すれっからし手帖

「気づき」とともに私を生きる。

「わたしという運命について」を書いた白石一文

2005-07-09 11:55:01 | 本・映画・音楽

白石一文って、好きな作家だった。
エゴイスティックで、インテリを気取ってて、
精神的に弱っちそうで、でもプライドは人一倍高くて・・・。

そんな生きていくだけでもしんどそうな人間の、
心にたまった澱が全面に押し出された小説の文章は、
限りなく手前勝手で独りよがりでありながら、
でも、この人の人間臭さがどうしようもなく体現されていて、
どこかでカタルシスを感じてもいた。

作品によっては過激なセックス描写もあって、
女性の読者としては結構引いてしまい、
「この人はいったい何か書きたいのだろ。
この描写はただのマスターベーションじゃないの」、
なんて断罪したくなったりもする。

でも、その不快感を埋め合わせするように、
含蓄のある一文が随所にちりばめられていたりする。
そうした文章に出会うと、
「あっ、この観念を煮詰めて一文にするのに、
この人はものすごい時間を費やしたんだろうな」と感嘆する。
その一例が、こんなくだり。

『どうしても生きないではすまいないような、
生きるしかないような、
そういう切羽詰った理由を見つけてから再び社会に出よう、
などと甘ったるく考えていたが、
今回のことで洪治が身に沁みたのは、
どうしても死なないではすまいないような、
死ぬしかないような切羽詰った理由でもなければ、
人は生きつづけるしかない、ということだった。』
(「草にすわる」より)

目からうろこだった。
気持ちが不安定だった時期に読んだこの文章は、
決して楽観的で明るいものではなく、
励まされるといった類のものではないけれど、
生きることに本来意味を求めること自体がおかしい、
あるいは、辛い時どうしても求めたくなる「死」は幻想でしかない、
と諭されているみたいで、ハッとした。

そう、だから、時々、鼻に付きながらも、
白石さんの小説は、やはり新刊が出てくると手に取った。
人が良さそうでとっつきやすような雰囲気の人が多い最近の作家とは違い、
この人は、たとえば、実際に身近にいても、
絶対に議論なんかしたくないし、
一緒にお酒なんかものみたくないタイプの人だけれど、
でも、だからこそ作家としての才能はやはり天賦のものだと思うし、
ぬるくってゆるい作品(嫌いじゃないけどね)が、
林立する今の文学界にあって、
時代性を織り込むことはしても決して時代に翻弄されることはない、
本当の作家なのだと、強く思っていた。

その白石さんが、
「わたしという運命について」という小説を書いた。

もっと言えば、“書いてしまった”、
あるいは、“書かされてしまった”・・・。

読む前は、
「運命」という、描き方によっては安っぽく流れてしまうテーマを、
白石さんがどんな風に料理しているのか楽しみだった。
そして、いくつかの書評で予備知識を少しだけ入れて、
ようやく購入し、読んだ。

そして・・・、あーあ、と思った。

この路線で行くなら、
もうこの人の小説は、読めなくなるかも・・・と悲しくなった。
それなりに光る一文には出会えた気もするけど、
それらは小説の釈然としないものを埋め合わせてくれるほどのものではなかった。

「運命」については、哲学者や思想家も含め、
すでにいろんな人が書いているから、
白石さんが考え詰めて書いた一文も、
そうしたものの上塗りにしか見えないのだ。

これが、白石さんの本当に書きたいことだったのだろうか。
著者がそれに気づいているかどうかは別にして、
なんだか、作品の中には違う意図が潜んでいるように思えた。

途中から、読者を無理やり性急にどこかへ連れて行こうとしている、
しかもひどく薄っぺらい、ありきたりな場所へ導こうとしている、
そんな予感が積み重なっていき、
静かな落胆を感じずにはいられなかった。

豊富や知識や巧みな取材力?や構成力で、
時代背景や経済ネタをふんだんに組み入れ、
難しそうな小説という体面はなんとか保っているようにみえるけれども、
でも、中身はセカチュー、いま会い、冬ソナだ。

この三つが、低俗だなんていう気はない。
後ろ二つは読んだし、
冬ソナにいたっては自分でも情けないほどはまった。
でも、あれは、冬ソナだからいいのだ。
メロドラマだからいいのだ。
いずれブームが終われば作品そのものはともかくとして、
作品のエッセンス(純愛とか運命とか・・・)は
忘れ去られるものだからいいのだ。
わたしも、しばらくしてお腹いっぱいになったし、
冬ソナが後々わたしのなかに残してくれたものは、
もうこの先たぶん見ることのないDVD以外なにもない。

白石さんは、冬ソナを書く必要はないのに、
落としどころが必要な小説なんてあえて書く必要はないのに、と思う。
「わたしという~」は色々なプログを読むと絶賛している人も多いので、
結構売れるのかもしれない。
セカチュー、いま会い、あと、四日間の奇蹟のように、
純愛&ファンタジーは“売れる”
あるいは“女性に受ける”ための必須アイテムのようだから、
女性読者を増やすきっかけになるかもしれない。
そうなると、これを機に白石一文を知り、これまでの作品に触れて、
「わたしという~」の作風のがいい、
という読者だってでてくるはずだ。

でも、白石さんの、独善的でデカタンとでもいうべきかな、
そんな小説に引き込まれた読者からすると、
「ちょっと、そりゃないよ~」だ。

これまで読んだ小説は、ストーリーはどれもおぼろげだけど、
読み進むうちに自分の中に芽生えた、
「やったぁ!この一文に出会えただけでこの本を読んだ価値はあった」という、
魂の震える感じは、ずーっと、強く残っている。

でも「わたしという~」に関しては、それはなかった。

あー、すごい長文になった。それだけ、落胆したってことだ。
でも、それだけ、この作家が好きだったってことだ。
強いことを言ってもみても、新作が出れば、きっとまた読むに違いない。

でも、この作風があと二作続いたら、考えちゃうなぁ。

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