最近、よく目につくのが、母と娘についての本やテレビの特集。なかでも、毒母を論じた本やノンフィクション、小説の類はブームのようになっている。
実際に手に取ったのは、記憶にあるものでざっとこんなところ。
『母が重くてたまらない―墓守娘の嘆き』信田 さよ子
『インナーマザー―あなたを責めつづけるこころの中の「お母さん」』斎藤 学
『毒になる親 一生苦しむ子供』スーザン・フォワード
『放蕩記』村山 由佳
『母がしんどい』田房 永子
専門家が書いた上3冊は、これほどブームになるより前に読んだ。なるほど、なるほど、と首を何度も縦に振りながら読んだ。やっぱりな、だからか、なんて自分が見聞きした母と娘のうまくいかない関係が読み解けて、爽快ですらあった。
そして、いわば当事者の自伝的要素の強い下2冊はブームが来てから読んだ。膝を打つような共感よりも、激しい衝撃とそれに続く後味の悪さに辟易した。特に、「放蕩記」の方はすさまじかった。
母親サイドから語ればまた違う風景が見えるのだろうが、娘が記憶する母との日々が、娘の中にはこうした事実として残るという、その関係を思うと、いたたまれない気持ちになった。
こうしたテーマに多数の人が関心を向けるというのは、程度の差こそあれ、こうした母と娘の関係がいたるところで存在するということなのだ。
私が援助職をしていた職場の精神障害の人たちには、母との関係が症状に影響を与えている人が多かったし、私の昔からの友人たちを思い浮かべても、母親との関係をうまくいかない人生や生きずらさの元凶として、引きずっている人は多かった。
彼女たちは、みんな母親の聞こえない声を聞きながら、その影と戦っている風にも見えた。嫌いだけど好き。重いけど捨てられない。そんなアンビバレンツな感情に揺れていた。
私は、母との関係は悪くない。
正義感が強く情に厚い反面、若い頃は感情の不安定さ、激しやすさなどを抱えていた人で、子どもとしては大変な面があった。ただ、その影響は、ほとんど姉が引き受けてくれたのだと思う。
次女という立場のおかげもあって、母に対しては、好きとか嫌いとか、こじれた感情も、激しい思慕もない。
私には娘もいないから、母と娘の問題は実際には外野の立場でしかない。でも、母と娘は厄介なものと考えている節はあった。だから、息子がお腹にいて性別がわかった時、ほっとした、というと言いすぎだけれど、やっぱり女の子は来ないよね、とは思った。
元々私は自分が親になる姿を想像できないくらいに、親になることに違和感があった。自分にも自信がなかったから、自分が影響を与えてしまう存在を産みだすことが怖かったのかもしれない。
そんな私が息子を育てていて思うのは、やっぱり男の子は楽、育て易い、ということだ。多分一般的に言われていることとは逆だと思う。
一般的に女の子が母親にとって育て易いといわれるのは、体力的に楽というのと、自分も女の子だったから子どもの気持ちを理解しやすいというものだろう。
体力面は、確かにそうだろうけれど、「理解しやすい」という面が曲者だったりする。
私は、小さな女の子を見ていると、自分がその頃に感じていたこと、考えていたことが生々しく浮かび上がってきて、なんだか胸がいっぱいになる。楽しいことだってたくさんあったけれど、悲しみや傷の方がより鮮明た。
大人を見るまなざし、友だちとのやりとり、その心の中で動いていることが、自分に起きているような錯覚を起こす。姪を見ていてもこれだから、自分の娘だったらと思うとたまらない。
また、少し大人びた女の子に出会うと、どきまぎする。同じ女性として、値踏みされるのではと身構えてしまう。大人対子供という立場を越えた、女対女の対等かつ誤魔化しがきかない雰囲気が落ち着かない。いわゆる女子力の低い私は、こんな女の子が娘だったら、きっと負ける、もたないはず、と弱気になる。
体力勝負は否めないけれど、宇宙人である異性の子どもは最初から理解を諦めている。だから、自分の過去がシンクロしない。しかも、彼らの母親への眼差しはあまりにゆるい。
公園通いの日焼けが辛くても、ピンクやレースの子ども服が買えなくても、私にとっては、この二つのメリットに救われているのだ。
