クーデンホーフ光子の手記

2005-12-23 | history

を読む。シュミット村木眞寿美編訳。

「パンヨーロッパ運動」の推進者リヒャルト・クーデンホーフ・カレルギー伯爵の母(青山)光子の手記。このようなものがあるとは知らなかった。チェコ・クラタウの公文書館に残された光子のドイツ語の手記を編訳者が翻訳したもの。good job! 私にとっては,シルクロードを越えて最初に日本に渡ってきたイスラエル部族のだれかが書いた手記が見つかり,それを読むようなもの。

1906年5月,47歳の若さで亡くなった夫ハインリッヒ・クーデンホーフ・カレルギー伯爵の思い出を,当時幼かった子供たちのために光子が語っている(手記の日付は1915ー16年)。東京を去りヨーロッパに渡る船旅での出来事,夫の城のあったチェコでの暮らし,東京にいた間の蝦夷地(北海道)への旅行,朝鮮への旅行などが語られている。東京の商家に育った光子は教育はなかったが,積極的で理解力豊かな女性だったことがよくわかる。

ハインリッヒがなぜオーストリア=ハンガリー帝国の外交官として東京に赴任したかわからなかったが,光子の説明でわかった。ハインリッヒは狩猟に興味があり,朝鮮で「虎狩り」をしたかったそうだ(ただし,ハインリッヒが光子にそう説明したにせよ,なかば冗談だったかもしれない。彼と光子との関係は,光子自身述べているように,知的には,父親と娘との関係に近いものだった)。

2人の男の子をもうけた後東京を去ることになったが,その事情もわかった。はじめは3年くらいヨーロッパに暮らし,その後日本に戻る予定だったとのこと。ハインリッヒは,光子のことを考え,東京でないにせよ東アジアのどこかに再赴任することを望み,そのために語学の勉強などの準備をしていたようだ(チェコの領地の経営問題が起こり実現しなかったが,シャム王国公使とシンガポール領事としてしその年の9月シンガポールに赴任する予定だったとのこと)。

ハインリッヒと光子の旅は,当時の日本の女性が望める範囲をはるかに超えている。1896年1月東京を船出,インドのボンベイ経由で千夜一夜の世界,エルサレムを通ってローマへ。ローマで法王レオ13世に謁見,プラハの夜会ではオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフに会っている。また,東京では出発前明治天皇に謁見しているのだ。夢のような旅だ。

写真は光子と長男ハンス,次男リヒャルト(手記ではそれぞれ「ハンシー」,「デッキー」という愛称で呼ばれている)

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