すれっからし手帖

「気づき」とともに私を生きる。

錦織選手のしなやかな生き方。

2014-11-11 17:07:39 | 世の中のこと
錦織圭選手の快進撃が眩しいです。

甥っ子が、錦織選手の顔ともう瓜二つってくらい似てて、以前から勝手に親近感を覚えていました。

あれよあれよと言う間に世界ランキング5位。上位8位までが出場できるツアーファイナルでは、すでに初勝利をおさめました。(って、テニスにとりわけ詳しいわけではありません。(^_^;))

今朝の朝日新聞の記事では、錦織選手が前日から入念にイメトレに励んでいた様子を紹介。

「絶対に雰囲気にのみこまれると思ったので、会場に入るところから頭で想像して」

「スタジアムを見上げたら、さらにその上に何段も観客席があって、見たら終わりだなと(略)」


スタンドを見て動揺しないように、試合中は視線を上げなかった錦織選手のコメントから、この人の強さは自分へのまなざしの柔らかさだな、と思いました。

「雰囲気に呑みこまれる」という弱点を素直に認め、「見たら終わり」だからあえてスタンドを見なかった。

弱点を拙速に克服しようとしたり無理にごまかしたりしない。自分の苦手をつつかず、「フェデラーだったら、観客席の方を見るんだろうな」とか人と比較して、落ち込んだりもしない。

それも、ある種の強さですよね。今時点の自分の最良を選んでいる。

やがて、大舞台の場数を踏み、さらに一回りもふた回りも大きくなった時に、そんな雰囲気すら楽しめるようになっているのかもしれません。自然な形の弱点克服です。

錦織選手の最近のインタビューを見ると、試合に負けた時にも、悔しさをにじませつつも、卑屈にならず、素直に敗因を認め語る姿にすがすがしさを感じます。チャンコーチのイメトレ、メントレの効果も大きいのでしょうね。

苦手を認めてあえてそこには触れず、ひたすら得意を伸ばす。

錦織選手の、そんな、しなやかな生き方を想像させられます。

凡人の私は、それを免罪符にしちゃいそうですが、でも、それでいいような気もしたりして。

苦手に目を向けない自分を、罪悪感なく、許可できれば。

これも、自分を認めるってやつですね。

ちなみに、私はイチロー選手も好きですが、彼だったら、もっと足掻くんだろうな、あえて自分の弱点に触れていくんだろうな、なんて勝手に想像します。違うかな。

イチローの負けん気の強さ、自分をとことん追い込む姿勢も、もちろん魅力的なんですけどね。好きというだけで、とても真似できませんが。




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「良い」を言いすぎると、問題が生まれる。

2014-11-04 10:36:04 | 世の中のこと
脳腫瘍で余命半年を宣告されたアメリカの29歳の女性が、「尊厳死を選ぶ」という本人の予告通り、亡くなった。

昨日の夕方、NHKがニュース7で詳しく報じていたのを見た。

尊厳死についてあれこれ考えるというよりも、映像で見た、まだ生命力にあふれた若い女性が、この世から消えてしまったという事実に「淋しい」という感情が湧く。

でも、そんな彼女が辛い闘病と死の恐怖を超えて出した結論だから「尊い」とも思った。

彼女の選択について賛否両論あるという。

当然だと思う。

個人的には、わざわざ安楽死をメディアに予告した女性の行動と、それをセンセーショナルに扱うニュースに、なんとなく違和感を感じた。


尊厳死や安楽死の問題は良い悪いの問題ではないと思う。正しい正しくないの問題でもないと。

そうしたいと思う人と、そうしたくない人がいる、だけ。

だからわざわざ両者を対立させる必要も、もちろん妥協させる必要もない。

彼女の選択も、反対する人たちの非難のコメントも、大きく取り上げることで、対立を鮮明にすることで、かえって両者の選択や意思の尊厳に傷をつけてしまった気さえする。


こういうニュースを過剰に伝えることが、つねに問題を作る。争いを生む。


もともとは違う考えの人たちがいただけなのに、どっちのメリットとかデメリットとか、どっちがいいとか悪いとか言い出した時点で、問題が生まれる。

何かを「良い」と言いすぎることは、その何かの反対側にあるものの「悪い」につながる。反対側にある人の多くが、そうして反発したくなる。

その構図はどこにでも転がっている。


少し前、母乳の成分が子供が将来かかる生活習慣病のリスクを減らすというニュースに、とある女性漫画家が「こういうニュースがどれだけ母親に影響を及ぼすか」と怒ってツイートしていた。母乳育児推奨に大きく偏っている時代、確かにミルク派や早く断乳したお母さんは肩身が狭いかもしれない。

