Mooの雑記帳

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6月17日(月) 戦前の意識との連続性

2024-06-17 23:05:06 | 日記

何度も書いてきたことだが、戦争とは人を殺すことである。しかも大量に。
そして、とくに日本では、戦争が起こるのは「本土」から遠く離れた地であり、しかも戦闘を実行するのは自分ではないと思っている。自衛隊員、米軍が戦争の当事者となり、我々を守ってくれる、と。北アルプスの山塊に守られ、自衛隊の駐屯地はあっても基地のない、また米軍の基地も近くにはない長野県北安曇郡では、戦争を想像することはおよそ不可能だ。
しかし、沖縄であれ安曇野であれ、一旦何か不足の事態が生じて自らに不都合が生じた場合には、誰かの責任にするに違いない。戦争を準備してきたのは自分とは関わりのない誰かだし、それに承認を与えた覚えはない、と。

今からわずか80年前、アジア・太平洋戦争末期、この戦争が侵略戦争であり覇権と資源獲得を最大の動機としてアジア支配をもくろむ帝国主義戦争であったことを喝破し反対していたのは、極々わずかな人々であり、しかも大半は牢獄に閉じ込められていた。
だから、敗戦によってアメリカの支配下に入っても、この戦争がどのような性格であり、なぜ日本が負けたのかを正確に理解し、新しい世の中を再建する道筋を理解する人々もまたごく少数であった。
その負の遺産は、遺産としてではなく「生きた意識」として、いまなお拡大再生産され続けている。

徹底した皇民化教育が貫かれた沖縄では、伝統的な地域共同体の中で、保守的な意識は戦後も根強く生き続け、農村部や離島などでは、「本土」では想像もできないほどの保守的な意識が根付いている。沖縄の住民でも那覇や中部の基地周辺の自治体の人々ですら、他の自治体の実情や意識との乖離に戸惑うことが多いのではないだろうか。

本土であれ沖縄であれ、あの戦争の性格=日本の絶対主義的な天皇制と結びついた帝国主義的な侵略戦争=を、自分たちの抵抗闘争の中で打ち破った経験を持っておらず、むしろ、その意識のまま戦後を形作ってきたことに、今日の矛盾の根源がある。私はそう思っている。

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大企業を中心とした企業別労組の集合体である「連合」が、反共主義と労使一体化をいっそう強めて小池知事を支持すると打ち出しているのも、別に不思議でも何でもない。連合が形成される際に、大企業の経営者が労組を子飼いの組織とするためにインフォーマル組織をつくり、闘う労組を切り崩してきたか、労働組合運動の歴史をひもとけば明らかだ。労使協調どころか労使一体化の極みだが、個別の労組から不満や批判が表にでてくることはまずない。

ここにも、歴史認識の欠如、世界の労働組合運動の歴史や、そもそも労働組合とは何なのかについての無知が見て取れる。労組ならば、最低でも資本から独立し、賃上げを勝ち取るために必要な要求を掲げてストも辞さない構えでたたかうものだ。ナショナルセンターも企業別ではなく産別に組織すべきであり、活動の原則は「資本からの独立、政党からの独立、一致する要求でのたたかい」であることは、労働組合の歴史を学ぶならば常識だ。が、連合はこのどれも当てはまらない。そんなことを連想参加の若い組合員は聞いたこともないだろう。

沖縄の県議選の結果を見ながら暗澹たる気持ちになるけれど、考えてみれば沖縄県は翁長知事の前は自民党県政だったのだから、痛い目にあうことになれば意識がどう変わるか分からない。まだ漠然とした戦争の不安はあっても、米軍や自衛隊の存在が自分たちの保険だと考えれば、地上戦のあった80年近く前のような自分の命にかかわる事態だとは思われないのも無理はない。要するに、戦争もまた依然として他人事なのだ。

同時に、現在は80年前とは比較にならないほどの批判勢力が存在しており、態勢として自公維勢力が凌駕しているように見えるけれど、永久に続くわけではない。どうすれば歴史を前に進ませることが出来るか考え続け、学び合い、語り合い続けるならば、かならず活路は開ける・・・と、まあ私は楽観しているんですけどね。

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