大型トレード準備中

2005-07-30 | mlb
ラミレスはやはりボストンで快適とはいかなかったようだ。プライバシーが守れない、という理由でトレードを球団に希望、それに応ずる形でメッツ、デビルレイズとの間で3角トレードがまとめられているとのこと。
http://boston.redsox.mlb.com/NASApp/mlb/news/article.jsp?ymd=20050729&content_id=1149708&vkey=news_bos&fext=.jsp&c_id=bos

レッドソックス:M.キャメロン(メッツから)、A.ハフ(デビルレイズから)
メッツ:ラミレス、バエズ(デビルレイズから)
デビルレイズ:若手有望選手数名

という交換。
メッツが一番得しそうだ。メジャー有数の強打者と実績あるクローザーを手に入れることができるからだ。
ペドロとラミレスの再合体。チームバランスとしてはヤンキースを上回るだろう。メッツがシーズン後半の台風の目になりそうな感じだ。

ヤンキースの補強

2005-07-28 | mlb
31日4p.m.のnon-waiver trade deadline接近

Newsday.com等によると、ヤンキースGMキャッシュマンの補強のねらいは次のもよう。
1)先発投手:Seattle's Gil Meche and Pittsburgh's Mark Redmanーどちらもそんなにいい投手とは思えないが「価格」が下がるのを望んでいるとのこと(野茂は獲得済み)
2)ブルペン:Seattle's Ron Villone and Pittsburgh's Rick Whiteー現在ヤンキースのブルペンで頼りになるのは、クローザーのリベラのみ。8回を任せるゴードンも頼りにならない。
3)センター:B.ウィリアムズの衰えが目立っているので、守備範囲の広いセンターがほしい。シアトルのウィンが主なターゲット。

ヤンキースはトレードするにも、交換相手となるべき生きのいい若手選手はこれまでのトレードで大方放出済みなので、持ち駒がない。苦しいところ。私見では、ブルペンがお寒い限り。ブルペンを強化しないと安定して勝ち続けることはむずかしかろう。左右のいいセットアッパー1人とれないと苦しい。高津もとればよい。ターゲットのRon Villone(左)は39.1イニング投げて防御率2.52、 Rick White(右)は51.1イニングで、防御率2.45。本格的なセットアッパーだ。本当にこのクラスがとれるのだろうか。

野茂,ヤンキースとマイナー契約か

2005-07-27 | mlb
「野茂,今日にもヤンキースとマイナー契約」
という記事がニューヨーク・ポストにあらわれた。
http://www.nypost.com/sports/yankees/26263.htm
はじめ,3Aコロンバスに所属,調整登板の後,メジャー復帰となりそう。
野茂,ヤンキース入りというのは夢のシナリオだったが,実現することになりそうだ。

ヤンキースはこのところ調子を上げてきて,地区首位のレッドソックスと1ゲーム差に迫っているものの,先発投手陣が火の車。R.ジョンソン,ムッシーナと先日加入のライターくらいが元気で,ブラウン,パバーノ,ライト,ワンはみな故障か,リハビリ中だ。31日のトレード期限までに,もう一人先発投手を補強するかもしれないが,その場合でも盤石とは言いがたい。

ニューヨークは選手にとってはタフなところのようだが,やりがいは大いにある。松井とのコンビでワールドシリーズ制覇!といきたい。
(野茂の代理人ダン・野村は昨日,ヤンキースを含む4チームと野茂との契約について話し合ってきた,野茂は優勝争いをしているチーム,9月に投げがいのあるチームを望んでいる,と語ったとのこと。)

海東青―摂政王ドルゴン

2005-07-27 | literature
ドルゴン(1612-50)は、満州族(女真族)の英雄ヌルハチの第14子で,父ヌルハチ、兄ホンタイジの遺志を継ぎ、明末の混乱のなか北京を攻略,清帝国を建国した立役者。幼い順治帝の摂政となり,摂政王と呼ばれた。これは彼の物語。井上祐美子著,中央公論新社。