それに対して、「ただ客観的事実を述べているだけでは」とRTしている母乳育児のお母さんもいた。感情的とはとれなかった。

2人の間で何度かやりとりがあって、そしてもちろん和解などはなく、なんともいえない雰囲気で物別れしていた。

どっちの気持ちも言い分もわかるから、見ている私の気持ちまでもがザラついた感じになった。

何かが「良い」と言いすぎると、ましてやニュースなんかでやってしまうと自ずと「悪い」を作り出してしまうということなんだ。

そういうこと、母の世界には、もう嫌というほどある。

「母乳で育った子は幸せ」というと、
「ミルクで育った子は不幸」となる。

「幼稚園出身の子は、お行儀がいい」というと、
「保育園出身の子は、お行儀が悪い」となる。

「働いてるお母さんの子供は自立している」というと、
「専業主婦のお母さんの子供は甘えている」となる。

「兄弟がいるのは良いこと」というと、
「一人っ子は悪いこと」となる。

「女の子を産むことは勝ち組」というと、
「男の子を産むのは負け組」となる。

何かを良いと言いすぎると、傷つく人がいるということを、私も母になって学んだ。

私もたくさん傷ついたし、きっと知らず知らずのうちに誰かを傷つけてきたのだと思う。

人とともに生きる中で、何かを「良い」という時には、その反対側にあるものを傷つけてしまう可能性のあることは、知っておく必要がある。

「私は、これが良いと言っただけ。それが悪いなんて言ってない」

っていう人もいるかもしれない。

うん。わかるけど、でも、
例えば男の子の母である私に、
「女の子はいいよ。男なんて産んでも損」
って言われたら、反応もしたくなる。

だから、やっぱり他人を適度に慮る気持ちと、「良い」のはあくまで「自分にとって」という前提を忘れないでいたい。自戒もこめて。そうしたら、言い方も自ずと変わるはずだから。


反対側になった時の心構えもある。

自分の選択は、誰かの「良い」の反対側であっても、それは「悪い」を意味するものじゃないってこと。誰かの「良い」は、誰かの「良い」であって、私の「良い」「正しい」ではないのだということ。

それがきちんと腹に落ちていたら、余計に傷つかなくてもよくなるかもしれない。

「そんな言い方されると傷つく」

とピシャリとやって、あとを引かないですむかもしれない。


そもそも、人間がエゴをもとに考えること、行動することに、良い悪い、正しい正しくないなんてジャッジは、向かない。

誰かを直接的に殺したり傷つけたりするわけではないなら、どっちでもいい。

本来は、好き嫌い、するしない、したいしたくない、しかないのだよ、きっと。



最後に、やっぱり、

自らの尊厳死を選んだ女性の冥福を祈りたい。

闘病生活お疲れさまでした。安らかに、お眠りください。





年齢と老いること。

2013-04-17 10:49:03 | 世の中のこと

NHKの朝ドラ「あまちゃん」が好調のようだ。小泉今日子、キョンキョンの人気が視聴者を引き付けているとか、なんとか。

彼女は、私が幼いころからずっとテレビに出続けている人だ。小柄な体に、小さな顔ととがった顎、とりわけ何かを主張したいわけではなさそうだけれど、その立ち振る舞いや表情には、芯の強さがうかがえる。

