話題の米TVドラマ「ザ・パシフィック」の原作の一つ。
米国側からの太平洋戦争戦記として,「硫黄島の星条旗」 (文春文庫),「沖縄 シュガーローフの戦い―米海兵隊地獄の7日間」を読んできた。
それらと並ぶ秀作。
日本兵にとって生還の望みのない戦いだったが,そうでない米兵にとっては余裕があったのではないか,などと思っていたが,棄兵同然の日本兵よりはましとしても,タフそのものの戦争だったことがよくわかる。
ペリリューは,中川大佐率いる守備隊が非常に緻密な戦いをしていたこともよくわかった。
もうすぐ終戦記念日。
戦線拡大をせず,守備的に戦い,フィリピン(南方資源確保)とマリアナ諸島(サイパン等,東京爆撃阻止)を守り,潜水艦を有効に使い,米艦隊ではなく輸送船をねらい,艦隊決戦を避け,敵部隊出動に対し臨機応変に対応する温存艦隊(fleet in being)を維持すれば,あのような惨敗はなかった,少なくとも1年以上敗戦を遅らせることができた,その間にはソ連社会主義の拡大阻止という観点から有利な敗戦に導けた可能性がかなりある,という説。
硫黄島で栗林さんがとった用意周到で合理的な作戦を西太平洋全域で用いればよかった,という説として読んだ。日清,日露戦争での日本海軍の輝かしい戦勝があだになった側面もあると思う。日本海海戦の再現を連合艦隊は求められていただろう。しかし,あのときと事情が違う。あのときはロシア艦隊を全滅させる戦略的な必要があった。太平洋戦争ではそのような必要はなかった。冒険する必要はなかったのだ。たしかに,艦隊を温存させておくだけで,米軍には大きな脅威になっただろう。米軍の最弱点は兵員等の輸送で,それをつくのにたしかに潜水艦は有効だった。東京を一度爆撃されたくらいで,ミッドウェーで虎の子の空母群を危険にさらした山本長官のミスが大きい。山本さんは二度冒険した。一度に限るべきだった。信長でさえ,冒険は桶狭間一度きりだった。彼は冒険のリスクを知っていたのだ。ミッドウェー作戦には大方が反対していたのに,認められなければ辞任すると山本さんが言ったので,強行ということになった,という話は知らなかった。
拡大路線が破綻したというのはトヨタも同じ。合理的で冷静な計算,実行が肝要。企業戦略を考える上で参考になるだろう。
「坂の上の雲」再読中。
あらためて感じたのだが,山本権兵衛,西郷従道,大山巌,東郷平八郎など薩摩系の人物がよい(たとえば,大山巌 - SANNET ホームページ,ねずきちの ひとりごと 愛する人とともに・・・山本権兵衛)。
長州が倒幕のさきがけとなり,禁門の変等で一級の人物をはやく失ったのに対し,遅れて加わった薩摩は人物を温存できた,ということだろう。
上にあげた4人と西郷隆盛、大久保利通はみな鹿児島の加治屋町生まれとのこと。
ほとんど奇跡と言いたいが,やはり西郷隆盛の人格的影響力だろうか。
吉弘統幸(よしひろ むねゆき)という戦国武将がいる。
九州大友氏の忠臣である。
以前,滝口康彦「悪名の旗」を読んだとき,彼が登場していたのだが,複雑でよくわからなかった。
このところ立花宗茂の大ファンになって,彼関係の本をかなり読んだので,ようやく吉弘統幸の位置がわかるようになった。
大友家庶流で,大友宗麟の重臣吉弘鑑理(あきまさ)の嫡男が鎮信(しげのぶ)。
次男が立花宗茂の父吉弘 鎮理(後の高橋紹運)。
吉弘統幸は鎮信(しげのぶ)の嫡男。
父同士が兄弟だから,立花宗茂の従兄弟になる。
「九州の関が原」石垣原の戦いで,大友義統のため不利を承知で西軍に属し,黒田如水と戦い討ち死。
大谷刑部が関が原で石田三成との友情に殉じた話は有名だが,それに劣らぬ物語。
タイトルは吉弘統幸辞世とされる歌。
名将にふさわしい。
吉弘家には忠臣・名将が多い。
どなたか「筑紫太平記」を書いていただけないだろうか。
栗林さんの名将たるゆえんがよくわかる快著。
著者は傭兵の経験があるとのことで,地下要塞の構築,戦術についてわかりやすく記述されているのが,他書にない本書の特徴。
