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満月通信

「満月(バドル)」とは「美しくて目立つこと」心(カリブ)も美しくなるような交流の場になるといいですね。

台座(玉座)の節

2012-10-15 | 聖クルアーン
بسم الله الرحمان الرحيم


السلام عليكم

台座(玉座)節(アーヤト=ル=クルシー)

第2章 雌牛章 255節
この台座(kursi)の語に因んで、この節は「台座(または玉座)の節」と呼ばれ、クルアーンの中で最も功徳のある節として尊重されている。「台座(kursi)」はアッラーの「玉座(‘arsh)」の下にあるとされている。(訳解 クルアーン52p)

この節はクルアーンの中で最も優れた節で、どんな節の読誦よりも報償が多い。それは、この節が神性の諸命題と神の肯定的表現による諸属性を合わせ含むからで、そのような節はほかにはない。アッラーの御使い(صلى الله عليه و سلم)は言われた。《クルアーンで最も大いなる節はクルシー(台座)の節である。これを読んだ者にアッラーは天使を遣わし、その天使はその時間から翌日まで彼の善行を書き留め、彼の悪行を消す。》《『アーヤト=ル=クルシー(台座の節)』を毎回の義務の礼拝の後に読んだ者に楽園を阻止するものは死だけである(死んでいないためにまだ入っていないだけである)。それを欠かさず行い続ける者は篤信者と崇拝者のほかにはいない。床に就く前にこれを読んだ者にアッラーは、彼自身と彼の隣人とその隣人と周囲の家々に安全をもたらし給う》
アブー・フライラ(رضى الله عنه)によるとアッラーの御使い(صلى الله عليه و سلم)は言われた。《朝を迎えた時に『アーヤト=ル=クルシー(台座の節)』と第40章の〔ガーフィル〕の冒頭3節を読んだ者はその日は夕まで守り給う。そして夜にこれらを読んだ者はその晩は朝まで守り給う》。
《家で『アーヤト=ル=クルシー(台座の節)』を読んだ者は30日シャイターンが彼から遠ざかり、40夜悪魔使いが家に入らない。アリーよ、この節をおまえの子供と家の者と隣人に教えよ。これほど大きな節が下されたことはないのである》。
《アリーよ、人間の頭はアーダム(عليه السلام)であり、アラブの頭はムハンマド(صلى الله عليه و سلم)である。自慢で言うのではない。また、ペルシャ人の頭はサルマーン(رضى الله عنه)であり、ローマ人の頭はスハイブ(رضى الله عنه)で、エチオピア人の頭はビラール(رضى الله عنه)である。山の頭はシナイ山で、曜日の頭は金曜で、言葉の頭はクルアーンで、クルアーンの頭は雌牛章で、雌牛章の頭は『アーヤト=ル=クルシー(台座の節)』である》。(ジャラーライン 110p&111 アル=ジャマル脚注)

ウバイユ・ビン・カアブ(رضى الله عنه)は言った。アッラーのみ使い(صلى الله عليه و سلم)は《アブー・ムンズィルよ、あなたはクルアーンの中のどの節が最も偉大であるか知っていますか》と聞かれた。私は「アッラーとそのみ使い(صلى الله عليه و سلم)が最も良く御存知です」と言った。み使い(صلى الله عليه و سلم)は再び《アブー・ムンズィルよ、あなたはクルアーンの中のどの節が最も偉大であるか知っていますか》と言われた。私は「【アッラー、彼の外に神はなく、永生に自在される御方】」(クルアーン第2章255節)」と言った。するとみ使い(صلى الله عليه و سلم)は、私の胸をお打ちになり《アブー・ムンズィルよ、その知識があなたに有益なものであるように》とおっしゃった(注)。
(注)これはアブー・ムンズィルが正しい答えをしたのに対する祝福である
(サヒーフ・ムスリム 第1巻551p)

アブーフライラ(رضى الله عنه)は語った。アッラーの使徒(صلى الله عليه و سلم)が私にラマダーンの喜捨の管理をお任せになっていたとき、或る者が来てその一部をとろうとしたので、わたしはその者を捉えて、「お前をアッラーの使徒Sの前につきだしてやる」と言った。すると、その者は「夜寝る前に『玉座』の節を唱えなさい。そうすれば、アッラーのもとから天使が来て絶えずあなたを護り、朝になるまでシャイターンは近づかないだろう」と言った。それを伝え聞いた預言者(صلى الله عليه و سلم)は《あれはシャイターンで大嘘つきだが、お前に言ったことは本当だ》とおっしゃった。(アル=ブハーリー 第4巻555p)

玉座節には アッラーの偉大な美名がある
アスマ・ビント・ヤズィード・ビン・ア=ッ=サカン(رعني الله عنها)は言った。
「私はこの二つの節について預言者さま(صلى الله عليه و سلم)がコメントなさるのを聞きました」
【اللّهُ لاَ إِلَـهَ إِلاَّ هُوَ الْحَيُّ الْقَيُّومُ】
『アッラー、かれの外に神はなく、永生に自存される御方。』
【اللّهُ لا إِلَـهَ إِلاَّ هُوَ الْحَيُّ الْقَيُّومُ】【الم】
『アリフ・ラーム・ミーム、アッラー、かれの外に神はなく、永生し自存される御方であられる。』
《この二つにはアッラーの偉大な御名が含まれている》
(イマーム・アハマド)

玉座節の中には アラビア語の完全な10の文がある

1.【اللّهُ لاَ إِلَـهَ إِلاَّ هُوَ】
アッラーフ ラーーーー イラーハ イッラー フ(ワ)
『アッラー、かれの外に神はなく』→ アッラーは唯一にして被創造物にとってたったひとつの崇める神である。
存在の中に、真に仕えるべき対象はアッラーをおいてない。(ジャラーライン111p)

2.【الْحَيُّ الْقَيُّومُ】
(ア)ル=ハイユ=ル=カイユー(ーーー)ム
『永生に自存される御方。』
アッラーは決して死なず、永遠に存続される御方で、全ての者やものを養われ、支えられている。全ての被造物は富める御方であるアッラーを必要としており、アッラーに頼っているが、アッラーご自身が必要とする被造物はない。

【وَمِنْ آيَاتِهِ أَن تَقُومَ السَّمَاء وَالْأَرْضُ بِأَمْرِهِ】
『またかれが、御意志によって、天と地を打ち建てられたのは、かれの印の一つである。
』(第30章ビザンチン章25節)