非常に興味深く読めた。1644年李自成が北京に入城し、明を滅ぼすと,孤立した山海関の守将呉三桂の要請に応じ,山海関を越え、李自成軍を撃破、北京入城のあたりは痛快な進軍劇だ。女真族の習俗である弁髪の要求には、さぞや漢族の人々もショックを受けたことだろう(「頭をとどめんとすれば髪をとどめず、髪をとどめんとすれば頭をとどめず」)。

ドルゴンは、ホンタイジの急死後、自ら皇帝になることが可能な立場にありながら、兄の子フリン(5歳)に皇位を譲り(順治帝)、摂政にとどまった。そのおり、新帝の母を妃としたといわれる。もちろん、息子を皇位につけ、安全をはかりたいと願った母親やその周辺からの働きかけがあっただろうし(ちなみに、父ヌルハチが亡くなった時、ドルゴンの母親はヌルハチから殉死を命ぜられている。なお、兄の死後その妻が新しい王である弟の妻になることは遊牧民族ではあたりまえの習慣とのこと)、また、政治的妥協が必要な状況でもあったろうが、いずれにせよ、ドルゴンは皇位よりも女性を選んだことになる。さすがは英雄ドルゴンだ。

ドルゴンは死後、生前の「罪」を順治帝にとがめられ、名誉剥奪されている。母が叔父の妃であることに耐えられなかったからといわれる。乾隆帝の時代に名誉回復。

中国の歴史

2005-07-26 | literature
「釵頭鳳」のところでも登場したが、私は陳舜臣さんのファンだ。中国を舞台とする彼の歴史小説はかなり読んでいる。「秘本三国志」(文春文庫)など夢中で読んだ口だ。標準的な三国志とは少し違うようだが、これを読んだ後では他の三国志が色あせて見える。私にとっては「秘本三国志」が三国志だ。「小説十八史略」(講談社文庫)も面白い。しかし、何と言ってもすばらしいのが「中国の歴史」全7巻(講談社文庫)。悠然たる筆使いがすばらしい。

中国歴代皇帝の中で最高の名君は誰かという問題について、陳さんが宋の太祖・趙匡胤を推していたのが記憶に残っている。その大きな理由が「石刻遺訓」だ。

石刻遺訓
北宋(960-1127)では、皇帝が即位すると、宮中の奥深くで、一種の秘儀が行われた。それは宋の太祖・趙匡胤が子孫のために石に刻んだ遺訓を拝み見る儀式であった。その石刻遺訓の内容は皇帝一人が知っており、宰相といえども知らなかった。
金軍により北宋の首都開封が破壊された時に、石刻遺訓もはじめて明るみに出たと言われる。その遺訓とは、後周王室柴氏の面倒をいつまでも見ること(宋の建国は柴氏から「禅譲」されたというかたちをとった)、そして士大夫を言論を理由として殺してはならないということだった。
即位の秘儀として石刻遺訓を見た歴代皇帝がこれを厳守したのは言うまでもない。宋の時代には多くの論客が登場し、また新法と旧法の政争がどんなに熾烈ではあっても、敗れた側は左遷か流罪が限度だった。
宋建国時に投降した政権の君主の一族や重臣達の中で、粛清された者は一人もいない。
(http://homepage3.nifty.com/adeno1/sci/hist3b.htm一部加工)

「(諸葛孔明と司馬仲達が対決した)五丈原の役以後の三国時代後期、すなわち晋の成立の過程は、司馬懿とその意志を忠実に受け継いだ息子たちが、政治的対立者をつぎつぎと迫害抹殺していった歴史である。純粋な権力闘争であり、何の理想も大義名分もない。実に暗い時代である」といわれるが(http://www.eva.hi-ho.ne.jp/y-kanatani/minerva/History/Jin/jin3.htm)、そういう政権とは大違いである。後にモンゴルに攻められ南宋(1127-1279)が滅んだとき、宋のために命を投げ出した士大夫が多かったのもむべなるかなだ。

