満月通信

「満月(バドル)」とは「美しくて目立つこと」心(カリブ)も美しくなるような交流の場になるといいですね。

ファーティマ・ザハラー(ラディヤッラーフ アンハー)⑤

2007-06-23 | 預言者の娘たち
بسم الله الرحمان الرحيم

السلام عليكم

ファーティマの年齢は結婚当時十八歳であった。
ラーマンスは理性を欠いた好奇心から彼女は実際はもっと年長であったと考える。
「ただ彼女が望まれずに婚期を逃がしたと言わぬために、使徒伝の著作者たちが誕生の日付けを遅らせたのである」など言う。

では彼に尋ねてみよう。なぜ使徒伝の著作者たちは同じょうなことをハディージャやアーイシャにやらなかったのだろう? ハディージャの年を少し若くし、アーイシャには十歳、いや二十歳ほど加えたら、夫・預言者と年齢の釣り合いがとれたであろうに? 我々がラーマンスにこの質問をしても、恐らく答えは得られないだろう。

恐らくラーマンスはファーティマの誕生について書かれた様々な異なった記録に左右されて、自分の一番好奇心の納得するものを採り入れたのだろう。
異なった記録を比較検討したり、理論的に分析することなく、ファーティマの誕生をヒジュラ前八年とするマスウーディーの説を採り上げた。その一方でヤコービーに拠る、彼女は啓典の下された後に生まれたとある説に目を向けた。
ラーマンスはこの件について、信用度の高い説-例えばイブン・イスハークやイブン・サアド、アッタバリー、イブン・アブドルバッリなどが彼女の誕生はほぼ創教の五年前と言っている-を無視している。

数字の違いは先にも述べたょうに、それ程目角を立てるょうなことではない。
伝承による歴史学には一般にこのような相違はよくあることだ。
記録のない時代のロ述による伝承は写本の際にこれらの相違がどうしても含まれてしまう。
特に生年月日については、伝記を綴る際、当然その人の成長後に顕著となった偉業に対して初めて注目が集まって成されることであるから。
このような一般的現象とみなされる相違点をこの東洋学者はそんな一部分として採り上げるのではなく、それを採り上がて悪意に満ちた説明にあてがう。

ラーマンスに異なった史料を比較・参照する際に必要な分析方法の知識がないとは思わない。
しかし彼はファーティマの誕生に関しては創教前五年とある史料には全く目を向けようとしなかった。
しかも一般論としても預言者の娘たちは全員が創教前に生まれたと言われているのに、ラーマンスはこの説を無視したばかりでなく、ハディースを伝えたイマームたちの意見、歴史家や教友たち、その道の権威者たちの意見にも耳をかさずに、ひたすらマスウーディーの見解を採り上げようとし、使徒伝の著作者たちは婚期を逃したといわせぬためにファーティマの誕生を遅らせていると述べ、それぞれの意見を退けょうと、ヤアコーピーの創教後誕生説まで待ち出してマスウーディーのそれさえも打ちこわしているではないか。

一部の東洋学者たちはこのように史料を偏見と独断で引用し、ファーティマの結婚年齢を遅らせているが、イブン・イスハークの説にしても十八歳という年齢は三人の姉たちが結婚した年齢と比べればとても遅いし、信徒の母アーイシャ・ビント・アブーバクルの年齢に比べればとてつもなく遅い。
しかし本当のところ、この遅い結婚は彼女が望まれなかったのではなく、彼女は尊い預言者の娘であったからなのだ。彼女はザイナブ、ルカイヤ、ウンムクルスームの妹である。
まだ若い頃がらクライシュの青年たちが嫁にと所望していた姉たちの妹である。
しかも彼女は性格も振舞いも一番父親似の娘であった。
その父はというと、堂々とした体格、立派な容姿の人物なのである。
人びとはファーティマの晩婚の理由が父・預言者への執着であることを知っていた。
ムハンマド家での彼女の立場を知っていた。
ハディージャ亡き後、『父親のお母さん』が父の心の支えとなっていることを思いやった。

これでも十分でないというのなら、ではこう述べよう。
彼女が晩婚だったのは人びとの彼女への畏敬の心からであると。
父は神の使徒として遣わされた者、彼女はそのたった一人残った大切な末娘。
彼女が五歳のとき人びとは二派に分かれた。「ムハンマドの娘なんてとんでもない」という異教徒の人びと。
すでにクライシュがムハンマドと縁組みした三人のもとに押し寄せ、娘たちを離婚させてムハンマドを困らせようとしたことを知っている。
一方で信者たちはムハンマドに忠実に従い、その啓典を信じた。
彼らの預言者に対する気持は尊敬以上のもので身命をも献げ尽す覚悟でいたから、ムハンマド家との縁組みなど考えるのも畏れ多いことであった。
『父親のお母さん』ファーティマを敬い、自分の結媛相手に望むことなどなかったのは少しも無理のない話である。