3.【لاَ تَأْخُذُهُ سِنَةٌ وَلاَ نَوْمٌ】
ラー タ・フズフ スィナトゥーーワ ラー ナウ(ーーーー)ム
『仮眠も熟睡も、かれをとらえることは出来ない。』
短所や無用心さや無意識といったことがアッラーに起こることは決してなく、むしろアッラーは常に覚醒されていてあらゆる魂が稼ぐことを制御なさっていて、森羅万象をあますことなくご覧になっていて、アッラーの知悉から漏れるものは一切なく、どんな秘密もアッラーにとっては秘密ではない。アッラーの完璧な性質のひとつとして、うたた寝も熟睡もアッラーには、効力がない。そのため、アッラーの御言葉に
【لاَ تَأْخُذُهُ سِنَةٌ】
『仮眠もかれをとらえることは出来ない』
うたた寝による無意識がアッラーを襲うことはないということであり、更にアッラーは続けて
【وَلاَ نَوْمٌ】
『熟睡も(かれをとらえることは出来ない)』
熟睡は(意識がなくなることは)仮眠よりも更に強く起こりえる。
つかの間の眠りも長い眠りも彼をとらえることはない。常に維持し給う御方であることの理由付けである。まどろみとは眠りに先立つ状態で、感覚が完全には去っていない。眠りの状態では、物事の知覚が絶え、それゆえ、眠りは死の兄弟と呼ばれる。(ジャラーライン111pアル=ジャマル脚注)
サヒーフ・ムスリムのハディースによると、
アブー・ムーサー(رضى الله عنه)は伝えている。アッラーのみ使い(صلى الله عليه و سلم)は私たちの問に立ってアッラーに関し、五つの事をこうお話しになった。すなわち《アッラーはお眠りにならない。また、眠りを必要とされない方である。アッラーはしもべらの所行を判定するための秤を低めたり、高めたりなさる方である。夜の行為は昼の行為の前に、また、昼の行為は夜の行為の前に、アッラーの許に報告される。》アッラーの覆い(ベール)は光りである〔アブー・バクル(رضى الله عنه)の伝えるハディースによると、“光り”ではなく“火”となっている〕もしアッラーがその覆い(ベール)をはずすようなことがあれば、お顔の輝きのため、その御目が届く範囲にあるアッラーの創造物は、全て焼き尽されるだろう》第1巻141P

4. 【لَّهُ مَا فِي السَّمَاوَاتِ وَمَا فِي الأَرْضِ】
ラフー マー フィ=ッ=サマーワーティ ワ マー フィ=ル=アルド
『天にあり地にある凡てのものは、かれの有である。』
全ての者はアッラーの僕であり、彼の王国の一部であり、彼の権力と権威の許にいる。
同様なアッラーの御言葉に
【إِن كُلُّ مَن فِي السَّمَاوَاتِ وَالْأَرْضِ إِلَّا آتِي الرَّحْمَنِ عَبْدًا】
【لَقَدْ أَحْصَاهُمْ وَعَدَّهُمْ عَدًّا】
【وَكُلُّهُمْ آتِيهِ يَوْمَ الْقِيَامَةِ فَرْدًا】

『天と地において、慈悲深き御方のしもべとして、罷り出ない者は唯の1人もないのである。本当にかれは、かれらの(すべて)を計算し、かれらの数を数えられる。また審判の日には、かれらは各々一人でかれの御許に罷り出る。』(第19章マルヤム章93~95節)

5. 【مَن ذَا الَّذِي يَشْفَعُ عِنْدَهُ إِلاَّ بِإِذْنِهِ】
マンーーザ=ッ=ラディー ヤシュファウ インダーフーーーー 
イッラー ビ=イズニ(ヒ)
『かれの許しなくして、誰がかれの御許で執り成すことが出来ようか。』
同様なアッラーの御言葉に
【وَكَم مِّن مَّلَكٍ فِي السَّمَاوَاتِ لَا تُغْنِي شَفَاعَتُهُمْ شَيْئًا】
【إِلَّا مِن بَعْدِ أَن يَأْذَنَ اللَّهُ لِمَن يَشَاء وَيَرْضَى】

『天に如何に天使がいても、アッラーが望まれ、その御喜びにあずかる者にたいする御許しがでた後でなければ、かれら(天使)の執り成しは何の役にも立たない。』(第53章星章26節)
【وَلَا يَشْفَعُونَ إِلَّا لِمَنِ ارْتَضَى】
『かれが受け入れる者の外は、執り成しをしない。』(第21章預言者章28節)
この節はアッラーの偉大さ、誇り、品格の高さ、そしてアッラーのお許しが無ければいかなる者であろうと彼に執り成しを挑むものはいない。実際に、執り成しについてハディースで預言者さま(صلى الله عليه و سلم)も仰っている。
《私は主の許に出かけ、玉座の下に来て、主を拝し平伏すると、主は、お望みのままに私をその状態に置かれた後、こういわれる。『ムハンマドよ、頭を上げよ。いうことがあれば聞き、頼み事があれば与え、執り成しがあれば受け入れるであろう』といわれる。アッラーは私が天国に入れる者のために平伏することをお許しなる》(サヒーフ・ムスリム第1巻166p一部)

6. 【يَعْلَمُ مَا بَيْنَ أَيْدِيهِمْ وَمَا خَلْفَهُمْ】
ヤアラム マー バイナ アイディーヒム ワ マー ハルファフム
『かれは(人びとの)、以前のことも以後のことをも知っておられる。』
これはアッラーが被造物について完全な知識をお持ちであることを言及している。過去についても現在についても未来についてもご存知である。同様なアッラーの御言葉に
【وَمَا نَتَنَزَّلُ إِلَّا بِأَمْرِ رَبِّكَ لَهُ مَا بَيْنَ أَيْدِينَا وَمَا خَلْفَنَا】
【وَمَا بَيْنَ ذَلِكَ وَمَا كَانَ رَبُّكَ نَسِيًّا】

『.(天使たちは言う。)「わたしたちは、主の御命令による外は下らない。わたしたち以前のこと、わたしたち以後のこと、またその間の凡てのことは、かれの統べられるところ。あなたがたの主は決して忘れられない。」(第19章64節)

7. 【وَلاَ يُحِيطُونَ بِشَيْءٍ مِّنْ عِلْمِهِ إِلاَّ بِمَا شَاء】
ワ ラー ユヒートゥーナ ビ=シャイイン(m)ーーーーミン イルミヒーーーー
イッラー ビマー シャーーーーー(ア)
『かれの御意に適ったことの外、かれらはかれの御知識に就いて、何も会得するところはないのである。』
アッラーの伝達とお許しがなければアッラーの御知識は誰も得ることがないという真理を言い切っている。誰もアッラーが伝えようとなさなければ、アッラーの御知識をアッラーの特質を習得できない。同様なアッラーの御言葉に
【وَلَا يُحِيطُونَ بِهِ عِلْمًا】
『だがかれら(人間)の知識では、それを計り知ることは出来ない。』(第20章ターハー章110節)

