さあさ 令和の 新年代
確かめるべきことがある
日本国民要件を
満たしていない そんな人
国民扱いしてないか
国籍法にかなっても
日本を嫌うだけでなく
潰そうとする 誘い水
ガブガブと飲む ワルがいる
同胞の仕事取り上げて
ただ 儲けたいばっかりに
知恵も技術も 外国に
ただ差し上げる バカがいる
さあさ 令和の 新年代
来てほしくない 人もある
研修という名の職探し
学生名簿に名が出ても
いつのまにやら いなくなる
ガーデンシティと呼ばれてる
のどかな町のモスクでも
移民が 移民反対と
言いつつ移民を撃ち殺す
そんな人らは ごめんです
さあさ 令和の 新年代
直してほしい ことがある
外交上の重要な
国際会議に 大臣を
行かせず邪魔する バカがいる
そんな規定があるならば
変えて直せばよいものを
慣例だからと 盾に取り
意固地に責める 脳足りん
さあさ 令和の 新年代
ぜひしてほしい ことがある
いつの間にやら 無理やりに
連れていかれた国の外
離れて暮らす人同士
それでよいのか 違うのか
親子対面 邪魔せずに
確かめ合える その機会
何が何でも 作ってほしい
国の都合は 別のこと
さあさ 令和の 新年代
してほしくない ことがある
己が漏らした言の葉の
辻褄合わせに こと運ぶ
辻褄合わせの もともとは
言葉と ことばの ことのはず
文句言われて それならと
言葉足らずの辻褄に
合わせて物を運ぶとは
これはいったい何事か
さあさ 令和の 新年代
してほしくない ことがある
新エネルギーと 名をつけた
太陽光の 電気屋さん
お山の木々を 切り倒し
パネルならべて お日さまに
当てると電気が もらえます
実は三つのご商売
パネルづくりと 不動産
も一つ売るのが 権利です
パネル並んだ その下は
根っこの張らない草ばかり
大雨降れば たちまちに
ずるずるがらがら 崩れます
さあさ 令和の 新年代
来てほしくない ものがある
もしもしカメよ カメさんよ
カミツキガメは おことわり
水中に住む生きものが、泳いでくるとは限りません。
お船に乗ってはるばると、やってくるのもいるのです。
わざわざ乗せてはやらないぞ、いいえ黙って乗ってます。
バラスト水という水の、吐かれた港で降りて住む。
昨日は大阪の綺麗な電車の記事を見つけたのに、今日は東京で電車を汚された話、シリーズ終末はもう少し気の利いた記事にしたかったのに残念です。
「車両基地に侵入しスプレーで落書き、豪国籍の男を逮捕 警視庁」というサンケイのネット版が目に入ってしまいました。
公共交通機関の車両に落書きをしに、たびたびやって来る外国人、それが30歳にも近くなった大人の仕業と知ると、むやみな"お出でおいで"の罪深さを感じます。
落書きにも上下があります。
散歩の足を止めるような巧いものも時には見かけますが、この写真に写っているのは下の部類の落書きです。
ネット版のあるもう1枚の写真は、少し図柄が違います。
捕まった外国人は、犯行を否認しているそうですが、取り調べであらためて写真を見せられ、あまりの出来の悪さに、自分が描いたとは恥ずかしくて言えなかったのでしょうか。
大阪で、地下鉄の会社が無人の路面電車を走らせている「【感彩写論】虹色の未来へ」という写真報道を、サンケイのネット版で見つけました。
さすが写真報道局から出された見事な写真です。
虹色といっても、その七色のままでは鮮やか過ぎて、路面電車には合いません。
色の区別に敏感なアフリカの人でなければ、呼び名を見つけられないような、素晴らしい着色がされています。
日本の昔の色名で当てはまるのがあるかどうか、これは電車と色辞典の現物を照らし合わさなければわかりません。
「今日はアオやった」「アホか、あれ、アオちゃうで」
写真を見ながら、こんな会話を想像しています。
愚答の責任は、半ば以上愚問にあります。