花影の花

2005-07-23 | literature
いま一冊。平岩弓枝「花影の花ー大石内蔵助の妻」(新潮文庫)。大石内蔵助の妻「りく」を主人公とする歴史小説。完成度の高い名作。平岩さんは時代小説(市井もの)が多いようだが,歴史小説としてはほかに「かまくら三国志」などがある。「かまくら三国志」も読んだが,正直「花影の花」との落差にとまどった。花影の花に触発されて,池宮彰一郎「四十七人目の浪士」(新潮文庫)を読んだ。これも傑作。吉良上野介邸に討ち入った赤穂四十七士の中で、ただひとり生き残った足軽・寺坂吉右衛門の物語。あまり知られていない物語の小説化はありがたい。

鳳凰の冠

2005-07-23 | literature
藤沢周平と一緒にでてきたのが,宮城谷昌光「沈黙の王」,「孟夏の太陽」,「長城のかげ」。いずれも文春文庫。宮城谷は中国古代歴史小説の第一人者。「太公望」や「楽毅」といった長編も魅力的だが,これらに納められている短編や中編もよい。「沈黙の王」は夏から商,周にかけての時代,「孟夏の太陽」は春秋戦国時代,「長城のかげ」は楚漢戦争を扱っている。晋の宰相「趙武」の物語を含む連作集「孟夏の太陽」も私にとっては大事な一冊だが,ここでは「沈黙の王」の最後に収められている「鳳凰の冠」(ほうおうのかんむり)をとりあげよう。これは晋の名臣「叔向」(しゅくきょう)と彼の妻「季邢」(りけい)との物語。季邢は絶世の美女とうたわれた夏姫の娘。宮城谷には「夏姫春秋」という長編があるが,完成度では断然「鳳凰の冠」が上回る。ふたりの出会いと結婚、叔向の名臣ぶりが、作家的想像力をもって魅力的に描かれ,あますところがない。名品だ。

鷦鷯(みそさざい)

2005-07-19 | literature
春に隣町に引越,いくつかの荷物がそのままになっていた。数日前,荷物の一つをひもといたところ,何冊か目新しい文庫本がでてきた。そのなかに藤沢周平の「玄鳥」(文春文庫)があった。ページをめくってみたところ,「鷦鷯」(みそさざい)という短編が目に入った(鷦鷯は鳥の名前)。数年前読んだときの,これは名作だ,という思いがよみがえる。横山新左衛門の娘「品」がとにかく絶品だ。藤沢周平の小説はみな姿がよいが,晩年に近づくにつれて明るさ,やさしさを増したように思う。すばらしい。世の周平ファンが「鷦鷯」をどう評価しているのかは知らない。作品全体の完成度が群を抜く,とは言わない。しかし,「品」がとにかく絶品だ。

bright Kenmore CITGO sign

2005-07-19 | mlb
    (http://www.boston.com/news/globe/magazine/articles/2005/07/17/home_run/)

フェンウェイパーク?一瞬驚きましたが、実はレッドソックスのマニー・ラミレス外野手の2歳の愛息マニー,Jr.君の部屋でした。フェンウェイパークが大好きなマニー,Jr.君のために,両親が(ボストンのペントハウス37階にある)彼の部屋をこのようにデザインしたとのこと。一時、ヤンキース入りかなどと騒がれたこともありましたが、昨年のワールドシリーズ優勝もあり、ラミレスもすっかりレッドソックスの一員になっているようです。

高津、ホワイトソックスから戦力外通告。彼を欲しがるチームは多いだろうが、ようやく馴染んだチームや町を1年少しで去ることはつらかろう。ホワイトソックスも非情。こういう扱いをされるのなら、日本人選手も少し考えたほうがよい。メッツとホワイトソックスは要警戒。

私が期待している多田野(インデイアンズ)が,先日今年2度目のメジャー昇格。セットアッパーとして登板、4回を1失点の好投。登録枠の関係もあって、すぐ3Aに戻される。インデイアンズは機が熟すのを待っている感じ。こちらは,じっくり育て戦力に加えようという意図を感じる。