8. 【وَسِعَ كُرْسِيُّهُ السَّمَاوَاتِ وَالأَرْضَ】
ワスィア クルシーユフ=ッ=サマーワーティ ワ=ル=アルド
『かれの玉座は、凡ての天と地を覆って広がり、』
ワキーのタフスィール(解説)で、
イブン・アッバース(رضى الله عنه)は伝えている。《台座(クルシー)とは丸椅子のことであり、アッラーの玉座(アルシ)にすべき配慮を与えることは誰もできない》(アッタバラニー)アッダッハーク伝承ではイブン・アッバース(رضى الله عنه)は伝えている《もし7つの天と地と平らにして横につなげ広げ、その大きさを台座に比較すると、砂漠にある指輪ほどにしかならない》(イブン・アブー・ハキーム)
「台座に対する7つの天は、太陽の表面に投げ入れられた7つの銀貨でしかない」(ジャラーライン111p)
イブン・アッバース(رضى الله عنه)によると『彼の台座』とはアッラーの知識のことである。アッラーの玉座(アルシュ)の支え手の天使を台座(クルシー)の支え手の天使の間には70の陰からなる覆いと70の光からなる覆いがあり、一つの覆いは通り抜けるのに500年を要する厚さである。この覆いがなければ、台座の支え手は玉座の支え手の光に燃えてしまったであろう。(ジャラーライン第1巻111pアル=ジャマル脚注)

9. 【وَلاَ يَؤُودُهُ حِفْظُهُمَا】
ワ ラー ヤウードフー ヒフズフマー
『この2つを守って、疲れも覚えられない。』
天と地、またその間にあるものを守護することは、アッラーには全く重荷ではなく、またそれをすることに疲れを覚えることもない。むしろアッラーにとっては容易いことある。
その上、アッラーは全てのものを支え、すべてのものを余すところ無くご覧になり、彼の御知識から漏れるものはなく、何事もアッラーには秘密にはできない。全ての事象は彼の御前では明白となり、慎ましく、謙虚である。彼は最も豊かであり、全ての賛美を受けるのに値する御方である。彼はお望みのことをなし、自分たちがアッラーに尋ねられることはあっても、彼のなすことについて誰も彼に尋ねることはできない。アッラーは全てを凌駕する最高の権力をお持ちで、最も偉大である、彼以外に崇める価値のある神格者はなく、アッラー以上の主権者はいない。

10. 【وَهُوَ الْعَلِيُّ الْعَظِيمُ】
ワ フワ=ル=アリーユ=ル=アズィーム

『かれは至高にして至大であられる。』
【الْكَبِيرُ الْمُتَعَالِ】
『偉大にして至高の方であられる。』(第13章雷電章9節)


アッラーの祝福とご加護がありますように
والسلام

聖クルアーンの徳

2006-03-06 | 聖クルアーン
بسم الله الرمان الرحيم


聖クルアーンの徳については、読誦すること自体の徳、お勧めの章など、はクリックして各自お読みください。

ここでは子供向けのお話をご紹介します。

山間にある牧草地に、年老いた男とその孫である男の子が住んでいました。

おじいさんはいつも朝早く起きて、台所にあるテーブルで、椅子に座って、聖クルアーンを読んでいました。

男の子は、おじいさんのようになりたくて、おじいさんのすることは、どんなささいなことでも真似をしようとしていました。

ある日、男の子はおじいさんに向かって
「ねえ、おじいちゃん、僕はおじいちゃんと同じように聖クルアーンを読みたいんだけど、どうも内容がわからないし、わかったことでも本を閉じたらすぐ忘れちゃうんだ。聖クルアーンはどういうふうによめば一番いいの?」
と尋ねました。


おじいさんは静かに石炭をかまどに入れながら、答えました。
「この石炭の入っていたカゴをもって川へ行き、川の水をこのカゴに汲んできてくれないか」

彼はおじいさんの言ったとおりにしたが、水は家にたどりつく前に全てカゴから漏れてなくなっていました。

おじいさんは笑いながらこう言いました。
「次はもうちょっと素早く動いてごらん。」
そして再び彼にカゴを持たせ、川に行かせました。


今回は彼は前よりも速く走りましたが、再び、家にたどり着いたときにはカゴの中に水は残っていませんでした。

息もたえだえに、男の子はおじいさんに
「カゴじゃ水を運んでくるのは無理だよ」
と言って、代わりにバケツで水を汲みに行きました。

おじいさんは
「ワシはバケツで汲んだ水はいらない。欲しいのはカゴで汲んだ水なんじゃ。お前は十分努力したとは言えない。」
と言って、ドアの外に出て、男の子が再び川の水を汲みにいくのを見届けました。

この時点で、男の子は不可能だとわかっていましたが、自分ができる限りの速さで走ったとしても、家にたどりつく前にカゴにある水はなくなってしまうことをおじいさんに見せようとしたのです。

男の子は、カゴで川の水を掬って、全速力でもどってきました。しかしやはり家にたどりつく前にカゴの水は流れ出てしまって、カゴの中は空になっていました。息を切らしながら彼は言いました。
「おじいちゃん。ね、わかったでしょう。意味ないんだよ。」

「意味ないとお前は思うのかい?カゴを見てご覧。」とおじいさんは言いました。

そう言われて男の子はカゴを見て、当初煤で汚れ古びたカゴは、今は外も中もきれいになっていることに気がつきました。

「坊や、これが聖クルアーンを読むとどうなるかということなんだ。聖クルアーンの意味が理解できないかもしれないし、全部は覚えられないかもしれない。でも聖クルアーンを読むことで、お前の中側も外側も変わっていくんだよ。これが私達の人生におけるアッラーの御業なんだ。」

アッラーのご加護と祝福がありますように
و السلام

各礼拝に勧められる章

2005-12-10 | 聖クルアーン
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم

アーリマのシスターに聖クルアーン読誦をチェックしてもらっていたとき、彼女はマジット式で私のはマディーナ式なのですが、そのマジッド式では表記してあるのにマディーナ式では表記されていないもののひとつに各礼拝に勧められる章というものがあることがわかりました。

第49章の部屋章のところに
إبتداء طوال مُفصَّل
と書かれてあり、「長いセクションの始まり」という意味で、この第49章部屋章から第84章割れる章までがファジュルの礼拝とズフルの礼拝に勧められる長めの章ということなのです。

第85章星座章のところには
إبتداء اوساط مُفصَّل
「中ほどの長さのセクションの始まり」と書かれてあり、アスルの礼拝とイシャー’の礼拝に勧められる章はここから第97章みいつ章までということのようです。

