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04夏北海道6

2005-05-29 | travel

旅の終わり
舟橋 俊久 作詞・作曲

(一)ゆめのような たびだった
   とおい きたのーくにへ
   ぼくは たびのよろこびと
   たびの つらさーをしった
   きたのくにのー しょうじょたちと
   すごしたゆめのーせつな
   あすは きみもほかのまちへ
   ぼくも ほかのーまちへ
   こんな つらいたびなんか
   もうーいやだ たびをおわろ
   きしゃにのろうー

(二)ともにやまに のぼったね
   きみと てをとーりあって
   ともにうみを みていたね
   みずは きよくーすんで
   きみの こころ きよくすんで
   ぼくのこころが とりーもどす
   うみのあおさー

(三)ひとと ひととの であいなんて
   いつも わかれでおわる
   ぼくは きみのくれたゆめを
   あすも もちつづけよう
   こんな つらいたびなんか
   もうーいやだ たびをおわろ
   きしゃにのろうー

これは私が最初に北海道旅行した1973年の夏,北海道のユースホステルで歌われていた曲である。その年の前年か前々年,早稲田の学生が作曲したもの,と聞いたおぼえがある。今見ると,作曲者の名前が記されている。上に転載させていただいたものはhttp://www.asahi-net.or.jp/~kx8y-hgmt/midi/tabinoowari.htmにあるものだが,http://utagoekissa.web.infoseek.co.jp/tabinoowari.htmlにもあり,2種類のアレンジを音で楽しめる。当時私の頭の中で鳴っていた音と比べると若干違和感を感じるものの,なつかしのメロデイーを楽しめるのはありがたい。私にとって最初の一人旅であったこともあり,当時たいへん鮮烈に聞こえた。「ふきのとう」風のグループが歌えばヒットしたろうに,とおもわないでもない。アレンジ次第では,今でもヒット可能のような気がする。もちろん,ヒットすればいいというものではなく,逆にユースホステラーの記憶の中にとどめることができてよい,という感もある。たしかに私にとっては秘曲だ。あのときの若い気持ちそのままが歌われている。

梅花の宴2

2005-05-29 | literature

大伴坂上郎女から「わが背子」と呼ばれた大伴家持は,政治的狡知にたけた藤原氏の圧迫のなか,大伴氏の大黒柱として起伏の多い生涯を送った人である。最晩年,彼は春宮太夫でありながら持節征東将軍として陸奥にあったが,そこで死去。死去後20日余り後、藤原種継暗殺事件に主謀者として関与していたことが疑われ、生前に遡って除名処分を受ける。子の永主らも連座して隠岐への流罪に処せられた。これは全体的に見れば,皇太子早良親王(さわらのみこ)を除こうとする桓武天皇周辺の仕組んだ政治的謀略だ。

「大伴家持略伝」(http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/sawara.html)によれば,早良親王(750~785)は,

  光仁天皇の皇子。桓武天皇の同母弟。761(天平宝字5)年、11歳のとき出家し、東大寺等定僧都を師とし、羂索院に寄住。768(神護景雲2)年、東大寺より大安寺東院に移住。770(宝亀1)年、21歳のとき登壇受戒。同年父白壁王が即位し(光仁天皇)、以後親王禅師と呼ばれた。この頃東大寺運営の主導権を握ったとも言われ、宝亀2年には実忠に命じて大仏殿副柱を構立している。781(天応1)年4月、兄山部親王が即位する(桓武天皇)と、皇太弟に立てられた。この時32歳。仏教界に重きを置き人望もあった早良親王を父光仁が推輓したものかという。同年4.14、藤原田麻呂が東宮傳、大伴家持が春宮大夫、林稲麻呂が春宮亮となる。一説に、この頃家持が集めた歌集が早良皇太子に献上され、後の万葉集勅撰の契機となったともいう。785(延暦4)年9.23夜、長岡京造営工事を検分中の藤原種継が賊に弓で射られ翌日死亡するという事件が起こり、取り調べの結果、家持・五百枝王・紀白麻呂・大伴継・大伴永主・林稲麻呂らによる皇太子早良親王を担いだ謀反であると断定される。親王は乙訓寺(現長岡市今里)に幽閉され、抗議の断食をし、10日余り後、船で淡路に移送の途中、高瀬橋(河内国、淀川の橋)のあたりで憤死。淡路に埋葬される。