「あまちゃん」に母親役で出てくるキョンキョンは、やっぱり今もかわいいけれど、40代後半にさしかかった現代女性の一つの姿を見せている。

極端に若づくりするでもなく、くすんだ肌だって顔のたるみだって、それなりに年を重ねた結果だ。

でも、それでも、キョンキョンは美しい。

「昔は綺麗だったのに・・・」

とは言わせない、今現在の、美しさを持っている。そして、それを自分でわかっている。

なぜだろう。

自分の年齢ときちんと折り合いをつけて、それを楽しめているからかな。
何かのインタビューで、

「50代になってからとか、おばあちゃんになってからの自分が楽しみ」

といったような趣旨のことを話していたけれど、それはきっと本心なのだろう。
負け惜しみ的な響きは一切なかった。

こういう人は、実は、そんなに多くない。老いることを嘆き、あるいは恐れ、若いころを懐かしむ人は多いし、「年をとることは素敵なことを」とうそぶいても、空々しさを感じさせる人もいる。


池田晶子さんの、「新・考えるヒント」の中に、こんなくだりがある。


「人は、とくに現代人は、たいていが自分の年齢が自分にふさわしくないと感じている。自分は自分であるという自意識だけは明瞭であり、なおかつ、老いることは敗北であるとする時代の風潮もあり、年齢として示されるその数字が、自分の年齢であるとは、とても思えない、
思いたくないのである。

しかし、年齢とは、字義通りには、その肉体が経てきた年月のことである。中年も過ぎようという頃にもなれば、いくら耳をふさいでも、年齢の足音は確実に聞こえてくる。
肉体は以前のようには動かなくなるし、視界には寿命という限界も見えてくる。
そんな時、人は、自分の年齢は自分にふさわしいと、実は感じているはずである。
その感覚、その感慨は、それを敗北としてとらえさえしなければ、きわめて貴重な瞬間ではなかろうか。年齢は、それに進んで応和しようとするなら、そこから向こう側の実在へと広く展かれてゆくことのできる窓である。」

41歳の私にも、ストンと胸に落ちる言葉だ。

池田さんもまた、老いていく自分を味わえる、貴重な人だったのだと思う。




京大入試カンニング事件への違和感

2011-03-05 10:52:51 | 世の中のこと

最近、マスコミに登場しすぎ、で、
「あ~あ、この人の『脳と仮想』を読んだ時は感動したのになぁ」
と、私の中で残念な人化していた、
脳科学者の茂木健一郎氏が、いいことを言っている。

茂木健一郎氏、カンニング事件で「クズ新聞、クズ大学」と批判(yahooニュースより抜粋)

 「京都大学が被害届けを出し、『偽計業務妨害罪』でカンニングをした学生が逮捕されるに至ったことに、強い違和感を覚えるものである」として、その違和感の理由について語っている。

 「第一は『大学の自治』『学問の自由』」「今回の事件において、京都大学の関係者が『被害届け』を出してしまったことは、『大学の自治』の点から疑問である。日本の大学が、大きく変質してしまったことを感じる」「第二に、教育者の立場からの配慮に欠けているという点である」と指摘。

 また「京都大学にあこがれ、志願をしてきた学生が、心の弱さから「カンニング」をしてしまった。その時に大学側がとるべき対応は、入試で不合格にすると同時に、前途ある若者が未来に向き合えるような配慮をすることではないか。『偽計業務妨害罪』という罪名の下に、『警察に突き出す』ことが、大学人のやるべきことだとは私は思わない。」と述べている。

 最後に「今回のカンニング事件を通して、日本の大学入試のあり方、そこで問われている学力の質、さらには事件を一斉に報道したメディアの体質などについても様々な問題が提起されていると考える」と結んでいる。


まったく同感。
特にマスコミに対して、非常に違和感を持つ。
熊本で起きた幼女死体遺棄で大学生が逮捕された事件と同列で扱っている、
マスコミの、その感性にほとほと嫌気がさす。

この二人が同じわけがない。
大学生が起こした事件として、同列で語れるようなものではないのに。
安直過ぎる。

逮捕されたから?
警察という絶対権力が動けば、「逮捕」されたら、
同じ種類の悪になるの?