第98章明証章のところには
إبتداء قِصار مُفصَّل
「短いセクションの始まり」と書いてあり、ここから最後の章である114章人々章まではマグリブの礼拝に勧められる章ということだそうです。

各礼拝にどんな章を読もうかというときの参考になればと思います。

アッラーのご加護と祝福がありますように
و السلام


敬虔な者である徴

2005-07-25 | 聖クルアーン
بسم الله الرحملن الرحيم

السلام عليكم

葬儀ネタが続きますが、敬虔な者の徴としてその者の葬儀の日は雨もしくは曇天になると言います。
それは不信者が亡くなると

فِمَا بَكَتْ عَلَيْهِمُ السَّمَآءُ وَ الأَرْضُ

ー『かれらのために、天も地も泣かず、』(44:29)
を根拠としています。

アッラーのご加護と祝福がありますように
و السلام

遺体に土をかぶせるときに

2005-07-25 | 聖クルアーン
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم

 墓で故人を埋葬に参列した者たちは全員、土をかぶせる際に最後に片手いっぱいほどの土を三回かぶせます。

これはイブン・マージャによる伝承を根拠としています。
ー「アッラーのみ使い(صلى الله عليه و سلام)は葬儀の礼拝をなさった後、埋葬のために墓地に赴かれ、故人の頭の近くから片手でつかめるほどの土を取ってかけられた」


そして最後の三回に次のアーヤ(聖句)を唱えます。

مِنهَا خَلَقْنَاكُمْ

ー『われは、それ(泥)からあなたがたを創り、』

وَ فِيْهَا نُعِيْدُكُمْ

ー『それにあなたがたを帰らせ、』

وَ مِنْهَا نُخْرِجُكُمْ تَارَةًّ أُخُرَى

ー『またそれから今一度引き出すのである。』
(20:55)

これはアッラーのみ使い(صلى الله عليه و سلام)が彼の娘であるウンム=ル=クルスーム(رضى الله عنها)の埋葬の時に、言われたという伝承を根拠としています。

イマーム・アハマド(ハンバリーの祖)は
「墓で片手いっぱいほどの土をかける際に何かの言葉を特に言うようなことはなく、このハディース自体、根拠が弱いものである」
と言っていますが。

ー「 アターゥ・アル=ホラーサーにによると、子宮に精子が入ると、子宮を受け持つ天使が出かけ、彼が埋葬される場所の土を取って、それを精子の上に降り掛けます。こうして至高なるアッラーは精子と土からお創りになるのです。」(アル=ジャラーラインⅡ 358p)

できればその亡くなった場所でできるだけ速やかに埋葬されるのが望ましいとされています。

アッラーのご加護と祝福がありますように
و السلام

アッラーは我々を試す

2005-04-20 | 聖クルアーン
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم

聖クル’アーンの第二節雌牛章の第155節にはこうあります。

وَ لَنَبْلُوَنَّكُم بِشَيْءٍ مِّنَ الْخَوْفِ وَالْجُوْعِ وَنَقْصٍ مَّنَ الأَمْوَالِ

وَالأنفُسِ وَ الثَّمَرَاتِ

وَ بَشِّرِ الصَّابِرِيْنَ


ー『われは、恐れや飢え、と共に財産や生命、(あなたがたの労苦の)果実の損失で、必ずあなたがたを試みる。だが耐え忍ぶ者には吉報を伝えなさい。』

災難も困難も悲しみも至高なるアッラーからあなたがたへの試みです。私達の子供も財産も、私達のものではありません。アッラーの恩恵によって与えられたものであり、それはアッラーに属するものです。一旦与えれたものが再び取り上げられたとき、人々は「奪われた」という思いに駆られ、不満や悲しみを感じます。しかし、至高なるアッラーのお考えによりお取り上げになっても、それは元々は至高なるアッラーのものであり、至高なるアッラーにはその権利があります。それでもアッラーは慈悲深いお方で、一旦お与えになったものをお取り上げになるときは、その者の罪を浄化なさり、ダラジャート(位階)を上げてくださるのです。

アブー・フライラ(رضى الله عنه)によるとアッラーのみ使い(صلى الله عليه و سلم)は言われました。
ー「ムスリムを襲う疲労、病気、悲嘆、苦痛はては棘の一刺しにいたるまで、アッラーはそれらによって彼の過ちの一部を赦され給う」


自分は至高なるアッラーに帰依した者ゆえ、戦えばいつも勝利、働けば仕事はいつも順調であり、災難など起こり得ない。と思うムスリムもいるかもしれませんが、聖クル’アーンに第二十九章蜘蛛章の第二節で至高なるアッラーはこう仰せになっています。

أَحَسِبَالنَّاسُ أَن يُتْرَكُوْاْ أَن يَقُولُواْ ءَامَنَّا وَهُوَ يُغْتَنُوْنَ


ー『人びとは、「わたしたちは信じます。」と言いさえすれば、試みられることはなく、放って置かれると考えるのか。』

私達の能力には限界があります。2リットルの牛乳を1リットルの瓶に入れると1リットル以上は溢れてしまいます。夜間車の運転をする場合は、ライトが照らすその先よりも遠い地点を我々の視力は捉えることができません。我々が認知できないことを至高なるアッラーはおできになります。我々が知りえないことを至高なるアッラーはご存知です。
災難や困難や悲しいことが起こるのか、その理由は至高なるアッラーがご存知です。我々ができることは、至高なるアッラーを信頼し、災難に耐え忍ぶことだけです。

スハイブ(رضى الله عنه)によるとアッラーのみ使い(صلى الله عليه و سلم)は言われました。
ー「信仰とは、まことに不思議なものである。なぜなら、信仰者の全てに祝福がみられるからである。それらは、実際、信仰者以外にはだれにもみられることではない。たとえば、なにか喜ばしいことがあってアッラーに感謝すれば、そのことで良いことが生じ、また、困難があっても忍耐すれば、そのことで良いことが生じるのである」

アッラーのご加護と祝福がありますように
و السلام

アラブ人でなくても

2005-04-08 | 聖クルアーン
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم

聖クル’アーンの第六十二章の第三節は

وَءَاخَرِيْنَ مِنْهُمْ لَمَّا يَلْحَقُوا بِهِم


ー『そしてかれらの中で未だ来ぬ他の者たちに対しても教えを授けられる。』


ムスリムのハディースにこうあります。

アブー・フライラー(رضى الله عنه)の伝承によると
私たちは合同礼拝章が啓示されたとき、預言者(صللى الله عليه و سلم)の所に居合わせました。そして上記の節を朗誦なさいました。そのときある男が”アッラーの使徒よ。それらの人々は誰のことですか?”と尋ねました。しかし預言者(صللى الله عليه و سلم)は彼がそれを二度あるいは三度繰り返して尋ねるまでは答えませんでした。
 さて私達の中にはペルシャ人のサルマーン(رضى الله عنه)がいましたが預言者(صللى الله عليه و سلم)は自分の手をサルマーン(رضى الله عنه)の上に置いて次のように答えたのです。