とある。桓武天皇周辺は,弟早良親王ではなく子を皇太子にしたかったのだろう。構図は天智天皇,大海女皇子,大友皇子の場合と同じだ。古代以来の軍事氏族の長である家持は,皇太弟早良親王の勢力をそぐために事前に陸奥に遠ざけられたようだ。
桓武天皇は後に真相を察し,

 806(延暦25・大同1)年3.17、病床にあった桓武天皇は種継暗殺事件の連座者を本位に復す詔を発し、家持は従三位に復位される(『日本後紀』)。これに伴い家持の遺族も帰京を許された。

とされる。
同じ「大伴家持略伝」によれば,

  家持は万葉集に473首(479首と数える説もある)の長短歌を残す。これは万葉集全体の1割以上にあたる。ことに末四巻は家持による歌日記とも言える体裁をなしている。万葉後期の代表的歌人であるばかりでなく、後世隆盛をみる王朝和歌の基礎を築いた歌人としても評価が高い。古くから万葉集の撰者・編纂者に擬せられ、1159(平治1)年頃までに成立した藤原清輔の『袋草子』には、すでに万葉集について「撰者あるいは橘大臣と称し、あるいは家持と称す」とある。また江戸時代前期の国学者契沖は『萬葉集代匠記』で万葉集家持私撰説を初めて明確に主張した。

つまり,大伴家持は転変定かならぬ時代に万葉集を編集・保持,後代に手渡した人ということになる。大伴氏そのものは家持以後再び浮かび上がることはなかったが,万葉集を守りきってくれたことはありがたい。家持の歌二首。

 館の門に在りて江南の美女を見て作る歌
   見わたせば 向かつ峯の上の 花にほひ
   照りて立てるは 愛しき誰が妻     二十|四三九七
                
 春苑の桃李の花を眺めて作る二首 下
   春の苑 紅にほふ桃の花
   照る道に 出で立つ乙女        十九|四一三九

いずれも色あざやかな春の歌。2番目の歌は,妻坂上大嬢がモデルではないか,と推測されているようだ。案外,最初の歌もそうかもしれない。あるいは,「江南の美女」とあるから,その昔の坂上郎女?                                            

梅花の宴

2005-05-27 | literature
"Mrs. Robinson, you are trying to seduce me,"says Ben (Dustin Hoffman).

陸游(「釵頭鳳」参照)には「梅花絶句」と題する連作が五組ある。陸游にとって梅は海棠(かいどう,バラ科)についで二番目に好きな花だったという。沈園をうたった詩にも梅が登場する(「十二月二日夢に沈氏の園亭に遊ぶ」)。唐琬と再会したときにも梅が咲いていたことになる。

梅はわが国の万葉歌人に愛された花でもある。万葉集の時代で最も有名な花見は,天平2年(730)正月13日、太宰帥大伴旅人邸で行われた梅花の宴であろう。その宴には,太宰府の役人達のほか、九州各国の国司が参加し、梅をテーマに歌を詠んだ。参加者の中には,太宰少弐小野老(おののおゆ)、筑前守山上憶良、造観世音寺別当沙弥満誓(しゃみまんせい)、大伴坂上郎女(さかのうえのいらつめ)などもいた。詠まれた歌のうち三十二首が万葉集巻五に載っている。

  我が園に 梅の花散る 久かたの天より 雲の流れ来るかも

は宴のホストであった大伴旅人の歌である。旅人(665~731)は古代からの名族大伴氏の主であるとともに(壬申の乱の功臣大伴安麻呂の子),天平期の万葉を代表する歌人。彼の息子が万葉集の編者としても知られる家持である。

ここで興味があるのは家持ではなく,彼の叔母である大伴坂上郎女(700頃~750頃)である。「万葉集筑紫歌壇」(http://www.st.rim.or.jp/~komatsu/chikusikadan.html)によれば,彼女は「大変な美人であったらしく、穂積皇子に愛され、皇子薨去ののちは、参議藤原麻呂に愛され、次いで、異母兄大伴宿奈麻呂に嫁いで二人の娘を産む。夫の死後、異母兄旅人を頼って太宰府に渡る。旅人の子、家持には母代わりとして訓育に当たり、大きな影響を与える。採録84首を数える万葉集中最大の女性歌人」であるとされる。額田女王につぐ万葉最大のヒロイン,というところだろうか。坂上郎女は,晩年妻に先立たれた異母兄旅人の妻となり,旅人の死後刀自(一家の主婦)として大伴氏を支えたとされる。彼女は,家持に嫁した坂上大嬢(おおいらつめ)の母であり,家持には姑にあたる。
坂上郎女に次のような歌がある。