オスマーンがルカイヤを望んだことでこれに反諭しないで欲しい。
預言者の教友の中でも、またクライシュ全体を見回しても、オスマーンほどに財力にも名声にも恵まれた男はそうはいない。また彼が預言者の娘との結婚を望んだのもアブーラハブの息子から離婚された後のことであって、ファーティマの場合とは事情が異なっている。

我々は今日だって良家の冷たもがその相応しい相手が数少ない故、自然と晩婚になるのを見聞きしているではないか。彼女が知的にも財力にも優れば優れるほど相応しい相手が少なくなってしまうのが一般的なきまりである。

畏れとためらいを感じながらもファーティマとの結婚を申し込んだ者はアリーが最初だったわけではなかった。
その栄誉を授かりたいと、以前に教友のアブバクルとオマルが申し出たことがあった。
この話は「アンサーブ・アルアシュラーフ」や「タバカート」、アンナサーイーの「スンナ集」に載っており、このとき父は丁重に断ったとある。

それなのにラーマンスはファーティマが晩婚であったのは彼女が容貌に劣り、明朗さ賢さに欠けていた故としている!

ファーティマの夫の家は豪華でも豊かでもなかった。
むしろ質素で貧しい暮らしといえた。
彼女はこの点でも姉たちが皆経済的に恵まれた生活を送ったのとは違っていた。
ザイナブはマッカの数少ない資産家の商人アプールアースと結婚した。
ルカイヤとウンムクルスームも最初は金持ちのアーブラハブの息子たちと、その後ひとりひとり大資産家でかつ名門のオスマーン・イブン・アッファーンに嫁いだ。

しかしアリーは経済的には自分で稼いだ資金も遺産として譲り受けた財産もなかった。
父親は尊敬を受ける立場にあったけれど、子供が多く生活は苦しかった。
ムハンマドが叔父アッハースに、それぞれ息子をひとりずつ養育してアブーターリブの苦労を軽くしようと申し出たほどであった。そしてその子供たちの中からアリーがムハンマドに選ばれた。

ムハンマドが使徒として遣わされると少年アリーはすぐに信者となった。
イブン・イスハークに拠ると十歳であったという。
以後アリーは十歳の年からずっと、生活の資金を稼ぐかわりに聖戦に加わった。
預言者の教友たちが邪教徒との戦いに向かう彼の出費をまかなった。
作物の育たないワージー(澗谷)での生業として当時のマッカ市民が主に携わっていた商業に精を出すこともなかったから、ファーティマとの婚約を申し込んだ際も、勇敢に活躍したパドルの戦利品の楯以外にマハル(結納金)として与えるものは何も彼の手もとにはなかったのだ。

父がアリーの申し出を伝えたとき、ファーティマにはその点もよく分かっていた。
アルビラーズリーの話が仮に本当で、ファーティマが彼の貧しさに不満をこぼしたとしても、恐らく父・預言者がこう諭したであろう。
「彼はこの世のムスリムのりーダーとなる人物、天国に迎えられる正しい人物だ。
賢者であり、イスラームの最良の教友だ・・・」

この話が本当であったとしても、このような場合によくある話の一つにすぎないと思う。
しかしラーマンスは、これに目をつぶって済ますことが出来なかった。アリーの評価を低めようと必死になった。
貧しさは預言者自身が貧しい孤児であった故、アリーにも少しも失点とならないと考えると、別の欠点を捜し始めた。
そしてアリーは容姿の点で劣ると言い出した。
ラーマンスがよくよく考え直してみれば、どうしてそのような見方が正しいものかと気づいたであろうに・・・。
ファーティマについて述べたときも彼女が重要視されたのはずっと後のこと、シーア派の人びとが脚色した結果だと言ったが、これと同じように、それならファーティマだけでなく、アリーの話だって同じ原典から採っているのではないか!

私が言いたいのは、よくよく考えてみればラーマンスも次の点に気がついたであろうということ、すなわち、なぜラーマンスの言うようにイスラーム史家たちはイマーム・アリーについても、その理想像を創り出すため、容姿の美しさや経済力を補足して書き加えたりしなかったのかということだ。
ただ彼らはアリーについて『カッラマッラーフ・ワジュハフ(神は、その顔を尊く守られた)』と唱え、『貧しく、背が低く、低い鼻、細い腕』と言っているのであって、そこには少しも彼を低める気持はなく、平均的男性像と比較して形容しただけの詣である。卑しめる気持も、英雄としての力量に相応しく飾りたてるつもりも毛頭ない。