لَوْ كَانَ الإيْمْانُ عِنْدَ الثُّريَّا٫

لَنَالَهُ رِجَالٌ مِنْ هَؤُلاَىِ



「たとえ信仰がすばる星にあろうともこれらの人々の仲間(ペルシャ人)はそれを手に入れに行くであろう」

サルマーン(رضى الله عنه)<ペルシャ生まれのサハーバ。ハンダク(塹壕)の戦いの塹壕戦術は彼の発案です>もスハイブ(رضى الله عنه)<モスルの近くで生まれ幼少時にビザンチン側の捕虜となり、かの地で育つ。その後奴隷として売られマッカの地に到る。ギリシャ語に通じ、聖クル’アーン第二章二〇七節は彼の場合を啓示しているのだとされています。>もビラール(رضى الله عنه)<エチオピア系の解放奴隷で美声ゆえに預言者(صللى الله عليه و سلم)のムアッジンととしてよく知られています>もアラブ人ではありません。

アラビア語を解せず、多民族・多言語の中で日々を暮らす他の国々の人に比べ、実生活でイスラームに接する機会が極めて少ない日本の中で生を受けた我々は、生まれつきムスリムとして育ったアラブ人と比べるとイスラームへの距離はすばる星との距離に匹敵するかもしてません。それでも求めに行く者にアッラーは恩恵を与え給うとおっしゃっています。

アッラーのご加護と祝福がありますように
والسلام



第18章洞窟章第46節

2005-03-17 | 聖クルアーン
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم

第18章は聖クル’アーンのちょうど真ん中にあります。第19節のワ=ルヤタラッタフ(慎重に振る舞わせて、話させて)が真ん中に当たります。

第18章は迫害者から逃れ洞窟でアッラーの恩恵により309年もの長きに渡り眠り続けた人々の話が章題になりました。

その第46節です。

الْمَالُ وَالْبَنُونَ زِينَةُالْحَيَوةِالدُّنيَا وَالْبَاقِيَاتُ

الصَّالِحَاتُ خَيْرٌ عِندَ رَبِّكَ ثَوَابًا وَِ خَيْرٌ أَمَلاً

ー『富と子女はこの世の生活の装飾である。だが永遠に残る善行こそは、主の御許では報奨において最も優れ、また希望(の基礎)としても最も優れたものである。』

同様な内容の節はほかにも見られます。

ー『様々な欲望の追求は、人間の目には美しく見える。婦女、息子、莫大な金銀財宝、(血統の正しい)焼印を押した馬、家畜や田畑。これらは、現世の生活の楽しみである。だがアッラーの御側こそは、最高の安息所である。 』(3:14)

ー『あなたがたの富や子女は、一つの試みに過ぎない。アッラー、かれの御許に(だけ)偉大な報奨はある。 』(64:15)

「永遠に残る善行」とは何か。

イブン・アッバース、サイード・ビン・ジュバイルや他のサラーフの解釈では
「善行とは5回の義務の礼拝である。」
(アッタバリー)

アター・ビン・アビーラバーとサイード・ビン・ジュバイリがイブン・アッバースの語ったことを聞いたところでは
「『スブハーナッラー』『アル=ハムドリッラー』『ラー イラーハ イッラッラー』『アッラーフ アクバル』である。」
(アッタバリー)

ウスマーン・ビン・アッファーンが「永遠に残る善行は何かと問われた時に、彼はこう答えた。
「それは『ラー イラーハ イッラッラー』「スブハーナッラー』『アル=ハムドリッラー』『アッラーフ アクバル』『ラー ハウラ ワ ラー クウワタ イッラー ビッラー』である」
(アハマド)

アリー・ビン・アビータルハーがイブン・アッバースの語ったことを聞いたところでは
「これは『ラー イラーハ イッラッラー』『アッラーフ アクバル』『スブハナッラー』『アル=ハムドリッラー』『タバーラカッラー』『ラー ハウラ ワ ラー クウワタ イッラー ビッラー』『アスタグフィルッラー』『サッラッラーフ アラー ラスールッラー』と唱えてアッラーの思い出す集まりや、斎戒、礼拝、巡礼、喜捨(サダカ)、奴隷の解放、ジハード、血縁者と仲良くすること、他の全て善行で、これらの善行は、天と地がある限り、永遠に楽園で残り続けるだろう」
(アッタバリー)

アル=アウィーがイブン・アッバースの語ったことを聞いたところでは
「永遠に残る善行とは良い言葉である」
(アッタバリー)

アブドルラフマーン・ビン・ザイード・アスラムが言うには
「全ての善行である」
(アッタバリー)
イブン・ジャリールもこの見解を採っています。

ムハンマド・タキーウ=ッ=ディーン・アル=ヒラール博士とムハンマド・ムフシン・カーン博士共著のタフスィールでは
「善行」とは
「5回の義務の礼拝、アッラーへの服従行為、善き優しい言葉、讃美と称賛と感謝を込めてアッラーを思いおこすこと。」

アブーフライラ(رضي الله عنه)によるとアッラーの御使い(صلى الله عليه و سلم)は言われました。

「人が死んだとき彼の行為は(次の)三つの事柄を除いてそこで中断される。それらは繰り返し行われるサダカ(例えば、孤児のための家や飲料用の井戸など)と役に立つ知識と彼(両親)ために祈りを捧げる品行方正な子供である。」(サヒーフムスリムⅡ672p)


アブーフライラ(رضي الله عنه)によるとアッラーの御使い(صلى الله عليه و سلم)は言われました。

「『ラー イラーハ イラッラー ワハダフ ラー シャリーカ ラフ、ラフ=ル=ムルク ワ ラフ=ル=ハムド ワ フワ アラー クッリ シャイイン カディール』と百回唱える者は、十人の奴隷を解放したと同じ功徳を与えられ、彼のために百の善行が記録される一方、百の悪行が抹消され、その一日、夜になるまでシャイターンの誘惑から護られる。『ラー イラーハ イッラッラー・・・』と百回以上唱える者のほか、誰もこれ以上の功徳を与えられることは決してないだろう」(サヒーフ アル=ブハーリーⅤ436p)

アブーフライラ(رضي الله عنه)によるとアッラーの御使い(صلى الله عليه و سلم)は言われました。
「舌には軽いが、秤は重く、慈悲深いアッラーに愛される二つの句は『アッラーフ アクバル』と『スブハーナッラー』である」
(サヒーフ アル=ブハーリーⅤ437p)

