のあ いちい ワールド

ここは、物書き「のあ いちい」の、人間世界とそれ以外の宇宙人について多くふれるブログです。

☆島清恋愛文学賞

2007-09-28 19:14:03 | 文学賞
27日は、「島清恋愛文学賞」の選考会だったとのこと。
高樹のぶ子氏は、現在は、島清(しませ)恋愛文学賞の 選考委員です。

島清(しませ)恋愛文学賞初代受賞作:
    高樹のぶ子『蔦燃 』( つたもえ)

『ラ・セーヌ』'93年1月号~'94年3月号に連載された、
『蔦の沈黙』が改題されて『蔦燃』となった。


☆島田清次郎が大正8年に発表した長編小説「地上」第一部は、
若い読者に迎えられ大ベストセラーとなった。


島田清次郎(1899-1930・明治32年-昭和5年)石川県石川郡美川町(現白山市)の生まれる。
昭和5年4月29日歿 31歳  (釈清文) 石川県石川郡美川町の共同墓地に氏の墓がある。

http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/S/shimadaseijiro.html

昭和5年4月29日午前5時、東京府下西巣鴨庚申塚の保養院で一人の狂人が肺結核で死んだ。青白くやせ細ったその男の名は「島清」こと島田清次郎。

島田清次郎の生涯については、杉森久英著『天才と狂人の間』に詳しく描かれています。


やはり、常に恋をしてゐなくてはならぬのだ。
             「閃光雑記」より



☆高樹のぶ子氏の「S I Aブログ」より

2007-09-16 23:20:31 | Weblog
ー女流作家に寄せて (乃阿 一葦)ー  

☆平林たい子氏は私の郷里の人です。(私の生まれた川岸村も、諏訪郡から、 昭和30年に岡谷市に編入)

平林たい子
明治38年 旧・諏訪郡中洲村(昭和30年4月1日 中州村・湖南村が諏訪市に編入)の貧しい農家に生まれる。

小学校のときロシア文学を読む。戦後、『かういう女』
で第1回女流文学大賞を受賞。プロレタリア文学作家。

昭和27年 ニースで開かれた世界ペン大会に出席。以降ドイツや韓 国、フィリピン、ノルウェーなどを歴訪、講演や会議に出席

昭和47年 市川房枝らにみとられ死去。女流文学者会葬。恩賜賞、内閣総理大臣賞、紺綬褒章を受ける。

昭和の初めに、林芙美子らと女性作家グループを作ったんですね。私が二十代半ばのときに亡くなっているのだから、
会おうと思えば会えたわけですが、その頃はとてもそんな心境ではなかったし、作品らしきものを書いていなかったから。

信州といえば、島崎藤村を思い浮かべると思いますが、信濃北部の北国街道柏原宿に、貧農の長男として生を受けた、
小林一茶がいます。
一茶の『おらが春』に、「我と来て遊べや親のない雀」
という句がありますが、一茶は、3歳のとき生母を失い、8歳で継母を迎えています。


さて、氏の上記履歴は、ほんの一部分の記載で大変失礼しましたが、平林たい子の郷里の時代背景は、女工哀史・ 野麦峠の時代です。
明治時代の生糸の生産は、当時の輸出総額の3分の1を支えていたとのこと。明治~大正時代。現金収入の少なかった飛騨の農家では、13歳前後の娘たちが野麦峠を越えて信州の製糸工場へ働きに行った。
信州へ糸ひき稼ぎに行くのには、クマザサの生い茂る吹雪の峠を通らなければならなかった。標高1672mの野麦峠。13歳前後の娘達がこの野麦峠を越え、岡谷、諏訪の製糸工場へと向かった。
年の瀬に故郷へ帰る途中で死んでいった娘たちも多かったと聞く。大晦日に持ち帰るそのお金は、飛騨の人々には、欠くことが出来ない収入源にだった。借金返済のためにも、当てにされたお金だった。
山一・山二・片倉組・小松組などの岡谷の製糸工場の社名が、私の記憶の底から甦ってきました。 「ああ野麦峠」

このことは、地元岡谷・諏訪の農家の人々にとっても同様です。平林たい子は、私の母より数歳先輩でしたが、わが母は末の私を産んで四十代で病死。
今年の兄弟の新年会で、兄の一人(元国際線パイロット)から、わが母も岡谷か諏訪の製糸工場へ生活費を稼ぐために行っていたことを初めて聞きました。
むろん、脳出血で倒れる前のことでしょうが。その頃、両親とも「あかぎれ」がひどく、膏薬を焼け火箸で溶かして傷口へ流し込んでいたと。蚕の糸があかぎれに食い込んで、さぞかし痛かったことでしょう。涙が出てきます。
我が家は、私が生まれる前から、シーズンになると家の中の部屋で養蚕をしていたようです。学校に上がる前は、広い二階(敷居も間仕切りもない)は全て蚕室だった。母が、急な階段を桑のいっぱい詰まった篭をかついで上がるのは大変だったでしょう。
中学生になってからは、中心が二階から下の部屋へ移ってきました。高校生になってからは、やったりやらなかったりだったように記憶しています。
シーズンの養蚕が始まる前、消毒のため家中がホルマリンの鼻を突くにおいで満たされたこと。部屋いっぱいに棚が作られ、蚕室の隣で寝ている私の耳に、ザワザワという桑の葉を食む蚕たちの音が聞こえていました。
畑へ桑摘みに行き、重い篭をかついで帰った辛い記憶が今浮かんできました。朝露にぬれた桑の葉、草いきれと共に。我が家にとっても、養蚕は貴重な収入源だったと思います。

貧しい農家に生まれ、厳しい人生を乗り切った先輩作家・平林たい子。その風土と時代背景をみれば、氏が如何に忍耐強く、日常生活の中から独自の文学世界を切り開いていったかが想像できると思います。今は、女性作家が特別でない時代。しかし、ここまでの道のりには、計りり知れない苦労が隠されている。
林芙美子も平林たい子も、作家と実人生において、重く稀な足跡を残したといえるでしょう。その意味でも、このブログ中で何か失礼があったなら、どうぞ御寛恕をお願い致します。

               乃阿 一葦拝



硬軟軽重さまざま (高樹のぶ子)


このブログにコメントくださる方々・・・読み応えのある重厚なもの、カワイくて軽やかなもの、いろいろあって、素晴らしいです。おそらく同じ一人の人間が、様々な面を持っているんだと思います。

ひよこピョコピョコさせながら、涙流すこともあれば、深刻な記憶をコミカンと一緒に笑い飛ばしたり・・

何でもありでいきましょう。人間はなんでもありですから。

                          2007-09-14 17:28:59

------------------------------------------------------------------------
☆【文芸と資格】:◇高樹のぶ子のS I Aブログ ☆作家の街:桜色の部屋

------------------------------------------------------------------------

安く泊まれるアジアのホテル
主婦だってボーナスがほしい。女性のための入院保険「フェミニーヌ」