野茂,新天地へ

2005-07-17 | mlb
金曜日のトロント戦で3回KOされた野茂が新天地を探すことになった。
タンパベイの登録選手枠からはずれ,今後10日のうちにトレードもしくは解雇となるとのこと。
チームから大事にされたと思うが,1勝7敗,防御率10.32と,アウェーで結果を出せなかった。
ホームで4勝1敗,防御率3.91が好材料。
声をかけてくれる球団があらわれるのをフロリダの自宅で待つ,とのこと。かなり打たれているので心配だが,吉報を待ちたい。

梓弓春になりなば

2005-07-15 | 良寛
http://yuka.itspy.com/menu/sekai/2002/ryoukan/koi/koi.html

其後はとかく御心地さわやぎ玉はず。冬になりてはたゞ御庵にのみこもらせ給ひて、人々たいめもむづかしとて、うちより戸ざしかためてものし給へる由、人の語りければ、せうそこ奉るとて、
  そのまゝになほたへしのべ 今さらにしばしのゆめをいとふなよ君    貞心尼
と申し遣しければ、其後給りけること葉はなくて
  梓弓春になりなば 草の庵をとくとひてまし あひたきものを       良寛
かくてしはすの末つがた、俄に重らせ玉ふよし人のもとよりしらせたりければ、打おどろきて急ぎまうでて見奉るに、さのみ惱ましき御けしきにもあらず。床の上に座しゐたまへるが、おのがまゐりしをうれしとやおもほしけむ、
  いつ\/とまちにし人は來りけり 今はあひ見て何かおもはむ       良寛
  むさしのゝくさばのつゆのながらへてながらへはつる身にしあらねば    同
かゝればひる夜、御片はらに在りて御ありさま見奉りぬるに、たゞ日にそへてよわりによわり行き玉ひぬればいかにせん。とてもかくても遠からずかくれさせ玉ふらめと思ふにいとかなしくて
  生き死にの界はなれて住む身にも さらぬわかれのあるぞ悲しき      貞心尼
御かへし
  うらを見せおもてを見せてちるもみぢ                  良寛
こは御みづからのにはあらねど、時にとりあへ玉ふ、いとたふとし。

天保二卯年正月六日遷化よはひ七十四

つれ\/と見侍るに、禪師のみとくは、世に知るところなれば、更にもいはず。言の葉の道にさへ折にふれ事にあひて、心のまゝに詠み玉ふうたの樣、丈高くこと葉すなほにして、さながら古への調に異ならず。打ずしぬれば、自ら心すゞしくて、今の世のきはには有りがたくおぼえ侍るまゝに、いとかしこき業ながら、はちすの露ともいはまほしとぞなむ。
(「蓮の露」http://www2s.biglobe.ne.jp/~Taiju/teisin_04.htm#4_01)


* 「一生成香」(一生、香を成せ)が良寛の座右の銘とのこと。「禪師のみとくは、世に知るところなれば」とあるように、良寛は銘どおりの生涯を送ったと思う。良寛の晩年を美しく飾るとともに、彼の歌を保持し後世に伝えた貞心尼に感謝。老いた良寛をひきとり守護した木村家にも高い香を感じる。木村家についてはhttp://www.nigensha.co.jp/data/ad_sb/20050405/を参照。

*文学にうとい私は、「良寛に愛された尼貞心」等の著者相馬御風について何も知らなかった。何と「都の西北」の作詞者であるとのこと。次はhttp://www.oumi-j.jorne.ed.jp/bsn/3a-webpage/3128/index.htmlから。
 