 大伴坂上郎女、姪(をひ)家持の佐保より西の宅にかへるに与ふる歌一首

  我が背子が 着る衣薄し 佐保風は いたくな吹きそ 家に至るまで  (巻六の九七九)

大伴大納言家の邸宅は佐保にあった(平城京遷都に際して佐保に邸宅を賜る)。背子はふつう夫,恋人のことをさすから,映画「卒業」でのベンジャミンのミセス・ロビンソンとの道ならぬ愛情劇を想像させるが,それはなく,「息子」で,名門大伴氏の大黒柱となることを期待されていた家持に対する冷やかしと親愛の情を表現したものだろう。しかし,家持が幼い頃から,有名なヒロインである叔母に対しあこがれの気持ちをもっていたことは十分ありそうではある。それを知っていて,あえて「我が背子」とからかったのだろう。まあ,こうからかわれて悪い気分ではなかっただろう。

蘇ったトルネード!野茂今季最高の投球で3勝目

2005-05-27 | mlb
野茂、(日本時間)今朝本拠地トロピカーナ・フィールドでのアスレチクス戦に登板、7回1/3を投げ5安打、2四球、7奪三振、1失点の好投、チームも2-1で勝ち、3勝目をあげた。デビルレイズは本拠地でアスレチクスをスウィープ(3連勝)。前の試合で苦手マーリンズにKOされ、今日悪かったらローテーション落ちを匂わせていたピネラ監督も"Nomo today pitched well. In fact, to me, it's the best game he's pitched this year. Solid."と絶賛、地元紙記者に「ノモマニア」の語を思い出させるような快投だったようだ。ストレートが145kmを記録、フォークボールも切れて、ファンの多くが望む投球、蘇ったトルネード!

以前から、デビルレイズのセンター、D.ホリンズの守備には不安を感じていた。ヤンキース戦で野茂が勝ちを逃したのには、彼の守備位置の悪さに原因があった。松井とA.ロドリゲスの何でもないセンターフライを2本ヒットにしてしまった。その後の試合でも、ホリンズは何でもないフライを落球している(スプリング・トレーニング中マイナーで野茂が登板した際、転んで失点のきっかけになったのもホリンズではなかったか!?ー打撃がよく気もよさそうなルーキーだから大目に見たいのだが。もっと守備練習せい)。チームとしてもさすがに反省したようで、今日は、外野守備コーチBilly Hatcherが、その点をうまく修正したとのこと。3回のチャベスのセンターへのフライのときも、彼がホリンズに指示して、事前に5歩から10歩守備位置を動かしていた、9回のEllisの打球のときもポジショニングのよさがうまくあたった、とのこと。ピネラも、今日は "The pitching coach was happy, the hitting coach was happy, our defensive coach was happy and the manager was happy. So it was a good day all around."とまとめている(デビルレイズ公式ページ)。肩の手術後のここ2年で最高の投球。野茂のこれからのキャリアにとっても大きい1勝だ。これだけの投球を披露できるのだ、まだまだやれる。

追記
チャぺス、ギャフン。
野茂は今季最初の登板で同じアスレチクスと対戦、快勝したが、試合後アスレチクスの3塁手Eric Chavezが野茂の力について「これまで対戦した中で最もプアーな投球、あれが打てなかったなんてとても信じられない。据えられたゴルフボールのように打ちやすい」と酷評、それが報道されたことがあった。 今日の試合後は違うコメントだったようだ。
``Today I can understand why we didn't hit,'' Chavez said. ``The first time, I didn't.''
(今日もChavezは野茂に対して3打数無安打、キャリア全体でも11打数1安打)
同じ記事は、続いて
This time, Nomo's stuff was virtually unhittable for seven innings.
と書いている。そういえば、最初のアスレチクス戦の後、キャッチャーのホールが「今日のノモはノーヒッタークラスの投球をしていたよ」とコメントしていた。
(http://rays.tbo.com/rays/MGBHI7CS79E.html)