大本営に見捨てられつつあった栗林さんが本土からあえて招いた「歩兵戦闘の神様」中根兼次中佐の記述が興味深い。
2万の将兵のために最善のスタッフを整えたい,それは国家の義務だ,ということだろうが,たしかにそうだ。
2万人を捨石として使っていいわけがない。
栗林さんは,硫黄島に赴任する前は近衛師団の司令官。
いってみれば首都防衛の責任者。
他書によれば,その折東条英機と意見がたびたび衝突したらしい。
栗林さんのことだ,空襲の危険を避けるため一般市民の疎開を提案した可能性がある。
後に,別の将官が疎開の必要性を東条氏に訴えたところ却下された,とのことだから,たぶんそうだろう。
そんなに言うのなら,お前硫黄島に行って東京を防衛せい,ということになった公算がかなりある。
東京大空襲は予見できて,実際栗林さんは予見し,必要な対応を責任者に求めたと思う。
愚将というのはそれ自身罪だ。
あとがきで,生還した堀江参謀による「栗林ノイローゼ説」を明快に否定してあって,気持ちがよい。
とくに最後の「硫黄島の戦訓」電報に「蓮沼侍従武官ニ伝ヘラレタシ」あるのは決定的。
蓮沼侍従武官という人は栗林さんの恩師で,報告が大本営に握りつぶされるのを避けるためこの一項を加えたようだ。
余人ではこれはありえない。
戦争中日本を支配したのは陸軍。その中核であった参謀本部(大本営陸軍部)のことがよくわかる。そこをさらに支配していた東条英機とその人脈(服部卓四郎や辻政信,牟田口廉也たち)の「硬直」ぶりは周知のことだが,その中にあって「良識」を示した人々がいた。その系譜が興味深く述べられている。
とくに興味深かったのは,情報参謀の堀栄三。その時点では若く,参謀本部の中で力量を十分発揮できなかったのは,たしかに残念。海戦の戦果報告(情報)を吟味することなく,そのまま発表し,その「大戦果」を真に受けて,部隊が作戦行動をして,将兵を窮地に陥らせたそうだが,あきれてものも言えない。堀参謀はアメリカ軍の作戦を分析,次の手を的中させていった。アメリカ軍が,日本軍の暗号を解読している可能性があることを,駐日ドイツ大使館の駐在武官から示唆されていたとのこと。また,太平洋は守るに損で,攻めるに得な戦場であることを大本営は知らなかった。制空権がポイントで,それさえあれば,攻めるほうは,ターゲットを自由に選べる。必要ないところはスルーすればよい。それにより数万の陸上戦力を実質無力化できる。驚くことに,大本営はこのことに気づいていなかった。「ルーズベルトは,日本が真珠湾奇襲攻撃したとき喜んだのは,単に対日戦争の名分が出来たというだけでなく,太平洋で攻める側に立てることを喜んだのに違いない」と語ったそうだが,その通りだろう。相手が嫌がる戦略を立て戦争すべきだったのに,スマートでない大本営は土地と海域に執着した。このことは中国大陸についても言えそうだ。
ジェームズ・ブラッドリー,ロン・パワーズ著。原著は2000年刊。
夢中で読む。
有名な写真の中で星条旗をたてかけている6人の海兵隊員のうちの一人が著者ジェームズ・ブラッドリーの父親。
生前,硫黄島の戦いについて家族にほとんど何も話さなかった父親。
彼と彼の仲間たちの戦いとその後が描かれている。
映画では,戦後6人のうち生き残った3人が「ヒーロー」に祭り上げられ,戦時国債消化のため米政府に利用された,というところにフォーカスがあてられていたと思うが,それを含めて全篇が興味深かった。
戦争に参加した当時のアメリカの若者たちの暮らしぶり,海兵隊の精緻な事前訓練,士気,硫黄島作戦の規模,海兵隊員から見た硫黄島の戦闘ーすべて興味深かった。
800隻以上の艦船を動因しての硫黄島作戦だったが,アメリカ側からしても総力をあげた作戦だったということがわかった。
人物としては,主人公である父親ジョン・ブラッドリーとともに小隊のリーダーで戦死した「マイク・ストランク」が印象的だ。
最終章は父親ジョン・ブラッドリーの記憶にあてられているが,