相馬御風「ぎょふう」(本名:相馬昌治)は、明治16(1883)年7月10日、新潟県糸魚川町大字大町(現在の新潟県糸魚川市大町2丁目)で、父:徳治郎と母:チヨのひとり息子として生まれました。
御風は、幼いころから文才に優れ、中学校在学の時から自らを「御風」と名づけ、すでに短歌を詠んでいました。東京専門学校(早稲田大学)高等予科に入学する少し前に、新詩社(しんししゃ)に入会しますが、のちに脱退し、同志と東京純文社を創設します。
その後、1906年、早稲田大学を卒業し、早稲田文学社に入り「早稲田文学」の編集を担当。早稲田詩社を結成し、「口語自由詩」を提唱し、自由な言葉とリズムによる新しい詩のメロディーを主張しました。また、同40年には早稲田大学創立25周年に際し、校歌「都の西北」を作詞しました。
その後糸魚川に帰った御風は、ライフワークとなった良寛研究、執筆読書の生活をします。また、「春よ来い」などの童謡の作詞も手がけました。この他にもいろいろな業績を残した御風でしたが、昭和25(1950)年5月7日、突然脳いっ血で倒れ、翌8日、その66年間の生涯を閉じました。

歌やよまむ手毬やつかむ

2005-07-15 | 良寛
ある時與板の里へわたらせ玉ふとて、友だちのもとより知らせたりければ急ぎまうでけるに、明日ははやこと方へわたり玉ふよし、人々なごりをしみて物語り聞えかはしつ(*つ)打とけて遊びける中に、君は色くろく衣もくろければ、今より「からす」とこそまをさめと言ひければ、げによく我にはふさひたる名にこそと、打笑ませ玉ひながら
 いづこへも立ちてを行かむあすよりは鴉てふ名を人のつくれば  良寛
とのたまひければ
 山がらす里にいゆかば子がらすもいざなひてゆけ羽よわくとも  貞心
御かへし
  いざなひて行かば行かめど人の見てあやしめ見らばいかにしてまし  良寛
御かへし
  鳶は鳶雀は雀さぎはさぎ烏はからす何かあやしき   貞心
日もくれぬれば宿りにかへり、又あすこととはめとて
  いざさらばわれはかへらむ君はここにいやすくいねよ早あすにせむ  良寛
あくる日はとくとひ來玉ひければ
  歌やよまむ手毬やつかむ野にやいでむ君がまに\/なして遊ばむ    貞心
御かへし
  歌もよまむ手毬もつかむ野にも出む心ひとつをさだめかねつも    良寛

このあたり,貞心尼の元気に良寛たじたじの感。「君がまに\/なして遊ばむ」の歌など,はじめは良寛の歌かと思った。

君にかくあひ見ることのうれしさも

2005-07-14 | 良寛
貞心尼が、三嶋郡嶋崎村木村家邸内の小庵を訪ねて初めて良寛和尚に見えたのは、文政九年の秋であつた。良寛和尚の高徳の聞えは、ずっと以前から彼女の耳にも入つてゐた。敬慕のあまりどうかして一度その人に會つて見たいものだとは、彼女の久しい前からの念願であつた。そこで人を介してその意のあるところを和尚の許へ通じて貰ふと同時に、和尚が常に好んで手毬を弄ぶといふことを聞いて詠んだ歌にかこつけてさうした自分の敬慕の心を傳へて貰つたりした。
 これぞこのほとけの道にあそびつゝ 撞くやつきせぬみのりなるらむ
すると思ひがけなくも和尚からその歌の返しが屆いた。
 つきてみよひふみよいむなこゝの十とを とをさめてまた始まるを
そんなわけでつひに彼女はたまらなくなつてみづから訪ねたのであつた。
 君にかくあひ見ることのうれしさも まださめやらぬ夢かとぞおもふ
まつたくそれは彼女にとりては半ば夢心地の歡びであつた。その日は初めての見參であつたにも拘らず、貞心は夜更けるまでも良寛のそばを離れ得なかつた。
 白たへのころもでさむし秋の夜の月 なか空にすみわたるかも
こんな風に良寛の方で夜の更けたのに驚いてゐるにも拘らず、貞心の方では、
 向ひゐて千代も八千代も見てしがな 空行く月のこと問はずとも
と名殘を惜みもし、未練を殘しもしてゐる。良寛の方でもその心根を察して、
 心さへ變らざりせばは ふつたのたえず向はむ千代も八千代も
とやさしく慰め、
 又もこよ山のいほりをいとはずば 薄尾花の露をわけ\/
といふやうに、しみじみとした思ひを寄せてゐる。
(相馬御風「良寛に愛された尼貞心」4節
 http://www2s.biglobe.ne.jp/~Taiju/teisin_01.htm#1_01一部省略・加工)