さて十八歳で新しい人生を迎えようとしているファーティマの話に戻ろう。
彼女の迎えた生活が、かなり倹しく厳しいものであったことをムスリム史家たちは誰も否定しようとはしない。
花嫁道具は美しい家具に柔らかな寝具などと言いはしない。
彼女は板のようなべッドにリーフ(ヤシの木の繊維)の詰まったクッション、そして粉挽き臼と水飲み用の食器、少しばかりの香を持参して新居に移ってきたと書いている。

夫は貧しく、妻のために家事の重労働を助け、引き受ける下女を雇ってやることが出来なかった。
彼女はひとりでこの重労働をこなさればならなかった。
アリーには彼女がこのように働き続けるのを見ているのが辛かった。出来るかぎり手助けした。
五歳の年を迎えて以来、彼女の辛く厳しかった生活-囲いの日々、ヒジュラの苦労と努力-その後までも、彼女に残った体力をこの厳しい家事労働が奪っていくのではないかと気掛かりであった。

辛抱を続けていたふたりに好い機会が訪れた。父・預言者がある合戦から凱旋して、戦利品の家畜や捕虜を連れて戻ったという。そこでアリーは妻に言った。

「ファーティマ、あなたが訴える不満は私を悲しくさせる。神が好い機会を下さった。行って、あなたのために一人求めて来たらよい」

粉挽き臼を横において、疲れ切ったファーティマは言った。「そうしますわ」

しばらく、歩く元気が出るまで中庭で休んでから、彼女はスカーフを巻くと疲れた足を引きずって父の家に向かった。
娘を見た預言者は和やかな表情を見せて訊いた。
「娘よ、どうかしたのか?」
「いえ、ご挨拶に来たのです」と彼女は答えた。何のために来たのか、とても言い出す勇気が湧かなかったのだ。

もと来た道を彼女は戻った。父に何か物を頼むのは心苦しいと夫に告げた。

そこでアリーは彼女を連れて預言者の家に行き、気がひけてうな垂れている彼女に代わってお願いをした。

預言者は答えた。
「いや、それは出来ない。ひもじい思いをしているもっと貧しい人びとをほっておいて、あなた方のために捕虜をあげることは出来ないのだ。捕虜を売り、その金額を貧しい人びとのために使いたい・・・」

ふたりは礼を述べて帰った。ふたりの訴えた不満が優しい父の心に触れて、終日それを気に掛けていたことなど二人には分からなかった。

夜更けて、寒さが非常にこたえた。二人は固い床に入って眠ろうとしても、あまりの寒さに眠れずにいた。
すると戸か開いて二人の部屋に使徒が入ってきた。
二人は掛け蒲団に縮まっていて、頭を隠せば足が出て、足を被えば頭が出てしまう。
二人は起き上がって大切な客人を迎えようとしたが、「そのままで」と使徒が制した。

そして二人の生活の厳しい状況を察して同情し、優しく語った。

「あなた方に良い答えを見つけなよ。教えようか?」
「はい」と二人は答えた。
「ジブリール(天使)が私に教えてくれた言葉だ。スブハーナッラー(神に讃えあれ)を祈りの最後に十回、アルハムドリッラー(神に感謝します)を三十三回、アッラーフ・アクバル(神は偉大なり)を三十三回、そしてベッドに入る前にはスブハーナッラーを三十三回、アルハムドリッラーを三十三回、アッラーフ・アクバルを三十三回唱えるのがよい」

苦難を乗り切るための精神的支えとして、このような個人的なアドバイスを二人に与えて帰っていった。

三分の一世紀を経た後でも、イマーム・アリーは使徒のこの言葉を忘れずに守っていた。
「教えてもらってから、いつも欠かさずやっていた」と言った。教友のひとりが訊いた。
「スィフィーナ(ユーフラティス河畔の地名、戦場となった)で過ごした晩もですか」

アリーははっきりと答えた。「そうだ。スィフィーナの夜もそうした」

この厳しい暮らしがファーティマの健康に差し障ったのは当然であった。
彼女は幼少の頃から、ずっと戦いの真只中を生きてきた。
遊び興じた日々もなく、それに重なった母の死の深い悲しみは彼女の心に暗い影をおとした。
彼女は父・預言者のそばに身を置いて絶えず気を配り、近くにいても遠くにいても父を想い案じた。
心は戦いに出る父のあとを追いかけた。
父に従って遠征に出たときは彼女自身も戦場で働いた。ウフドの活躍で知られるように負傷者の手当をひき受け、瀕死の戦士たちに水を含ませて彼女は走り回った。

このような過去の境遇が、彼女の性格形成に強く影響したこともあったのだろう。
気楽に生きて、明るく楽しんで生活を送る気待にはなれなかったようだ。
恐らくファーティマも父・預言者の家の夫人たちのように振舞おうとしたことだろう。

