幸せになりたかったらまず人を幸せにしなさい。
愛が欲しかったらまず人を愛しなさい。
この人生訓?は、
うそ偽りのない真実だと思う。
でも、これをそのまま実践すると、
たいがいは失敗に終わる。
自分が贈り物をして人が喜ぶ顔を見ればうれしいし、
電車で席を譲ったお年寄りに感謝されたらうれしい。
自分が尽くした恋人がその思いに答えてくれたら幸せだ。
自分は、与えられる人、つまり豊かな人ということになる。
そんな自分は、幸せな自分、愛すべき自分だ。
ただ、そこで終わらないから難しい。
やがて、
与えるだけじゃなくて、与えて感謝されること、
愛するだけじゃなくて、愛して愛されること。
後者に大きくウィートがおかれてしまう。
そうなると、問題がおきてくる。
与えたり愛する力が足りないにも関わらず、
またそれを自覚することなく、
受け取ることの快感欲しさに頑張りすぎてしまい、
ボロボロなってしまうことがある。
例えばボランティア活動を最初は猛烈に行っていた人が、
ある日突然プツっとやめてしまったりするのは、
そういうことなのかもしれない。
お年寄りや障害のある人のために手を貸して、
感謝されたりしたら、涙がでるほどうれしい。
こんな自分でも役に立てるのか、と心から感動する。
そんな相手の反応が、
自分をさらなる成長へと向かわせることがある一方で、
自分を追い組み、挙句、
燃え尽きてしまう方向へ導いてしまうこともある。
感動は、人を動かす燃料にはなるが、
動かし続けるには、それだけじゃ弱いのかもしれない。
また、与えた際に、
見返りを期待する気持ちが強くなると、
相手が何も返してこないときに、
腹を立てたり、落ち込んだりする。
最初は自分の側の理由でしたことも、
いつのまにか相手にも理由づけをするようになり、
それを強要すれば、当然嫌われる。
そして、結局は、悲しいかな、
幸せになること愛することに失敗してしまう。
人間、
自分の力を大きく超える量を人に与えたり、
愛したりすることは不可能なことのようだ。
そこで、最初の二行に戻る。
幸せになりたかったらまず人を幸せにしなさい。
愛が欲しかったらまず人を愛しなさい。
これに挫折したら、
自分を幸せにすること、愛することに切り替える手もある。
<人>の中に自分も入れるのだ。
究極的なことを言えば、
人間にとって、人も自分も一緒なのだ。
だから、幸せにするのも、愛するのも、
どっちが先でも同じなのだ。
自分で自分を幸せにする方法、
愛する方法を探すのは難しいが、
でも、とにかく探すのだ。
自分の好きなこと、
自分が幸せになりそうなこと、
を徹底的にやる。
というより、好きなことや、
自分を幸せにすること以外は極力やらない。
義務や罪悪感、自分が同意していない常識は無視して、
気持ちのいいことに意識を向ける。
自分の感情を大事にする。自分の体を大切に扱う。
食事に気を配る。睡眠をきちんととる。
おいしいものを食べる。エキササイズをこまめにやる。
とにかく自分を大事にして、
自分にできる、自分が喜びそうなことは、
なんでもやってみる。
そんなことを探っているうちに、
自分がどんな人間なのか、
自分はどんなことが好きで、
どんなことが向いているのか、
そんな風に、
自分の輪郭が見えてきて、
自分についてのうれしい発見があるかもしれない。
自分を自分でちゃんと幸せにできたとき、
自分を幸せにしながら人を幸せにする方法がわかるのかもしれない。
自分を自分でちゃんと愛せるようになったとき、
自分を愛しながら人を愛する方法がわかるのかもしれない。
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