「数年後のいま,わたしは日本人の価値観とジョン・ブラッドリーの価値観がじつによく似ていることに気がついた。心の平静,礼儀正しさ,清廉,名誉,実直,家族への献身的な愛情,ぺらぺら話すより心の中を見て答えを探す静かな観想」
という記述が印象的。
古きよき時代の日本の価値観,と言ってはそれまでだが,たしかにそれらは日本の伝統的な徳目ではある。
「沖縄シュガーローフの戦い」にも,(とんでもない連中かと思っていたが)「日本兵はわれわれと同じ目をしていた」という海兵隊員のせりふがあった。
どの国にもいろいろな人間がいるが,硫黄島でも戦うべきでなかった「同じ目」をした人々が不幸な戦をしてしまったようだ。
指導者の責任は思い。
なお,本書は,天国のジョン・ブラッドリーへの,15歳の孫娘からの手紙で終わっている。そのまま,Letters from Iwo-Jimaに接続する。
クリント・イーストウッドが2部作にしようと思うのも自然。
を読む(角田房子著,ちくま文庫)。1984年に刊行されたものの文庫版。ラバウル10万の将兵を指揮した今村均大将の評伝。制海空権を失い補給路が断たれることを予期して硫黄島並みの地下要塞を作り上げ米軍を待ち構えたが,敬遠され,玉砕することなく終戦を迎えた。オーストラリア軍による戦犯法廷で多くの部下が処刑されるなか,かれらをかばい,南太平洋の戦犯刑務所にとどまり,帰国後も旧部下と遺族のために生きた。「私も後でゆく」と言いながら特攻隊を送り,戦後も生き延びた指揮官たちとは対極にある。われわれのすぐれた先輩だ。巻末に置かれている保坂正康による解説もよい。
いくつか印象に残った文章(今村大将)
「戦勝のとき功一級などを与えられる地位の者が,戦敗を招いた場合,罰一級をこおむることを避けようとするのは,これこそ許すべからざる厚顔無恥と言わなければならぬ」
「部下将兵の生命を,勝ち得ない戦いに失うぐらい大きな犯罪はまたと世にあり得ようか」
硫黄島の戦い同様の凄惨な戦闘がリアルに描かれている。
沖縄戦で不可解なのは,戦闘3ヶ月前の,大本営による第九師団台湾転出命令。
この師団は精強をうたわれていた。
台湾防衛と沖縄防衛,どちらが重要なのかは火をみるよりあきらか。
結果的に玉砕必至の沖縄から第九師団を救出したかたちになる。
何らかの「政治的」配慮が働いたのでは,と疑いたくなる。
志願兵として17歳で硫黄島に送られ,司令部総攻撃後,3ヶ月間生き延び捕虜となり生還した人の手記。
通信兵の冷静な眼でとらえられた硫黄島の戦いが精緻に記録されている。
凄惨な戦場の貴重な記録。
最後近くに述べられている,負傷した著者に米軍の缶詰を与えた古参兵の話が印象的。
負傷に苦しむ人の「こんな戦争誰がはじめた!」が痛い。
東京極東裁判は勝者が敗者を裁いた。
それとは別に,「われわれによる裁判」戦争責任者の吟味が必要だ。
http://de.wikipedia.org/wiki/Burgtheater
光子の夫ハインリッヒ・クーデンホーフ伯爵が晩年「否定の世界」という本を著す準備をすすめていたことは「クーデンホーフ光子の手記」で知ってはいたが,その概要を知ることができた。ハインリッヒは,
「自己否定への宗教的意志を,いっさいの真の宗教の核心と見なし,宗教がその最高形態をとるときに,神との神秘的な結合が生まれる」
と考え,それを裏付けるために,仏教,ヒンズー教,マホメット教その他の聖者の生涯や経験を集めようとしていた,とのこと(第10章「夫妻」)。
この記述により,「否定の世界」というやや風変わりな表題の意味がわかる。親鸞が「愚禿親鸞」と名乗ったことはよく知られている。これも「自己否定への宗教的意志」の一例だろう。tenjin95師によると,最澄にも同様の考えがあったとのこと
(「塵禿最澄」http://blog.goo.ne.jp/tenjin95/e/7bbd2a3726b76af8b47a2c42cf93df81)。
古代ギリシャにおける同系統の思想家は,何と言ってもキュニコス派のデイオゲネス(前400-325)。
