すれっからし手帖

「気づき」とともに私を生きる。

年齢と老いること。

2013-04-17 10:49:03 | 世の中のこと

NHKの朝ドラ「あまちゃん」が好調のようだ。小泉今日子、キョンキョンの人気が視聴者を引き付けているとか、なんとか。

彼女は、私が幼いころからずっとテレビに出続けている人だ。小柄な体に、小さな顔ととがった顎、とりわけ何かを主張したいわけではなさそうだけれど、その立ち振る舞いや表情には、芯の強さがうかがえる。

「あまちゃん」に母親役で出てくるキョンキョンは、やっぱり今もかわいいけれど、40代後半にさしかかった現代女性の一つの姿を見せている。

極端に若づくりするでもなく、くすんだ肌だって顔のたるみだって、それなりに年を重ねた結果だ。

でも、それでも、キョンキョンは美しい。

「昔は綺麗だったのに・・・」

とは言わせない、今現在の、美しさを持っている。そして、それを自分でわかっている。

なぜだろう。

自分の年齢ときちんと折り合いをつけて、それを楽しめているからかな。
何かのインタビューで、

「50代になってからとか、おばあちゃんになってからの自分が楽しみ」

といったような趣旨のことを話していたけれど、それはきっと本心なのだろう。
負け惜しみ的な響きは一切なかった。

こういう人は、実は、そんなに多くない。老いることを嘆き、あるいは恐れ、若いころを懐かしむ人は多いし、「年をとることは素敵なことを」とうそぶいても、空々しさを感じさせる人もいる。


池田晶子さんの、「新・考えるヒント」の中に、こんなくだりがある。


「人は、とくに現代人は、たいていが自分の年齢が自分にふさわしくないと感じている。自分は自分であるという自意識だけは明瞭であり、なおかつ、老いることは敗北であるとする時代の風潮もあり、年齢として示されるその数字が、自分の年齢であるとは、とても思えない、
思いたくないのである。

しかし、年齢とは、字義通りには、その肉体が経てきた年月のことである。中年も過ぎようという頃にもなれば、いくら耳をふさいでも、年齢の足音は確実に聞こえてくる。
肉体は以前のようには動かなくなるし、視界には寿命という限界も見えてくる。
そんな時、人は、自分の年齢は自分にふさわしいと、実は感じているはずである。
その感覚、その感慨は、それを敗北としてとらえさえしなければ、きわめて貴重な瞬間ではなかろうか。年齢は、それに進んで応和しようとするなら、そこから向こう側の実在へと広く展かれてゆくことのできる窓である。」

41歳の私にも、ストンと胸に落ちる言葉だ。

池田さんもまた、老いていく自分を味わえる、貴重な人だったのだと思う。




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