追記
今回チェックした記事の中で,野茂のファンとして一番嬉しかったのはAPの冒頭の次の記事だった。
ST. PETERSBURG, Fla. (AP) -- Hideo Nomo's best performance of the season moved him a step closer to another milestone in an outstanding career.
ここには,今日の登板が野茂の今季最高のものだったこと,彼のキャリアが傑出したものであること,その投球が(名球会入りという)新たな里標に一歩近づけるものであること,が告げられている。
今年のNHKの放送の扱いでもわかるが(ついに改心してくれたか?),日米野球界にとって野茂が歴史的な選手であることが意識されはじめている。最初にドアを開けるのが一番大変なんだ(これは物理学の法則)。パイオニアをパイオニアとして扱うこと,これが重要。いずれにせよ,東洋から来た最初のプレーヤーとして,野茂のキャリアは最もドラマチックだ。
名球会に入るか入らないかはもちろん野茂の自由だが,日米野球界の将来を見据えてあえて(あまり気乗りしないが)「入る」という決断がよいような気もする。

04夏北海道5

2005-05-26 | travel

知床遊覧船上で。私の最初の旅行は大学1年の夏の北海道旅行だった。3週間ステレオの組み立て工場でアルバイトして資金を確保,8月の末2週間強の予定で北海道行きの電車に乗った。青函連絡船に乗り,ひたすら電車に乗り,最初に降りたのが道北,羽幌の駅。なつかしの羽幌ユース。翌日はさらに北上,天売島に渡り,そこのユースホステルで2泊目。来春は就職だという方々と一緒に本島に戻り,稚内へ。そこで1泊,翌朝フェリーで礼文島に渡る。礼文島こそがそのときの旅のターゲットだった。フェリー上で知り合った人たちと民宿に泊まろう!ということになって,予約を入れていた桃岩ユースにゆきキャンセルすることになった。ほかの人たちもそこに歩いてゆくのにつきあってくれることになったのだが,ユースに着くまでの島の風景の美しいこと!礼文島には花の島というニックネームがあるそうだが,たしかにその名にふさわしい島だ。次はいまいちど夏に礼文に行きたい。

04夏北海道1

2005-05-26 | travel

昨年8月家族で北海道旅行をした。某社のツアーに参加,道東を中心に2泊3日のバス旅行。新千歳空港からひたすら北に走り阿寒湖畔に着いたときには、あたりは完全な暗闇。写真は、翌朝阿寒湖から摩周湖に向かうバスの中から見た秘湖。

おもいでの夏

2005-05-22 | literature

「おもいでの夏」(Summer of '42)。高校生の頃だろうか,小説化されたものを読み強く印象に残った。舞台は戦時下1942年の夏,メーン州の海辺の町(メーンはマサチューセッツの北に位置する)。15歳の主人公ハーミーが,出征した夫の帰還を待つ年上の女性ドロシーに恋をする。やがて夫戦死の電報が届く・・・。翌朝ドロシーは,忘れられない手紙をハーミーに残して,いずことなく去る。1971年に公開。ドロシー役がジェニファー・オニール。音楽がミシェル・ルグラン。それから数十年たちハーミーが海辺の町に戻ったシーンが印象に残っている。仲がよかった幼友達たちのそれからの運命,一人は朝鮮戦争で戦死し,一人は・・・。かたちこそ違え,だれにでもある永遠の夏。

映画化のあと小説化,さらにはミュージカル化されたこの物語は,原作者ハーマン・ローチャーの自伝に基づくものあるとのこと。それについて,http://www.satonao.com/cinema/42.htmlに興味深い話が紹介されていたので転載させていただく。

<つい最近、「おもいでの夏」のミュージカル化にともない、ハーマン・ローチャーがインタビューされました。この中で、質問者がやはり、この物語がどこまで自伝的なのかについて質問したところ、登場人物は全て実存した人を実名で出したのことです。そう、ドロシーもです。「おもいでの夏」の映画が1971年に公開され、ヒットしたあと、ハーマン ローチャーは、数多くの「私がドロシー」という手紙を受け取ったとのことですが、その中の一つ、オハイオ州カントン市から来た手紙を見た時:「筆跡で彼女だということが分かりました。名字は無く、返信の住所も記されていませんでした。文面の内容からは、私がその後どうなったのか心配していたらしく、「30年前のことはそのままそっとしておきましょう」といったことで、手紙の響きでは、彼女は再婚して、子供や孫までいるらしいのです。>

