面白草紙朝倉薫VS安達龍真

夢と現実のはざまで

5月の思い出(父の鯉のぼり)

2007年05月05日 | Weblog
 戦争が終わり、小倉から引き揚げてきた僕の一家は、母の実家に身を寄せた。田舎ではかなりの旧家で、御母屋を中心の左右コの字型に使用人の長屋と厩舎が連なっていた。
 後に聞いた事だが、長屋は空きが無く厩舎を改造した長屋に住まわされていたのは、長男の嫁、つまり母にとって義理姉が御母屋には住まわせないと強行に反対したかららしい。と、云う訳で嬉しい事に僕は1948年の夏、そのうまやで生まれ、5歳の夏まで過ごした。
 ひとつ年上の従兄弟には、さすがに旧家らしく5月になると庭先に大きな鯉と名前を書き染めた幟が立ち上げられた。薫風を受けて悠々と青空に泳ぐ鯉のぼりは僕の心を捉えて止まなかった。今でもあの鯉のぼりが宇宙船となって終末戦争で廃墟となった街に僕らを救いに現れる夢を見るほどだ。
 うっとり見上げる僕に、あれは俺のだと、従兄弟は盗られもしないのに念を押す様に言った。そう言われると、自分も鯉のぼりが欲しくなり父にねだった。父はその頃、職探しといっては家を空け、何日も帰って来なかった。
 5歳の5月、忘れられない思い出が生まれた。
 数日間家を空けていた父が5月5日の深夜帰宅した。眠っていた僕は父に揺り起こされた。
 「鯉のぼりを買って来たぞ」父の声は酒臭かったが、僕は鯉のぼりという言葉の一言で目が覚めた。目の前に色鮮やかな緋鯉がいた。広げた両腕にも満たない大きさだったが、嬉しかった。従兄弟の8メートルもあるのぼりより、目の前の50センチの鯉は僕を魅了した。
 「僕の、鯉のぼりだよね。立てよう、立てよう!」僕は父を急かせて庭に出た。母が懐中電燈を照らしてくれた。星一つ見えない漆黒の深夜、庭の生け垣に小さな鯉のぼりが上がった。時折吹く生暖かい風は鯉を泳がせてはくれなかった。
 「もう寝よう、朝が楽しみだな」母が死ぬまで不実な父ただ一人を愛し貢ぎ続けたのは、父のこの優しさだったのだろう。
 目覚めた頃すでに夜は空けていた。僕は慌てて飛び起きると庭に駆け下りた。
 …無かった。生け垣に立てた僕の鯉のぼりが消えていた。僕は声にならない声で泣き叫んだ。涙が止まらなかった。胸が死ぬかと思うくらい締めつけられて声が嗄れた。
 父と母が出てきた。生け垣から千切れ千切れになった鯉のぼりの無残な欠片を黙って摘まみあげる母を見て、ようやく事態が飲みこめた。
 明け方雨が降ったのだ。そして、紙で作られた鯉のぼりを洗い流してしまったのだ。
 あれから2度と鯉のぼりが欲しいと思ったことはない。
 五月晴れの5月5日、今年も夜半過ぎから雨になるらしい。
 くれぐれも、鯉のぼりは仕舞い忘れないように。

  タイセツナモノヲナクシタラ、オモイキリナキマショウ。
  ニドトモドラナイカラ、オモイデハホウセキヨリモカガヤイテ
  イルノデス。
  ジンセイハ、エホンノヨウデス。タイセツナ、タイセツナ…