こんな私は少数派で、世間では、娘を産みたがる人が圧倒的に多い。男の子しかいないママで男の子育児の魅力を語る人にも、本当は女の子を望んでいた、という人は多い。
女の子の趣味を楽しみたい。自分が姉妹で楽しかったから。男の子を一人生んだから女の子も育ててみたい。娘を産んで母と自分みたいに仲良し親子なりたい。
そんな理由を聞くと、微笑ましく感じる。ただ、私は女の子趣味がないし、姉とも母ともべったり付き合っていないから、彼女たちのような女系へのこだわりがなくて共感度は低い。
一方で、それと同じくらいよく聞く女の子が欲しい別の理由には、胸がざわつく。
将来、買い物や旅行に一緒に行けるから。女の子だと結婚してもそばにいてくれるから。実家を大事にしてくれるから。女の子はずっと母親の味方だから。女親の気持ちをわかってくれるから。
女の子でも、母親と買い物にも旅行にもいかない娘もいるよ。結婚して夫の実家の近くに住む娘もいるし、転勤族と結婚することもあるよ。父親の味方をする娘もいるし、電話やメールがそっけない娘もいるよ。
と、喉から出そうになるけど、面倒くさいことになってもいけないので一応ひっこめる。それ、全部私だ(笑)、と自分突っ込みをしながら。
いや、トータル的には、母親と買い物や旅行に行ったり、父親よりも母親の味方をする娘は多いし、実家に比重を置くのは息子よりも娘の方が割合としては多い。私ほど母親に対してそっけない娘は少数派かもしれない。
でも、娘とは「そういうもの」、という多くの人たちが共有する前提や期待が実は、それらを叶えることのできない娘たちを苦しめている。
母親が描いた理想におさまれない優しい娘は心身ともに抑圧され、強いエネルギーを持った娘は母親との縁を切って完全に背を向ける。そんな極端なことに陥っている母と娘が特殊でないのは、最近の毒母ブームが何よりの証拠だと思う。
娘を「そういうもの」と都合よく考える人が多いから女の子の赤ちゃん人気は高く、母と娘の問題も娘は「そういうもの」だと考える母親が多いから増えたってことも言える。でも、世間が望む、母が願う娘像には馴染まない、はまれない娘は案外多いということなのだ。そのギャップの度合いが悲劇の大きさを左右するのかもしれない。
とまあ、外野の立場だから言えることなのだけれど、私も同性の子に対しては自分と同一化、あるいはなんらかの期待を無意識にかけてしてしまいそうな自分のメンタリティを自覚しているから、娘を持つことに怖さのようなものを感じてしまうだろう。
ただ、この世のことは全て相対的だから、こうした危うさのある母と娘の関係だからこそ、その反対側にある大きな魅力についても想像はできる。その黄金バランスを保ち、母と娘の関係を楽しんでいる人のことは心底うらやましい。
作家の田口ランディさんは、私にとってそんなお母さんの一人。
ランディさんの娘さんは、この春大学に進学するにあたり家を出ることになった。そんな娘さんに向けた珠玉の言葉を、このところたくさんツイッターにのせているランディさん。娘さん以外の若い人にも送りたいメッセージだとか。
こんな感謝の言葉を巣立つ子に向けて紡ぎだせるお母さんは、息子とか娘とか、そもそも子どもの性別なんてどうでもいいんだろうな、と惚れ惚れする。
田口ランディさんのアドバイス
娘さんへ&若い人たちへ
(↑ランディさんをフォローしている方がまとめたものです。)
実際に手に取ったのは、記憶にあるものでざっとこんなところ。
『母が重くてたまらない―墓守娘の嘆き』信田 さよ子
『インナーマザー―あなたを責めつづけるこころの中の「お母さん」』斎藤 学
『毒になる親 一生苦しむ子供』スーザン・フォワード
『放蕩記』村山 由佳
『母がしんどい』田房 永子
専門家が書いた上3冊は、これほどブームになるより前に読んだ。なるほど、なるほど、と首を何度も縦に振りながら読んだ。やっぱりな、だからか、なんて自分が見聞きした母と娘のうまくいかない関係が読み解けて、爽快ですらあった。
そして、いわば当事者の自伝的要素の強い下2冊はブームが来てから読んだ。膝を打つような共感よりも、激しい衝撃とそれに続く後味の悪さに辟易した。特に、「放蕩記」の方はすさまじかった。
