ものぐさ日記

ひとり遊びが好きな中年童女の日常

「人でなし」

2006年08月22日 | まいにちのできごと

 きょうは1日、ヒンディー語の作文の宿題をやって、うんうんうなっていました。

  日本語を外国語に訳す、または外国語を日本語に訳すって、結局、日本語力がないとダメじゃん(泣)と、再認識。

  わすれな草の花言葉、「私を忘れないで」(ヨーロッパ)、「私を忘れてください」(日本)ですが、国民性を加味すると、結局同じ意味…「私を忘れたりしたらイヤ」になっちゃう。ことばって難しいです。

  きのう、知人が、バガヴァッド・ギーター(インドの古典文学)の英語訳について書いているのを読んで、少し調べてみました。バガヴァッド・ギータの原典はサンスクリット語なので、読んでも意味がわからないのですが、ヒンディー語訳英語訳は各種いろいろありました。まぁヒンディーも英語も堪能なわけじゃないので、わからないということには、たいして差はないので、日本語訳もふたつ参照。宇野惇訳上村勝彦訳を読んで、少しはわかったような気になりました。

  少しはわかったような気がするけど、よくわからないのは、日本語のことばの意味がわかっても、それがどういう意味で使っているのか、(インドでの)概念がイマイチ理解できないからです。バガヴァッド・ギータの中に、「我は時なり」みたいなことが書かれていますが、この「時」という意味が、バガヴァッド・ギータの中ではどういう意味で使われているかということを考えないと、次に進めません。各種ある英語訳の中には、はしょって、「I am death」と言い換えてあるものもいくつかありました。

 古典→現代語→外国語と訳していくうちに、かなり違ったものになっていくんでしょうね。そういえば、シンデレラのガラス(verre)の靴も、リスの毛皮(vair)の靴の誤訳だという話を聞いたことがあります。誤訳じゃなくても、ニュアンスが変わってしまい、結果的に作者のいいたいことが読者に伝わらないことも多いでしょう。

 そういうことを避けるために、外交用の単語や言い回しは、使用法が厳密に決まっているらしいし、知っている例で、賢明だと思うものは、「クルーアン(コーラン)はアラビア語で覚えるべし」というイスラム教の教えです。

 日本語訳もあるので、各国語に訳されていると思うのですが、ムスリム(イスラム教徒)は、クルーアンはアラビア語のまま覚えるそうです。おかげで、パキスタンに行く飛行機の中で、インドネシア人にウルドゥーの読み方を教わることができました。…インドネシア語はアルファベット表記なのですが、彼らはムスリムなので、クルーアンを読むためにアラビア文字の発音の仕方を知っていて、アラビア文字表記のウルドゥー語の読み方も、ほとんどわかったのです(ウルドゥー語に特有のいくつかの文字は、読めませんでした)。

 サキの短編に「贖罪」というのがあります。
 ある事件以降、近所の子供達に「人でなし」と言われ続けたオクテヴィアンが許しを請い続けるが、なかなか許してもらえない。(以下、中村能三訳


 あくる朝、彼は例の塀のそばに、雑記帳をやぶいた1枚の紙を見つけ、眼をかがやかせたものだった。それには次の言葉が書いてあった。「人であり」

 その後、サンリオ文庫から出た別の訳者による「サキ選集」も買ったのですが、同じ作品が全然おもしろくない話になっていて、訳者の力量の差を感じました。

 訳やことばの使い方は大変だな、と思った1日。(宿題は進まず…)


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