黒海南岸で生まれ,アテナイで活躍。世俗の栄華を否定し、乞食同様の暮らしをしてアテナイの町外れに捨てられた樽(大きな壺と云う説もある)を住居にしたと伝えられる。
シノペの両替屋の息子として生まれたが、父が贋金を作った事が発覚。父が獄死した後に彼自身はシノペに追放された。国を追われた彼はアテネにやってきて、 キュニコス派(犬儒派)の祖といわれたアンティステネスに弟子入りする。アンティステネスはソクラテスの弟子の一人。幸福になる為には徳の他に何も必要ないとして快楽を憎み、苦痛こそが「善」である,という禁欲的な思想を説いた。
ディオゲネスは口先だけの教えに反感を憶え、師を「自分の声が聞こえないラッパ」と批評した。アンティステネスは無欲を説くのに終始していたが、それを徹底して実践したのはディオゲネスの方だった。
彼は樽を住まいとしたので「樽のディオゲネス」あるいは「犬のディオゲネス」と呼ばれた。着物は一枚の布だけで、それを身体に巻き付け、 夜はそれをかぶって寝た。
子供が手で水を掬って飲むのを見て、「まだ余計な物を持っていた」とただ1つ持っていた椀を捨てたと云われている。航海中に海賊に捕らえられ奴隷として売られ、コリントで奴隷のまま一生を終わった。ディオゲネスは「どこのポリスの住民だ」と聞かれ、「世界の民」と答えた。
東方遠征でペルシア帝国を滅ぼしインドまで遠征したアレクサンダー大王は、賢者として知られていたディオゲネスを師に迎えるべく彼の住む樽を訪ねた。寝転がって日光浴を満喫していたディオゲネスは大王の一行が近づいてきても一向に相手にもしなかった。アレキサンダーは、それでもディオゲネスに近づき名前を名乗る。「余が大王アレクサンダーだ」。するとディオゲネスも、「余は『犬のディオゲネス』だ」と横柄に切り返し、大王の師になって欲しいという要請も拒否する。大王は、諦めきれず、「何か余にして貰いたい要望はないのか?」と食い下がるのだが、「それなら其処をどいて下さい。貴方が影になって、日向ぼっこの邪魔になるんです」と言って退けた。(http://viciousbird.port5.com/index_ta_te.html#Diogenes)
ここには一休に通ずる痛快さがある。
ハインリッヒは,否定を通し(いわば)絶対肯定に至るという思想を宗教の核心に見ていたようだ。この着想には説得力があると思う。
(木村毅著,鹿島出版会,1976年)を読む。疑いなく「パン・ヨーロッパの母」クーデンホーフ光子に関する基本文献のひとつ。光子とリヒャルト・クーデンホーフ・カレルギー伯爵のことをわが国に広めるのに力のあった鹿島守之助や鳩山一郎,池田大作等との関係も,これによりよくわかる。
すべての章が面白かったが,私にはとくにリヒャルトと妻イダ・ローランとのロマンスを扱った第13章「プラトンのたとえ話のごとく」が興味深かった。プラトンの対話編「饗宴」にあるたとえ話:人間はもともと4足4手をもって円筒形をしていた。ある日神がそれを2つに割って男と女としたため,別れ別れになってそれ以来互いに割られた半分を捜し求め,うまく見出したものがいわゆる幸福なのである。「多謝す,神よ。わが運命は,幾千万の女性の中から,その失われた半分に,とうとうめぐり合うことができたのだ」と,リヒャルトは自伝に書いている。そのめぐり合いがこの章のなかで紹介されている。女優としてのイダ・ローランについて,リヒャルトは「女優としては彼女に並ぶ者はなかった。主役を演じる彼女を見た人々のすべてにとっては,彼女は忘れることのできない存在であった。彼女はドイツ語を話す一番立派な舞台,すなわち,ウィーンのブルク劇場で世界文学の中の最も立派な役を演じる幸運に恵まれていた・・」と書いている。また,詩人リルケがイダの演技を見ていて,「彼女の素質の瑞々しさ,身振り,着想,演技の盛り上げ方は,絶えず新しく生まれ出でて,澄みきって,泉のように清らかな水を湧かし出しているようだった」と遺稿に書いている,という話も興味深かった。