり、その日に、すべての公正さは実現し、現世での不平等や不公平の清算が必ずあるということに信仰する人は安心感を覚えます。現世で不当に扱われ苦しみ泣いていた人たちも、その日はこれまでの報奨を受け取り、笑うことになり、現世で不正を働いて笑っていた人たちは、自分のした事の罰を受け泣くことになります。これは必ずそうなります。アッラーの公正さは、現世だけで実現されるのではなく、来世とセットになって実現されるものだからです。最後の審判の日を信じることは、アッラーの公正さを信じることにつながり、現世で信仰する人にやすらぎを与えます。

アッラーのご加護と祝福がありますように
والسلام




200のハディースその34

2012-05-03 | ハディース&子どものための物語
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم


満腹を避ける(さまざまなハディースより⑨)

 《アブー・カリーマ・アル=ミクダーム・イブン・マアディーカリブ(رضى الله عنه)によると、アッラーの御使い様(صلى الله عليه و سلم)が、「人にとって最もいけないことは満腹になることです。背筋を真っすぐに保つには少量の食べ物で十分です。それが無理なら、三分の一を食べ物のため、三分の一を飲み物のため、三分の一を呼吸のために空けておきなさい。」といわれるのを聞いた。》(アッティルミズィーによる伝承)




 食は生命を保つ本源でありますが、食の取り方が、体のみならず人間の生き方にも大きな影響があることが、このハディースから学ぶことが出来ます。
 腹八分目に医者要らずといわれ、満腹になるまで食べず、適量に済ませばお腹をこわすこともなく、医者にかからなくて済むことは、多くの人が知るところです。医食同源という言葉もあり、食を慎むことは健康維持につながります。
 このハディースでは、食べ物と飲み物に三分の一ずつとありますから、腹八分目より少なく、腹六分目を勧めています。その効用については、医者が、小食は健康の原点であるとして、小食療法を取り入れ、治療に応用していますから、科学的根拠があります。
 満腹により、腹の皮が張れば、目の皮がたるむ、と言うように、多く食べると眠くなります。食べすぎると、背筋がまっすぐにし、仕事をすることが難しくなります。
 そして、食べ物を頂くときですが、他のハディースに、「隣人がかたわらで空腹を抱えている時に腹一杯食べる物は、信者ではなりません。」アルバイハキー「信仰集成」)とあります。種類豊富な食べ物に囲まれているわたしたちは、アッラーに感謝すると同時に、日々ひもじい思いをしている人に思いをはせる飲食マナーが求められます。食を通じて慎み深さを養い、飽食したり、美食を追い求めることを避けなければなりません。
 また、食事の作法について、次のようなハディースがあります。「アッラーのみ使い(صلى الله عليه و سلم)は食事をされた時には使用された三本の指をお嘗めになっていた。そして『誰のものでも一口程の食べ物が落ちた時は、付いたものを取り除いて食すがよい。シャイターン(サタン)にそれを放置してはならぬ。』と仰った。そしてわれわれに皿に付いている物もきれいに食すことをお命じになり『まことに、あなた方が食べ物のいずれの部分に祝福があるのか分からないであろう』と仰った。」(ムスリムによる伝承)
 お皿に盛られた食べ物を頂くマナーがあり、それも、盛り付け前の使われていないお皿のようにすることを聞いて、深く考えさせられました。そのあまりの謙虚さに驚くばかりです。“もったいない”の極地と言ってもよいでしょう。
 これらのハディースから、飲食の慎みによって身を正し、人格が養われることが理解できます。

アッラーのご加護と祝福がありますように
والسلام