三日月ノート

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映画:冷血

2013年05月11日 17時02分06秒 | 映画
製作:1967年
製作国:アメリカ
原題:IN COLD BLOOD

カンサス州で起きた一家惨殺事件。犯人は犯罪歴のある2人の若者で、彼らの育った家庭環境を交えながら犯行の詳細が語られていきます。
この映画では「犯行の詳細」は語られますが、それは「動機」ではなく、何故犯行に至ったのかは観る者の想像に任せられています。

最近、私は「こちら側に属する人間」と「あちら側に属する人間」ということについて考えたりしています。

例えばこの映画において犯人の二人を「あちら側に属する人間」とするなら、警察官、被害者、被害者を取り巻く人々、陪審員や検察官などは「こちら側に属する人間」で、こちら側の人間には「なぜこんなに残酷な犯罪を犯したのか“理解できない”」のです。

一般的には、

「被害者心理を考えると許されるべきものではなく、極刑は当然」
「育った家庭環境から同情すべきものもあるかもしれないが、理由にはならない」
「正義によって裁かれるべき」

といった感じでしょうか。

通常「こちら側」の人間にとって「あちら側」の人間は忌むべき者であり、自分とは違う世界の人間だと「なんとなく」思っています。

・・・果たしてそうなのでしょうか。

映画の中で、犯人の二人が、偶然ヒッチハイクで乗せた老人と少年と楽しく過ごすシーンがあります。
普通の優しい心を持ちながら、凶悪な犯罪を犯す二人。
これを「犯人の持つ二面性」と断じていいのでしょうか。

目を背けたくなるほどの残虐性は、ごく一部の「あちら側」の人間にしか存在しないのでしょうか。

人間の世界では、正義に基づき、法によって裁かれることが当たり前であり、それ以外に方法はありません。
映画では、法廷で旧約聖書を引用して「正義によって裁かれるべきである」と声高に訴えているシーンが象徴するとおりです。

しかし一方で死刑執行の直前に「ここにも神はいるのか?」と問いかけたときの「神」は旧約聖書(ユダヤ教)の神ではなく新約聖書(キリスト教)の神であり、「律法によって罰する神」ではなく「死の直前に悔い改めることで魂は救われる神」です。

死刑台に上る前に、「謝りたいんだ。でも誰に謝ったらいいのかわからない」と言いますが、それは特定された「誰か」ではなく、自分自身を含め、自分の良心に反した行いをした全ての人・物事に対してのように思います。

人間は、人間の信じる「正義」によって、正当に裁かれます。それが人間のできる最大限のことです。

しかし、それは死後における神の審判とは全く異なるものであり、「本当の裁き」は、真実を全て知ることができる神のみができることと言えるでしょう。

自分の心の中にある残虐性、それを見ようとしない心理、物事を見る角度によって変わる判断、決して真実に到達できない人間の限界。
そんなことを考えさせられる映画でした。

死刑執行を待つ間、窓ガラスに滴り落ちる雨が犯人の顔に陰影を作り、あたかも涙のように見えるシーンは秀逸でした。




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