愛国心を教育することの困難ということで山崎氏が暗に述べていたのは、一つにはもちろんプラトンの対話編「メノン」であろう。ということで、メノンの論点をおさらいする気になった。お手軽すぎる観もあるがネットをざっと見た。「セブンアンドワイ」の「鳩サブ2号館」氏によるリビューが私にはわかりやすかった。
引用させていただくと、
(「メノン」は)『プロタゴラス』の続編。副題は-徳について-である。本篇前半では『プロタゴラス』と重なる部分が多いけれども、そうであるがゆえに本篇を続編ではなく、一個の独立した対話と見做すこともできる。
『プロタゴラス』では徳は教えられうるものであるとの結論に到った。しかしそれは徳が知識であるかぎりのことであった。『メノン』ではここに疑問をはさみ、徳とは知識ではなく教えられえないものであることが明らかにされる。d.i.徳は知識そのものではなく、知識を生成するところの思わく【δοξα】(ドクサ)であると言う。これが正しいものであるかぎり徳へと導かれる。この正しい思わくが教えられえない所以は、本書後半を通して明らかにされよう。(後略)
私なりにまとめると次のようになる。
「メノン」が主題にしている「徳」(アレテー)は、道徳性だけでなく、人がおよそもつべきさまざまな卓越性を意味する。愛国心も当然徳の一つということになる。それらが教えられ得るものかどうかを問題にしているわけだ。プラトンの答えは、もし徳が1+1=2のような(客観的な)知識であるならば教えられ得る、しかし、徳はそのような知識ではない、知識にはちょっと足りない「思わく」(ドクサー客観的とはいえない信念、思いこみー)にすぎない、したがって、教えることはできない。
ということで、「メノン」は徳の一般的伝授可能性に懐疑的な結論で終わっている。私としては、特に異論のない結論である。つまり、愛国心は数学の定理のようなものと違い、黒板に証明を書いて教える、というわけにはいかない。言い方を換えれば、誰にでも同じように教えるというわけにはいかない。
「メノン」は徳を身につけることが不可能だとは言っていない。数学の定理を教えるのと同じように教えることはできないだろう、と言っているだけだ。改正教育基本法は、生徒たちに愛国心という徳を身につけさせることが教育の目標の一つだ、としている。どうやって?というのが問題の中心になる。
「よいお手本を見せる」以外に方法があるとは思えない。愛国心を直接植え付けるのではなく(プラトンが指摘したようにそれは不可能、あえてやれば隣国某国ー巨大で不実な偽装ーとなる)、それが育つような社会的環境を整える、こと以外によい方法があるとは思えない。搦め手から攻める、ということである。運がよければ、いくつかの城を攻略できるかもしれない。
たとえば、わが国政府の行政の実際や政治家の出所進退を見てもらうのである。政治家諸氏の潔い行動、偽装関与などとは縁遠い進退、適度な財政赤字、女性や恵まれない人々への手厚い配慮、他国民の感情への配慮などを見れば、(運がよければ)若い人々も「私たちも後に続こう!」という気持ちになるかも知れない。