「善行」のアラビア語「الصالحات」が女性形の複数であるのも、物の複数が女性形であるという考え方と女性そのものの複数とも考えられ、子女の善行のことであるとも解釈できるそうです。
(アッラーフ アアラム)

ある男が審判の日にアッラーから「地獄行き」と宣告されるが、彼の娘が、「父は良い人でした」とアッラーに訴えるのに応えて、アッラーは慈悲を賜われ、男は地獄行きが間逃れたという話もあります。(これはウルドゥー語で書かれていました。ウルドゥー語を解せるシスターが訳してくれました。ジャザーハッラーフ ハイラン)

このことから親は娘を大切に育て、娘から「いいムスリム」であると評価されるよう親は奮闘努力すべきだということではないでしょうか。

感情に任せて、子供を怒っていませんか。(「叱る」ことと「怒る」は違います)
気分によって昨日は「ダメ」今日は「いいよ」と朝令暮改のような指示をしていませんか。
子供は「親が子供に言うこと」は聞かず、「親のすること」を見ています。
子供にとって私たち自身が「ウスワトゥン ハサナ(トゥン)(模範)」になるように日々努力して行きましょう。これは私自身への訓戒でもあります。アスタグフィルッラー


私たちの次世代は「私たちの所有物」ではなく「アッラーからのアマーナ(預かりもの)」です。
次世代はイスラームの将来を左右する私たちが共有する大切なものでもあります。

どうかアッラーが私たちを私たちの家族を正しく導いてくださいますように

アッラーのご加護と祝福がありますように
والسلام


お赦しになるのも三通りある

2005-03-04 | 聖クルアーン
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم

聖クル’アーンの第64章騙し合い章(التغابن)は
第9節の


يَوْمَ يَجْمَعُكُمْ لِيَوْمِ الْجَمْعِ ذَالِكَ يَوْمُ الْتَغَابُنِ


ー『かれがあなたがたを召集なされる集合の日は騙し合いの日である。』

から章題になりました。マディーナ初期の啓示とされています。

その第14節に


وَ إِن تَعفُوا وَتَصْفَوا وَتَغْفِرُوا
ー『だがもしあなたがたがかれらを赦し、大目にみ、かばうならば(それもよい)。』


و
「ワ」は接続詞の「そして」


إِن
「イン」は「もし」
إِن شَاءَ اللهインシャーアッラー(アッラーがお望みならば)とご存知のムスリムの定番表現は、この「イン(もし)」と「シャーア(彼が望む)」と「アッラー」の三語から成っています。
「アッラー」の「ア」はハムザト=ル=ワスルと言って前に語があると発音されません。
つまり「インシャッラー」も「インシャーッラー」も「イン シャー アッラー」も表記としては正しくないということですね。


تَعْفُوا
は「
عَفَا
(消し去る)」の二人称複数のsubjunctive(مَنْصُوب)
アッラーはお赦しになりますが、罪を犯したことさえなかったことにしてくださるのです。

ラマダーンのライラトルカドルに言うドゥアーは


اللَّهُمَّ إِنَّكَ عَفُوٌّ كَرِيْمٌ تُحِبُّ الْعَفْوَ فَاعْفُ عَنَّا
ー「おお、アッラー、あなたはお許しくださる御方です。お許しを好まれる御方です。ですから私達をお許しください。」

と何度も「عَفَا(消し去る)」が出てきます。
「お赦し」の中でも最大に寛大さでお赦しくださるのです。
صُبْحَانَ اللهِスブハーナッラー


تَصْفَحُوا
は「
صَفَحَ
(平らにする、赦す)」の二人称複数のsubjunctive(مَنْصُوب)
罪を犯した事自体は消えないが、アッラーはお赦しになり、アッラーと罪を犯した僕(しもべ)との関係は罪を犯した前となんら変わりません。


تَغْفِرُوا
は「
غَفَرَ
(赦す)」の二人称複数のsubjunctive(مَنْصُوب)
アッラーはお赦しになりますが、犯した罪は消えません。またアッラーとの関係も罪を犯す前とは多少異なると考えられます。

このように「お赦し」もアッラーの望まれるままに三通りあります。

アッラーに赦しを請い、心から罪を悔い改め、二度としないように固く誓って、日々を送っていきたいものです。


فَإِنَّ اللهَ غَفُرٌ رَّحِيْمٌ
ー『本当にアッラーは、度々御赦し下される御方、慈悲深い御方です。』

アッラーのご加護と祝福がありますように
والسلام

第二章雌牛章第61節

2005-02-03 | 聖クルアーン
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم

「コーラン読み読み、キュウリは野菜だ」というブログを見て、私もジャラーライン25p(日本サウディアラビア協会)をチェックしました。「野菜、キュウリ、穀物、レンズ豆やタマネギ」でした。注釈には【『穀物』小麦。「fum(穀物)」は、ニンニク(thum)のことだとも言われる。】と書かれています。
イブン・カースィールのタフスィールでは

[وَإِذْ قُلْتُمْ يَـمُوسَى لَن نَّصْبِرَ عَلَى طَعَامٍ وَحِدٍ فَادْعُ لَنَا رَبَّكَ يُخْرِجْ لَنَا مِمَّا تُنبِتُ الأَرْضُ مِن بَقْلِهَا وَقِثَّآئِهَا وَفُومِهَا وَعَدَسِهَا وَبَصَلِهَا قَالَ أَتَسْتَبْدِلُونَ الَّذِى هُوَ أَدْنَى بِالَّذِى هُوَ خَيْرٌ اهْبِطُواْ مِصْرًا فَإِنَّ لَكُم مَّا سَأَلْتُمْ]


61. And (remember) when you said, "O Musa ! We cannot endure one kind of food. So invoke your Lord for us to bring forth for us of what the earth grows, its herbs, its cucumber its Fum, its lentils and its onions.'' He said, "Would you exchange that which is better for that which is lower Go you down to any town and you shall find what you want!'')
「ハーブと胡瓜、ファム(Fum)とレンズ豆と玉ねぎ」になっていて、
「ファム(Fum)」は「Thum(大蒜)」とイブン・マス’ウードは読誦し、ハディース学者によるとイブン・アッバース(رضى الله عنه)も「大蒜」であると言ったそうです。しかし、アル=ブハーリーは「穀物または食べられる種」と解釈しています。
アッラーフ アアラム
アッラーのご加護と祝福がありますように
و السلام