SMAPの草なぎくんが泥酔して裸になって逮捕されたときに、
某公共放送のニュースのオープニングでの映像演出は、
極悪人の逮捕劇さながらだった。
あの時の違和感に似ている。
その後、世論の違和感が彼を救ったのが、本当に救いだったけどね。

自分の頭で考える、
自分の心に問う。
そのくせをつけて、自分を磨かないと、
私たちの価値観は、あらゆる権力にのっとられてしまう。

茂木さんを、見直した。




自分が知らないことを知っている人は、語らない

2008-06-11 18:01:21 | 世の中のこと

ニュースを見れば、どのチャンネルも秋葉原通り魔事件。
事件直後の映像やインタビューの点綴。
そして加害者の両親の会見の模様まで出てきた。

どこの局も似たり寄ったりだが、共通しているのは、伝える内容が<センセーショナル>である点に力が注がれていること。

そして、締めくくりにニュースのコメンテーターや、どこぞの専門家がいかめしい顔で出てきて、一刀両断する。

いったい誰に向けられたメッセージなのだろう、と思ってしまう。こんな陰惨な映像と事件現場にいた人たちのコメントを、まっとうな大人が何時間も何回も見たいと思うのだろうか。

もう、うんざりしてくる。
気持ち悪くなってくる。
事実を伝えるのが本分といいながら、ひたすらセンセーショナルに走り、知らないことを知っているように伝えるニュース。

前の仕事の周辺にいた、心の専門家とよばれる人たちだったら、なんというだろう、と思いはせてみた。わかりきったことを言う人の顔を思い浮かばない。

「どうしてこんなことが起こるんだろうね」
「信じられないことだね」
「痛ましいことだね」
「心の病を持っていたり、彼と似たよう境遇にある人たちが、偏見の目にさらされないようにしたいね」

おそらくは、そんな言葉が聞かれたと思う。

幸いなことに、私が一緒に仕事をさせていただいた方たちは、心や精神疾患について、一般の人たちに比べればはるかに知識は多かったが、でも、知らないことをさも知っているかのように、語らない謙虚さがあったと思う。