この場面のカラフルな解説と貞心尼の絵がhttp://yuka.itspy.com/menu/sekai/2002/ryoukan/koi/koi.html
にありました。楽しいサイトですね(あまりに素敵なので、上で一枚お借りしています)。

こは師のおほんかたみと傍におき

2005-07-13 | 良寛
蓮の露

良寛禪師と聞えしは、出雲崎なる橘氏の太郎のぬしにておはしけるが、十八歳といふ年に、かしらおろし給ひて、備中の國玉嶋なる圓通寺の和尚國仙といふ大徳の聖におはしけるを師となして、年ごろ其處に物し玉ひしとぞ。又、世に其名聞えたる人々をばをちこちとなくあまねく尋ねとぶらひて、國々にすぎやうし玉ふ事はたとせばかりにして、遂に其道の奧をきはめつくしてのち、故里へかへりたまふといへども、更に住む所を定めず、こゝかしこと物し玉ひしが、後は國上の山に上り、自ら水汲み薪を拾ひて行ひすませ玉ふ事三十年とか、嶋崎の里なる木村何がしといふものかの道徳をしたひて親しく參りかよひけるが、齡たけ玉ひて斯る山かげにたゞ一人物し玉ふ事の、いと覺束なふ思ひ給へらるゝを、よそに見過しまゐらせむも心うければ、おのが家居のかたへに、いさゝかなる庵のあきたるが侍れば、かしこにわたり玉ひてむや、よろづは己がもとより物し奉らんとそゝのかし參らするに、如何が覺しけむ、稻舟のいなとも宣はず、其處にうつろひ給ひてより、主いとまめやかに後見聞えければ、ぜじも心安しとてよろこほひ(*ママ)給ひしに、其年より六とせといふ年のはじめつ方、遂に世を去り給ひぬ。

かく世はなれたる御身にしも、さすがに月花の情はすて玉はず、よろづの事につけ折にふれては、歌よみ詩つくりて其心ざしをのべ給ひぬ。されど是らの事をむねとし玉はねば、誰によりて問ひ學びもし玉はず、只道の心をたねとしてぞ詠み出し給ひぬる。其のうたの樣、自ら古の手振にて、姿・言葉もたくみならねど、丈高く調なだらかにして、大かたの歌よみの際にはあらず。長歌・みじか歌とさま\〃/有るが中には、時にとり物にたはふれて(*ママ)よみ捨て玉へるも有れど、それだに世の常の歌とは同じからず。殊に釋教は更にも云はず、又月の兎、鉢の子、白かみ、など詠み玉ふもあはれにたふとく、打ちずしぬれば、自ら心の濁も清まり行く心地なむせらるべき。此道に心有らむ人、此歌を見る事を得て、心に疑ふ事あらずば、何の幸か是に過ぎんや。さればかゝる歌どもの、こゝかしこに落ち散りて、谷の埋れ木埋れて世に朽ちなむ事の、いと\/をしければ、此處にとひかしこにもとめて、やう\/にひろひあつめ、又、己が折ふしかの庵へ參り通ひし時、よみかはしけるをもかき添へて一卷となしつ。こは師のおほんかたみと傍におき、朝夕にとり見つゝ、こしかたしのぶよすがにもとてなむ。

天保むつの年五月のついたちの日に
                     貞心尼しるす

以前「乞食が字を書いて独生している」という水上勉のことばを引用したが、最後まで良寛がそのような境遇にいたわけではない。よく知られているように、晩年良寛は貞心尼という年若い弟子をえた。良寛の死後、貞心尼が編んだ歌集が「蓮の露」である。彼女と良寛との相聞歌をふくむ「蓮の露」は良寛を後代に伝える上で最も貴重な文獻である、と言われる。上は、貞心尼によるその前書である(http://www2s.biglobe.ne.jp/~Taiju/teisin_04.htm#4_01)。

