のあ いちい ワールド

ここは、物書き「のあ いちい」の、人間世界とそれ以外の宇宙人について多くふれるブログです。

「詩歌のモーツァルト」 ビスワバ・シンボルスカさん死去

2012-02-02 13:31:21 | 文学賞

ポーランドのノーベル賞女性詩人 死去


ビスワバ・シンボルスカさん


深刻な問題を皮肉やユーモアを交えて表現する作風


●1923年7月2日生まれ
2月1日、肺がんのため南部クラクフの自宅で死去、88歳。


※1996年にノーベル文学賞を受賞





終わりと始まり


「終わりと始まり」


戦争が終わるたびに
誰かが後片付けをしなければならない
何といっても、ひとりでに物事が
それなりに片づいてくれるわけではないのだから


誰かが瓦礫を道端に
押しやらなければならない
死体をいっぱい積んだ
荷車が通れるように


誰かがはまりこんで苦労しなければ
泥と灰の中に
長椅子のスプリングに
ガラスのかけらに
血まみれのぼろ布の中に


誰かが梁を運んで来なければならない
壁を支えるために
誰かが窓にガラスをはめ
ドアを戸口に据えつけなければ


それは写真うつりのいいものではないし
何年もの歳月が必要だ
カメラはすべてもう
別の戦争に出払っている


橋を作り直し
駅を新たに建てなければ
袖はまくりあげられて
ずたずたになるだろう


誰かがほうきを持ったまま
いまだに昔のことを思い出す
誰かがもぎ取らなかった首を振り
うなずきながら聞いている
しかし、すぐそばではもう
退屈した人たちが
そわそわし始めるだろう


誰かがときにはさらに
木の根元から
錆ついた論拠を掘り出し
ごみの山に運んでいくだろう


それがどういうことだったのか
知っている人たちは
少ししか知らない人たちに
場所を譲らなければならない そして
少しよりもっと少ししか知らない人たちに
最後はほとんど何も知らない人たちに


原因と結果を
覆って茂る草むらに
誰かが横たわり
穂を噛みながら
雲に見とれなければならない


-Wisława Szymborska-



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石原裕次郎、赤木 圭一郎、~あの頃

2012-02-01 00:35:50 | 映画
このところ、

石原裕次郎の歌を聴いています。
赤木圭一郎のものも。

われわれの子供のころ、
石原裕次郎、小林旭、赤木圭一郎らが格好良くデビューしていましたね。

裕次郎は、
現在の東京都知事・石原慎太郎の弟です。若くして亡くなった(享年52歳)ので残念ですが、



兄の芥川賞受賞作である『太陽の季節』で、弟・石原裕次郎は俳優としてデビューしたんですね!

以下は、アクセスが混んでいるのか、途中で止まりますが、リンクしておきます。
石原裕次郎 MEDLEY


●赤木圭一郎は、もっと若くして、学生のときに他界してしまいました。
1961年2月14日。映画『激流に生きる男』セット撮影中の昼休憩時、
セールスマンが持ってきたゴーカートを日活撮影所内で運転中に、
ブレーキとアクセルを踏み違え、60km以上のスピードで鉄扉に激突、
慈恵医大病院に緊急入院。

いっとき意識が戻ったものの、
1週間後に前頭骨亀裂骨折に伴う硬膜下出血のためこの世を去ってしまいました。
21歳の若さでした。


★赤木 圭一郎(あかぎ けいいちろう)
1939年5月8日~1961年2月21日。
日本の映画俳優。本名、赤塚 親弘(あかつか ちかひろ)。
東京府麻布区麻布笄町(現 西麻布)で開業医の家庭に生まれ、後に鎌倉市へ疎開。
1948年4月、藤沢市鵠沼に転居。
栄光学園中学校から藤沢市立鵠沼中学校を経て神奈川県立鎌倉高等学校卒業後、成城大学に入学。
在学中21歳で他界。




★石原 裕次郎(いしはら ゆうじろう)
1934年(昭和9年)12月28日~1987年(昭和62年)7月17日
俳優・歌手・司会者・モデル・実業家・ヨットマンとして活動し、日本のアイドルだった。
1956年:デビュー作『太陽の季節』
配偶者:石原まき子(北原三枝)

石原裕次郎記念館


☆石原慎太郎(東京都知事):石原裕次郎の兄。
一橋大学在学中に『太陽の季節』で第34回「芥川賞」を受賞。


「粋な別れ」浜口庫之助 作詞・作曲
石原裕次郎「粋な別れ」

生命に終わりがある
恋にも終わりがくる
秋には枯葉が
小枝と別れ
夕べには太陽が
空と別れる
誰も涙なんか
流しはしない
泣かないで 泣かないで
粋な別れをしようぜ
~~

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