追記
IMDbという映画サイトで確認したところ(http://www.imdb.com/title/tt0067803/trivia)
Trivia for Summer of '42 (1971) の項目に以下の記述があった。

*Though author Herman Raucher admits to moving the order of certain events around and interchanging some dialogue, the movie is (according to those involved) an accurate depiction of events in Raucher's life in the summer of 1942 on Nantucket Island; he didn't even change anyone's name. He began writing the screenplay as a tribute to his friend Oscy, who'd been killed in the Korean War, but midway through writing it Raucher realized that he wanted to make it a story about Dorothy, who he had in fact neither seen nor heard from since their last night together as depicted in the movie. Raucher admits that in all the time he knew her, he never bothered to ask her what her last name was.
映画は,ハーマン・ローチャーの体験した,ナンタケット島での1942年の夏の出来事をほぼ忠実に表現したもの(ナンタケット島はケープ・コッドの南にある避暑地)。登場人物も実名を使った。はじめは朝鮮戦争で戦死したオシーへのトリビュートとして脚本を書き始めたが、途中で本当はドロシーについての物語として書きたいと思っていたことに気づき、そのように書きかえた。あの夜以後ドロシーと会ったことも、手紙をもらったことも一度もなかった。

*During an interview on "The Mike Douglas Show" (1961), Herman Raucher said that after the novel and movie were released, several women wrote letters to him claiming to be Dorothy. One of the letters was indeed from the real Dorothy, who wanted to know if she had psychologically damaged Raucher, and also informed him that had been happily remarried and was now a grandmother. It was the last time that Raucher, by that time married with children, heard from Dorothy.
「マイク・ダグラスショー」(1961)でのインタビューでローチャーが語ったこと:ローチャーは,小説と映画の公開後ドロシーから手紙を受け取る。そのなかで,ドロシーは彼を傷つけてしまったのではないかと心配していたこと,幸せな再婚をして孫もいることを知らせる(このときには、ローチャーは結婚していて子どももいた)。「おもいでの夏」はこの手紙を受け取るために書かれたラブレターだったのかもしれない。

「妻恵信尼からみた親鸞ー「恵信尼消息」を読むー」を読む

2005-05-19 | 親鸞
明治の終わり頃、親鸞についての客観的記述が本願寺宗門以外にみられないことを理由に、「親鸞」は実在せず,本願寺によるフィクションではないかという議論がなされたことがあった。これを最終的にくつがえしたのが、親鸞の妻、恵信尼の手紙の発見である。鷲尾教導という学者が京都,西本願寺の宝庫を整理中に、親鸞の死後,越後にいた恵信尼が京都の末娘覚信尼にあてて書き送った8通の手紙を発見した。それが「恵信尼消息」である。「妻恵信尼からみた親鸞ー「恵信尼消息」を読むー(上)(下)」(日本放送協会)は,恵信尼消息をテキストに、山崎龍明氏が、親鸞の人と暮らし、家族、信仰についてわかりやすく解説した本である。2004年10月から2005年3月までのNHKラジオ放送のテキストとして使われた。非常にこなれたすぐれた本、というのが読みながらの感想。たとえば、「五重の石塔」をつくりたいと望んだ恵信尼の信仰が、夫である親鸞の信仰と同じものであったかいなか、というような問題について、バランスのよい、十分了解できる説明がなされている、と感じた。山崎氏はテキストの分析のみならず、夫婦関係等の一般的問題についてご自分の考えを積極的に述べられているが、ほとんどすべてが私にも納得いくものだった。自力他力の問題を扱った箇所(第十五講)で、小林一茶の
     ともかくもあなた任せのとしの暮
という名句が紹介されているが、これもたのしい。