母親サイドから語ればまた違う風景が見えるのだろうが、娘が記憶する母との日々が、娘の中にはこうした事実として残るという、その関係を思うと、いたたまれない気持ちになった。
こうしたテーマに多数の人が関心を向けるというのは、程度の差こそあれ、こうした母と娘の関係がいたるところで存在するということなのだ。
私が援助職をしていた職場の精神障害の人たちには、母との関係が症状に影響を与えている人が多かったし、私の昔からの友人たちを思い浮かべても、母親との関係をうまくいかない人生や生きずらさの元凶として、引きずっている人は多かった。
彼女たちは、みんな母親の聞こえない声を聞きながら、その影と戦っている風にも見えた。嫌いだけど好き。重いけど捨てられない。そんなアンビバレンツな感情に揺れていた。
私は、母との関係は悪くない。
正義感が強く情に厚い反面、若い頃は感情の不安定さ、激しやすさなどを抱えていた人で、子どもとしては大変な面があった。ただ、その影響は、ほとんど姉が引き受けてくれたのだと思う。
次女という立場のおかげもあって、母に対しては、好きとか嫌いとか、こじれた感情も、激しい思慕もない。
私には娘もいないから、母と娘の問題は実際には外野の立場でしかない。でも、母と娘は厄介なものと考えている節はあった。だから、息子がお腹にいて性別がわかった時、ほっとした、というと言いすぎだけれど、やっぱり女の子は来ないよね、とは思った。
元々私は自分が親になる姿を想像できないくらいに、親になることに違和感があった。自分にも自信がなかったから、自分が影響を与えてしまう存在を産みだすことが怖かったのかもしれない。
そんな私が息子を育てていて思うのは、やっぱり男の子は楽、育て易い、ということだ。多分一般的に言われていることとは逆だと思う。
一般的に女の子が母親にとって育て易いといわれるのは、体力的に楽というのと、自分も女の子だったから子どもの気持ちを理解しやすいというものだろう。
体力面は、確かにそうだろうけれど、「理解しやすい」という面が曲者だったりする。
私は、小さな女の子を見ていると、自分がその頃に感じていたこと、考えていたことが生々しく浮かび上がってきて、なんだか胸がいっぱいになる。楽しいことだってたくさんあったけれど、悲しみや傷の方がより鮮明た。
大人を見るまなざし、友だちとのやりとり、その心の中で動いていることが、自分に起きているような錯覚を起こす。姪を見ていてもこれだから、自分の娘だったらと思うとたまらない。
また、少し大人びた女の子に出会うと、どきまぎする。同じ女性として、値踏みされるのではと身構えてしまう。大人対子供という立場を越えた、女対女の対等かつ誤魔化しがきかない雰囲気が落ち着かない。いわゆる女子力の低い私は、こんな女の子が娘だったら、きっと負ける、もたないはず、と弱気になる。
体力勝負は否めないけれど、宇宙人である異性の子どもは最初から理解を諦めている。だから、自分の過去がシンクロしない。しかも、彼らの母親への眼差しはあまりにゆるい。
公園通いの日焼けが辛くても、ピンクやレースの子ども服が買えなくても、私にとっては、この二つのメリットに救われているのだ。
こんな私は少数派で、世間では、娘を産みたがる人が圧倒的に多い。男の子しかいないママで男の子育児の魅力を語る人にも、本当は女の子を望んでいた、という人は多い。
女の子の趣味を楽しみたい。自分が姉妹で楽しかったから。男の子を一人生んだから女の子も育ててみたい。娘を産んで母と自分みたいに仲良し親子なりたい。
そんな理由を聞くと、微笑ましく感じる。ただ、私は女の子趣味がないし、姉とも母ともべったり付き合っていないから、彼女たちのような女系へのこだわりがなくて共感度は低い。
一方で、それと同じくらいよく聞く女の子が欲しい別の理由には、胸がざわつく。
将来、買い物や旅行に一緒に行けるから。女の子だと結婚してもそばにいてくれるから。実家を大事にしてくれるから。女の子はずっと母親の味方だから。女親の気持ちをわかってくれるから。
女の子でも、母親と買い物にも旅行にもいかない娘もいるよ。結婚して夫の実家の近くに住む娘もいるし、転勤族と結婚することもあるよ。父親の味方をする娘もいるし、電話やメールがそっけない娘もいるよ。