彼女は信徒の母アーイシャ夫人が、意欲的に明るい家庭を築き、家に戻る英雄を朗かな微笑と心はずむ楽しい会話で迎え入れるのを見ている。

恐らく彼女もそのように心がけようとしたことだろう。
家庭から陰りを追い払い、潤いのある楽しい結婚生活を築き上げようと努力したことだろう。
しかし、父や夫の身を案じるあまり、また自分が、家族が、そしてムスリムたちが受けた忘れがたい苦しみの跡を拭い去ろうとするとき、それ故に家庭におとしてしまう陰りでもあった。
彼女にはそばに彼女を優しく包み込んでくれる温かく、陽気でおおらかな夫が必要であった。
しかしアリーはこのタイプの夫ではなかった。
鋭く、厳格で、頑画といえるほど堅物であり、むしろ粗野で荒けずりな面のある男であった。
ファーティマが心の傷跡を癒すのに柔かな大きな手を必要としたように、アリーだって同じように少年時代からの辛かった日々を忘れさせてくれる優しい肌かな手が欲しかった。深い安らぎが欲しかった。

だから時おり、二人の間に生じる諍の話を聞いても、さ程驚きはしない。
二人の諍はしばしば父・預言者の耳に届き、預言者も気にかけて二人にもう少し辛抱をと論すこともあった。

人びとの話では、ある晩預言者は娘フアーティマの家に出かけたが気が重く心配そうな様子であった。
だがそこで時間を過ごした後出て来たときには、とても明るく爽やかな表情であった。そこで教友のひとりが訊いた。
「神の使徒よ、入るときは沈んでおられたのに、出て来たときのお顔はとても嬉しそうですね!」

預言者は答えた。
「そう、私の一番愛する二人の間を仲直りさせたのだから、とても嬉しいよ」

またあるとき夫の頑固さに苛立ってファーティマ、が言った。
「本当に、使徒様に言いつけるわ」

そして外に飛び出した。アリーは彼女の後を追いかけた。
父の家に来ると、彼女は夫の気に入らぬ点をあげて不平を述べた。
父は優しくなだめてから言い含め、アリーのことを受け入れさせた。

アリーは妻を連れて家路に向かいながら言った。
「あなたの嫌がることはしないよ、絶対に!」

しかし故意ではなかったにしてもファーティマが本当に嫌がることが起きようとした。

ファーティマにとって、夫が、従兄が、もうひとり別の夫人を迎えることほど耐えがたいことかあろうか・・・。

アリーにとってファーティマとの結婚は特別に大切であったものの、シャリーヤ(聖法)で許された範囲の行動ならば問題はないと考えた。
預言者の娘に対しても他のムスリマたちと同じようにシャリーヤが定める多妻制が認められると思った。
恐らく彼はファーティマも多妻をさ程気に留めないであろうと思ったのだろう。
同じようにアーイシャ・ビント・アブーバクルも、ハフサ・ビンド・オマルも、ウンムサラマ・ビント・ザートッラフキブも多妻を受け入れている。
それに、あるとき物を盗んだマフズミーの女が預言者が目をかけているザイド・イブン・パーリサの子ウサーマに頼んで助けてもらおうとしたことがあったが、そのとき預言者は「神が許された範囲での許しだろうか?」と問いかけて、人びとにこう言ったのだ。
「以前の人びとの考えは消滅したのだ。彼らは良き家柄の人々を治し、弱い立場の人々に罰を与えた。神の定めに従って、たとえムハンマドの娘ファーティマが盗んだとしても、同じくその手を切る!」と。

しかし事はアリーの思ったようには進まなかった。
アムル・イブン・ヒシャームの娘との婚約をファーティマに告げると、彼女は激怒し、父もまた娘を想って憤った。
彼の立場は難しいものとなった。

預言者はアリーのその結婚が正統なものであると知っている。
たとえムハンマドの娘ファーティマに対してであっても。
しかしムハンマドの胸中は父親としての情愛から、最愛の娘が多妻に怯えている姿に苦悶した。
娘の受ける苦しい試練に同情した。彼女がこの試練に耐えられないのを知っていた。
できることならアリーよ、一人の妻で辛抱して欲しい。
ちようどその従兄(預言者ムハンマド)がハディージャを失うまで四分の一世紀もの間そうであったように!
そうすれば父親・預言者の立場は楽になる・・・。

大切な娘が悲しみと不安にくれて弱り切っている。怯えながら試練を迎えようとしている。
父はどのようにしてでも、この苦しみを取り除いてやりたいと思ったことだろう。
まぶたを腫らし、不安に眠れぬ日々を送る娘を見て、ぜひ救ってやりたいと思ったことだろう。
しかし預言者が神の許されたことを禁じたり出来るのか?


إن شاء الله

続きます

アッラーのご加護と祝福がありますように

و السلام

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