恵信尼消息から
さて、常陸の下妻と申し候ふところに、さかいの郷と申すところに候ひしとき、夢をみて候ひしやうは、堂供養かとおぼえて、東向きに御堂はたちて候ふに、しんがくとおぼえて、御堂のまへにはたてあかししろく候ふに、たてあかしの西に、御堂のまへに、鳥居のやうなるによこさまにわたりたるものに、仏を掛けまゐらせて候ふが、一体はただ仏の御顔にてはわたらせたまはで、ただひかりのま中、仏の頭光のやうにて、まさしき御かたちはみえさせたまはず、ただひかりばかりにてわたらせたまふ。いま一体はまさしき仏の御顔にてわたらせたまひ候ひしかば、「これはなに仏にてわたらせたまふぞ」と申し候へば、申す人はなに人ともおぼえず、「あのひかりばかりにてわたらせたまふは、あれこそ法然上人にてわたらせたまへ。勢至菩薩にてわたらせたまふぞかし」と申せば、「さてまた、いま一体は」と申せば、「あれは観音にてわたらせたまふぞかし。あれこそ善信の御房(親鸞)よ」と申すとおぼえて、うちおどろきて候ひしにこそ、夢にて候ひけりとは思ひて候ひしか。

さは候へども、さやうのことをば人にも申さぬときき候ひしうへ、尼(恵信尼)がさやうのこと申し候ふらんはげにげにしく人も思ふまじく候へば、てんせい人にも申さで、上人(源空)の御事ばかりをば、殿に申して候ひしかば、「夢にはしなわいあまたあるなかに、これぞ実夢にてある。上人をば、所所に勢至菩薩の化身と夢にもみまゐらすることあまたありと申すうへ、勢至菩薩は智慧のかぎりにて、しかしながら光にてわたらせたまふ」と候ひしかども、観音の御事は申さず候ひしかども、心ばかりはそののちうちまかせては思ひまゐらせず候ひしなり。かく御こころえ候ふべし。

ー常陸の下妻「境の郷」にいたとき恵信尼が見た夢の記述。法然と夫親鸞をそれぞれ、阿弥陀如来の左右に仕える勢至菩薩(知恵の菩薩)、観音菩薩(慈悲の菩薩)の化身とする夢を,ある夜恵信尼は見た。法然を勢至菩薩とみる夢を見たことは夫親鸞に告げたが、夫を観音菩薩とみる夢のほうは告げなかった。手紙の最後の部分は、「殿(親鸞)を観音とみたことは申しませんでしたが、心のうちでだけは、その後は決して普通の方と思うことは、ありませんでした。あなたもこのように心得てください」(山崎氏訳)。亡くなった父親(親鸞)に対する敬意を末娘にもとめている。立派な手紙だ。

魔女伝説4

2005-05-17 | boston

七破風の家(THE HOUSE OF SEVEN GABLES):ナサニエル・ホーソンの小説「七破風の家」(1851)にインスピレーションを与えたとされる家。ホーソンは19世紀アメリカ文学の三大作家の一人(ちなみに他の二人は、エドガー・アラン・ポーと「白鯨」のハーマン・メルヴィル) 。代表作は他に「緋文字」(1850)。

ナサニエル・ホーソン(Nathaniel Hawthorne,1804―1864)

ホーソンは、一八〇四年に、マサチウセッツ州のセイレムという古い港町に生れました。彼の祖先は英国から渡って来た清教徒でした。彼の祖父は独立戦争の時、船長として勇ましい働きをしました。父もまた船長でしたが、ホーソンの小さい時になくなりました。母一人の手で育てられながら、彼が「今に船乗りになって二度と帰って来ない」などと言い出したのも、祖父や父のことが頭にあったからでしょう。しかし彼は、ふとしたことから、本を読むことが好きになり、自然をこまかく見たり、物事を深く考えたりするようになりました。そして、作家になろうという決心は、大学へはいる前からついていたようです。母に宛てた手紙の、興味ある次のような一節で、それがよく分ります。

「私は、他人の病気で食べて行くお医者さんにも、他人の罪で食べて行く牧師さんにも、また他人のあらそい事で食べて行く弁護士にもなりたくありません。すると、私は作家になるほか道がないと思うのです。お母さんは今に、息子の書いた「ホーソン全集」で、本棚をお飾りになる日が来るのを、嬉しいとは思いませんか」

(三宅幾三郎http://www.aozora.gr.jp/cards/000905/files/18330_14267.htmlから)