愚問に賢答を返せる人は数少ないからです。
質問には彩色があり、賢問には光沢があります。
聞き出す力を持った人の素晴らしい質問は黄金問と呼ばれるそうです。
そこに生まれた対話の効果が、また輝きを増します。
質問には、答えを何かの役に立てようとする可極性のものと、回答者やその関係者を引きずり降ろそうとはかる減極性のものがあります。
減極性の質問は、質問者の思考力には無関係に、言葉の端を入れ替えるだけでいつもでも続けられます。
それを仕事と思っている記者も頓珍漢、その記者を常にけしかける編集者も頓珍漢、そうなると、その社の体質が、無光沢なあまり上等でない色に染まっていきます。
その社は、やがて令和の新世代にそぐわなくなり、褪色減光、果ては消滅の道を辿ることになるでしょう。
職業に貴賎なしと言われますが、仕事には表裏があります。
誰にも見える表の仕事と、見えにくい裏の仕事です。
裏の仕事は、見えにくいところに価値があります。
隠されているのではなく、見えないことがだいじなのです。
覗き見の好きな客に喜ばれる、調理場を客に見えるようにした飲食店があります。
そんな店でも、だいじなところは見せません。
見えにくい裏の仕事を、下働きと呼ぶことがあります。
それでも、見える表の仕事を、上働きとは言いません。
上働きがないのは、仕事に上下はないなどという綺麗模様なことではないでしょう。
人が人の上に立ったつもりになると自分では働かなくなるので、上働きという言葉は生まれようがないのかもしれません。
こう書かれたパンフレットがあります。
「働き方改革」は、働く方々が、個々の事情に応じた多様で柔軟な働き方を、自分で「選択」できるようにするための改革です。
働く人の働き方は、自分では働かない人が決める仕組みになっています。
それを、がらがらと変えることはできないでしょう。
改革と呼ぶならばそれは「働き方」ではなく「働かせ方」が対象にならなければならないのであって、働くほうに責任があるかのようなこの呼び方は、ずっと疑問になっているところです。
子供がいじめにどこまでも耐え続けることを、人格形成の鍛練になるからと、ただ見守るだけでは、子供の人格は破壊されていきます。
いじめるほうも、いじめられるほうも、一緒になって壊れていきます。
島を占領同然の状態にされても、明らかな軍事攻撃を受けても、そのときに人の命が失われなければ「遺憾である」としか言わない政府は、国の権威を互いに削り落とす両国共同工事に参画していることになります。
気が強くて頭の弱いものと、頭が良くても気に弱いものの共同作業です。
頭のよいほうは、目先最小限の不利益を願い、未来に大きな損失を蓄積していることを知りながらも、工法を変える気配を見せません。
考えているのは、共同作業の仲間への忖度だけのようです。
忖度が相手を慮ることであっても、度を過ぎれば相手のためにもなりません。
舌なめずりをしながら、にやにや眺めている、一見野次馬風のものの心こそ、忖度の対象にしなければならないでしょう。
老年と呼ばれる歳になると、歩く足もとにはよく気を配るようになります。
転んで骨折は、病院と補装具屋さんのほかには誰にも良いことがないからです。
足もとには気をつけても、しゃがんで何かを置いたり持ったりして立ち上がるときに、頭の上に固い動かないものがあればけがをします。
頭の上に気付かないのは、自分の体からみれば、ずっと向こうと同じことと感じていないからでしょう。
頭の上のハエというたとえも向こう見ずも、同じく要注意のいましめの言葉です。
1ヶ月後に始まる新しい年代には、向こうをよく見ることが大事になると思っています。
すぐにできることでは、何度も行くところの行き帰りには、違う道を歩いてみる方法があります。
迷道闊達、何か面白そうで、違う向こうが見えてくるかもしれません