貞心尼がはじめて良寛に会ったのは、彼女二十九歳の時であり、その時良寛はすでに七十歳であった、とされる。貞心尼とはどんな女性であったのか。気になるところである。相馬御風「良寛に愛された尼貞心」(http://www2s.biglobe.ne.jp/~Taiju/teisin_01.htm#1_01)によると:

貞心尼—彼女はもと越後長岡の藩士奧村五兵衞といふものの女であつた。寛政十年に生れた。兄弟は一二人あつたらしいがよくわからぬ。又俗に居た時の彼女の名も今は知るよしもない。しかし、彼女が非常な美人であつたこと、そしてその美貌ゆゑに十七八歳の頃同國魚沼郡小出郷の醫師關長温に望まれてその許に嫁したこと、そして同棲六七年で愛する夫に死なれた爲に實家に歸つたこと、それから間もなく柏崎に來て剃髪の身となつたことなどは、ほゞ明らかな事實である。

彼女の美貌であつたことは、彼女が後半生を住み暮した柏崎で今日でもなほ廣く語り傳へられて居ることによつてたしかであるが、更に私は彼女の遺弟で今なほ柏崎釋迦堂の庵主として生きながらへて居る今年七十七歳の高野智讓老尼の直話によつてもたしかめることが出來た。此の智讓尼にとりては貞心尼は唯一の受業師でもあり、且七歳から二十歳まで十四年間起居を共にしてゐたのでもあるから、その語るところには充分信をおいていゝわけである。智讓尼は云つた。
「わしらが庵主さんほど器量のえい尼さんは、わしは此の年になるまで見たことがありませんのう。」
かう云つてから老尼は更に心にその面影を想ひ浮べでもするやうに靜に眼をとぢながら、
「何でもそれは目の凛とした、中肉中背の、色の白い、品のえい方でした。わしの初めておそばに來たのは庵主さんの六十二の年の五月十四日のことでしたが、そんなお年頃でさへあんなに美しくお見えなさつたのだもの、お若い時分はどんなにお綺麗だつたやら…」
といふやうなことも話した。

自然法爾ー仏内存在

2005-07-10 | 親鸞

自然法爾(じねんほうに)の事

「自然」といふは、「自」はおのづからといふ、行者のはからひ(自力による思慮分別)にあらず、「然」といふは、しからしむといふことばなり。しからしむといふは、行者のはからいにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。「法爾」といふは、この如来の御ちかひなるがゆゑに、しからしむるを法爾といふなり。法爾はこの御ちかひなりけるゆえに、およそ行者のはからひのなきをもつて、この法の徳のゆゑにしからしむといふなり。すべて、ひとのはじめて(あらためて)はからはざるなり。このゆゑに、義なきを義としるべしとなり。

「自然」といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて迎えんと、はからせたまひたるによりて、行者のよからんとも、あしからんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ。

ちかひのやうは、無上仏(このうえなくすぐれた仏)にならしめんと誓ひたまへるなり。無上仏と申すは、かたちもなくまします。かたちもましませぬゆゑに、自然とは申すなり。かたちましますとしめすときには、無上涅槃とは申さず。かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめて弥陀仏と申すとぞ、ききならひて候ふ。

弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり。この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねに沙汰(あれこれ論議し、詮索すること)すべきにはあらざるなり。つねに自然を沙汰せば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるになるべし。これは仏智の不思議にてあるなるべし。

正嘉二年(1258年)十二月十五日
愚禿親鸞八十六歳

(親鸞聖人御消息「自然法爾の事」本願寺出版発行 浄土真宗聖典注釈版 p.768 ( )内は元注 一部加工)

親鸞晩年の自然法爾思想。他力思想の行き着いたところ。すべてを阿弥陀如来のはからいにゆだねるべきこと,あるいは自然のままにしておくべきこと,を説いている。救いは向こうからくる。仏智の不思議。
しばしば驚嘆をもって語られる「弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり」。(under construction)