と、喉から出そうになるけど、面倒くさいことになってもいけないので一応ひっこめる。それ、全部私だ(笑)、と自分突っ込みをしながら。
いや、トータル的には、母親と買い物や旅行に行ったり、父親よりも母親の味方をする娘は多いし、実家に比重を置くのは息子よりも娘の方が割合としては多い。私ほど母親に対してそっけない娘は少数派かもしれない。
でも、娘とは「そういうもの」、という多くの人たちが共有する前提や期待が実は、それらを叶えることのできない娘たちを苦しめている。
母親が描いた理想におさまれない優しい娘は心身ともに抑圧され、強いエネルギーを持った娘は母親との縁を切って完全に背を向ける。そんな極端なことに陥っている母と娘が特殊でないのは、最近の毒母ブームが何よりの証拠だと思う。
娘を「そういうもの」と都合よく考える人が多いから女の子の赤ちゃん人気は高く、母と娘の問題も娘は「そういうもの」だと考える母親が多いから増えたってことも言える。でも、世間が望む、母が願う娘像には馴染まない、はまれない娘は案外多いということなのだ。そのギャップの度合いが悲劇の大きさを左右するのかもしれない。
とまあ、外野の立場だから言えることなのだけれど、私も同性の子に対しては自分と同一化、あるいはなんらかの期待を無意識にかけてしてしまいそうな自分のメンタリティを自覚しているから、娘を持つことに怖さのようなものを感じてしまうだろう。
ただ、この世のことは全て相対的だから、こうした危うさのある母と娘の関係だからこそ、その反対側にある大きな魅力についても想像はできる。その黄金バランスを保ち、母と娘の関係を楽しんでいる人のことは心底うらやましい。
作家の田口ランディさんは、私にとってそんなお母さんの一人。
ランディさんの娘さんは、この春大学に進学するにあたり家を出ることになった。そんな娘さんに向けた珠玉の言葉を、このところたくさんツイッターにのせているランディさん。娘さん以外の若い人にも送りたいメッセージだとか。
母さんねえ、あなたが家を出ていくっていうんで、やっと、じぶんが家を出たときに母親がどんなに淋しかったかわかった。あなたがいなければ一生、わかんなかったと思う。死んだお母さんに心からありがとうって言えたよ。あんたを産んでよかったよ、ほんとにありがとう。
— 田口ランディ(Randy Taguch) (@randieta) 2015, 1月 14
こんな感謝の言葉を巣立つ子に向けて紡ぎだせるお母さんは、息子とか娘とか、そもそも子どもの性別なんてどうでもいいんだろうな、と惚れ惚れする。
田口ランディさんのアドバイス
娘さんへ&若い人たちへ
(↑ランディさんをフォローしている方がまとめたものです。)
私も、母親とは距離があると思います。
でも 特に憎しみもありません。それでも、重い時もありました。今は、北海道と岡山 かなり離れているので、優しい関係が築けてると思います。春には、息子が家を出ます。その時の自分はきっと、幸せを感じて生きて欲しいと、ひたすら苦しい程 祈ると思います。
春に息子さんが、家を出るんですね。切なさとか、淋しさとか、どこかホッとした気持ちとか、お母さんとして、色々な感情を経験されるんですね。私も、息子さんの新しい門出が素晴らしいものになることを祈っています。
そして、結局のところ、そんな母に助けてもらうことになり、子供達への思いで歩いてこれたと思う。しがみついてはいけない‥。私は男の子と女の子を育てる経験をさせてもらえた。男の子は自分とは違うと心も頭も理解し易い。女の子はおっしゃる通り自分自身と重ね合わせてしまう。抑えられない感情と向き合い、結局、あの頃の自分自身との折り合いをつけていくことなのかと‥。こちらのブログと出会い優しい表現で語りかけてもらっているような気持ちになり、ざわつく心を無理なく着地させていけるように思います。長くなってしまいました。
ありがとうございます。
お子さまたちとの素敵なご関係に温かいものを感じます。過去に色々な失敗をしても、後悔の多い人生だとしても、今をどう生きるかでいくらでも挽回できるのかもしれませんね。
そして、子どもは過去の母よりも今目の前にいる母をしっかりと見てくれる、ありがたい存在なんだな、と感じました。