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Mooの雑記帳

日々の感想などを書いていきます。

2月17日(水) 九月、東京の路上で

2021-02-17 22:19:30 | 日記

女川の高野博さんのFBによると、13日の地震について菅首相は「原子力関係でも全て異常な報告については、ありません。全て正常ということであります」と述べたが、どこが正常なのかと憤って次のように書いていました。

翌日14日、東北電力はホームページで、大容量電源装置の1台で故障を示す警報が鳴り、2,3号機の放水口モニターが欠測、電源が入らず3号機の取水口の除塵装置が作動せず、3号機タービン建屋ブローアウトパネルが開状態に、と次々トラブルを起こしていたのです。どこに「正常」と言えるでしょうか。

廃炉過程にある福島原発も、再稼働を急ぐ女川原発も、大きな地震によって目に見えない被害が蓄積して思わぬ事故につながることは十分にあり得る。そのときでは遅いのです。

   *   *   *

昨日、毎日新聞の記事をもとに、地震の際の流言飛語の恐ろしさについて触れましたが、「九月、東京の路上で 1923年関東大震災 ジェノサイドの残響」(加藤直樹 ころから)を読むと、形を変えた差別、暴力、人権侵害が当時よりももっと陰惨な形で広がるのではないかさえ思えてきて、身の毛がよだつ。またおなじことを繰り返すのではないのかという恐ろしい予感。

中国南京で虐殺や婦女暴行をほしいままにしたのは、日本に帰れば良き父親であり、よき兄弟であるのと同じ構図で、「鮮人だ!殺せ」と叫んで頭にトビ口を打ちこんだ大人もまた、同じ市井のよき夫であり父親であったはずなのだ。

しかし、いったん大震災という異常な状態におかれたとき、それまでの人間としての生きてきた素地のすべてが露わとなる。豹変し自分と同種の集団に属さない他人は間化され物となる。加害者は加害の意識を持つことなく、行いはすべて正当なものでありむしろ正義の行動なのだと正当化する。ゆえに、加害者からは加害の事実はいっさい語られることがない。

弱い者を標的に徹底して攻撃する「いじめ」の構図は形をかえたジェノサイドのひな形ともいえる。常にこうした心理と行動は再生産され拡大し沈殿する。
だからこそ、いま「九月、東京の路上で」は読み継がれ語り継がれなければならないと思う。誰でもが加害者になり得るのだから。

そのときに、心の支えとなるのは、当時朝鮮人や中国人をかくまい、命を救った市井の人々もまた多数いたことだ。

愚昧、卑劣、無節制(江口渙)、狂気と隣り合わせに、数多くの「人間であろうとした人がいた」(加藤直樹)のだが、しかし正気が狂気を止める力にはなり得なかった。それを逆転させることが、歴史にまなぶ私たちの責務ではないかと思う。