合同礼拝章(アル=ジュム’ア)第8節

2005-01-16 | 聖クルアーン
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم


قُل إِنَّ الْمَوْتَ الَّذِى تَفِرُّوْنَ مِنْهُ،فَإِنَّهُ مُلاَقِيْكُم

ー言ってやるがいい。「あなたがたが逃れようとする死は、必ずあなたがたを襲うのである」

قُل
「言ってやれ」は
「قال(言う)」の命令形

إِنَّ الْمَوْتَ
「本当に死は」
インナの後の名詞文の主語は語尾がファトハ(「ア」と発音)になります。

الَّذِى
は「関係代名詞」のようなもので、先行詞は男性形単数の「الْمَوْتَ

تَفِرُّوْنَ
語根は「فَرَّ(逃げる)」の二人称男性複数未完了形

مِنْهُ
前置詞の「من(~から)」に三人称男性単数の非分離形代名詞「ه」がくっついたもので意味は「それから(逃げる)」「それ」とは「死」のことです。

فَإِنَّهُ
「ف」は接続詞
「إِنَّهُ(本当にそれは)」

مُلاَقِيْكُم
語根は「لَقِىَ(出会う)」の派生語に二人称複数非分離の代名詞がくっついたもの

「死」は誰にでも訪れます。あなたがたは、迫ってくるものから逃れようとしますが、それはあなたがたの後ろからやってくるものではなく、あなたがたが向かい合うものなのです。
「信仰」がなかったら、その「出会い」は、なんという恐怖でしょう。

婦人章第78節にも

ー「あなたがたが何所にいても、仮令堅固な高楼にいても、死は必ずやって来る。」

とあります。

ثُمَّ تُرَّدُوْنَ إِلَى عَالِم الْغَيبِ والشَّهَادَةِِِِ فَيُنَبِّئُكُم نِمَاكُنْتُمْ تَعْمَلُوْنَ

ー「それから幽玄界と現象界を知っておられる御方に送り返され、かれはあなたがたに自分の所業を告げ知らせる。」 (62-8)

ثُمَّ
「次いで、それから、その上」

تُرَّدُوْنَ
語根は「رَدَّ(返す)」の二人称複数受動形未完了形で、「あなたがたは返される(だろう)」


إِلَى
「~へ」は前置詞です。

عَالِم الْغَيبِ
「عَالِم(知っている御方)」はアッラーの99の美名のひとつであり、語根「عَلِمَ(知る)」の能動分詞。前置詞の後ろなので語尾の母音がカスラ(「イ」と発音)」です。

「الْغَيْب(隠された・・・つまり幽玄界・・見えないもの)」人間にとって見えないもの、すなわち未来。アッラーは未来もご存知の御方である。مُضَافُ إِلَيْهなので、語尾はカスラです。

والشَّهَادَةِِِِ
「و(そして)」
「الشَّهَادَةِ(現象界)」語根は「شَهِدَ(その場に居合わせる。目撃する)」つまり現在のことでもあり、アッラーは現在のことを誰よりもご存知の御方です。

فَيُنَبِّئُكُم
「ف」は接続詞ですが、間髪おかずに続く感があります。
「يُنَبَّئُكُم(彼はあなたがたに告げるであろう」
動詞は第Ⅱ形の「نَبَّأَ(知らせる)」の三人称男性単数未完了形に非分離形の二人称複数の代名詞がくっついたもの

نِمَا
「ب」は前置詞で「~について(知らせる)」
「ما」は英語の「what」に相当し「(あなたがたがした)こと」

كُنْتُمْ
「كَانَ(~である)」の二人称複数完了形。

تَعْمَلُوْنَ
語根が「عَمِلَ(実行する、為す)」の二人称男性複数の未完了形

「あなたがたが為したことについて彼はあなたがたに告げるあろう」とあなたがたの過去の善行悪行全てをアッラーはご存知です。

ここで至高なるアッラーが「未来」「現在」「過去」全てをご存知なことが明らかになります。


アッラーのご加護と祝福がありますように
و السلام

将来のことであるが、完了している

2004-12-26 | 聖クルアーン
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم

وَ إِن مِّنكُمْ إِلاَّ وَارِدُهَا٫كَانَ عَلَى رَبِّكَ حَتْمًا مُّقْضِيٍّا

ー『そしてあなたがたの中一人もそれを通り越せない。これはあなたがたの主が、成し遂げられる御神命である。』(19:71)

وَ
は接続語

إِن
は後ろの إِلاとセットで「ما إِلاَّ」(~以外は~じゃない)と同じ使い方。

مِنكُم
は前置詞の「من」と二人称複数人称代名詞「كم」がくっつたもので、意味は「あなたがたの中で」

وِارِدُهَا
は「وَرَدَ到着する」の派生語で「到着する」に三称女性単数人称代名詞「هَا」がくっついたもの。これは「نَار(業火)」のことを指すと思われる。

كَانَ
は英語のbeに相当する動詞の完了形である。
「審判の日」は未来に起こることであるが、時間軸に縛られない至高なるアッラーには、未来の事であろうと「お定め」になったことは、確実に起こる事であり、完結したものである。将来のことであろうと、完了形を使用できる所以である。

عْلَى
は前置詞「~における、~上」

رَتِّكَ
「あなたの主」、前置詞の後ろなので、「رَبِّ」と語尾が「イ」の発音になるカスラ表示になっています。それに二人称男性単数人称代名詞「ك」がくっついています。

حَتْمًا
「حَتَمَ(命ずる)」の名詞「命令」

مُقْضِيًّا
「قَضَى(実行する)」の派生語


ー「剣の刃先のような形状の橋が地獄を跨いでかかっており、最初のグループは稲妻か雷鳴のような速さで渡り、次のグループは風のような速さで渡る。3番目のグループは、野をかける馬のように、4番めのグループは、草原の牛のような速さで渡るであろう。残りの者たちが渡る間、天使達はこう言うだろう。『「おお、アッラーよ、彼らをお救いください』」
(ア=ッ=タバリー)

ー「彼ら(ムスリムたち)は、地獄を跨いでかけられた橋のところへ連れて行かれ、『この橋は何ですか』と尋ねると、アッラーのみ使いصلى الله عليه و سلمは答えるであろう。『これはつるつるの足場の悪いところで、しかもそこは鉤や、ナジドにあるサァダーンという木のような刺があり、信仰者はその上を、瞬きや、稲妻や、風や駿馬や、純血駱駝のようなすばやく渡り、或る者は無事に渡るが、他の者は鉤によって引掻かれて地獄に落ち、最後の者は引きずり廻される。そしてこの日の信仰者ほどアッラーに対して強く権利を求める者はない。彼らが、自分たちの兄弟の或る者が助かったのに対して、他の者が地獄に留まっているものを見て、『主よ、あの兄弟達も我々と一緒に礼拝し、断食し、善行を行いました』と言うと、至高なるアッラーは『では、行って、1ディナールほどの重さの信仰を心の中に持つ者は、地獄から出してやりなさい』とお応えになり、こうしてアッラーは彼らの身体を地獄の日から護り給う。そこで信仰者達は地獄へ行ってみると、或る兄弟が膝まで、またある者は股まで火の中に沈んでいるのを見るので、彼らを地獄から引き出す。それから信仰者たちが戻ると、アッラーは『行って、半ディナールほどの重さの信仰を持つ者も、地獄から出してやりなさい』とお命じになり、彼らは兄弟達を地獄から引き出す。それからまた彼らが戻ると、アッラーは『行って、蟻一匹ほどの重さの信仰を持つ者も、地獄から出してやりなさい』と命じ、彼らはそのようにする。」
(アル=ブハーリー)