今回の事件は簡単に語れない。簡単に語れるならば、は今の世の中にこんなすさんだ事件がこれほどたくさん起きていないはずだから。

食い止める方法、どうしていたらよかったのか・・・、
そんな難しいテーマを、短いニュースの中で、すぐ次の事件を追いかける人たちに、語ってほしくない。


死のうとする人の、その勢い

2008-05-30 19:31:42 | 世の中のこと

女性アナウンサーの自殺のニュースを見ていて、ある人の話していたことを思い出した。

精神を病み、自殺未遂を繰り返した彼女が、ようやく社会復帰できたころだったろうか。

「うつで死にたい時って言うのは、もう、それしか頭にない。とにかくどうにかして死ななくちゃ、それをやりとげねばって、それしかないの。

だからね、そんな人に向かって説得なんかしたって無駄だよ。死に向かっている人間の、その勢いってすざまじいんだから。やっぱり、病気ってことだよ。

だから、もしこの人やばいって思ったら、その確信があったのなら、とにかくどうにかして、入院させるしかない。

でも、その判断って本当に難しいよね。相手が自殺未遂を繰り返していたり、完全にうつ状態だったりする場合は別だけど、そんなのプロの精神科医でもわからないんだから」

マクロの自殺対策は必要だと思う。自殺者3万人という数字を重く受け止め、改善策を打ち出すことも。

でも、安易に、

「どうして周りは助けてあげられなかったのか?」

って、言わないほうがいい。兆候はあった。そりゃそうだろう。

でも、家族や友人がそれに気づけていたとして、彼女の、その、すさまじい勢いで死に突進していった心を、止められたかどうかはわからない。

「どうして助けてあげられなかったのか?」

周りの人たちは、ただでさえその疑問を自分にぶつけてしまうもの。自分たちの非力さを責めてしまうもの。

周りの親しい人以外の第三者が安易に言うべきことでない。

周りの人は十分に傷ついている。特に家族や、彼女の身近にいた人たちは、ずっと、ずっと、なぜ今、どうして彼女が・・・、そんな「なぜ」と直面していかなければならない。

疑問は湧き上がっても、回答はない。
もしかして、自殺した本人もわからなくなっていたのかもしれない。

彼女の不幸は、崩れていくプロセスで、
完全に心が壊れきることができなかったこと。仕事に行けるほどに、体が動いてしまっていたこと。

前日にもテレビに出ていた。か細い声ではあっただろうけど、ちゃんとしゃべっている。ちゃんと原稿を読めている。悲劇だ。

でも、私たちはあんなふうに教育されてきたよな。弱音をはかない。涙を見せない。つらいときも笑顔を。そんな風に教え込まされたよ。

自殺対策の原点て、「教育」なのかもしれないな、って、そんな風にも思う。



「NHKラジオ深夜便」から

2005-08-20 12:25:20 | 世の中のこと

お気に入りのラジオ番組「NHKラジオ深夜便」。
終戦記念日前後にやっていた「わたしの戦後60年」は、
もう文句なしに素晴らしかった。

戦争体験者である各界の著名人が、
自らの体験をインタビュー形式で語るというもの。
8・15深夜は、アンコール特集で
随筆家 岡部伊都子さんのインタビューをやっていた。

若くてきれいだった時代に、戦争を迎えた岡部伊都子さん。
岡部さんは、あの戦争で、
とても言葉にはならない苦悶を味わった女性だ。
それは、平和と戦争という言葉を、
観念の世界でのみしか捕らえることしかできない
「戦争を知らない世代」の私たちには、
想像することすらおこがましい、苦悶だったはずだ。

「この戦争は間違っている。
僕は、君のためには死ねるけど、天皇陛下のためには死ねない」

岡部さんの婚約者は、そう言って戦地に向かった。
その婚約者を涙ながらに日の丸を振りながら見送った岡部さんは、
結局は、その最愛の人を失ってしまったのだ。
自決だったという。

その婚約者の死について、
岡部さんは、恐ろしいくらいはっきりした口調で、断言する。

「婚約者を殺したのは、自分だ」
「自分は、加害の女だ」
「あの時、旗を振って見送るのではなく、一緒に逃げればよかった」
「牢獄に入ろうが、非国民というレッテルを貼られようが、
生き抜けばよかった。私はそれをしなかった」

だから、
「彼を殺したのは、戦争なんじゃじゃなくて私なんだ」と。

こんなに生々しく、潔い後悔の言葉をはじめて聞いた。
この人の後悔はただ悔いているわけではなく、
この後悔を愛して、人生の片隅におくのではなく、
それを真正面から抱きしめて生きてきたんだ。

今もただ、後悔とだけ向き合って生きている。
だから、この後悔は消化されなくても、すでに浄化されているのだろう。
後悔こそが、岡部さんの悲しみを救い、存在を支えてきたのかもしれない。

優雅な京都弁を話される穏やかで暖かい声音は、
それでも切々としていて、
情感に訴える、迫力とすさまじさがあった。

岡部さんの発する言葉には、理屈がなく、
ただただ、大きな喪失体験をした人だけが持つ、
深い悲しみの実感と、
流血しそうな心の激痛から耐えて耐えて立ち上がってきた人間の、
底知れぬ暖かさが宿っていた。

岡部さんは、インタビューの最後で、
若い人へのメッセージとしてこう結んだ。
「とにかくなぁ、幸せにな、幸せになってください」
戦争をしないでください、平和を守ってください、
といった、常套句ではなかった。
だからこそ、逆に強烈で、心にじんわり広がった。

一人ひとりが自分や大切な人の幸せを求める。
たしかに、平和を希求する人の心の底にあるのは、
そうしたシンプルな思いであり、
その集積こそが、平和を守る時代を築くのだろう。

大上段に構えた平和思想よりも、
靖国問題について唱える評論家の言葉よりも、
私にとっては、この言葉こそが、かけがえのない平和メッセージとなった。

岡部さんは、今、
これまでの人生で所有した本を処分して、
着物も人にあげて、
そんな風に死の準備をするのが、楽しい時間なんだとか。

「向こうで、あの人が待ってはりますからなぁ・・・・」

そんな風につややかな声で語られいるのを聞いていたら、
泣けたというより、全身が雷に打たれたような衝撃で、
発作のように嗚咽してしまった。

ここまで言い切れたら・・・、
たとえ、悲劇に縁取られたものであろうと、
人生を確かに生き切ったといえるのだろうな。