父・山口多聞ー空母「飛龍」の最後と多聞「愛」の手紙

2005-12-19 | history

を読む。山口多聞海軍中将は,太平洋戦争時日本海軍屈指の名将。山本五十六とともに日米開戦反対派。

ミッドウェー海戦において第二航空戦隊司令官として「飛龍」に座乗。敵艦隊発見の報告を受けて、ミッドウェー島第二次攻撃用に陸上攻撃用装備させていた部隊をそのまま敵空母戦力の無効化のために差し向けるよう,司令長官南雲中将に進言するも、艦隊に対して陸上装備では攻撃力に欠け戦果を期待できない事を理由に却下される。

主力空母赤城、加賀、蒼龍が米軍機の攻撃を受け大破した後、飛龍のみで敵三空母攻撃を決意し、二次に渡る反撃を展開,空母ヨークタウンを大破させる(後魚雷により撃沈)。しかし,三次攻撃準備中敵機の襲撃を受けついに飛龍は大破。部下を駆逐艦に退避させた後,加来止男艦長と共に艦と運命をともにする。(ウィキペデイア参照)

この本は,三男宗敏氏による父山口多聞の伝記。すぐれた日本人先輩の記録だ。主力空母4隻を失う大敗を隠すため,ミッドウェー生き残りの人々を生還しがたい激戦の南方に配備したとされる「大本営」の醜さと対照的だ。

飛龍参謀伊藤清六中佐による「山口多聞少将御戦死情況」を興味深く拝読させていただいた。総員退艦の間,山口司令官が艦長や幕僚などと思い出話をし,加来艦長が月を見上げニコニコしながら「自分が生まれたのは月の美しい夜だったそうだが,同じように月のきれいな晩に死ねるのは仕合わせだ」と言うと,司令官もニコニコしながら「武人としてこんないい死に方をするのは本当に幸福ですねー」と述べたとのこと。また,退艦前,主計長が「艦内に沢山の金があるのですが,取り出せません」と報告すると,加来艦長が「出さず沢山残しておけ,地獄でも金が必要だ」と返し,それを聞いていた山口司令官がニコニコしながら「艦長には隠し芸でもうんとやっってもらう」とまぜっかえした,という話などが紹介されている。これらの話は後に大本営によって利用されただろうが,実際にあったことでもあったろう。柔軟な精神をもったすぐれた人々であったことがよくわかる。(奥方に対する「愛」の手紙のほうはこれから拝読させていただこう。)

最新の画像もっと見る

コメントを投稿