ー「ザイド・ビン・ハーリサの妻であるウンム・ムバシュシャによれば、アッラーのみ使いصلى الله عليه و سلمがハフサの家で『バドルの戦い、フダイビヤの戦いに参加したものは誰も地獄に入らない』と言われたので、ハフサが【そしてあなたがたの中一人もそれを通り越せない。】と至高なるアッラーはおっしゃっていませんでしたか』と尋ねると、『しかしわれは主を畏れる敬虔な者を救う』答えとして次の句をお誦みになりました。」
(アフマド)

ー「アブドッラー・ビン・マス’ウードによると、アッラーのみ使いصلى الله عليه و سلم
は言われた。『人々は業火に投げ出され、そこから自分の行いによって通り抜ける。最初の者たちは稲妻の閃光のように、ついで風のように、ついで馬の疾走のような、ついで急ぐ騎乗者のように、ついで歩く際の速足のようにである。』信仰者たちには罰がないとしたら、彼らが、業火に入る益は何かと問うなら、私は次のように言う。その益はいくつもある。まず、彼らがそこから救い出されることを知った時にそれは彼らを一層喜ばせることになるからである。また、業火の住人は信仰者たちが、そこから救い出され、自分たちがそこに残るのを見て、それが彼らに後悔を募らせるからである。また信仰者達は、不信仰に加えられる懲罰を目撃し、それが楽園の至福の甘美さを彼らに一層増し加えるからである。
(ジャラーラインのクルアーン注釈第二巻342p)

اللَّهُمَّ إِنِّى أَحْمَدُكَ حَمْدًا كِثِيْرًا طَيِّنًا مُنَارَكً فِيهِ
كَمَا يَنْبَغِي لِجَلاَلِ وَجْهِكَ وَ عِظِيْمِ سُلْطَانِكَ

アッラーフンマ インニー アフマドゥカ ハムダン カスィーラン タイイバン ムバーラカ フィーヒ 
カマー ヤンバギー リ=ジャラーリ ワジュヒカ ワ ’アズィーミ スルターニカ
(おお、アッラー、誠に私は、あなたの威厳に満ちた御顔と偉大なる権能に相応しいだけのたくさん称賛と善きことと祝福であなたを称えます。)

アッラーのご加護と祝福がありますように
و السلام

試練

2004-12-11 | 聖クルアーン
يسم الله الرحمان الرحيم



كُلُّ نَفْسٍ ذَآئِقَةُ الْمَوْتِ،وَ نَبْلُوكُمْ بِالشَّرِّ وَالْخَيْرِ فِتْنَةً
ー『人はすべて死を味わう。われは試練のために、凶事と吉事であなたがたを試みる。』
(21:35)

この聖句には「試練」に相当する言葉がふたつ出てきます。ひとつは「我はあなた方を試みる」の「نَبْلُوكُم」(ナブルークム)で、これの三語根は「بَلاَ」(バラー)で、名詞は「بَلاَء」(バラ・)と語尾にハムザがつきます。第Ⅷ型の「اِبْتَلَى」(イブタラー)やその名詞「اِبْتِلاَء」(イブティラ・)もムスリムの間でよく出てくる語句です。
これはアッラーを信じる者たちにアッラーが試練(主に凶事)を与えてお試しになる時に使われます。
そして信仰者たちがその「試し」に耐える「صبر」をアッラーはお好みになります。それによってよりアッラーにお縋りし、アッラーを思うことでよりアッラーに近づけるのです。

إنَّ اللهَ مَعَ الصَّابِرِيْنَ
ー『本当にアッラーは耐え忍ぶ者と共におられる。』(2:153)

وَ اللهُ يُحِبُّ الصَّابِرِيْنَ
ー『誠にアッラーは耐え忍ぶものを愛でられる。』(3:146)

そしてもうひとつの「試練(誘惑)」は「فِتْنَة」(フィトナ)です。
この「お試し」は一般的に「不信仰者」や「不義をなす者」などへアッラーがお試しになる試練です。前述が主に「凶事」であるのに対し、こちらは傍から見ると「吉事」のように見えます。
例えば、預言者مُوسَىムーサーعَلَيْهِ السَّلاَمُ(日本ではモーゼと呼ばれています)の民の一人であるقَارُون(カールーン)にアッラーは夥しい富をお与えになりました。

ー『さてカールーンは、ムーサーの民の一人であったが、かれらに対し横柄な態度をとるようになった。われは(夥しい)財宝をかれに与えたが、その(宝庫の)鍵は、数人の力の強い男たちにとっても重かった。皆の者は、かれに言った。「有頂天になってはなりません。本当にアッラーは思い上がっている者を御好みになられません。 』(28:76)

これはアッラーの「誘惑فِتْنَة」(フィトナ)」です。

アッラーは不信仰者や不義をなす者や今だアッラーのお導きがない者に、現世での栄華や富や力や美をお与えになり、その与えられたものを彼らがいかように扱うかをご覧になっています。
そしてそういったアッラーから与えられた物を使って、信仰者たちを迫害・虐待する場合もあります。

世界でも屈指の強大な軍事力を持つ国が中東の覇権を強固にするために、ムスリムやムスリムが多く住む国に対し執拗な攻撃を仕掛けてきます。これもアッラーが彼らに与えた試練「فِتْنَة(フィトナ)」です。
ムスリムはそういった場合、以下のドゥ’アーでアッラーにお縋りし、アッラーの慈悲を援助を求めます。

ー『わたしたちはアッラーを信頼します。主よ、わたしたちを、不義の民のための一試練となされず、あなたの御慈悲をもってわたしたちを不信心の民から救い出して下さい。」 』
(10:85&86)

ー『主よ、わたしたちを不信心者の試練に陥し入れないで下さい。主よ、わたしたちを御赦し下さい。本当にあなたは、偉力ならびなく英明であられます。」 』(60:5)

日本語では同じ「試練」でもムスリムが個人的な凶事に見舞われた時は「بَلاَء(バラ・)」もしくは「اِبْتِلاَء(イブティラ・)」が妥当かと思います。

اللهُ اَعلَم

アッラーのご加護と祝福がありますように
وَ السَلاَمُ